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<東京怪談・PCゲームノベル>


【---Border---】〜ファイル1、甘美な紅〜


□発端


 『私には時間がないの。もうこれしか方法がないのよ。』

 “怖い・・怖い・・嫌・・こないで!!”
 直ぐ背後に近づいてくる気配に、彼女はパニックになりながら前へと走った。
 なかなか動かない足がもどかしい。
 “速く!速く!!もっと速くっ!!!”
 もっと運動しておけばよかった。
 そんな後悔はした所でもう遅い。
 そもそも後悔というものは、物事が先に進まなくなった時、詰まった時、失敗した時にするものであって、結局の所結果が出なければ後悔のしようがない。
 後悔と言うものは、先を見越してするものではない。
 過去を振り返ってするものだ。
 つまり・・彼女はこう言う状況に陥らなければ“運動しておけば”等と言う事は微塵も思わなかったであろう。
 すぐ真後ろに感じる息遣いに、思わず叫びたくなる。
 けれど乱れた呼吸からは叫びは出てこない。息をするだけで精一杯なのだから・・。
 “はぁ・・っはぁ・・っはぁ・・”
 走って走って・・いつの間にか彼女は見知らぬ森の中へと来ていた。
 鬱蒼と生い茂る木々で空は見えない。
 そして・・・いつの間にか気配がなくなっていた。やっと、振り切れたのだ。
 “良かっ・・・”
 ガクリと足元がなくなる。
 崖からうっかり足を滑らせてしまったのかも知れない!なんて不注意な・・・。
 彼女は咄嗟に手を突こうとして・・・。
 グサリと、鈍い音を確かに聞いた気がした。
 けれど彼女は自身に起こった出来事を知る術もないまま、永遠の国へと旅立って行った。

 『時間がないのよ、私には。だから・・もう・・・』

 * * * * * * *


 無残にも、腹部を貫ぬかれた女性の写真が一枚だけデスクの上に鎮座していた。
 京谷 律(きょうや りつ)はそれから視線を逸らすと、手に持った報告書に落とした。

 数ヶ月前から、村の内外で変死体が発見される事件が数件起こっている。
 被害者は皆20代から30代の若い男女で、首筋に2つの穴が開いている。
 腹部には何かが貫通したようになっており、それが直接の死因と考えられている。
 この事件で一番不可解な事は、被害者達が極度の出血をしていると見られるにもかかわらず、現場やその近くに血痕の跡は見られていない。
 警察では凶悪犯による猟奇殺人事件だと考えられており、被害者達はどこかで腹部を貫かれた跡に現場に運ばれたと見ている。
 しかし、いまだ犯人の足取りはつかめておらず、それをあざ笑うかのように被害者は増え続けている。

 「それで、村周辺では吸血鬼の仕業だと噂されている・・か。」
 律は小さく呟くと、ふっと微笑を浮かべた。
 「もしヴァンパイヤの仕業の場合・・どうして腹部を傷つける必要がある?どう考えたっておかしい。」
 そっとカラーコンタクトを取る。
 左目が赤いのは、別に出血しているわけではない。
 「ヴラド ツェペシュよりむしろ・・・」

 『エルジェベット バートリ』



 『急募:この度ある山村に猟奇殺人事件の調査を任されました。そのアシスタントをしてくださる方を募集します。調査期間は現地に行ってみないと分かりません。報酬は調査期間と調査内容によって変動いたします。泊り込みになるかもしれませんので、それなりの用意をしてきて下さい。詳しくは 京谷 律まで。』


 * * * * * * *


 「【---Border---】を体験、読む時の注意事項が書いてあるから、以下をよく読んでね。」


 【---Border---】を体験するまたは読む時の注意事項
  1、体験もしくは読んでいる最中に寒気や悪寒、耳鳴り、その他何かしらを感じた場合“絶対に後を振り向かないで”下さい。
    また、同様に自身の“真上も見ないで”下さい。
  2、何らかの理由で席を立ったり、どうしても後を振り向かなくてはならなくなった場合、体験または読むのを止め、心を落ち着けて深呼吸をしてから振り向いたり、立ち上がったりしてください。


