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<東京怪談ノベル(シングル)>


静寂のなかに知る


 休日の早朝。
 どこかひんやりとした潤いをまとう静寂の空気に満たされる時間。平日の騒がしさはなく、世界はまだ静かに微睡んでいる。一足先に眠りから覚めた小鳥たちの囁きが遠く聞こえる。微音だけがそこかしこに息づいている。
 次第に意識から遠ざかるそれらに包まれながら、倉前高嶺は通っている道場で独り、目蓋を下ろし、静かに姿勢を正して瞑想に沈む。師範以外には誰も居ない時間。こんな時間は時折こうしてただ独り精神統一をしていた。揺らぐ心をまっすぐにするために、感情という不可解なものを整理する。きちんと向き合わなければ知らぬ間に押し潰されてしまうような気がするそれは、意識とは別のところで暗く闇の色をまとって成長していくようだった。
 だから平静を求めるようにそれと向き合う。心というどこにあるとも知れないもののなかに渦巻く黒い感情。不安や恐れ、迷い。そうしたものから逃げてしまいたいという弱さ。無視することはできない。向き合わなければ駄目になるのは誰でもない自分自身だ。
 怖くないといったら嘘になる。
 けれど向き合わなければならないことを覚えた。無視し続けていては自由になれないと、他愛もない日常が遠のいていくのだと知った。
 高嶺は大手建設業者の一人娘として生まれた。幼い頃からたくさんの大人たちに囲まれて過ごしてきた。守られていた。大勢のボディーガードを筆頭に、ありとあらゆる大人が高嶺の身を守ってくれていた。それに煩わしさを覚えるようになったのはいつのことだろう。いつからか独りで大丈夫だと虚勢を張ることを覚えた。決して自分の立場が安全ではないのだということを知り、自らの利益しか考えない者に身代金目的などで狙われる理由を知ってからは護身術を習い始めた。強くなければ自由はないのだと思った。いつまでもただ誰かに守られ、誰かの身勝手で傷つけられることに怯えて生きるのは真っ平だった。
 それでも心は弱る。
 果たして本当に自分だけで自分を守り通せるのかと。自分を守ることは人を拒絶することではないのだろうかと。人見知りが強く、無愛想であるのは承知の上だ。けれどそこに何が影響しているのかを考えるとわからなくなる。ただ自分を守るということを云い訳に他人を拒んでいるだけなのではないかと思ってしまう。
 強くなりたいという願い。
 けれどどうすれば本当に強くなれるのかはわからない。
 ただ独りで生き抜くことができる、それが強さだというのなら正しさがわからなくなる。
 正直になるということもまた強さなのではないかと思うと、ますます思考は混乱するばかりだ。
 この頃になってようやく従姉妹の影響もあって以前よりも多く人と話すことができるようになった。言葉を交わせば安堵している自分が確かにいる。男嫌いは相変わらずであったが、最近は普通に話すことができる。どこかで素直になるということを覚えたのかもしれないと思うけれど、その裏側ではまだ壁を作ろうとしている自分がいる。他人を迎合すればただそれだけで足元をすくわれる原因を作り出してしまっているのではないかと思ってしまう。
 自分というただそれだけの存在が人の欲を刺激してしまうということを知っているからなのかもしれない。
 幼い頃から社長令嬢として見られることが常だった。なんでもない子どもでいたかったというのに、周囲の大人がそれを許してくれなかった。甘やかす言葉の裏側にあるものを知ったのはまだ齢一桁の頃だったような気がする。見上げるほどの大人が小さな自分に媚び諂う姿に愚かさと気味悪さを知った。大人は望めば総てが手に入れられるような錯覚をくれた。けれど同時にそれには大きな代償が伴うのだということをやさしさを装おう大人たちは無言のうちに高嶺に教えた。
