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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


花鳥夢月


 桃色に染まった花がそこかしこで咲き乱れ、小鳥がそのさえずり春を告げる頃……
 氷に身を閉ざした人々はゆっくりと暗き夢から目覚め、澄んだ空に浮かぶ満月を見る。

 草間 武彦はその空想の中でふと頭を上げる。しかし今見えるのは、白く清潔感あふれる天井だ。2本の蛍光灯がこれでもかというくらいまぶしく部屋中を照らしている。少し開かれた窓の外はこんなにも明るいというのに。少し開かれた窓の外はこんなにも桜が咲き乱れているというのに……不自然な明るさで現実へと舞い戻った武彦を見て、ひとりの男が悪びれた様子もなく笑った。「現実はそんなもんだ」と言わんばかりである。武彦もしばしそれに付き合った。


 今、武彦は仕事の真っ最中だ。依頼人は目の前にいる。ベッドの上で身を起こしている小柄な老人がそうだ。ここは病院の個室である。依頼人はここに住んでいた。散歩で病院の外周を歩くことも許されないほどの衰弱しているのが入院の理由らしい。老人は医者の言葉を薬のように素直に飲みこみ、この部屋で静かな日々を過ごしていた。今年は東京でも雪が積もる日が多かったからか、老人はおとなしく部屋にいたという。
 そんなある日、老人は武彦という話し相手を雇った。そして約束の日、武彦は不思議な出来事に出くわした。時間に間に合うよう、コートを着て興信所を出ようとしたその時、妹の零がけたたましく鳴り響く電話の受話器を取る。相手は依頼人の老人だったらしく、彼女は言伝を頼まれるとそのまま電話を切った。そして今まさに出かけようとする武彦にその言葉を伝える。

 『今日は雨が降っておる。ズボンが濡れてはよくない。明日の同じ時間なら晴れているだろうから、会うのは明日でよい』と。

 老人は病室にある窓の景色を見ながら話していたのだろうか。水が地面を潤していくその様を。武彦はまさかそれだけの理由で「来なくていい」と言われるとは思ってもみなかった。老人は相当の変わり者なのか、それともよほど相手に気を遣う人物なのか……彼は首を傾げつつもコートを脱ぎ、そのまま興信所での定位置であるソファーへと戻った。依頼人の言うことは絶対である。それにこの契約は長期に渡る。きょう一日で決着する話でもないし、最近は興信所も暇だから別にそれでも構わないだろうと武彦は自分を納得させた。そして見慣れた窓から外の様子を伺う。雨足が思ったよりも強く、その音は古ぼけた興信所の中にも響いていた。その時から武彦は、老人がどんな人物なのかと興味を持った。ただ電話の伝言からは、いい意味で『普通ではない』と思っていた。
 その正体は翌日にわかる。身体は武彦が思っていたよりもずっと小さかったが、声の響きがよく品のいい感じの老人だ。彼はある病院の一室に半年以上住んでいる。入院時は紅葉が真っ赤に染まり、地面を赤く敷き詰めていたそうだ。それを見た老人は冬を始まりをしみじみと感じると同時に、自分もこのまま枯れるのではないかと不安を覚えたという。彼は何度も入退院を繰り返していた。それはまるで、お花畑と巣を行き来するミツバチのように。この病院に戻る時は決まって「そろそろお迎えの来る頃かな?」と考えるそうだ。武彦は素直に笑う。「まだまだお元気じゃないですか」と自然に声が出た。それを聞くと老人は子どものような顔で微笑む。そんなとりとめのない話がいつ果てることなく続くのだった。


 いつしか武彦は毎日の訪問が仕事と思わなくなった。むしろ日々の楽しみとして病院へと足を運び、依頼人である気さくな老人の話を聞く。
 その中で何度か彼の人生に触れることがあった。老人の少年時代は戦争を終えた東京が舞台である。その頃は自分の身長ほどの高さの建物しかなく、街はあらゆる意味で飢えていた。季節の移り変わりを感じる余裕など誰にもなく、その日を生きるためだけに歯を食いしばって生きる。そんな時代だったそうだ。「きっと総理大臣のような偉い人もそうだったんだろうな」とは彼の弁である。
 そして高度経済成長の時代に老人はとある事業で成功を収めた。実は現在もその会社は存在し、健全な経営をしているという。今の社長は老人の養子が務めているそうだ。老人は人が羨むほどの巨額の財を手にしたが、女運だけはよろしくなかったらしい。だが、同級生や兄弟が自分の子どもを育てているのを見て、どうしても自分も子どもが欲しいと思った。そこで交通遺児でひとりぼっちになった子どもを引き取る。最初はその子に父と呼んでもらえず、また仕事に追われてなかなか構ってやれずでずいぶんと悩んだそうだ。親の心子知らず……自分の親にこんな仕打ちをしたのかと思うと、なおさら胸が痛む。公園のベンチでワンカップの酒を握りしめながら、誰にも言えない思いを抱えたままただ静かに夜が深けていくのを毎日のようにじっと見ていたそうだ。公園とはまた、この頃の老人がたたずむにしてはずいぶんと不釣合いな場所である。武彦は笑った。「あなたにお似合いな、もう少しそれっぽい雰囲気のするところがあったでしょうに」と言うと、「そんなもんかのう」とすぐに返す。昔から気取らないのが、彼のスタイルらしい。
 子どもは親を見て育つ。息子は自分の会社を継ぐのだと平社員になって一からがんばった。老人は年を取ったが、昔からの性格が今さら変わるはずなどない。息子の行動を喜びつつも、やはりだんだんと自分の手から離れると思うと寂しくなる。下のフロアでがんばっている息子を思い、老人はふと一番高い場所から街を見下ろした。その時、彼は街の人込みを見たという。そしてその横に立つ青々と繁った街路樹たちも。いつの時代も人はどこかに向かって歩いている。だがいったいどれだけの人間がこの街の風景を、そしてはるか向こうの山の景色を見ているのだろう。生きるためだけの人生はつまらぬ。実につまらぬ。自分がそれを悟ったのは、半世紀を駆け抜けた後だったそうだ。
 さらに時は流れる。老人は息子や役員たちに社を譲る際にその言葉を贈り、余生を楽しむこととなった。この老人に特別なものはいらない。莫大な退職金も大豪邸も、世界一周クルージングも必要ない。そう、彼は近くに公園さえあればそれでよかった。ただ季節を肌で感じることさえできれば、それで。そんな時、不幸にも自分の身体が病魔に侵されていることを知る。息子とその嫁は声を上げて悲しんだが、老人は笑った。「見舞いなどいらん。お前は自分の家族を大事にしなさい」と見栄を張り、自分の身の回りの世話を今も息子たちに一切させない。だから今の入院費も全部自分で書類を書いて処理しているらしい。書類を書くことだけは得意だと老人は胸を張る。武彦は「それは年の功ですか」と尋ねると、相手は「なんとかのひとつ覚えじゃ」と答えた。