 「え・・?これに何の意味があるのかって?・・・さぁ、ただの注意事項だから、理由なんてないんじゃない?」

 律はそう言って微笑むと、そっとカラーコンタクトを瞳にはめた・・・。



■適性

 蒼王 翼は、夢幻館の壁に張り付いてはためく紙を見つめた。
 猟奇殺人事件の調査、その、アシスタント募集の張り紙だ。
 翼はしばし考えた後で、その張り紙をはがした。
 そしてふっと周りを見つめる。
 知らない風景、知らない場所・・・。
 いつの間にか入り込んでしまった、少しだけ・・ほんの少しだけ時空の捩れた場所。
 目の前に聳える大きな建物からは異質な雰囲気が漂っている。
 カチャリと音がして、両開きの巨大な扉が開かれる。
 中から現れる、17,8くらいの容姿の青年。
 「夢と現実、現実と夢、そして・・現実と現実が交錯する館へようこそ。」
 「・・キミは・・?」
 「ここの総支配人の沖坂 奏都(おきさか かなと)と申します。察する所に、律さんに御用ですね?」
 「そう、この張り紙を見てきたんだけど・・。」
 「こちらです、さぁどうぞ。」
 奏都はそう言うと、翼に手を差し伸べた。
 「この館は色々な時間が混じりあい、日々変化しております。なので・・部屋数は無限にあるんですよ。」
 「どうりで・・この館の周りの雰囲気は他とは違うと思った。」
 「見る人から見れば、直ぐにわかってしまいますからね。だから・・この館も人を選ぶ。」
 一つの大きな扉の前で歩を止める。
 コンコンと2回ほど扉をノックした後に、ゆっくりと押し開ける・・・。
 「律さん。お客さんですよ。蒼王 翼さんです。あの張り紙を見て来られたそうですよ。」
 穏やかにそう紹介されて、頭を下げようとした時、翼はある事に気が付いた。
 ・・いつ、自分が蒼王 翼であると名乗ったであろうか?
 記憶の限りでは名乗っていない。
 つまり、この男は・・・。
 「それではごゆっくり。」
 奏都は一つだけ頭を下げると、扉を閉めた。
 「あ・・初めまして・・。あの、京谷 律って言います。その・・・。本日はお越しいただき、有難う御座いました・・。」
 今にも消えてしまいそうなほどに儚い印象を受ける律は、翼に目の前のソファーに座るように手で合図をした。
 「今回の事件なんですが、警察の方では猟奇殺人事件として調査をしています。でも、もしかしたら“Border”が関係しているのかも知れないと言う事もあり、こちらに捜査要請が来たのですが・・。」
 「“Border”・・・?」
 「所謂、あちらとこちらの境界線です。」
 律はそう言うと、パチリと電気を消した。
 窓には分厚い鉄のカーテンが下りてくる。
 真っ暗になったその部屋で、セレスティと律の呼吸だけが大きく響く。
 「今から、ある実験を行います。お付き合い願えますか?」
 「どうぞ。」
 「有難う御座います。」
 ピンと、何かが張り詰める音がする。
 音の振動が終わり、しばらくの静寂の後で再び何かが張り詰める。
 その音は段々周期を早め、音の振動も段々と早く、短くなる。
 それはいまや1つの音にしか聞こえなかった。
 ピーンと響く1つの真っ直ぐな音だった。
 「今、この部屋に一つの世界が誕生しました。1つの音が作り出す不思議な世界です。俺が言葉を紡ぐたび、世界が揺れているのが分かりますか?」
 「あぁ。」
 集中しなくても分かる、確かな崩壊の音・・・。
 単一の世界は壊す事が容易い。他のものを入れてしまえば直ぐに壊れてしまうのだ。
 律が言葉を紡ぐたび、危ういほどに世界が揺れ動く。
 それは見るものでも、聞くものでもない。
 “感じるものだ”・・・。
 「この、一つの世界に他の世界を組み込みます。・・感じてください、その境界を。確かに存在する“Border”を・・。」
 翼はただ首を縦に振った。
 言葉を紡いでしまえば、儚く散ってしまいそうなほどに世界が危ういからだ。
 「行きます。」
 小さな合図の後で響く、低音の振動。
 それは段々とこちらの世界を侵食しようと、迫ってくる。
 徐々に崩壊を迎える世界。
 それが、ある1つの線上でピタリと止まった。
 力の均衡が取れている場所が出現したのだ。
 どちらも一進一退の攻防を繰り返す線・・・。
 「感じますか?」
 静かに響く律の声さえも、この均衡を崩しそうになる。
 翼はそっとその線・・・“Border”に触れた・・・。
 ほんの刹那吹いた風・・その後に、どちらの世界も崩れた。
 正確に言えば消え去ったと言った方が良いのかも知れない。バラバラに散ってゆく世界は、甘美な儚さを持って消えて行った。
 「境界の、Borderの崩壊です。」
 律はそう言うと、電気を点けた。
 窓から淡い光が差し込み、段々と部屋の中に昼間の雰囲気を引き入れる。
 「今のは・・?」
 「適性検査・・と言ったら、お怒りになりますか?」
 「僕を試したの?」
 「・・はい。Borderに触れると言う事は、それなりの危険を伴います。こちら側の世界も、あちら側の世界も、危険な事に変わりはありません。あちらにはあちらなりの危険があり、こちらにだって一見見えにくいようですが危険は多々存在しています。でも、最も危険なのはBorderです。2つの世界をギリギリの所で分ける境界線。2つの世界が鬩ぎあっている丁度中間の部分。そこが・・・Borderが一番危険なんです。」
 「Borderが・・?」
 「はい。物事には方向性というものがあります。こちら側の世界はあちら側の世界に向かって方向を定め、日々侵食しようと進んでいます。そして・・あちら側の世界もこちら側の世界に向かって進んでいます。つまり、こちら側もあちら側も明確な方向が定まっているのです。それはほとんどの場合は変わる事のない方向性です。だからBorderほど危険ではないんです。」
 「つまり、Borderには方向性がないと、そう言いたいのか?」
 「Borderは2つの力の釣り合った線上の事です。ゆえに・・・Borderには方向と言う概念がありません。」
 翼は一つだけ、同意の意を示す頷きを律に返した。
 「それで・・どうして最もBorderが危険なんだ?」
 「方向性の中で住まう人々にとって、方向性のない世界は危険です。人はこの世界で重力と言う一つの方向性によって地に足をつけています。しかし、ひとたび重力の方向性を抜ければ無重力・・つまり、重力と言う方向性のない世界に進みます。人は地に足を着けることが困難になり、空へと飛び立ちます。」
 「それで?」
 「それでも重力以外の方向性がまだ働いています。空気の方向性です。外からも中からも、丁度人の肌をBorderとするように、空気はそれぞれの方向性を持ってこちら側に向かってきます。」
 「その全ての方向性がなくなった時・・どうなるんだ?つまり、Borderに触れた時、僕達は・・?」
 「方向性のない物体は拡散し『無』に陥ります。光りも闇も、進む道も帰る道も、何もない世界です。」
 「存在の消失・・・?」
 「はい。そのとおりです。」
 律は頷くと、部屋の隅にポツリと置かれた小さな丸テーブルの上からポットを取った。
 その横で逆さまにされたコップを返し、透明な水をその中に注ぐ。
 「ですから、適性検査が必要なんです。Borderに触れた瞬間に消失する人が・・少なくないんですよ。」
 「そうなのか。」
 律はコップを翼に差し出した。
 冷たい感触が手に伝わり、どこかモヤモヤとしていた心をふっと軽くさせる。
 「お気に触れたのでしたら、すみません・・。」
 翼は、気にしていないと言葉に出す代わりに頭を振った。
 「それで、僕は合格?」
 「あの時・・微かにですが、風が起こったのをご存知ですか?」
 世界が崩れる前に吹いた、ほんの微風・・。
 「あぁ。それが?」
 「あれが適しているか適していないかを分ける最大のポイントなんです。貴方は、誰がなんと言おうと適しています。その心の清らかさや、気高さが、Borderの無方向世界に立ち向かう最大の武器になります。」
 「そうか。」
 翼は頷くと、コップの水を一口だけ口に含んだ。



