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螺旋にて 〜桜の咲く季節に〜
もう使うこともないと思ったまましまい込んでいた鍋や皿は、２日前のゴミの日に思い切って全部出してしまっていた。いまはカウンターの内側と、食器棚にいくつか残っているのみである。
昼間、きれいに雑巾がけをしたあとで、カウンター席以外の席には照明が当たらないようにしてしていた。その方が、なんとなくしっくりくるんじゃないかと考えたからだった。
「……週末まで居座ると、せっかくの決心が鈍っちまうから……ね」
暗やみに向けて、店内ひとり佇む女――――伊杣那霧がポツリと呟く。いざ店を畳もうと決心してから、どれだけの日にちが過ぎてしまっただろうかと考える。
ある日突然、綺麗さっぱり。
そんな潔い店じまいに憧れを抱いてはいたものの、毎日ちらほらと現れるそれぞれの常連客の顔を見ると、後ろ髪を引かれるような思いのままずるずると何週間も過ぎていった。
今日を、本当の最後にしよう。昼ごろ目覚めたときに、那霧はそう決心して店にやってきたのだった。
外が暗くなり始めるのを待って、ゆっくりと暖簾を出した。暖簾が雨や風に濡れて、この町の風景に馴染むまでは続けていこうと思って開いた店だった。いまだ真新しさを残す暖簾の紺色を見つめ、いまだ自分の心に未練がたっぷりと残っていることを知って那霧は小さく苦笑した。
時は、少しずつ流れていく。
町の色や人の姿も移り行き、太陽と月だけが交互に昇り沈みを繰り返していき、いつかは皆、静かに土に還っていく。
店内に引き戻り、結わえあげた髪を指先で正しながら、鍋の中身を確認した。
牛蒡と鰯の旨煮を、１番大きな鍋に一杯。
今日という日に現れた客に、厭が応無しに持ち帰らせるつもりで作ったものだった。
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「……それは本当に、ペットなのかい？」
少年――――自称『未成年ではない』少年は、那霧からペット同伴の許可を得ると嬉しそうにカウンター席へ腰をかけた。そして、何やらこきたないビニール袋をかぶせた物体を大切そうに抱え、じっと品書きを眺めて固まっている。
「酒。酒飲みたい、猛烈に。あと、バニク使ったもの以外でお勧めご飯をくれ。ください」
「それはペットかって聞いてるんだよ」
「ぎゃおは俺のペットだって云ってるだろ。俺をペット呼ばわりするな」
「五月蝿い子だね。そんなのしてないじゃないか」
もともと、酒を飲ませるのに成年未成年問わぬ女である。所望されて酒を出すことに躊躇はなかったが、なんだかどうしても少年の抱いているビニール袋が気になってしまう。
「……俺、未成年じゃないんだからな」
「わかったよ、これでも呑んで大人しくしてな。あと、うちでは桜肉は扱ってないから平気。あんた、他に好き嫌いはないのかい？」
「俺はあんたって云う名前じゃない。今は新座ってんだ」
「はいはい、わかったわかった」
少年――――新座クレイボーンは、那霧から日本酒の注がれたグラスを受け取り、その中身をゴクゴクと息もつかずに飲み干してしまう。通しの仕度をしながらも、その飲みっぷりに那霧は呆気に取られ手が止まった。
「……もう一杯、行くかい？」
「ウン」
腹を減らした若い男女が、ことの他の気に入りである。
客の土産にと作り置きしておいた旨煮を筆頭に、アスパラガスのマヨネーズ和え、冷奴、ちらし寿司とサラミチーズ。
「サラミは牛と豚の肉だけらしいから、安心してお上がり。羊とか桜肉を混ぜた場合はドライソーセージって呼ぶらしいよ」
「マジか。女将、見た目によらず頭いいんだな」
「憎たらしい口を利くガキすけには、ちらし寿司を増量だよ」
不器用に箸を使う新座の眼前で、半分ほど食べ進めた茶碗に飯が足された。おお、と小さく感嘆の声を吐くと、がつがつと新座は息もつかずに飯をかき込んでいく。
「……なあ、なんでバニクって、桜肉って云うんだか知ってるか」
頬に付着した飯粒を那霧に抓まれながら、新座はポツリと呟いた。
「桜色をしてて、美しいからだろう？」
「……あのな、競馬の、新馬戦ってあるだろ。新しく馬を競馬デビューさせるレース」
「あるね。もうすぐ始まるんじゃないのかい？ 一口馬主をやってる常連さんが、今年デビューだってはしゃいでたよ」
「あれな、危ないんだ。それまでレースなんか一度っきりもしたことないヤツが、必死になって走るだろう？ だから、ケガするんだ。転んだりして」
「へぇ」
ひとしきりの食事を出し終えて、那霧はカウンターをはさんで新座と向かいあい、腰を下ろす。今日は営業の意欲がないとでも云わんばかりに、自分用のグラスをなみなみと酒を注いでいた。
「走ってる最中、自分の脚力で足を折るヤツもいるし、転んで足を折るヤツもいる。……足を折っても、走れるヤツもいるよ。でもたいていのヤツは、足を折ったらもうダメだ。その場で殺される。
新馬戦で勝ち上がれないやつも殺されるか、乗馬馬になる。そういう運命が、桜の咲く時期に決まるのが多いから、桜肉って云うんだ」
「…………」
「『お前、死んで来いよ。でも出来るなら、無傷で』――――って、レースのときにいつも言い聞かせられる馬がいてサ。……そいつはまァ、なんて云うか無敵だったから？ 中央だったらＧ１馬になってたかもしれない。地方だったからね、いくら勝ってもアレだったんだけどさ」
そこまで云って、まるで話し疲れてしまったとでも云うように、新座はふたたびごくごくと咽喉を鳴らして酒を呑んだ。那霧の瞳は、じっと新座の額のあたりを見つめている。
「どうせなら、レースの途中で骨折でもして最後にしたかったんだ。――――馬運車の事故なんかで、ケガしたくなかったんだ……って、その馬は多分思ったと、思う」
「――――まるで、自分のことのように話すんだね」
那霧が呟くと、新座は笑って答える。
「もう、ずっと前のことだしな」
□
土産だと、プラスチックケースからはみ出てくるほどの旨煮を持たされた。旨煮という名前のくせにちっとも旨くないとぼやいたら、ぺしりと頭をはたかれた。
「あんたみたいな貧弱な身体をした子は、たんと栄養摂らないと頑丈になれないんだよ！」
「ちくしょうっ。イヤがったって、また来てやるからなっ！」
いー、とあまりに前世紀的な憎まれっ子の仕草で、新座は駆けながら逃げていく。
しっかりと握りしめたビニールの中から、良い匂いをまき散らしながらの逃走であった。
口許に小さく笑みを浮かべたままその後ろ姿を見送り、那霧は小さな溜め息を吐く。
そして、ふたたび店の中へと舞い戻っていった。
「また来てやる、か。……そうだね」
またいつか、会えれば良い。
東京の空の下で、全ては全てに繋がっている。
それぞれがそれぞれの場所で、強い笑みを絶やさぬままつねに戦いを乗り越えているのだ。
彼は、彼の戦いを。
そして那霧は、那霧自身の戦いを。
静かな、池袋の夜である。
客人がいなくなったことでことさらに閑散とした暗い店内にひとり、那霧はカウンターに頬杖を突く。
（了）
■□■今までのご愛顧、本当にありがとうございました。 森田桃子■□■
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