 老人との付き合いもずいぶん長くなってきたある日のことだ。武彦がいつものように2回ノックをしてから病室に入ると、入口の近くに車椅子があるのに気づく。彼はいつものように会釈しながら枕元の椅子に座ると、さっそく老人が真顔である話を始める。

 「悪いがの、わしのお願いを聞いてほしいんじゃ。いいかの?」
 「え、ええ、そういう契約ですから。」

 その問いかけをされるまで、武彦はなんでここに来ているのかをすっかり忘れていた。それほど長く楽しい時間を過ごしている。それは間違いない。彼はそれに報いるためにも最大限の努力をしようと心に誓った。しかし、老人の頼みごとは実に他愛もないもので構えた武彦は肩透かしを食らう。

 「実はの……外出許可が下りたんじゃ。一日だけな。その日にわしの世話をしてくれるお人を探してほしいんじゃ。そこの車椅子に乗ってどこかに連れていってもらいたいんじゃの。息子たちには来るなと言ってあるし、でもひとりで車椅子を操作するほど体力はないし。だから贅沢は言わん。別にどこでもいいんじゃ。桜が散ってしまう前にちょっと気晴らしに行きたいんじゃのぅ。」

 武彦は頷いた。車椅子を押す人間くらいならいくらでも探そうと老人に言った。ただ彼にはどうしても気になることがあった。老人の話を聞いていたせいか、どうやら観察眼が鋭くなっていたらしい。ここ最近、老人の点滴の回数がかなり増えていた。それこそ点滴をしていない時などないくらいに。その答えは自然と武彦の頭の中で導き出された。それを知ったからこそ、彼は老人のお願いを素直に聞いたのだ。
 彼の目がふと窓の外を向いた。外は桜が散り急いでいる。淡いピンク色の雨が風に吹かれてどこかへ飛んでいく。その視線は自然と老人へと向いた。もしかしたら……武彦は予感が当たらないことを仏頂面のまま、心の中で必死で祈っていた。


 約束の日の朝、わずかな隙間から狭く乱雑な興信所を穏やかな朝の光が照らしていた。武彦は自分のロッカーからいつものジャケットを取り出し、それにゆっくりと袖を通す。そして着替えを終えると、不意に短い溜め息を吐いた。自分はこの依頼に関して少し感傷的になっているのではないかと思うと、自然と苦笑いをする。ここまで依頼人という名のたったひとりに心揺らすことは今までなかったかもしれない。不思議な気持ちを胸に抱くと、目に入る何気ない風景も変わって見えるものだ。これは老人の教訓だったが、武彦も大いに納得した。今、自分の立っているこの部屋がまるで自分の心の中のように思えて仕方がないからである。整わない気持ちをそのままにして、彼は今日も老人と会う。

 彼はずっとこの日が来るのを拒んでいた。昨夜、事務員のシュラインや妹の零にも素直にそれを話した。ハードボイルドが聞いて呆れる武彦は言う。そんな飾らない言葉は、ふたりに事態の深刻さを知らせるのには十分だった。シュラインはすっかり気落ちしている武彦の手をやさしく叩く。そして今までの経緯なども考え合わせながら静かに言葉を紡いだ。

 「気持ちのいい方ね。武彦さんがこんなになるんだから、よっぽどの人なんでしょうね……まぁ準備はしてるんだし、仕事は仕事なんだからちゃんとやってもらうわよ。」
 「悪いな、材料の荷物持ちくらいしかできなくって。」
 「上の空でタバコ吸うのも明日までにしてほしいわ。見てるこっちが辛くなるもの。あんまりいいたくないけど、零ちゃんもずいぶん心配してたわよ。」
 「はは、だろうな。」