□考察

 律が事件の大よそのあらましを話している間、翼はただ黙って聞いていた。
 あまりに悲惨な猟奇殺人事件に、思わず目をそむけてしまいたくなる・・・。
 「今回の事件の事なのですが、先ほども言いました通り・・俺はBorderが関係しているものと思います。あちら側の出現です。」
 「異なる者の仕業だと?」
 「・・人にあらざる者の仕業ではないと思います。あくまで、人から脱した者の仕業だと・・。」
 人から脱した者・・・人に限りなく近い、あちら側の人間。
 何かに魅入られてしまい、あちら側へと入り込んでしまった哀れな人。それが、人から脱した者だ。
 人にあらざる者とは、その存在自体が異なる者、こちら側の世界とは相反する者の事だ。
 「魅入られし人は、人にあらざる者よりも強いんです。引き込む力が、思いの力が・・・。」
 「被害者達は、血液がなくなっていたと言ってたけど。なくなっていたのはそれだけ?」
 「はい。それだけです。ただ・・腹部の内臓は破損が酷かったそうです。」
 それはそうだ。串刺しにされたのだから・・。
 「殺害の仕方に何か意味合いでもあるのか・・?」
 「俺が思うに、ヴラド ツェペシュだと思います。」
 「ヴラド ツェペシュ・・?」
 吸血鬼ドラキュラのモデルと言われた15世紀ルーマニアのワラキア公ヴラド3世。
 ツェペシュとは、「串刺し」の意で、彼は串刺し公とも呼ばれていた。
 「確かに、似通る節はあるけど、状況が違いすぎる。」
 「ヴラドは自国を守るためのものでした。トルコや西ヨーロッパからの圧力に耐え、ワラキアを独立国として維持し続けるための・・・。」
 「そうだ。犯人は何かを守るために被害者達を串刺しにしているとでも?」
 「それはまだ分かりません。でも、方法はヴラドです。けれど・・もしかしたら犯人はエルジェベット バートリかも知れません。」
 「エルジェベット・・・?」
 翼は小首をかしげた。
 確かに“バートリ”の名に聞き覚えはあった。
 「エリザベート バートリ・・の方が一般的かも知れませんね。他にも、色々と読み方があるのですが・・・。」
 「若い女性を殺しては、絞り取った血を浴槽に満たし・・つかっていた・・あの、エリザベート?」
 「そうです。そうする事で自身の美貌が保てると思っていた・・。」
 微かに胸の奥でモヤモヤとしたものが広がる。
 それはだんだんと痛みを持って広がり、胸のムカツキを覚える。
 「美貌なのか、何なのかはわかりません。けれど、被害者達は血液だけを抜き取られている。俺が思うに、犯人は“殺す事”ではなく“血を抜く事”に拘っている気がして・・。」
 「ただ殺害するだけでしたら、血液を抜くなんて面倒な事はしないしな。」
 「死ではなく血・・・。犯人は血によってなにを得ようとしているのでしょうか。」
 暗い沈黙が部屋に充満し、広がる。
 「やはり、エリザベートなのか・・・?」
 「一つの可能性論としては、それなりの力を持っているものと思います。」
 嫌な・・本当に嫌な話だった。
 「明日・・村に発てますか?」
 「大丈夫だ。」
 「それでは明日の朝・・10:00に夢幻館の扉の前に車を用意させます。」
 「分かった。」
 翼は頷くと、その場を後にした。
 

■捜索

 小さな村に着いたのは、まだ昼の出来事だった。
 村の入り口まで送ってくれた夢幻館が手配したと言う運転手は、物知り顔で頭を下げて去って行った。
 「ここです。」
 小さな村からは、言い表せないほどの異様な雰囲気が漂ってきていた。
 それは・・瞳を閉じなくても分かるほどにはっきりとした濃さで翼を包み込む。
 「この村自体が、あちらに侵食されようとしていますね・・。」
 「そうだな・・。」
 「本日泊まるのは、この旅館です。」
 律が、この村にしてはそれなりに大きな建物の前で立ち止まり、翼を振り返った。
 木の看板には『宴純(えんじゅん)旅館』と書かれている。
 「まぁまぁ、ようこそお着きになりまして。」
 中から1人の女性がつつと走り出し、律と翼に頭を下げる。
 「どうも・・。この度は警察署より要請を受けて参りました、特殊捜査班の京谷 律と申します。」
 「あらあら、これほどまでお若いとは・・それで、こちらは・・?」
 「あっと・・。」
 「律さんのお手伝いをさせて頂きます、蒼王 翼と申します。」
 翼は僅かに微笑むと、頭を下げた。
 「まぁまぁ。ご丁寧に・・。私は宴純旅館のオーナーの鱈木 悦子(たらき えつこ)と申します。」
 40代も半ばになろうかと言う年頃の悦子は、人の良さそうな微笑で会釈をすると2人を旅館の中へと案内した。
 そして・・旅館の扉を開けた瞬間、凄まじい禍々しさの雰囲気が2人に襲い掛かった。
 「これは・・。」
 「ここは、あちら側の世界となにかしらの関わりがある所です・・。」
 「Borderなのか?」
 「いえ、Borderにしては世界がまとまっていません。ここにはきっと・・・・」
 「どうしたんです?」
 中々入って来ない翼と律を、悦子が眉根を寄せて見つめる。
 2人はふっと視線を合わせた後で、何事もなかったかのように旅館へと入って行った・・・。


