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真夜中の音楽会
温かい陽気から逃れるように、ロルフィーネ・ヒルデブラントは陽の当たらない北向きの廊下を歩いていた。つい先ほどまで大勢の歌声が聞こえていたので、音楽室が近いのだろうか。
「じゃあ、今日の授業はここまで」
近くの教室から女教師の声が聞こえ、同時に四時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。ロルフィーネは柱の影にそっと身を隠し、我先と教室を飛び出す学生たちを見送った。食事を終えたばかりなので、袖や襟周りが酷く汚れているのだ。この格好で大衆の前に出て行くとどういう状況になるかくらい、ロルフィーネも分かっている。
「おなかが空くのは人間も同じなのにね〜」
腕の中のウサギのぬいぐるみを抱き直し、まだ指に付着している血をぺろりと舐めた。
食堂に急ぐ学生たちの姿がまばらになると、教室から女生徒たちのたわいない話が聞こえてくる。
「――そうそうカスミ先生。こんな話、聞いたことありませんか?」
「なあに? 聞かせてちょうだい」
「寮の子に聞いたんですけど、火曜の夜、決まって講堂の小ホールから音楽が聞こえてくるらしいんです!」
「ある時はピアノ独奏。ある時は弦の調べ……」
カスミの反応を楽しむかのような女生徒たちの声。
「や、やあね。ただの演奏会でしょう? それとも練習かしら」
「演奏が始まるのは草木も眠る丑三つ時だそうです」
「…………」
ロルフィーネが教室の後ろの扉からひょいと顔を覗かせると、ピアノの上の教材を片付ける手を止めた若い女教師を取り囲み、数人の女生徒たちが彼女をからかうように笑っていた。
「このままじゃ私たち、講堂に用が出来ても怖くて近付けません!」
「先生。どうなってるのか調べておいてくれませんか?」
「そ、そういうことは私ではなくて――」
声を震わせつつも教師としての体面を失わないよう、気丈に振る舞うカスミ。
彼女を取り囲んでいた女生徒の一人が不意に振り返り、まだ教室に残っているクラスメイトを一瞥した。ロルフィーネは慌てて顔を引っ込める。女生徒は友達と閑談しながら食事をしていた大人しそうな少女に目を留め、ゆっくりと近付いた。
「月夢さん。あんたさ、怖いの好きだっけ」
「え?」
突然声を掛けられた月夢優名はきょとんとするが、その隙に女生徒は素早く話を進める。
「カスミ先生、月夢さんが一緒に行ってくれるって」
「ゆ〜なちゃん……」
本当に? と、教師らしからぬ潤んだ視線を優名に向けるカスミ。お願いの眼差しはロルフィーネも獲物を油断させる為にしょっちゅうで使っている。「ボクが使う時は、相手は絶対に頷いてくれるんだけど」と思って様子を窺うと、優名もやはり頷くしかなかったようだ。それを見た別の女子がさらに口出しする。
「女の子だけじゃ不安だわ。そうねえ……瑛兎!」
「は……え……?」
教室の前の扉からそそくさと出て行く男子たちの最後尾にいた久我瑛兎が鋭い声に呼び止められた。女生徒はカスミと同じくらい青い顔をした彼に笑顔を向ける。
「あんた、護衛決定」
突然の不幸に見舞われた三人を横目に、ロルフィーネは舌なめずりしてほくそ笑んだ。少し遅い夕飯は彼らに決定である。もし死体が発見されても、講堂に巣食う魔物に殺られたと思われるに違いない。
「今夜のご飯は美味しいといいね〜」
ロルフィーネはわくわくしながら音楽室を後にした。
午前二時――日本の昔の時刻で丑三つに当たる頃、ロルフィーネは講堂の玄関口の柱に身を潜めていた。時間潰しにウサギのぬいぐるみと戯れていたが、三つの気配がここに近付いてくるのに気付き、顔を上げる。
寮の方からやって来たのは優名。正門の方からやって来たのは瑛兎とカスミであった。学生二人は昼間とは違って私服姿である。
「月夢さん、こんばんは」
「こんばんは」
瑛兎は優名に声を掛け平静を装うが、表情は少しばかり緊張に強張っていた。彼の後ろには昼間と同じ格好の、今にも気絶しそうな逃げ腰のカスミがいる。きっと大きな物音でも聞こえたら腰を抜かすだろう。襲うなら彼女が襲いやすいが――
「先生、大丈夫ですか?」
「だだだ大丈夫なわけないでしょっ」
カスミは気力を奮い立たせて面を上げた。