 シュラインは季節を意識した食材でお菓子を作ろうと、さっきから台所で桜餅を作っていた。仕上げを零に任せ、彼女は最後の段取りをしている。日を追うごとにどんどん感傷的になっていく武彦を見たシュラインが気を利かせて自分から率先して花見の計画を進め、いよいよ外出予定日の明日を向かえることになった。武彦が老人を想うように、シュラインは武彦を気遣っていた。

 「一応……事務的に伝えるわ。花見の場所は綾和泉 汐耶さんから聞いてるし、そこを使うから。病院から街を抜けてその辺までなら散歩にはもってこいだし。桐生 暁くんは夕日のきれいな場所とショッピングに行きたいって言ってるわ。やんちゃな子みたいだけど、そんな人なら孫みたいに扱ってくれるんじゃないかしら。あとね、お食事に関してはセレスティさんに病院と息子さんたちからの情報とを加味したお食事を用意していただけるわ。」
 「ははは、賑やかだな。」
 「それでね、武彦さん。実はこのことを息子さんにも伝えてあるの。」

 シュラインは今まで武彦にも隠していたことをここで初めて語った。場の雰囲気が少し張ったが、そんなことは覚悟の上だ。彼女は目線を下げて申し訳なさそうに説明する。

 「初瀬 日和ちゃんもセレスティさんも……まぁ私もそうなんだけど、やっぱりその場所に息子さんはいた方がいいと思ったの。」
 「お前……契約違反に、なるかも知れないんだぞ。」
 「でもね。セレスティさんの言葉じゃないけど、心の隙間を私たちだけで埋めるのには限界があるわ。フォローは私がするから、ね?」
 「勝手に、しろ。」

 さまざまな気持ちが交錯する心から、かろうじて出てきた途切れ途切れの言葉。武彦はそれがシュラインを傷つけることはわかっていた。だが、今はそうとしか言えない。それ以上の言葉が頭に思い浮かばないのだ。自分が何を考えているのかさえわからないくらい考え込んでしまっている。そんな彼の言葉や気持ちを一身に受け止めたシュラインは無言で立ち上がり、零の様子を伺いに台所へと行こうとした。その刹那、ソファーに座っている武彦を見た彼女はゆっくりと長く息を吐く。普段の口ゲンカなど比較にならないくらいお互いが辛い思いをぶつけ合うような打ち合わせは二度としたくない。そう思いながら、彼女は明日に向けて動き出す。逆に武彦は地蔵のように動かなくなってしまった。事務所の明かりが落ちるまで、彼は前のめりの姿勢で何かを考えていた。

 シュラインが桜餅の入った重箱を、零が膝掛けや座布団などを持って玄関前で武彦を待っている。そろそろ約束の時間だ。今回の音頭を取る自分が遅れては依頼人たちに示しがつかない。彼は両手で強く自分の頬をはたくと、歩きながらふたりに号令をかけた。

 「行くぞ。」
 「はいはい。」

 いくつかの靴音で構成されるリズムが事務所を響かせた。玄関の鍵のかかる短い音が最後を締めくくる。彼らは風の感じる場所へと向かった。


 シュラインたちが病室に入ると、中はすでに賑やかな雰囲気に包まれていた。病院のイメージとは程遠い、とても明るい笑い声が響いている。ベッドにはいつもの老人が、そしてその目の前には少女がいた。日和である。話を聞いてみると、どうやら病院のことで盛り上がっているようだ。もっとも変に話を盛り上げているのは老人の方だが。

 「そうか。見た目はこんなに立派で美しい娘さんなのに病院のお世話になっとったか。」
 「ええ、小さい頃は特に身体が弱くって……たまに病院の外に出てもお花とかが少なくて息が詰まっちゃう記憶があるんです。ですから今日はお爺さんのお手伝いができたらいいなと思ってここに来ました。」
 「音楽をなさっとると、こんな場所では想像力も冴えまいて。ところが何もすることのないわしみたいな年寄りは『住めば都』でな。食事を運ぶカートの音でも楽しめるようになるんじゃよ。人間、ここまで長生きすると退屈することを忘れるらしいのぉ。」
 「よく言うわね。本当にそうでしたら『花見に行きたい』だなんて話し相手に駄々こねないでしょうに。」

 思わずふたりの話に割って入り、シュラインが老人にツッコんだ。彼女は『後から失礼なことを言っちゃったかしら』と心配したが、老人が首を前に出して照れくさそうに舌を出しているのを見て安心すると同時に自分が老人のペースに乗せられていることに気づく。今度はそのはっとした顔を武彦と零に見られ、その表情をネタに笑われた。それにつられて日和もくすくすと笑う。シュラインは外野の仕草にほんのちょっとムッとしたが、これが老人の魅力なのかと改めて感心した。そして昨日まで悩み抜いていた武彦の小さな姿をまぶたの裏に呼び起こす。彼女は車椅子の準備を妹としている武彦に優しい眼差しを送る。そして小さな声で「そうね」とつぶやいた。
 老人は座布団の敷かれた車椅子までひょいと歩き、そこに収まった。どうやら完全に歩けないわけではないようだ。今日は半年前から着ることのなかった普段着に身を包み、外に出る気満々といった表情である。零は子どものように落ち着きのない老人にひざ掛けを渡すと、「こりゃ悪いの」と言いながら足元にそれを乗せた。手ぶらになった零が病室のスライドドアを完全に開けた時、日和がお年頃の女の子には似合わない風呂敷包みをふたつ持っているのに気づく。