 それなりに広い部屋に、2人は案内された。
 荷物を部屋の端へと置き、窓からの風景にしばし目を留める。
 「・・先ほどは、合わせて頂いて有難う御座いました。」
 「何がだ?」
 「特殊捜査班の事ですよ。すっかり失念してしまって・・言っていなかったじゃないですか。」
 「あぁ、別にそんな事はどうでも良い。それより、僕が聞きたいのはこの場所の事だよ。」
 「ここ・・ですか?」
 「この雰囲気は何?あちら側の世界との関わりって言っていたけれど・・?」
 「この旅館に出入りする人の中に、犯人がいるんですよ。それも、頻繁に出入りをする人・・。」
 「つまり、ここの従業員の中に犯人がいると?その、根拠はなに?」
 「この雰囲気は、Borderで隔てられたあちら側の世界が近くにあるからではありません。先ほども言った通り、世界がまとまっていません。」
 それは翼も感じていた。
 純粋な雰囲気ではなく、なにかが混じりあい、絡み合っている雰囲気・・。
 「あちら側の人・・それも、人にあらざる者ではなく、人を脱したものの場合ですが・・その人達は、隠す事の出来ないあちら側の雰囲気を引き連れます。」
 「詳しく説明してくれるか?」
 「人にあらざるものの場合、人でないと言う自覚からか、本能的にあちら側の世界の空気を消す事が出来ます。きっと自衛本能のためなのでしょうが、しかし人を脱した者の場合・・あちら側の空気を消すことが出来ず、引きずったままこちらの世界に現れます。」
 「そうする事でこちら側とあちらが側の空気が混じりあう場所が出来るって事か?」
 「そうです。その人が通った場所に、道筋に、あちら側の空気は残ります。あちら側の世界の消滅まで・・・。」
 「あちら側の世界の消滅・・?」
 「世界は日々構築され、日々崩れて行きます。こちら側の世界は大きな基礎の世界ですので、1つのまとまりとして存在しています。けれどあちら側の世界は言わば突然発生した産物に過ぎません。特に、人を脱したものが作り上げた世界は・・・。」
 この世界に無数に存在する、あちら側の世界。それを数を同じくして存在する、Border。
 「まぁ、普通の人には感じる事すら叶いませんからね。あちら側の世界も、Borderも・・。」
 だからこちら側の世界は一見すると平和なのだ。
 世界が一つしかないから・・・。
 世界が一つしかないと思い込んでいるから・・。
 「それにしても・・ここの従業員とは・・。」
 「先ほど、鱈木さんに頼んで従業員を紹介してもらう事にしました。その・・事件の証言を取るため、と言う目的なのですが・・。」
 「協力しよう。」
 翼はそう言うと、バッグから小型のカメラを取り出した。
 ムービーも撮れるという優れものだ。
 「どうせなら、事件の証言を撮っておいた方が良いだろう?」
 「ありがとうございます。」
 ふわっと、花のように微笑む律は、それでも雪のように可憐だった。