 言葉を交わせばそこから何かが始まっている。代償を支払わなければならなくなる。それはきっと自分に払いきれないものだとしても許してもらえないものだ。だから恐れが常にあった。だからやさしさが怖かった。そしてそれと同時に社長令嬢でなければやさしくなどしてもらえないのではないかという恐れもあった。無条件の愛情がただほしかったこともある。ただ自分を見てほしいと一体何度思ったことだろう。ただなんでもない関係を望んでも手に入れることができない。そんな絶望を感じたことさえあった。
 それらを符号させて見る世界はひどく滑稽で、何もかもを投げ出してしまいたくなる衝動さえ覚えたものだ。
 きっと駆け引きのない純粋な関係がほしかったのだと思う。なんでもないことで笑いあい、なんでもないことに幸福を感じ、なんでもないことで傷ついてみたかったのかもしれないと。
 特別なものなどいらなかった。
 高嶺が今まで見てきたもの。それはあまりに特別すぎて、自分自身には特別なものではないとしても周囲の者の捉え方がそれを特別なものに変えて突きつけた。
 だから強くなりたかった。
 特別なものしか手に入らないのであれば、それに負けない強さがほしかった。
 ただそれだけで、それ以上でも以下でもなかった頃に師範にその思いを告げた。
 すると師範は柔らかな声音で、ひどくやさしく云った。
「恐れることから逃げてはいけないよ。恐れても……それとどう向き合うか、それが大事だ。そして強くなるということは恐れを知ることだ。この言葉の意味がわからないのなら、もし強さを手に入れたとしてもそれは偽りの強さだよ」
 強さの意味もわからなかった頃のことだ。
 ただ自分だけを守るために強さを身につけようとしていた。恐れなどなかった。自分を守るためになら恐れを抱く必要などどこにもないと、何かをわかっていたつもりになっていた。だから師範の言葉の意味がわからず、どこかで失望していた。
 けれど今はその意味がよくわかる。恐れることから逃げてはいけない。恐れとどう向き合うのか。そして強くなるということは恐れを知ること。その意味が今の高嶺にはわかっていた。
 胸中に渦巻く感情に引きずられてはいけないのだということ。自分さえも客観的に見る目を持たなければならないのだということ。それが強さに繋がっていくのだと高嶺は思う。
 自分と向き合えばいつも恐れに直面しなければならなかった。そこには明らかな弱さが息づいて、ひっそりと内側から高嶺の強さが偽りであることを告発しようとしている。所詮その場限りの強さなのだと自嘲する自分を見つけてしまう。惑う心。自分自身に翻弄される平静。けれどそれに対する恐れさえも享受していこうと思う。
 まだ形ばかりの強さだといえども、自分の身を守るために始めた武道や少しずつ手に入れてきた強さを生かして行くために。強さを手に入れればその裏側で傷つく者がいるのだという現実さえも受け入れられるように、形にならない強さを磨いていきたいと思う。
 そして傷つく者がいるのなら、それと同じ分の人を守りたいと思う。大切なものを守っていきたいと。自分ばかりではなく、自分の傍にいてくれる大切なものが少しでも傷つかなくて済むように手に入れた強さを生かしていけたらいい。
 手に入れた強さで人が傷つくのは当然のこと。
 だからこそその恐れを享受し、誰かを守っていきたい。
 今の高嶺はもうただ強さだけをひたすらに求めるようなことはしない。
 強さという力でねじ伏せる先に本当の安息はないのだということを知った。
 だから次第に身につき始めた強さで守り、恐れで慈しんでいけたらいいと思う。
 恐れるということは決して悪いことではない。
 師範の言葉が今ならよくわかる。
 強くなり、それと同時に恐れを知る。
 そうすればきっと大切なものを守っていけるようになれる筈だ。
 高嶺は閉じていた目蓋を押し開き、差し込む朝日をその双眸に受けた。
 闇が開けるその先に見る。
 世界はとても温かかった。
 耳に戻ってきた小鳥の囀りに、高嶺はそんなささやかなものも慈しみ、守っていけたらいいと思った。