 「あれ、日和さんも何かご用意されたんですかぁ?」
 「ええ。片方は桜餅で、もう片方は……お爺さんのお荷物です。中身は秘密らしいですけど。」

 零は自分たちも桜餅を作ってきたと話すと、日和は嬉しそうな顔をした。そして桜の話に花を咲かせる。科学の進歩だの環境問題だの言っても日本人の、いや人間の風習は自然と密着したものばかり。それをふと思い出す時に喜びが生まれるのなら、その人はきっと幸せでいられるのだろう。シュラインはふたりの会話を聞きながらそんなことを感じていた。
 その間、老人と武彦は今日の天気について話していた。どうやら老人は昨日の天気予報を何度も確認したらしく、その話し振りはまるで一日気象予報士である。ところがこの予報士は天気図の話になるとさっぱりで、そこをツッコまれると知ったかぶりすることなく「わからんな〜」と素直に答えていた。今日は穏やかな春の一日で、風も弱く桜が全部散ってしまうことはないだろうとのこと。日和も「いい日になってよかったですね」と声をかけると、老人は「日頃の行いかのう」と頭を掻きながら笑って見せた。

 外には他のメンバーが集まっていた。汐耶にセレスティ、そして暁。玄関で丁寧な自己紹介と手厚い歓迎を受けた老人は恐縮する。これではまるで社を辞めた時のようで照れくさいと頬を赤く染めた。周囲もその色に負けじとさまざまな草花が我よ我よと美しさを競っている。花香る中、老人の車椅子はゆっくりと動き出した。その時、ステッキを持って歩くセレスティの姿を見た老人が声をかける。

 「異人さんは足がお悪いのかのう?」
 「このステッキがあれば、街を散策する程度なら大丈夫です。」
 「杖とは不思議なものじゃ。何かをきっかけに主人を立ち止まらせ、『周りを見ろ』と小さく囁く。わしもしばらくだけ使っておったが、立ち止まるたびに何かあるのかときょろきょろしたものじゃよ。そして何気ない景色を見て何かを感じようと必死になった。わしは彼がひとときの安らぎを与えてくれるものだと信じて疑わん。」
 「それはきっとお持ちの杖に魔法の力でも宿っていたのでしょう。」
 「おお、そうかもしれんのう。ははははは……」

 車椅子はすでに病院を抜け、広い歩道を通っていた。武彦は暁の注文通り、街に向かっている。彼は日和と同じ高校生だが、服装も性格もまるで逆。暁は首からネックレスをいくつもかけ、髪を金髪に染めている。ところが趣味はギターに演劇と意外にも文化的。『似て非なるふたり』と呼ぶのが正しいのかもしれない。
 そんな彼は「自分がよく行く場所に爺ちゃんを連れていく」と言った。武彦の予想はだいたいついていたが、行くかどうかの判断は老人に任せることにした。すると老人は気軽に首を縦に振る。シュラインと今後の予定を打ち合わせしていた汐耶もこれには驚いた。どうやらこの老人、年齢よりもずいぶん気が若いらしい。

 「え、ゲーセンもライブハウスも行ったことねーの?」
 「自慢じゃないが学がないのでな。英語がわからんのじゃ。」
 「じゃあ見りゃわかるよ。行こうぜ〜。」

 すっかりガイド気分の暁を止める者はいなかった。いや、止める理由がないと言うべきか。しかし汐耶は一緒に歩くメンバーを見渡し、暁の感覚を知っていそうな武彦に話しかけた。彼女はそこである心配を口にする。

 「草間さん。ライブハウスに入るってことはないと思うけど、ゲームセンターがバリアフリーを考えてるかが心配ね。」
 「あっ、しまった。車椅子が入れるかどうかか。」
 「あの子、老人と嬉しそうに話もしてるからつまんないことで水を差したくないし。セレスティさんもいらっしゃるから、事前にその辺を考えた休憩とかも考えながら目的地に向かって下さいね。」
 「ナイスフォロー、サンキュー。危ない危ない、盲点だったな。」
 「うちの職場、その辺はしっかりしてて数年前からいろいろ改修工事とかやってるから。それだけのことよ。」

 言われたことを忘れないように上を向きながら何度も言葉を繰り返す武彦。一行は賑やかな街中に向けて歩いていく。


 暁のガイドは老人だけでなく、他のメンバーも感心させるような場所を通る。まずはライブハウスに行ったが、汐耶の予想通り店は閉店中だ。実は彼女、老人に大音響を聞かせることだけは阻止しなくてはならないと考えていた。武彦からはあまり詳しい病状を聞かされてはいないが、身体の揺るがす大音響が身体に負担をかけることくらい容易に予想できる。それにチェリストを目指す日和の耳にもあまりよくないという配慮があった。何はともあれ、ここは外観を見るだけとなって汐耶は安心する。
 ちなみに暁は約2週間後にここで開催されるライブにバンドのメンバーとして参加するそうだ。ところがこの老人はバンドと聞いて『グループサウンズ』の認識で暁と接しているのが面白い。暁は老人の解釈の説明を聞き、老人は暁に詳しい説明をしてもらうとまぁ、店の前でふたりの話は延々と続いた。その周りにいる人間が両方の説明を聞いて頷いているのもことさらに滑稽だった。
 そして甘いものに目がないという老人は路上で売っていたソフトクリームを食べながら次なる場所へと向かった。そこは街裏にある薄暗いゲームセンターである。ここでも汐耶の心配は杞憂に終わった。なんとか車椅子を派手に動かすことなく中に入ることができたが、通路の幅が少し狭い。老人が自由にゲームを見て回るのは難しい状況だった。明かり代わりと言わんばかりに煌々とゲーム画面が光り、腰から上だけを照らす店内を自由に駆け巡る暁は老人の方を振り返って言う。

