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<東京怪談ノベル(シングル)>


君が笑えば


 その人の最初の印象。
 それはあまりに果敢ないものだった。
 今でも思い出すことがある。
 あの日の夜の姿は手を伸ばしたそれだけで消えてしまうのではないかと思わせる果敢なさと共にあった。
 しんと冷たい月の夜に出逢った。怖いくらいに何もかもが静かな夜だった。太陽のように総てをさらけ出すような無粋な光を放つものとは違う月の慎ましやかな光は総てのものの輪郭を滲ませ、そのなかにあった彼女の輪郭もまた昼の陽光の下にあるその時もよりも随分と淡いものへと変化していた。綺麗だと思った。けれど同時に崩れ行く運命にあるものを見るような気がした。ささやかな風の一吹きでどこか遠く、戻れないような暗い場所へと引きずり込まれて行くのではないかと思った。とても綺麗な人だった。けれどそれは彼女の抱く何かが彼女を綺麗にさせているといったような、痛みをもたらすようなものでもあった。
 天樹火月の記憶に残る彼女はいつもそんな姿だ。どんなに目の前で笑っていたとしても、それが本当なのかどうかわからなくなる。初めて会ったあの日から何度か目にした彼女の笑顔。それはどこかで無理をしているような気配を醸し、常に彼女の面を明るさで飾っているわけではない。いつもぎこちなかった。決して口数も多いほうではない。何があったのかはわからなかったけれど、そうした彼女の姿がどこか淋しげに見えることだけは確かだった。
 だから言葉は自然と口をついて零れた。
「傍に居てもいいですか?」
 きっとその言葉の本質は彼女の心の奥深くに届く前に消えてしまっていたのだろう。明らかな拒絶はなかった。けれど彼女はしばし逡巡するような気配を見せて、当たり障りのない言葉を選んで音にした。
「君の好きにすればいい」
 その言葉が嬉しくなかったといったら嘘になる。総てのものを刹那の間に理解することはできない。だから少しでも傍にいられることを許してもらえるのならそれで良かった。彼女のただ一人の存在になろうなどという気持ちはない。ただ彼女の傍にいられるのなら、それだけで十分だとその時は思うことができた。
 けれどいつの間にか彼女のことばかりを考えているようになっていた。ふと気づいた時にはただ純粋に守りたいと思うようになっていた。どこかで強さを装っているような彼女の支えになりたいと、そう願うようになったのは果たしていつからのことなのだろうか。抱く感情に名前をつけて、改めて自分で驚いた。
 これは恋なのだと気づいた時の気恥ずかしさとただまっすぐにその人のことを想うことができる自分の気持ちがどこかで誇らしかった。そしてそれと同時に不安もあった。ささいなきっかけ一つで総てが駄目になるようなことがあったらどうしようかと。傍にいることさえもできなくなったならどうすればいいのだろうかと。
 何故彼女の傍に居ることができるのか。考えると結局は彼女が許してくれたからだ、というただそれだけに帰結する。彼女が許してくれなければ傍にはいられない。どんなに手を伸ばしてもその本質には触れることができない。ただ想うだけでは何も解決しない。けれどただ想う以外に何ができるというのだろうか。傍にいることしかできなかった。それだけしか許されていなかった。そのなかで抱える感情を恋だと名づけたところで、選択肢は少なくなっているだけのことだ。想いを告げるか胸中に押しとどめ、傍に居られるというそれだけに甘んじるか。
 明らかな拒絶が怖かった。彼女が決して鋭い言葉で拒絶することはないと頭ではわかっていても、どんなにやさしい言葉も彼女の声で響けばそれだけで鋭いものに変わると思った。
 初めてのことだった。そんな風に誰かのことを考えて胸が苦しくなるのは。あまりに想いが強すぎて押し潰されてしまうのではないかとさえ思った。いつか言葉にするようなことをしなくても彼女に気づかれてしまうのではないかという恐れさえ感じるようになっていた。
 だから火月は想いを告げようと覚悟を決めた。
 自分のために、そして彼女のためにもここで言葉にしておかなければならないと思った。
 桜の淡い紅色の花弁が冷たい月の光を受けて煌いていた。残酷なほどにそれは美しかった。ひとひらの柔らかな花びらさえも彼女を傷つけるのではないかと思った。春といえどもまだどこか冷たい風がさらさらと流れるそのなかで、火月は彼女に云った。
「貴女が好きです」
 言葉を受け止めた彼女の表情は僅かな驚きと戸惑い、そしてどこかで予感していたというような複雑なものだった。
 怖くはなかった。
 ただ受け止めることを拒まれることがなかったというそれだけで、彼女の答えがどんなものでもきちんと受け止められると火月は思うことができた。頷いてほしいと願わなかったわけではない。けれど彼女の選ぶそれに自分の願いが影響できると思っていたわけではない。ただ好きだから、ただ傍にいたいから、それだけのことを何か特別なものとして受け入れてもらいたい、そんな我儘のような願いだと火月自身がよくわかっていた。だから彼女に影響できるだなんてそんな大それたことを考えられるわけがなかった。
「ごめん……」
 言葉が紡がれた時、彼女の顔には戸惑いしかなかった。まるでそんな風に好意を向けられることなどないのだと思っていたような、そんな明らかな戸惑いだけが鮮明で火月は改めてこの人が好きだと思った。
「私は君の好意に応えられないんだ」
 望みはただ彼女がしっかりとそこに存在していてくれればいいというそれだけのこと。
 彼女の答えはどこかで予感していた。なんとなく、気配だけだったけれど。
 だから云うことができた。
「ありがとうございます。きちんと答えてくれて」
 その日は当然のように終わった。
 出来事は記憶の一部になって当然のように新しい日が始まった。
 火月は足を向けた図書館で彼女を見つけた。好意を受け止めてもらうことができなかったことで生じる居た堪れなさのようなものはなかった。それどころか何か胸の痞えが取れたようで、すがすがしいような気持ちさえしたものだ。決して捨て鉢になっているわけではない。彼女が彼女の言葉できちんと答えてくれたというそれだけで火月は嬉しかった。
 一言断りを入れて、向かいの席に腰を下ろす。彼女はいたわるように、それでいて少し哀しげに微笑んで云う。
「私には君の望むものはあげられないよ?」
 望むものがただ純粋に彼女の好意であったならその言葉は正解だった。けれどそれだけではないのだと火月は思う。好意がほしいわけではないのだといったら嘘になることも確かだ。けれどそれだけではないのだということもまた確かだった。
 火月は僅かに考える様子を見せて、今ここで綴るに妥当な言葉を探す。そしてそれを見つけたとばかりに音に変えた。
「やっぱり、先輩のこと好きだから」
 彼女はその言葉に戸惑っていた。
 だから続けた。
「友達になりたいんだ」
 微笑んで云うことができた。
 彼女もまたどこか困ったような気配を滲ませながら微笑んだ。
 だからそれで総ては良かったのだと思うことができた。
 たとえ好意を好意として純粋に受け入れてもらえないにしても、友達としてしか傍にいることができなくとも、彼女が笑ってくれるのならそれでいい。
 願うことは、ただ少しでも彼女が淋しさを感じずにいられればというただそれだけのこと。