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真夜中の音楽会
「じゃあ、今日の授業はここまで」
響カスミ教師がピアノ伴奏の手を止めると同時に、四時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。学生たちは我先と教室を飛び出し、食堂へと駆ける。食堂利用派の学生曰く、一分一秒が命取りになるそうだ。最初は大袈裟ねと笑っていたが、食券販売機の前に出来た長蛇の列を目撃した後では誰でも笑えなくなる。優名も例外ではなかったが、弁当持参派には全く関係ない話だ。
温かい陽気の今日は中庭でお弁当を広げたかった優名だが、食後すぐに階下の職員室に呼ばれている友人に付き合い、音楽室で昼食を取ることにした。本当は飲食禁止なのだが、後片付けさえきちんと行えば怒られることもない――時々、カスミ教師が輪の中に入ってくるくらいだ。
教室に残っていたのは優名たちだけでなく、数人の女生徒が教材の片付けをしていた教師を囲み、いつも通りたわいない話を始めた。
「――そうそうカスミ先生。こんな話、聞いたことありませんか？」
「なあに？ 聞かせてちょうだい」
女生徒の楽しそうな様子につられ、教師はついつい耳を傾ける。
「寮の子に聞いたんですけど、火曜の夜、決まって講堂の小ホールから音楽が聞こえてくるらしいんです！」
「ある時はピアノ独奏。ある時は弦の調べ……」
教え子たちの思惑に気付いたのか、カスミは表情を若干強張らせた。動揺しきった声を出す。
「や、やあね。ただの演奏会でしょう？ それとも練習かしら」
「演奏が始まるのは草木も眠る丑三つ時だそうです」
「…………」
すっかり言葉をなくし、若い女教師は教材を片付ける手さえ止めてしまった。
耳に届いてしまったので女生徒たちの話をつい聞いていた優名だが、その噂話は寮生である優名も聞いた覚えがある。内容は彼女たちが話したことと同じだ。
「このままじゃ私たち、講堂に用が出来ても怖くて近付けません！」
「先生。どうなってるのか調べておいてくれませんか？」
「そ、そういうことは私ではなくて――」
声を震わせつつも教師としての体面を失わないよう、気丈に振る舞うカスミ。
彼女を取り囲んでいた女生徒の一人が不意に振り返り、まだ教室に残っているクラスメイトを一瞥した。友達と閑談しながら食事をしていた優名に目を留め、近付いてくる。
「月夢さん。あんたさ、怖いの好きだっけ」
「え？」
あまり話したことのないクラスメートに一方的に決め付けられ、一瞬戸惑う優名。きょとんとしている隙に彼女は素早く話を進める。
「カスミ先生、月夢さんが一緒に行ってくれるって」
「ゆ〜なちゃん……」
本当に？ と、教師らしからぬ潤んだ視線で尋ねられ、気の毒になった優名は頷くしかなかった。それを見た別の女子がさらに口出ししてくる。
「女の子だけじゃ不安だわ。そうねえ……瑛兎！」
「は……え……？」
教室からそそくさと出て行く男子たちの最後尾にいた久我瑛兎が鋭い声に呼び止められた。女生徒はカスミと同じくらい青い顔をした彼に笑顔を向ける。
「あんた、護衛決定」
突然の不幸に見舞われた二人を横目に、優名は自己のペースを保って食事を再開した。少し甘い、ふわふわのたまごやきを頬張る。
（霊現象と断定するのは早いわ。とんでもなく非常識な人か、深夜にしか練習時間が取れない人かもしれないし……ね）
まずは夜更けの寮をどう抜け出してくるかが問題だった。
約束の午前二時――昔の時刻で丑三つに当たる頃、寮をこっそりと出た優名は講堂へとやって来た。入浴は済ませてあるので、着衣は制服ではない。ＶネックＴシャツとキャミソールを重ね、ギャザースカートを合わせた。そのままでは少し肌寒さを感じたので、オフホワイトのジップアップブルゾンを羽織っている。
講堂の前に到着すると、正門の方からカスミと瑛兎がやって来るのが見えた。門には鍵が掛かっているだろうに、二人はどうやって構内に入って来たのだろう。