 「ここんとこ俺もご無沙汰なんだけど、よく遊びに来るんだ〜。」
 「そうかそうか。しかしなんもかんもようできとるのう。日本の技術は素晴らしいわい。」
 「あ、あの、草間さん。最近のゲームセンターって音楽を楽しむものもあるんですか?」
 「そういえばあっちにそれっぽいのがあるな。あれはギターかな? さすがにチェロは専門的すぎてないだろうけど……」
 「いえいえ。こういうものをきっかけにして音楽を知る人が増えるのなら素敵なことだなって思っただけです。」
 「企業が積極的に音楽を啓蒙してるわけじゃないでしょうが、確かにキミのおっしゃることは大事なことです。ここに来る客は彼くらいの年齢でしょうから、ある程度の効果はあるでしょう。今の日本の若者はジャンルにこだわらず『いいものはいい』と言ったりするようになったと聞いています。」
 「それは図書館でも言えるかもね。目立ってそういう傾向があるわけじゃないけど、いい流れだとは思うわ。」

 日和やセレスティ、そして汐耶が話を盛り上げている中、老人は武彦の思うように中を徘徊していた。たださすがに彼が楽しむには難しいゲームばかりが並んでいる。ここも見物で終わりそうな雰囲気だったが、ある些細なことが原因で事件が起こった。武彦がついうっかり車椅子の操作を誤り、ゲームを楽しんでいる青年の足に車輪を引っかけてしまったのだ。しかもタイミング悪く、その行為で青年も操作をミスってしまいあえなくゲームオーバーになってしまう。武彦はその場を取り繕うために慌てて前に出たが、彼の怒りの矛先はなぜか老人に向けられた。

 「おーおー、不健康なジジイがこんなとこでうろちょろしてんじゃねぇよ!」

 一気にゲーセンが張り詰めた空気に包まれる。と言っても、それをしたのは青年ではなく汐耶たちだ。武彦も日和もセレスティも鋭い眼光を彼に向ける。そんな雰囲気を吹き飛ばすかのように、老人はいつもの調子で話してみせた。それが両者への気遣いがあることは一目瞭然だ。

 「ヨレヨレのジジイが粗相をしましたの。これは誠に申し訳ない。草間さん、お邪魔になりますんでそろそろ出ましょうか。」
 「逃げんなよ! ワンプレイ無駄にして詫びだけで済むと思ってん、のか……」

 被害者の青年はそう意気込もうとした。だがその語尾がゆっくりと力なく下がる。彼の首元には細く白い両手が蛇のように絡みついていた。相手は無防備な急所からその冷たさと力強さを感じたかと思うと、あっという間に老人の死角となる筐体の裏に突き飛ばされる! そして相手が目を開ける前に今度は手刀を首元にかざしながら鋭く冷たいナイフのような言葉を浴びせた。

 「爺ちゃん、ちゃんとお前に謝ってんじゃねぇか。あんたのゲームはリセットできるけど、人生はリセットできないぜ。それでもいいんなら、俺と今から遊ぶか……?」
 「ひ、ひぃぃぃーーーっ!」

 青年はそのままの体勢で後ずさりしながらさっさと逃げていく。目前の脅威は取り除かれたことで、みんなが胸を撫で下ろした。普段の武彦なら間違いなくケンカしていただろうが、老人の前ではさすがにマズいと考えていた。かといってセレスティや日和が能力を使えば、只事では済まないだろう。今回は暁が比較的穏便に済ませてくれたと言っていいだろう。ところが当の本人はばつの悪そうな顔をして横を向いたまま老人に謝っていた。

 「ごめん……俺がこんなトコ連れてったからイヤな思いさせちゃったね。」
 「何を言うか。君がいなかったらわしはこんなところには来れなかったんだぞ。気持ちが若くなってよかったと思っておる。気にするな。さ、草間さん……」
 「あ、はい。ではそろそろ花見にでも行きましょうか。」

 あまりにもあっけらかんと話す老人を見て、心の中でますます自分の失敗を責める暁。落ちこむ彼の後ろからシュラインが肩を叩く。

 「あの人ね、間違いなく裏表のない人よ。言ったままのセリフを素直に受け止めればいいの。今の人間のコミニケーションとはかけ離れているのかもしれないけど、それでいいのよ。あの人はあんたを悪く思ってなんかいないわ。」
 「ほ、本当か?」
 「この中でこういう場所に連れて来れるのはあんただけだし、逆に誇っていいんじゃないかしら。物見湯山でいたのはあの人だけじゃないわよ。立派なガイドさんだったわ。」