「こんな時間にこんなところをうろうろしていたら厳罰ものよ……。でも生徒たちが私の調査を求めているなら、それに応えるしかないわ。大丈夫よ。今だって音楽なんて聞こえないし……」
ぶつぶつと独り言を言う彼女は、二時ちょうどを告げる瑛兎の腕時計の電子音にびくりと反応する。その音を境に、ロルフィーネの耳にしっとりとしたピアノの音色が届き始めた。
「ピアノの音だ〜。噂は本当だったんだね!」
女教師の小さな悲鳴を聞きつつ、ロルフィーネは一足先に講堂の中に入ることにした。中に誰がいるのかを確認し、問題がないようなら獲物を仕留める準備をしなければいけない。
重たそうな扉に触れると、まるで来訪者を待ち構えていたように軽く開いた。鍵も掛かっていない。不審に思いながらも、ピアノの音が聞こえてくる小ホールに向かって歩き出した。
音を頼りに進むと、どうやら小ホールは地下にあるようだった。聞いたことのある曲に耳を傾けつつも、神経を尖らせる。階段を下りた先にあった重い二重扉を、全身を使って――体当たりするような感じで――押し開いた。
客席には誰もいなかった。しかし照明の当たった舞台上には一台のピアノと一人の奏者が。
害がなさそうなので通路をまっすぐに進み、ロルフィーネは舞台のすぐ手前までやって来た。艶やかな黒塗りの楽器に一心不乱に向かうのは、年齢の分からない一人の男。若そうに見えるが、老人のようにも見え、幼い子供に見えなくもない顔付きをしている。
「キミ」
ロルフィーネは男に声を掛けてみたが、まるで聞こえていないように彼女の声は無視された。むっと膨れるロルフィーネだが、音と会話する月魔法を使うことにする。空間に魔力を満たし、再度声を掛けてみた。
「キミはどうしてこんな時間に演奏してるの?」
『――……』
ピアニストはロルフィーネをちらと一瞥したが、それでも演奏をやめない。
「ボクを無視するなんて……?」
彼の表情の変化に気付いたロルフィーネは形の良い眉をひそめ、訝る。
(何を笑ってるのかな)
その時、舞台の左右の袖から数体の人影がゆらりと現れた。意思を奪われ、操られているかのような不自然な動きである。小さな子供に制服を着た男子や女子、スーツ姿の男や清掃員――彼らは真夜中に行われる音楽会の噂を聞きつけ、のこのことホールにやって来た者たちではないだろうか。
ピアニストの演奏タッチが過激なものに変わる。私と話をしたければ、こいつらを片付けろ――そう受け取ったロルフィーネは舌なめずりし、レイピアを構えて跳躍した。
小柄な体格を生かして襲い掛かってくるピアニストの傀儡の懐に潜り込み、致命傷を与える。操られていると言えども人間なのだから、出血量が多ければ動けなくなるだろう。人数も多いことだし、全員から少しずつ吸血すればおなかもいっぱいに膨れる。
戦いにくいのは大人ではなく、背格好の似た小学生だった。それでも素早さはロルフィーネが勝っているので、次々と勝利し、相手を再起不能にさせる。
全員を地に伏せた後、ロルフィーネはゆっくりと食事をするべく、倒れた人間の腕や襟首を掴んで舞台袖へと引っ込んだ。
『今日は不思議なお客様が多いな』
今まで鳴り止むことのなかった音楽が急に途絶え、ピアニストの不思議な声がロルフィーネの耳に届いた。まるで何人もの人が同時に喋っているようである。血に濡れた手を舐めつつ「おいし♪」と満足していたところに、第三者の声が聞こえてきた。
「これは……人の血?」
「ああっ」
ロルフィーネははっと我に返って大きな声を上げる。すっかりおなかが膨れて忘れてしまっていたが、月魔法を使ってピアニストと話をしようとしていたのだ。彼の第一声が自分ではない他人に向けられたかと思うと、少し腹が立つ。
慌てて舞台袖を飛び出すと、座席の最前列付近には講堂前で目撃した優名と瑛兎がいた。ロルフィーネの血まみれの姿を目にし、二人は息を呑む。
まだ乾いていない水溜りの中をぴちゃぴちゃと音を立てて進み、手を振ってレイピアに付いている血を払った。
「ボクの獲物を横取りしちゃ駄目!」
『ははは。食欲の旺盛なお嬢さんだ』
ピアニストは大仰な仕草で一礼し、その身分を明かす。
『私は無名のピアニスト。千の魂が宿る存在。この学園内を彷徨う魂に安らぎを与える音楽を奏でています。生きているお客様は私の音楽を聴くと正気ではいられなくなるはずなのですが……あなたたちはどうやら特別な力をお持ちのようだ』