「月夢さん、こんばんは」
「こんばんは」
瑛兎は優名に声を掛け平静を装うが、表情は少しばかり緊張に強張っていた。私服の彼を見るのは初めてだが、チャコールグレーのカーディガンとライトグレーのＴシャツの組み合わせは少し渋い。そんな瑛兎の後ろには昼間と同じ格好の、今にも気絶しそうな逃げ腰のカスミがいた。
「先生、大丈夫ですか？」
「だだだ大丈夫なわけないでしょっ」
それでもカスミは気力を奮い立たせて面を上げる。
「こんな時間にこんなところをうろうろしていたら厳罰ものよ……。でも生徒たちが私の調査を求めているなら、それに応えるしかないわ。大丈夫よ。今だって音楽なんて聞こえないし……」
ぶつぶつと独り言を言う彼女は、二時ちょうどを告げる瑛兎の腕時計の電子音にびくりと反応した。その音を境に、優名の耳にしっとりとしたピアノの音色が届き始める。
「ピアノの音です」
「い、いや……っ」
風が吹き、枝葉がざわざわと騒いだ。講堂前の広場に冷たい空気が流れ込む。先程まで聞こえていた虫の声はいつの間にか聞こえなくなっており、ピアノの音だけが閑寂の夜に響いた。
視界の端で何かが動いたのを捉えつつ、優名は怯える女教師をなだめようと、柔らかい笑みを向ける。
「大丈夫ですよ、先生。きっと誰かが妙な噂を広めようとして悪戯してるんです」
「今さ、そこに何かいなかった？」
瑛兎が玄関口の柱を指差すのを見て、カスミは息を呑んだ。優名は「さあ」と曖昧に返事をし、講堂に向かって歩み出す。
「そろそろ行きましょう」
演奏会がいつまで続くのかは分からない。『彼ら』の行動時間は二時から三時だと小耳に挟んだことがあるので、演奏も一時間は続くのだろうか。
怪奇現象に恐れを抱かない優名、恐れつつも聞こえてきた得意のピアノに耳を傾ける瑛兎、幽霊の「ゆ」の字も聞きたくないカスミの三人は、暗い講堂の中に姿を消した。
小ホールの重い二重扉を押し開くとクライマックスを迎えたピアノ曲――シューマンの幻想小曲集だ――が溢れ、同時に鼻をつんと刺激する奇妙な臭いを嗅いだ。
客席には誰もいなかった。しかし照明の当たった舞台上には一台のピアノと一人の奏者、そしておびただしい量の血液が舞台袖へと引き摺られている。カスミはふらりと声もなく倒れ、優名と瑛兎は驚きを隠せずに目を丸くした。
周囲の惨状は別世界の出来事だと言わんばかりに軽快な音楽を奏でるピアニスト。艶やかな黒塗りの楽器に一心不乱に向かうのは、年齢の分からない男だった。若そうに見えるが、老人のようにも見え、幼い子供に見えなくもない顔付きをしている。
『今日は不思議なお客様が多いな』
演奏をやめた男はにっこりと笑い、優名を振り返った。
「これは……人の血？」
「ああっ」
非難するような声を聞いて顔を上げると、舞台袖から一人の少女が現れる。背格好は小学生くらいだが、その姿が異質であった。口元や着衣を真っ赤な血で汚し、赤い眼を爛々と輝かせている。まだ乾いていない水溜りの中をぴちゃぴちゃと音を立てて進み、手を振って持っているレイピアに付着する血を払った。
「ボクの獲物を横取りしちゃ駄目！」
『ははは。食欲の旺盛なお嬢さんだ』
ピアニストは大仰な仕草で一礼し、その身分を明かす。
『私は無名のピアニスト。千の魂が宿る存在。この学園内を彷徨う魂に安らぎを与える音楽を奏でています。生きているお客様は私の音楽を聴くと正気ではいられなくなるはずなのですが……あなたたちはどうやら特別な力をお持ちのようだ』
「じゃあ、さっきのご飯もキミに意識を奪われてたんだね」
納得したように頷くのは血まみれの少女。人を『ご飯』と言うからには、彼女は人間を捕食する存在なのだろう。
音楽を使う治療法があるくらいだ、元人間たちも彼の音楽を聴いて安らかな気持ちを抱くのだろうか。しかしそれと人への害は別問題である。優名は表情を厳しくした。