 シュラインのフォローは正確だった。老人はその後も音楽やゲームの話で武彦たちと盛り上がっていた。「技術の進歩は留まることを知らない」と話すとセレスティが静かに頷く。そして話はどんどん広がる。しばらくすると音楽ゲームの話になり、老人は自分が子どもの頃に音痴で好きな女の先生の前でいい格好をするのに必死にうまく歌おうと歌の練習をがんばったという思い出を話してみんなの笑いを誘った。日和は「うまく歌うことではなく『音を楽しむこと』が大事なんです」と言うと、老人はそんな立派な考えを持つ彼女に小さく拍手を送る。自分もひとりで練習している時にそれに気づいたと言っていた。それからというもの、車椅子の上で老人はずっと鼻歌で思い出の曲を歌っていたようだ。暁は深く悩む間もなかった。活気を取り戻した輪の中に入り、みんなと一緒に話をして歩いた。彼は老人を親のように思い、慕い始めていた。


 その先頭を汐耶とシュラインが歩いている。次なる場所は汐耶がのんびり読書と花見のできる秘密の場所を知っているというのでそこに向かっていた。どこからか桜の花びらが緩やかな風と共に飛んできて、それぞれの服に付いている。淡い色彩を放つ花びらは音もなく舞い、道路を花道のように飾った。老人はそのひとかけらを手のひらに乗せ、空いた手でそれを撫でている。まるで愛情を注いでいるペットに接するかのような態度だ。顔もほころんでいる。

 「多少のへそ曲がりは九十九神との会話で慣れてるからと思ってきたんだけど、なんとも気持ちのいい人ね。どんな人か想像してた自分が情けなくなるくらいに。」
 「あら、私も武彦さんから詳しい話を聞くまでは同じこと考えてたわよ。またお金にならない依頼なんか受けてって怒ってたもの。」
 「でもあの人が言うように、季節の移り変わりって……きっと意識して見るものじゃないんでしょうね。」
 「汐耶さんみたいに手元にある本を自然と開いて物語を感じることに似てるんじゃないかしら。」
 「無意識の意識って感じね。立ち止まるのも人生、か。勉強になるわ。」

 そんな話をしていると、シュラインの携帯電話が鳴った。どうやらリンスター財閥からの連絡らしい。彼女は用件を伝え聞くと、そのままセレスティに伝えた。彼は小さく頷くと「ご苦労様と伝えてください」と言った。そろそろ頃合なので汐耶の場所に敷き物と料理の準備を始めるという。花見の準備は着々と整いつつあった。そんな中、セレスティはあることを確認するためにシュラインをもう一度呼ぶ。

 「ご老人の御子息のことですが、裏から手を回して会議や打ち合わせなど彼がこなす予定だった仕事は日程に無理のない程度にすべて延期させました。下世話なことだとは思いましたが、やはり彼がいなければきっとこの場にいる皆さんに悔いが残るでしょうから……」
 「同感ね。武彦さんはなまじ仲がよかったから判断に苦しんでたわ。本当に助かりました。」
 「しかし会社を立ち上げ社長になった人間の中で、ここまで庶民感覚が残っている人は初めてです。珍しいですね。」
 「贅沢とか幸せはお金で買えないってことかしら?」
 「それを短い時間で悟ったのなら、あのご老人はさぞかし幸せなのでしょうね。そう思います。」

 彼らがそんな話をしている最中でも、老人は外の匂いを全身で感じていた。その両目は一部ではなく全体を映し、まぶたのシャッターを何度も下ろす。このひとときを忘れぬようとするその動作は、なんとも言えない気持ちをそれぞれに抱かせた。やはりこれが最後の外出だと感じているのだろうか。彼が丁寧に周りを見るために首を動かすのを見ていると、どうしてもそんな悪い考えがよぎってしまう。だが老人と同じようにして日和と暁がきょろきょろしているのを見ると今度はなぜか安堵する。何も知らずに世話をしている彼らもまた、ある意味では幸せなのかもしれない。


 汐耶の秘密の場所は桜の木に囲まれた場所だった。すでにセレスティの指図で地面は赤い敷き物で着飾り、その中心にはさまざまな食べ物が用意されている。脇には温かな飲み物やスープなどもあった。これはすべて彼の配慮だ。老人は武彦に上座へと勧められるが、案の定「そんなことはいい」と言われる。武彦もシュラインに向かって「やっぱりな」という意味深な笑みを見せた。それにつられて微笑むシュラインは零と一緒に給仕を担当する。老人の食べ物は日和が皿に取り分けて隣から渡すことになった。暁はこんな豪華な食事があるとは思わず、ついつい「ラッキー!」と表情を緩める。それに同調するのはなんと老人だ。どうやら彼は食べる前から満足してしまっているらしい。そんな老人にセレスティはお約束の酒を持って近づいた。

 「草間さんからお好きなお酒をお聞きしました。最初はお戯れかと思いましたが、本当にこれがお好みなのですか?」
 「これはこれは申し訳ないのう。そうじゃ、その辺の自販機でも売っとるこのワンカップが楽しみなんじゃよ。」
 「……皆さんには失礼ですが、先に乾杯を受けて頂きますよ。思い出のこもったお酒に。」
 「ああ、乾杯じゃ。」