 しばらくして、悦子が部屋に連れてきたのは4人だった。
 ルームの瀬名 京子(せな きょうこ)21歳、同じくルームの千明 睦子(ちぎら むつこ)25歳、調理の田島 一樹(たじま かずき)29歳、案内の鱈木 弘人(たらき ひろと)48歳。
 皆一様に、あちら側の空気を引き連れている。その濃度は、濃い。
 濃すぎて誰が誰なのか、特定がつかない・・。
 「それではまず、瀬名さんから。」
 律はそう言い、悦子に合図をする。
 悦子が京子以外の3人を外へと連れ出す。
 「えーっと、事件があった日、なにか覚えている事、感じた事、不審な事、何かありましたら教えてください。」
 京子が僅かに空中を眺める。
 「1番最初の事件が起こる少し前くらいからかな?なんか、一樹さんの様子がおかしかったのよね〜。」
 「・・様子がおかしかった?」
 翼が一瞬だけ律と視線を交わす。
 「なんかぁ、この村がどっかの町と合併する・・みたいな話が持ち上がったんだけど・・。一樹さんだけが猛反対でさぁ・・。もちろん、あたしも合併なんてイヤよ〜?だけど、一樹さんにはあたし以上にこの村に思い入れがあるからさ・・。」
 「思い入れ?」
 「そ。亡くなった妹さんがね、この村の名前が大好きだったんですって。ほら、合併しちゃうと名前が変わっちゃうじゃない。あたしは最初聞いた時、それだけ?って思ったんだけど、一樹さんにとっては妹さんがたった一人の家族だったみたいでさぁ。あそこ、両親とも早くに亡くされてるそうで。」
 「それで、それとこの事件とに何の関係が?」
 「合併は、反対の人が多くって結局止めになっちゃったんだけど・・。3番目の被害者の、大円さんっておじさんがね、その・・大企業の社長さんなのよ。うちの村きってのお金持ちで・・。その人がほとんど強引に村を合併しようとしていたのよ。合併の取りやめは会議で決まったのに・・。」
 「それで?」
 「今回被害にあった人達って、みんな大円さん側だったのよ。つまり、合併強硬派?お金の力でどうにかしようとしてたみたい。」
 確かに・・彼には守るべきものがある。
 「様子がおかしかったと言うのは、どのようにですか?」
 「一樹さんって、滅多に怒ったりしない人なんだけどね、1番最初の被害者が出た時の夜かな?誰かと口論をしているのを聞いたのよ。すっごい剣幕でね。」
 「誰と電話をしていたか・・分かりますか?」
 「う〜ん・・“お前”って言っていたから、それなりに親しい人だとは思うけど・・。相手はわからなかったわ」
 「そうですか、有難う御座いました。もし、何か思い出した事がありましたら・・・」
 「は〜い、なんかあったらまた来るね〜。」
 京子はにっこりと微笑んでひらひらと手を振ると、部屋を出て行った。
 次に呼ばれたのは睦子だった。
 しっとりとした大人の雰囲気をかもし出す睦子だったが、どこかねっとりとした雰囲気を感じる。
 「そうねぇ・・。京子なんてどう?あの子、大円さんに相当の借金があったらしいから・・。」
 「借金ですか・・?」
 「そうよ。しかも、かなりの額・・ね。なんでも、両親が一緒に倒れちゃったらしくて入院費が馬鹿にならないんですって。まぁ、こんなことくらいしか知らないけど・・。」
 「大円さん以外の、他の被害者達との繋がりは分かりますか?」
 「つながりも何も、あの被害者達はどうしてか、大円の側近みたいなやつらばかりじゃない。取り巻き・・って所かしら。私が知っているのはこんな事くらいよ。」
 「分かりました。ご協力感謝します。それと・・もしまた何か思い出した事がありましたら・・」
 「えぇ。それじゃぁ、なにかあったら・・・。」
 睦子はふっと息を吐き出すと、しっとりとした物腰でその場を後にした。
 次に現れたのは、一樹だった。
 「そうだなぁ・・・。鱈木さんとこなんてどうだ?」
 「鱈木さんですか・・?」
 「最近ここいらに大円の旅館が出来ちまって、随分客を持ってかれたってぼやいてたぜ。それこそ、家計は火の車だってな。この旅館ももうじきやばいんじゃないかって思いかけたときにあの事件だよ。本当、タイミング良いよな。」
 一樹はそう言うと、ゆったりと微笑んだ。
 「その他に何かありますか?」
 「いや、別に・・。まぁ、言っちまえば大円はここいらで好かれてなかったよな〜って事だけは言っておくかな。」
 「好かれていなかった・・?」
 「まぁ、あの性格だしな〜。んじゃ、またなんかあったら教えるわ。」
 一樹はそう言うとヒラヒラと手を振って出て行ってしまった。
 最後に2人の前にやってきたのは、悦子と弘人だった。
 この2人は夫婦でこの旅館に寝泊りしている。
 「犯人ねぇ・・。あぁ、これは関係ない事なのかもしれないけど、最近睦子ちゃん、病院に通っているみたいなのよね。それも毎週のように・・。」
 「しかし、私達が聞いてもただ、なんともないとだけ言うんですよ・・。」
 「それは何時頃からですか?」
 「そうねぇ・・。事件が起きる2週間くらい前からかしら・・・?」
 「少し体調が悪いから病院に行って来ますって言って、帰ってきたときには真っ青な顔でね・・。」
 「風邪ですとは言っていたけれど、どうも私はそれだけじゃない気がして・・・。」
 「と、良いますと?」
 「彼女の両親とも、知っているんだけど、どっちも短命だったのよ〜。奥さんの方なんて睦子ちゃんを生んですぐに亡くなってね〜。本当、可哀想だったわ〜。」
 「千明さんが通院していた病院、分かりますか?」
 「分かるも何も、この村には大きな病院が一つだけじゃない。」
 悦子はケタケタと笑うと、窓の外に見える1つの建物を指差した。
 ・・大きな病院というより、小さな診療所だ。
 「第2の被害者が発見された日かしら?朝、睦子ちゃんが出勤してきた時、足から血が出てたのよ。それも結構な量の。だから、大慌てで治療しようとしたんだけど・・。」
 「どうしたんです?」
 「どうもね、睦子ちゃんの血じゃなかったみたいなのよ・・・。その、傷口が見つからなくて・・。」
 「だから、私達はその病気に何か関係があるのではと思って・・・。」
 2人はそう言って目を合わせると、困ったように律のほうを見た。
 「わかりました。そちらもあわせて調査してみます。」
 「ありがとうございます!ちょっと、私達じゃ、聞きにくいものがあって・・・。」
 「本当によろしくお願いいたします。」
 「それでは事件の早期解決に、全力を尽くします。」
 「えぇ、それでは今晩の夕食は7時ですので、7時になりましたらこちらにお運びしますね。」
 悦子がそう言って、腕につけている細い時計を見つめた。
 時刻は5時過ぎ・・・。
 外は既に赤く染まっていた。


□確定

 「・・・やっぱり、そうみたいだ。風達もそう言っている・・・。」
 夕食をとり終わり、窓を開けて外を眺めていた翼が・・おもむろに律にそう切り出した。
 「そうですか。やはり・・・。それでは、もう診療所に足を運ぶまでもありませんね。」
 「そうだな。・・後はBorderを探すだけ・・か。それも風達に聞いてみるけど、どうも不確定なんだよ。」
 「こちらの世界の風は、こちらの世界の出来事なら何でも知っています。それは方向が同だからです。けれど、あちら側になると風は方向を異にします。方向性が違う物事は、察する事は出来ても知る事は出来ません。」
 「・・そうか。でも、裏の林が怪しいと言っている。」
 「それは察しているのですよ、風が逆から吹く方向を・・・。決して行けはしない先を・・・。」
 ふっと、翼は微笑んだ。
 「ありがとう。」
 それは律に向けられた言葉ではなく、風達に向けた言葉だった。
 そしてそれは律も知っていた・・・。だから、何も言わなかった。
 パタリと窓を閉じ、冷たい硝子に手をつく。
 「翼ちゃんは林は嫌い?」
 「・・・どうしてそんな事をきく?」
 急にニコニコとした笑顔を見せる律に、翼は眉根を寄せた。
 それにしても“ちゃん”とは・・1つしか違わないのに随分な子ども扱いだ。
 「俺はね、嫌いだからだよ。木々が生い茂っている所が・・・。」
 「そうなのか。別に僕は嫌いじゃない。」
 「そっか・・。良いね・・・。」
 ふっと、零れるように微笑を覗かせた律に、翼はある一種の感情を見た。
 それは・・・哀しさ・・・?
 「それじゃぁ、今日は早めに寝て、明日の朝早くにBorderを探しましょう。」
 先ほどまでの表情は何処吹く風で、律はキリっとした顔になると、それまでと同じ口調で話し始めた。
 「あ・・あぁ・・。」
 きっと律には仕事用とプライベートの2つの表情があるのだろう。
 翼はそう思うと、特に深く突っ込まずに会話を終わらせた。