「ピアニストさん、こんな遅い時間にいつも大変ですね。でも関係のない人たちを巻き込むのはいかがなものかと思います」
『実は私も心苦しく思っています。しかし人間は好奇心に塊でしょう？ ただこうして弾いているだけで、光に集る虫のように人間たちが寄ってくるのです。……そうだ、あなたたちにお願いしましょう。毎週火曜に講堂から聞こえてくる音楽は音楽学部の学生がこっそりと練習しているのだ、とお友達に話して下さい。そうすれば怪奇現象だの何だのと言って物好きがやって来る可能性は少なくなる』
ピアニストは名案だと一人で喜んでいるが、優名は友人が少ないのだ。瑛兎にちらと視線を向けると、彼はピアニストの話を聞いて頷いた。
「皆にはそう話しておくけどね……そっちも音量を下げるとか、大人しい曲を弾くとか、人を寄せつけない工夫をしないといけないよ」
『ありがとうございます。おや、そろそろお別れの時間のようですね』
言いつつ、ピアニストは椅子に座る。再び白い鍵盤に指を滑らせ、ゆったりとした旋律を奏で始める。ショパンのエチュード、有名な別れの曲だ。優名と瑛兎は彼の演奏に聞き惚れ、不満がある様子の吸血少女も美しい旋律に耳を傾ける。
激しい中間部を通って再び流れるような旋律になり――ぴぴっと瑛兎の電子時計が午前三時を告げるアラームを鳴らした。七十八小節目、最後のホ音をホールに響かせ、『あなたたちならいつでも歓迎しますよ』と言って、ピアニストはすうっと空気に溶け込む。
後に残ったのは血で汚れた舞台という現実だった。
「……このまま帰って良いのかしら」
「彼女が帰してくれるかどうかが問題だと思うけど」
少し眠たそうな優名の呟きを受け、瑛兎は血まみれの少女を見上げて呻いた。しかし吸血少女ロルフィーネは舞台からぴょんと飛び降りると、最前列の座席に座らせてあったウサギのぬいぐるみを抱きかかえ、出入り口に向かって駆け出す。
唖然とする舞台前の二人と出入り口に転がるカスミに眩しい笑顔を向け、一言。
「ばいば〜い♪」
場違いなほど軽い調子に若干呆れるが、このままここにいるわけにもいかないと再認識する。舞台袖に何かがあったとしてもそれは彼女かピアニストの仕業であり、優名たちが責任を問われることになると困るのだ。
心の中にもやもやしたものを抱えながら、二人と気絶者は講堂を後にした。
―― 完 ――
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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【整理番号 ／ ＰＣ名 ／ 性別 ／ 年齢 ／ 職業】
・2803 ／ 月夢・優名 ／ 女性 ／ 17歳 ／ 神聖都学園高等部２年生
・4936 ／ ロルフィーネ・ヒルデブラント ／ 女性 ／ 183歳 ／ 吸血魔導士・ヒルデブラント第十二夫人
・NPC ／ 久我・瑛兎 ／ 男性 ／ 17歳 ／ 学生
・NPC ／ 響・カスミ ／ 女性 ／ 27歳 ／ 音楽教師
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■ ライター通信 ■
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優名さん、初めまして。新人ライターの千里明です。
当作品がOMCでの初仕事となりましたが、お気に召して頂けたでしょうか？
慣れているはずの執筆もプレイングを元にするとなると勝手が違い、ついあたふたしてしまいました。本編を書き進める際は優名さんの設定からイメージを膨らませました。マイペースな女の子は大好きなので、楽しく執筆できたと思います。
ご縁がありましたら、いつかまたお会いしましょう。
今回は参加して下さって本当にありがとうございました。
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