 セレスティは赤ワインの注がれたグラスを不恰好な寸胴のガラス瓶に当てると、柄にもなくワインをそのまま全部煽った。老人は半分くらい口をつけ、満足げに大きく息を吐いた。そしてふたりは打ち合わせたわけでもなく、もう一度グラスを鳴らした。セレスティも穏やかな笑みを彼に向ける。
 しばらくするとそれぞれが飲み物を手にし、改めて乾杯の音頭を武彦が取った。もちろん彼の手には冷たい缶ビールが握られている。そして穏やかな陽気に包まれたささやかな宴会が幕を開けた。頭上からは砂時計のように少しずつ桜の花が舞っている。それはまるで楽しい時間が永遠でないことをみんなに知らせているかのようだった。

 小一時間も経つと、彼らが座る場所にも多くの花びらが敷き詰められた。それは老人がこの場を去る時の花道になるだろう。日和は食の細い老人を気遣いながら宴会を楽しんでいたが、彼からふとあることを耳打ちされて驚いた。

 「チェリスト……だったかの。がんばりなされ。若いんだからできないことはないと思い、楽器一本で自分を表現することに精進しなされ。難しいことはよくわからん、年寄りからの応援じゃ。」
 「お、お爺さん……? わ、わかりました。がんばります。」
 「坊主。男はやんちゃなくらいがちょうどいい。人に迷惑をかけないのなら好きなことをすればいい。悪いことをしたらゴメンと謝ればいい。」
 「爺ちゃん……」

 急に話を振られた暁は皿にてんこもりになっている料理をやっつけようとしている最中だった。そんな時にマジメなことを言われ、彼も日和と同様に驚いた。そして老人は向かいにいるセレスティに向かってワンカップ片手に言う。

 「枯れ木に花を咲かせてくれて申し訳ないのう。お世話をかけました。」
 「樹木に水をやったのは私ですが、見事に咲いたのはあなたですよ。どうかご謙遜なさいませんよう。」
 「こんなべっぴんさんに給仕みたいな真似をさせて悪いと思っておる。次はもっといい男にこういう世話をやっとくれ。」

 汐耶とシュライン、そして零にそういうと彼は酒を煽って嬉しそうに笑った。老人は自分から宴会をまとめようという雰囲気で話したので思わず武彦が近くに駆け寄り一声かけた。

 「急にどうしました。まだ夕暮れ時でもないのに……宴席はこれからですよ。」
 「そうか、なんだか薄暗くなってきたような気がしてな。風も止んだのか、桜の花びらも落ちることもないしの。」

 その言葉を聞いた武彦は身体を石のように堅くした。口を真一文字に伸ばし、そのままの体勢から金縛りにあったように動けなくなった。怖れていたことが現実になってしまった。急に各人への激励をしたのには理由があったのだ。次に彼は桜咲く公園を見渡す。道路を行く時の老人とは明らかに違う動きだ。何かに急かされ、何かに憑かれたような動作で周囲を伺う。しかしどこにも人影がない。その時初めて、武彦は後悔した。「自分が息子を呼べばよかった」と。小刻みに震え、周りが見えないほどうろたえる彼の腕をシュラインが強引につかんで木の側まで引っ張った。ふたりの間を何枚もの花びらが通り抜ける。

 「ダメ。あなたがうろたえちゃダメ。暁くんや日和ちゃんが動揺するから。」
 「息子さんは……いつ来るんだ。早くしてくれ。早く……っ!」

 声を殺しながら必死に嘆願する武彦の姿を見て、シュラインも気持ちが揺らぎ始めた。彼女には老人に何が起こったのかはわからない。だが長い間、武彦を見ている。重大な何かが起きているかはよくわかっていた。しかしここで携帯電話を使うわけにはいかない。セレスティの策が確実に彼をここに導いてくれるはずだ。老人が迂闊な言葉を発する前になんとか……落ちつくように言ったシュラインも次第に焦りの色を深めていく。それは決してこの場に似つかわしくない、気色の悪い色だ。


 「父さん……」

 不意に響く声。一陣の風が宴席に吹いた。老人はその声に反応し、ゆっくりと後ろを見る。そして静かに頷いた。スーツを着た熟年の男は直立不動のままそこにいる。それが誰かなど説明する必要はないだろう。老人も声だけでそれが誰かを察していた。

 「わしは危うく、息子に不孝をさせるところじゃった。どこのどなたがこのような趣向をしたのかは知らんが、お手数をおかけしましたな。この老体、最後に大きな過ちを犯すところでしたわい。ははは……ここにおるのが、わしの息子じゃ。なんじゃ、今日は有給休暇でも使ったのか?」
 「見知らぬ皆さんにお手間をかけさせているのに、息子が社の椅子にふんぞり返っているなどと世間に知れたら世界の笑い者だよ。だいたい自分だってそうじゃないか。昔、親が重大な病気になったのに仕事だと言って田舎に帰ろうとしない社員に『ここに切符がある。今すぐ田舎に帰れ!』って怒鳴りつけたくせに。」
 「ほぅ、そんな昔のことは忘れたのう。」

 息子の告白に照れたのか、それをやんわりと否定する老人。ところが皆はくすくすと笑っている。「この人ならやるだろう」というニュアンスたっぷりの含み笑いが響いた。この場は息子に一本取られたようだ。老人は照れくさそうに頭を掻くと、息子にあるお願いをする。それは宴の終わりを意味していた。

 「会社から抜け出してきた罰じゃ。わしをそこの車椅子に乗せて散歩させてくれ。そうだな……夕日が見えるところがいい。」
 「わかったよ。じゃあ乗せるからまずは背中に乗って。」
 「おーおー、皆さんの前で恥ずかしいことをさせるもんじゃ。少しは考えい。」