「じゃあ、さっきのご飯もキミに意識を奪われてたんだね」
納得したように頷くロルフィーネ。この男と協力すれば、毎週火曜には絶対に新鮮な血が手に入る。そう期待していたのだが、優名が余計な口を挟んできた。
「ピアニストさん、こんな遅い時間にいつも大変ですね。でも関係のない人たちを巻き込むのはいかがなものかと思います」
『実は私も心苦しく思っています。しかし人間は好奇心に塊でしょう? ただこうして弾いているだけで、光に集る虫のように人間たちが寄ってくるのです。……そうだ、あなたたちにお願いしましょう。毎週火曜に講堂から聞こえてくる音楽は音楽学部の学生がこっそりと練習しているのだ、とお友達に話して下さい。そうすれば怪奇現象だの何だのと言って物好きがやって来る可能性は少なくなる』
(そ、そんなぁ〜)
名案だと一人喜ぶピアニストを前にし、ロルフィーネは愕然とした。傀儡をけしかけてきたのは、ただ演奏の邪魔をされたくなかっただけなのだろう。彼がロルフィーネに協力してくれそうな気配はない。
ピアニストの案を受け、瑛兎が頷いた。
「皆にはそう話しておくけどね……そっちも音量を下げるとか、大人しい曲を弾くとか、人を寄せつけない工夫をしないといけないよ」
『ありがとうございます。おや、そろそろお別れの時間のようですね』
言いつつ、ピアニストは椅子に座る。再び白い鍵盤に指を滑らせ、ゆったりとした旋律を奏で始めた。ショパンのエチュード、有名な別れの曲だが、異世界出身のロルフィーネには分からない。十一人の姉たちなら分かるかもしれないと思いつつも、美しい旋律に思わず聞き惚れた。
しかし瑛兎の電子時計が午前三時を告げるアラームを鳴らすと、ピアニストは七十八小節目、最後のホ音をホールに響かせながら『あなたたちならいつでも歓迎しますよ』と言って、すうっと空気に溶け込んだ。
後に残ったのは血で汚れた舞台という現実である。ついでに舞台袖には無数の死体が。明日にでもこれらが発見されると、やはりピアニストが望むそっとしておいて欲しい状況は永遠に得られないだろう。物好きの野次馬はこれからもどんどん増え続け――ロルフィーネにとって都合の良い環境ができる。
「……このまま帰って良いのかしら」
「彼女が帰してくれるかどうかが問題だと思うけど」
少し眠たそうな優名の呟きを受け、瑛兎は恍惚の表情を浮かべるをロルフィーネを見上げて呻いた。どうやら勘違いされたらしい。今はおなかがいっぱいなので、彼らを食べる気にはなれない。
ロルフィーネは舞台からぴょんと飛び降りると、最前列の座席に座らせておいたウサギのぬいぐるみを抱きかかえ、出入り口に向かって駆け出した。
唖然とする舞台前の二人と足元に転がる女性に眩しい笑顔を向け、一言。
「ばいば〜い♪」
今度は姉たちも誘って来ようと思ったロルフィーネであった。
―― 完 ――
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
・2803 / 月夢・優名 / 女性 / 17歳 / 神聖都学園高等部2年生
・4936 / ロルフィーネ・ヒルデブラント / 女性 / 183歳 / 吸血魔導士・ヒルデブラント第十二夫人
・NPC / 久我・瑛兎 / 男性 / 17歳 / 学生
・NPC / 響・カスミ / 女性 / 27歳 / 音楽教師
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■ ライター通信 ■
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ロルフィーネさん、初めまして。新人ライターの千里明です。
当作品がOMCでの初仕事となりましたが、お気に召して頂けたでしょうか?
慣れているはずの執筆もプレイングを元にするとなると勝手が違い、ついあたふたしてしまいました。闇の世界に生きる無邪気な美少女を暗躍させるのはとても楽しく、快調に執筆できたと思います。
ご縁がありましたら、いつかまたお会いしましょう。
今回は参加して下さって本当にありがとうございました。
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