■Border

 裏の林・・と言うよりは、裏山と言った所だった。
 鬱蒼と生い茂る木々は空を狭め、足場はそれほど良いとは言えなかったが、悪いと言うほどでもなかった。
 翼は瞳を閉じた。
 確かに強まりつつあるあちら側の気配に、思わず気が引き締まる。
 「あっ・・。」
 背後で小さな声がして、何か重たいものが落ちる音がした。
 「どうした?」
 地べたに力なく膝を突く律。その顔は、青白い・・・。
 「・・・その、ちょっと・・クラっとしてしまって・・。」
 ヘラリと微笑む顔に、力は見られない。
 立ち上がろうとして、再びクラリと力なくその場に崩れ落ちる。
 「・・疲れたのか・・?」
 「いえ・・その・・・。」
 モゴモゴと、口ごもる律に、翼はピンとある事を感じた。
 律の正体は・・なんであるかは分かっていた。それこそ、逢った時から。
 けれど別段口に出して言う事ではないので、黙っていたのだが・・。
 「・・っあっ・・。」
 律が顔をしかめ、グラリと上半身から力を抜く。
 翼はそれをそっと抱きとめると、きゅっと指の先を噛み、血をにじませた。
 極力力を抑えて・・律の薄く開いた唇に指を押し当てる。
 つーっと血が律の唇の中に落ち、またつーっと血が指を伝う。
 「・・ん・・っあっ・・・。」
 しばらくしてから、律が薄く瞳を開いた。
 「大丈夫か?」
 律が上半身を起こし、ぼうっとした瞳を翼に向け、そして指先に注がれる・・・。
 「っあっ・・・ごめんなさいっ・・・。俺、その・・・ごめんなさい・・ごめんなさいっ・・・!!」
 「こんなことくらいどうでも良い。それより、身体は大丈夫か?」
 一応力を抑えていたとは言え、完全に安心できたわけではなかった。
 「あ、大丈夫です・・・っごめんなさいっ・・・。」
 今にも泣き出しそうになりながら謝る律に、翼は小さくため息をつくと言った。
 「謝るくらいなら、早くBorderを探してくれ。謝られても、僕はどうして良いのか分からない。」
 「あっ・・ごめんなさいっ・・。」
 翼は思わず苦笑してしまった。
 謝るなと言えば、謝ってしまう・・なんだか少し矛盾した、けれどどこか理解できる、律の性格に・・。
 「先を急ごう。」
 「はい。」
 律が問題なく立ち上がり、翼と共に先を急ぐ。
 あちら側の気配の強い方へと、どんどんと進み・・・急に視界が開けた。
 視界が開けたと言っても、別に木々がなくなったわけではない。
 空気が強い方向性を持って、ばらばらの方角から一つの方向へと向かっているのだ。
 混じりあった方向性ではなく・・強く、揺ぎ無い力だった。
 「ここが・・・Borderです。」
 律が目の前の空間を指差す。
 そして・・何かの線に沿って、すーっと宙を滑らせる。
 あの、夢幻館で行った時と同じ、世界の狭間の空間。それは確かに巨大な力を持ってそこに存在していた。
 「・・・行きましょう。」
 「あぁ。」
 最初に律がそこを通り、次に翼が通る。
 一瞬だけ感じる、言葉に言い表せないくらいの不安感。
 体がバラバラになってしまいそうなほど、無の空間・・・それはほんの刹那の出来事だった。
 Borderと言う、境界の空間を抜ける間の出来事だった。
 そして抜けたそこ・・体中に纏わりつく、あちら側の世界。
 「それでは、行きましょう。」
 「あぁ。」
 翼と律は、真っ直ぐに濃い気配の方へと進んだ。


