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螺旋にて 〜はざまに満ちる〜
もう使うこともないと思ったまましまい込んでいた鍋や皿は、２日前のゴミの日に思い切って全部出してしまっていた。いまはカウンターの内側と、食器棚にいくつか残っているのみである。
昼間、きれいに雑巾がけをしたあとで、カウンター席以外の席には照明が当たらないようにしてしていた。その方が、なんとなくしっくりくるんじゃないかと考えたからだった。
「……週末まで居座ると、せっかくの決心が鈍っちまうから……ね」
暗やみに向けて、店内ひとり佇む女――――伊杣那霧がポツリと呟く。いざ店を畳もうと決心してから、どれだけの日にちが過ぎてしまっただろうかと考える。
ある日突然、綺麗さっぱり。
そんな潔い店じまいに憧れを抱いてはいたものの、毎日ちらほらと現れるそれぞれの常連客の顔を見ると、後ろ髪を引かれるような思いのままずるずると何週間も過ぎていった。
今日を、本当の最後にしよう。昼ごろ目覚めたときに、那霧はそう決心して店にやってきたのだった。
外が暗くなり始めるのを待って、ゆっくりと暖簾を出した。暖簾が雨や風に濡れて、この町の風景に馴染むまでは続けていこうと思って開いた店だった。いまだ真新しさを残す暖簾の紺色を見つめ、いまだ自分の心に未練がたっぷりと残っていることを知って那霧は小さく苦笑した。
時は、少しずつ流れていく。
町の色や人の姿も移り行き、太陽と月だけが交互に昇り沈みを繰り返していき、いつかは皆、静かに土に還っていく。
店内に引き戻り、結わえあげた髪を指先で正しながら、鍋の中身を確認した。
牛蒡と鰯の旨煮を、１番大きな鍋に一杯。
今日という日に現れた客に、厭が応無しに持ち帰らせるつもりで作ったものだった。
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「こんばんわ、安酒を飲みに来たよ」
店内に足を踏み込み、開口一番でそう曰う客を、那霧はただひとりしか知らない。
過去にただ一度だけ、ふらりと現れた女。
「久しぶりに来たと思ったら、いきなりそれかい。待っといで、とびきり安い酒をなみなみと次いでやるから」
憎まれ口をたたく女将の口調は、それでも楽しそうである。前掛けを正し、いそいそとカウンターの中で酒の仕度をする那霧を見留めながら、女――――大徳寺華子は木造りの椅子に腰を下ろした。
「辛くてさっぱりしたやつを、冷でお願い」
「安酒にケチつけないでおくれな」
那霧は苦笑し、華子の前にグラスを置く。少し考えてから、通しには旨煮を作るときに余らした鰯の刺し身を出してやった。
「さすが女将だ。的を得てる」
華子は薄い口唇を嬉しげに笑ませ、出された鰯の刺し身をつつく。
「モノの味って、味わったときの情景や感情も含めて記憶に残るもんじゃァないかい？ いま、バーに勤めててさ……金が無いわけじゃあ無いんだけど、ね」
いつぞや顔を出したときよりも、ずっと店内の照明が抑えられている。が、華子はそれの理由を那霧に問うことはしなかった。
気付かぬだけかもしれぬ。
頓着せぬだけかも、しれぬ。
どちらにしろ、いまこの瞬間――――そこにいるふたりの女が心地よいと感じさえすれば、それで良いのだ。
「安かろう悪かろう、なんて私は考えないね。高くても不味いモンはたくさんあるし、安くても美味いモンはたくさんある。そういうモノの価値を、判るヤツと判らないヤツがいて――――それで世界は、なんとか上手に回ってるってモンさ」
彼女の言葉は真理である、と那霧は思う。この、年不相応に落ち着き払い、年不相応に物を知る珍妙な客のことが、那霧は決して嫌いではなかった。
「そういうことを口に出したがるときってのは、だいたい、『モノの価値を判らないヤツ』と接してることが多いときなんだよ」
「相変わらず鋭いねェ。溜まってるように見えるかい？」
「飲みっぷりで、判る」
鰯尽くしでは飽きも来るだろうと、小鉢に少しの旨煮と共に冷奴を差しだした。相変わらずよく食べ物を出す店だと華子が笑うと、那霧もつられて破顔する。
「――――楽しいことも、哀しいことも引っくるめてサ。時間ってやつは雪みたいにひっそりと積み重なっていくモンじゃないか。……その下で、誰にも知られずに静かに眠っていられたら、どんなにか幸せだろうって思うよ」
「…………」
ポツポツとした小さなその呟きは、何がしかの形を以てちくりと那霧の心を刺した。
――――揺らぐのを、感じる。
対外的には決して見えない、大徳寺華子という女の半生が齎す言葉が、さわさわと心の水面を波立たせるのを那霧は感じていた。
が、やはりそんな思惑は、表情には出さないままである。
「常に前ばっか見て歩いていくなんて、難しいもんさね――――過去を愛おしんで、時間を撫でることでしか自分を確認できないなんて……滑稽だねェ……」
「…………お呑みな。くよくよ悩んでると、女だって老け込むんだよ？」
「…………」
華子が片目を顰めながら苦笑した。
年老い、その年相応の姿になって、うつくしい心の老婆となって果てていく――――そんな時間の流れから弾きだされてしまった自分のことを、眼前の女将が知ったらどんな顔をするだろうと思う。
異端であると恐がるだろうか。
不憫であると、泣く――――だろうか。
□
土産だと、プラスチックケースからはみ出てくるほどの旨煮を持たされた。池袋の空は暗澹と闇に渦巻き、華子の心を安らがせることはない。
「ちょっと酔ったみたいだ――――おいとまするよ」
また――――歌うような声音でそう言い残し、華子はいまだネオンの光がかき消えぬ池袋の街へと消えていった。口許に小さく笑みを浮かべたままで、那霧は小さな溜め息を吐き、ふたたび店の中へと舞い戻っていく。
「また、か。……そうだね」
またいつか、会えれば良い。
東京の空の下で、全ては全てに繋がっている。
それぞれがそれぞれの場所で、強い笑みを絶やさぬままつねに戦いを乗り越えているのだ。
彼女は、彼女の戦いを。
そして那霧は、那霧自身の戦いを。
静かな、池袋の夜である。
客人がいなくなったことでことさらに閑散とした暗い店内にひとり、那霧はカウンターに頬杖を突く。
（了）
■□■今までのご愛顧、本当にありがとうございました。 森田桃子■□■
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