 大きな背中を向けた息子の元に導くため、その近くにいた武彦と暁は思わず駆け寄った。そして息子の手伝いをし、ここに来た時と同じ姿に収める。老人は皆に向かって挨拶をした。

 「皆さん、今日は本当にありがとう。楽しかったですぞ。そこのお嬢ちゃんにわしの用意した包みを渡してある。その中に心ばかりの謝礼が入っておるから、どうか何も言わずにもらってやって下され。武彦さん、わしはこのまま病院に戻るとするよ。後の盛り上げは任せましたぞ。」
 「ええ。どうかお身体を大事になさってください。」
 「憎まれっ子、世にはばかるじゃな。ははは。」

 そんなやり取りを聞いていた暁が何かを察したのか、いきなり息子にあるお願いをした。

 「ねぇ、俺のお気に入りの場所があるんだ。街の景色が見渡せて夕日がでっかく見える場所。そこに連れてくよ。案内するだけでもいいからさ……お願い、もう少しだけ一緒にいさせてほしいんだ。」
 「わかりました。では、よろしくお願いします。」

 息子からすんなり許可を得た暁は小さく「ありがとう」とつぶやくと、急いで靴を履いた。そして息子の押す車椅子と共にその場を去る。老人には見えているのだろうか。桜の花道を通る自分の足元が。そして惜別の意を込めた花びらの雨がその身に注いでいることを。もう彼は花びらを愛でることはしない。ただ前を向いて……前を向いて夕日を望みに出かけていった。


 宴席に残った彼らは老人の包みをひとつずつ受け取った。それは一日限りの付き合いとは決して釣り合わない恐ろしく高額な金額が書かれた小切手で入っていた。日和はおろか、武彦でさえあまり見たことのない桁数で手が震えたほどだ。またその中には一枚の紙があった。それにはひとつだけ、ある約束が書いてある。それを声に出して読む者は誰ひとりとしていなかったが、セレスティは最初に文面を読んだ感想を言った。

 「あの人は……本当に気持ちのいい方なんですね。」
 「ああ、そうだな。俺もそう思う。だが俺は……この約束だけは守れん。守れない以上、これは受け取れない。シュライン、悪いな。俺は大バカだ……!」

 武彦はそういうと両手に力を込め、勢いよく小切手をちぎり始める。そして桜の花びらよりも小さくなるまで破った。そしてそれを宙に舞わせ、花びらに混ぜて飛ばす。だが彼女はそんな武彦を責めなかった。それどころか、彼は自分のためにもこの約束を破らなければならないとさえ思っていた。老人の気遣いはものすごく繊細だった。楽しい時間を自分から壊したくない……そんな思いが文面に宿っている。汐耶もセレスティも日和も黙って小切手を受け取ったが、それを使おうという意味で片付けた訳ではないだろう。ただ、この日を美しく留めておきたい。そんな願いが彼らをそうさせたのだ。彼らの心を察したのか、桜の枝は強い風に揺られてたくさんの花びらを落とす。それは涙のようでもあり、今日という日のフィナーレを飾るようでもあった。
 手紙の内容は単純だった。ただの一文しかない。老人の書いた言葉は今日を永遠にし、素晴らしい思い出にしてくれるだろう。それを否定する者は誰もいない。武彦はその文面をもう一度読んだ。やっぱり納得できない。やるせない思いはますます募るばかりだ。そんな彼に気を遣ったのか、その文字を桜が静かに隠していくのだった。

 『わしの葬式には絶対に来るな。来てもつまらんし、大したもてなしはできん。』

 彼らはその場に留まり、花見を続けた。誰もそうしようとは言わなかったが、自然とそうなった。いつまで続くかはわからない。だが今は花を見たい。誰もがそう思い、風景を見ながら食事や会話を楽しんだ。


 乾いた道を小さな花びらが埋め尽くし、鶯が春の訪れを知らせる頃……
 幻想的な春の景色が人の望む夢映し、蒼き空に浮かぶ月がそれを照らし出す。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/ PC名 /性別/ 年齢 / 職業】

0086/シュライン・エマ     /女性/ 26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
3524/初瀬・日和        /女性/ 16歳/高校生
1449/綾和泉・汐耶       /女性/ 23歳/都立図書館司書
1883/セレスティ・カーニンガム /男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い
4782/桐生・暁         /男性/ 17歳/高校生アルバイター、トランスのギター担当

(※登場人物の各種紹介は、受注の順番に掲載させて頂いております。)

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■         ライター通信          ■
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皆さんこんばんわ、市川 智彦です。今回は風景画のようなシナリオを書いてみました。
ちょうど桜の花が散る頃の納品ということで、うまく時期があったなーなんて(笑)。
これを書く頃、自分も桜の花を見てよく立ち止まりました。皆さんはいかがですか?

暁くんは初めまして! 今回、一番活発で元気な男の子なのでみんなを振り回しましたよ!
ライブハウスやゲーセンに縁遠い皆さんなんで、逆によかったんじゃないかな〜と思います。
最後に老人について行くシーンを思うと、暁くんの純粋さに涙してしまいます……うう。

今回は本当にありがとうございました。皆さんの向かえる春が幸せでありますように。
それではまた、別の依頼やシチュノベなどでお会いできる日を心から待っています!