■人から脱した者
 
 暗く暗鬱な雰囲気、身体に纏わりつく重い影。
 ねっとりとした濃厚な気配が、1歩1歩と踏みしめる度に翼に襲い掛かる。
 胸が苦しいような、息をするのが困難な状態だ。
 「・・っはぁ・・っはぁ・・。」
 それは隣を歩く律も同じらしく、額からは汗が一筋滑り落ちる。
 この涼しい・・いや、寒い気温の中で垂れる汗は、発汗作用に従ってのものとは違っていた。
 禍々しい空気は、一定の規則性を持ってある方向へと引っ張られていた。
 ・・ザっと、木々が分かれた。
 空が四角く切り取られた場所・・・。
 そこに、人から脱した者は座っていた。
 長い髪を風になびかせ、ただ、空を見上げて。
 「・・見つけましたよ。」
 苦しそうな律の声が辺りに響く。
 黒い瞳がこちらを見、そして・・満面の笑みで2人に言葉を投げかけた。
 「いらっしゃい。」
 「千明・・睦子さん。」
 律の呼びかけに、睦子はただ微笑んで頷いた。
 「えぇ。そうよ。」
 サァっと風が吹く。それは、先ほどまでとは方向を別としていた。
 2人の背から吹く追い風ではなく、2人に吹く向かい風。
 強烈な血の匂いが全身にこびりつく。
 しかし、地面に血の跡はない。
 「どうして私だと分かったの?人にあらざる者の女の子に・・吸血鬼と鬼の怪奇探偵さん。」
 睦子が不敵な微笑を口元にたたえながらそう言った時、翼の隣で律が膝を折った。
 「どうした・・!?」
 翼は律の顔を見た瞬間に事の重大さに気がついた。
 全身を震わせ、どこか1点を見つめている律。
 顔は蒼白になり、小さく悲鳴を上げながら何かを呟いている。
 「・・けて・・やめて、来ないでっ・・ごめんなさいっ・・。ごめんなさいっ!ごめんなさい・・ごめんなさい・・・」
 繰り返される謝罪の言葉は、誰に述べられているのかは分からなかった。
 心拍数が以上に増加し、呼吸も荒く小さくなる。
 何かのショック状態に陥っている律に、翼は唇を噛んだ。
 律には確かに“何か”が見えているのだ・・・。このまま放っておけば、その“何か”によってどこかに引きずり込まれてしまうかも知れない・・。
 事態は一刻を争うものだった。
 翼は律の肩を掴むと、しっかりと瞳を見た。
 「しっかりしろ。それは全て幻だ。飲まれるな、きちんと自我を持て・・。」
 焦点の合わない律の瞳が、徐々に徐々に翼に合って来る。そして、それと時を同じくして震えも弱まってくる・・・。
 「あ・・翼・・ちゃん・・・?」
 カチリと翼の真上で焦点が合った律は、そう呟くと意識を手放した。
 ぐったりとその場に崩れ落ちる。
 きっと精神的に疲れたのだろう・・。そう思ったその時、背後から走ってきた睦子が物凄い力で翼から律を奪った。
 それはとても女性が出せる力ではなかった。
 いくら華奢で軽そうな律でも、女性が小脇に抱えられるはずがない・・・。
 「貴方は、分からないでしょうね。死んで行く悲しみなんて。」
 「なにを・・。」
 「私ね、不治の病に侵されているの。後半年の命って医者に言われたわ。けど・・私はまだ25よ!?やりたい事の半分もやっていない!夢だって、まだ叶えてない!」
 「だから、人を殺したのか?」
 「・・血には延命の効果があるって、聞いたのよ。あのエリザベートも、死の間際まで美しかったと書いてあったわ!多少の犠牲は必要だったのよ!」
 翼は僅かに眉をひそめた。
 それは、同情の念からだった。彼女を酷いと罵る前に、可哀想だと心から思った。
 自己のために犠牲を省みない彼女。それは・・あまりに身勝手な我侭だった。
 「貴方が丁度立っているその真下に、ヴラドが眠っているのよ。その真上に来た人々は、さながらトルコ兵ね。」
 つまり、この下に何かしらの物が埋まっているのだ。
 おそらくは・・巨大な杭かなにかが・・・。
 「私がこのボタンを押せば、そこが開く仕組みなの。なかなかハイテクでしょう?ここに来た人達は皆その中に落ちて、私のために命を捧げてくれたわ。」
 捧げたのではない。奪われたのだ。彼女によって・・・。
 「僕を落とすのか?」
 「えぇ。いずれは・・ね。けれどその前に・・・」
 睦子は小脇に抱えた律を見やった。
 「こっちの怪奇探偵君の方を先に・・・。・・ふふ。」
 「やめろっ!!」
 妖しく微笑んだ睦子の、手元で何かが光った。
 銀色にぬめりと輝く・・小さなナイフだった。
 小さいとは言っても、それで胸を一突きすれば心臓まで届くくらいの長さはある。
 「儚くて、今にも消えてしまいそうな男の子。折角こんなに綺麗なんだから、今すぐに、終わらせてあげるわ。混血は、肌のためにも良いし。」
 振り上げるナイフ。翼はすっとしゃがみ込むと、地面に落ちている少し大きめの石を投げつけた。
 「きゃっ!?」
 短い悲鳴の後で、落ちるナイフは微かに律の腕を傷つけた。
 けれどそれはほんの一筋赤い線が入っただけで、命に関わるようなものではなかった。
 直ぐに次の行動に移ろうとした翼の、足元が急に冷たくなった。
 足元で1陣の風が吹く・・・。
 睦子が勝者の微笑を浮かべる。・・しまった・・!
 咄嗟に出した手を、何者かが掴み、引っ張り上げる。
 「奏都・・さん・・?」
 夢幻館で会った、あの男性だった。
 手には小さなナイフが握られ、その刃先はしっかりと睦子の心臓に向けられている。
 少しでも睦子が動いたならば容赦なく飛んで行きそうだ・・。
 「あぁ、やはり律君は気絶してしまったのですね。直ぐに後から警察が来ます。諦めてください、睦子さん。」
 「警察・・!?そんな所に入ってしまったら、私は・・」
 奏都が薄い微笑を浮かべながら、睦子の足元でぐったりと眠る律の身体を抱き起こす。
 「あぁ、不用意に動かないでくださいね。今、ちょっと調子が悪くて・・手加減が出来る常態ではないので。」
 「くっ・・。貴方達のせいよ!私の人生・・台無しだわ!」
 「けれど、被害者達の生涯を無理やり閉じたのはキミだよ。それ相応の償いは受けるべきだ。」
 翼は冷たくそう言うと、睦子を一瞥した。
 「さて、それでは俺達は引き上げるとしましょうか。ここには特殊な結界を張るましたから、彼女はここから出られません。後は警察に任せましょう。」
 「・・そうか。」
 翼は小さく頷いた。
 地面の下から香る、血の匂い。
 それは全身にべったりと纏わりつき、絡みつく。
 息苦しいほどの重さを持って・・・。
 “痛いよ、悲しいよ、怖いよ、寒いよ、寂しいよ・・・”
 聞こえてくる死者達の念は、確かな力を持って翼の腕に、足に、背に、纏わりつく。
 そっと、心の中で彼らに祈りを捧げた後で、翼はBorderを通り、こちら側の世界へと帰ってきた。


 「あぁ、そうです。睦子さん。貴方は一応大本は人なので分からないかも知れませんが、ここは被害者達の念で満たされているんですよ。可哀想ですから、俺の力を少しわけてあげましょう。なに、ほんの少しです。小指の爪ほどにも満たないくらいですよ。・・ほら、段々と聞こえるでしょう?見えるでしょう?被害者達の姿が、声が・・。」
 律を抱きかかえたまま、奏都は冷酷に微笑むと、睦子に頭を下げた。
 睦子の表情がどんどん青くなり、ついには真っ白になる。
 カタカタと震える肩、何かを言っている唇。そして、1点を見つめたまま、力なく頭を振る。
 「いや、来ないで・・。お願い、許して・・。」
 「許して・・とは、随分な物言いですね。彼らだってそう願った。けれど、それを許さなかったのは貴方でしょう?さぁ、楽しんでください。警察が来るほんのひと時の間だけでも、彼らとの対話を・・ね。」
 そう言い残すと、奏都は翼の後を追った。


 奏都と律がBorderから出てきて直ぐに、あちら側の世界から悲鳴が上がった。
 それは確かに睦子の声だった。
 「何かあったのか・・!?」
 「そうですねぇ・・。あの場所に残った、死者達の念にでもあてられたんでしょう?ほら、警察が来ましたよ。」
 赤いライトが小さな村を照らす。
 チカチカと回るライトは木々に反射し、まるで巨大な手が手招きしているようにさえ見える。
 こちらにおいでと・・・。


□終幕の時

 後日、新聞には一面にあの事件の事が取り上げられた。
 千明 睦子は逮捕され、判決が下る前にこの世を後にした。
 「彼女はあちら側の世界の住人になりましたよ。」
 「え・・・?」
 夢幻館に呼ばれた翼は、出された紅茶の香りを楽しんでいた。
 高級感漂う香りが翼の鼻をくすぐる。
 「どこかに彼女の異界が発生したんです。それは俺にもわからないんですが・・。」
 律はそう言ったきり、押し黙ってしまった。
 そして、翼もその件については詮索をしない事に決めた。
 もしも彼女が異界で力をつけ、こちら側に侵食してこようとしたら、きっと分かる・・。
 「それでは今回の報酬なんですが、これくらいでどうでしょうか?あまり多いとは言えないので申し訳ないのですが・・。」
 渡された小切手に並ぶ、ゼロゼロゼロ・・・3・・。
 普段の報酬の3倍近い値段に、思わず驚いてしまった。
 「今回は、どうも有難う御座いました。その・・俺が迷惑をかけちゃったみたいで・・。」
 「いや・・。」
 「もしまた機会がありましたら、ご一緒しましょう。」
 「そうだな。」
 翼は穏やかに微笑むと、カップを置いた。
 「・・翼ちゃんは、彼女があちら側の世界に引き込まれた要因は何だと思いますか?」
 「自分の命の期限を知っての事じゃなかったのか?」
 「それも、一つです。けれど・・彼女を引き込んだのはヴァンパイアですよ。」
 「それはどう言う事だ?」
 ヴァンパイアの一言に、翼はすっと気を引き締めた。
 「可笑しいと思っていたんです。幾ら腹部を貫こうとも、被害者達の血液がこれほどまでなくなるはずがないと・・。翼ちゃんは覚えていますか?被害者達の首筋についていた2つの穴を。」
 「あぁ・・・もしかして、それが・・?」
 「吸血鬼ですよ。確かにあの村に存在し、遺体を発見された場所へと移した・・・。ヴァンパイアです。」
 律が机の上から数枚の紙を翼へと渡した。
 なにか良く分からない記号のようなものが並び、最後に赤い文字で“合致”と言う判が押されている。
 「これはなんだ?」
 「被害者達の首筋から、微量な唾液が検出されたんです。被害者達の血と混じり合った・・・。その唾液は、確かに吸血鬼の規則性を含んでいました。」
 「吸血鬼の規則性・・?」
 「物事の根本的なところです。俺も詳しくは知らないのですが・・・。DNAのようなものだと、俺は思ってます。」
 「それで?」
 「千明さんは、遺体を移動した覚えはないと証言していました。そして警察の方も、女性一人で遺体を動かすのは無理だと言っています。だから、共犯者がいるのではないかと・・・。」
 律がそっと窓を開けた。
 まだ少しだけ冷たい空気が、部屋の中に一つの方向性を持って入ってくる。
 「発見現場の周囲には、誰も近づいた後がなかった。そして、これは非公式ですが・・千明さんは共犯者についてこう証言しているんですよ。」

 『ドラキュラよりも現実に近い、ドラクルだと・・・。』

 ドラクル・・それは、あのヴラドの父で悪魔公と呼ばれていた人物・・。
 ドクンと、翼の胸がなった。
 ドラクル・・吸血鬼、ドラクル。その名を、嫌でも知っていた・・・。
 「確かに、彼女は間違った証言はしていません。ドラクルと言う愛称で呼ばれるヴァンパイヤを、俺は知っていますから・・。」
 律の言葉を受け、自分も知っていると言う事はあえて言わなかった。
 「と言う事は、今回の事件は・・ドラクルと千明睦子が起こした事になるのか?」
 「えぇ。もしかしたら、ドラクルが千明さんを魅了したのかも知れません。あちら側の世界へと・・。」
 「心の割れ目から・・か・・。」
 その割れ目から入り込む甘い誘惑は、じんとした痛みと温かさを持って沁みこんで行く。
 決してその力に購えなくなるまで・・・。
 「これで、遺体の発見現場に足跡がなかったのも納得が行きます。彼は空ですらも、自由に歩ける。」
 高く晴れ渡る空に、鳥達が舞い遊ぶ。
 自由に、何の障害もなく・・・。
 「確かに、それなら全てに納得が行く・・な・・。」
 翼はそう言うと、薫り高い紅茶を飲み干した。


      〈END〉

 
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 ■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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 【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


  2863/蒼王 翼/女性/16歳/F1レーサー 闇の皇女


  NPC/京谷 律/男性/17歳/神聖都学園の学生&怪奇探偵
  NPC/沖坂 奏都/男性/23歳/夢幻館の支配人

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 ■         ライター通信          ■
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  この度は『【---Border---】〜ファイル1、甘美な紅〜』にご参加いただきまして有難う御座いました。
  作中、犯人が「エリザベートも、死の間際まで美しかった」と言っていますが・・実際には違います。
  1611年、貴族裁判でエリザベートは終身禁錮刑になりました。本来なら死刑のはずでしょうが、エリザベートは王室と血縁関係のある貴族でしたので・・。
  エリザベートはチェイテ城の一室に幽閉され、1614年8月21日に享年54歳で死去しました。
  その身体は痩せ細り、かつての美貌(エリザベートは若い頃は美女でした)は見る影もなくなっていたと言います。
  もう1人、ヴラド ツェペシュは、1476年にブカレスト近郊でオスマン・トルコと戦って戦死したと言います。
  甘美な紅を執筆するにあたって、エリザベートとヴラドをかなり調べたのですが・・。
  色々と恐ろしいことが書いてありました・・・。その恐ろしさのほんの一欠けらでも作中に盛り込めていればと思います。

   それでは、またどこかでお逢いいたしました時はよろしくお願いいたします。