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<東京怪談ノベル(シングル)>


野いちごが揺れるように


 冬から春にかけては闘争への執着が薄れ行くことは、どこの国でも等しいらしい。
 固い土や雪に閉ざされた無言の大地が少しずつ綻んで、花の蕾を膨らませ、鳥の啼き声を運んでくる。それぞれがそれぞれの新年を迎えて、ほっと自然を見回すとき、人々はいつになく大地の豊饒を迎え入れて剣を仕舞うのである。
 そんなころ、世界を股にかけて走り回る小さく強靱な女にも、ようやく――――バケーションが訪れるのだ。
 飛行機から顔を出し、冷たく乾いた独特の風を胸いっぱいに吸いこんだ『雌獅子』は、いつにない大荷物でユーラシア大陸に下り立った。

「確か、この辺りだったはず……んんん……」
 最後に訪れてから、もう一年近くが経っている。街並みは変わらず、冷たい石畳と石煉瓦に囲まれた細い道を右に左にと曲がって歩く。
 小さな広場に出て、記憶の中の風景と眼前の風景がピンと脳の中で嵌りあったとき、遠くに赤子の泣き声を聞いた気がした。
「……ビーンゴ♪ 私ってば鼻が良すぎ★」
 肩にかけた大きなバッグを背負い直しながら、颯爽とした足取りで女――海原みたまは、目当ての家屋の扉を叩いた。
 慌ただしい足音が扉の向こうから聞こえてくる。
「ズドラスツヴイーチェ! 私の顔、覚えてるかしら?」
「まあ…………!」
 口許を両手で覆った女性が、嬉しそうに顔を綻ばせながらみたまに抱きついてきた。
 荷物を背負ったままで、みたまもきつく抱きしめ返す。
 距離と時間は、心に負けない。
 いつしか互いに信頼しあう絆で結ばれていたふたりは、突然の再会を少女のようにはしゃいで喜んだのだった。

 かつて小さいながらも栄えた、J国という国があった。
 みたまが訪ねていったのは、その国の王女だった女の許である。
 国という形が損なわれたとしても、彼女の中でJ国の美しさと気品はいまも生きている。それは、屋内を優しい温かみで包む品の良い木製の家具やカーテンの色に現れていた。
「ごめんなさいね、坊やが昼寝をむずがっていて」
 みたまを室内に案内した王女は、隣の部屋からくぐもって聞こえる赤子の泣き声に苦笑しながら告げた。最後に彼女と顔を合わせたときのことを考えれば、子供はもうすぐ一歳になるかならぬかの頃となるだろう。
「いやん、見せて見せて! 泣いてる赤ちゃんってとってもキュートよ!」
 育ちの良い女性は、客の前で泣く子供を申し訳なく思う傾向がある。そんな遠慮に踏み込んでしまうのが、みたまのやり方だである。
 隣室から抱き連れられてきた赤子は小さく色白で、母親に良く似た男の子だった。
「……可愛い……うちの娘と張るくらい可愛いわ」
「光栄ですわ。主人が、目に入れても痛くないほどに可愛がっていて」
「妬いちゃうでしょ?」
「少し」
 小さなもみじのような手がいっぱに伸ばされ、優しく抱きしめる王女の手に縋っていた。
 生命の神秘と奇跡が、いまここに生きている。
「本当に可愛い……ねえ嘘じゃないわ。私、嘘をつくと右のまゆ毛がぶるぶる震えるって云われるんだけど、ちっとも震えてないでしょ?」
「じゃあきっと、震えるということ自体が嘘なんですわ」
「云うようになったわね」
 赤子はぐずぐずと鼻を鳴らしながら、初めて見る金髪の客人を物珍しげに眺めている。
「ハイ、あなたのパパとママの恋のキューピッドよ。泣いたら食べちゃうんだから。笑って笑って」
 紅い瞳が細められ、赤子に笑いかけられた。泣きやんだ子供は母親の腕の中で愛らしく微笑み、やがてうとうととした眠りに落ちていく。
「あら……この子、彼があやしてあげないと昼寝もできない子なのに……」
 今のうち、とばかり、王女は赤子をそっと寝室の揺りかごの中へと連れていく。
 最後に見た『妻の顔』が、今は『母の顔』になっていた。
 王女の背中を見送りながら、みたまは愛おしいものを見守る眼差しで腕を組む。

 キャラクターもののガラガラ。
 天井から吊るすタイプの、子供をあやすおもちゃ。
 保温効果にすぐれた哺乳瓶に、栄養素のバランスを追及した外国産の粉ミルク。
 色とりどりの愛らしい洋服たちと靴に、四季に合わせた帽子と、動物を模したぬいぐるみ。
「空港で『ご商売ですか?』って留められちゃったわ。全部お土産よ! って振りきってきたの」
「てっきり、みたまさんの荷物かと……こんなにいただいて良いのですか?」
 大きなバッグに詰められるだけ詰めてきたみたまの荷物は、土産物を取りだすと驚くほどに少なくなった。むしろそちらの方が、旅慣れたみたまの手荷物に相応しい量のものである。
「本当はもっと持ってきたいと思っていたものがたくさんあったの。でも、楽しみは一度で全部済ませちゃったらもったいないものね」
 香りの高いロシアンティ、それに彼女手作りの甘いパウンドケーキがテーブルに並んでいる。肌寒さに冷やされたみたまの身体が、内と外から温められていった。
「彼はどう? ……って、聞くまでもないかしらね。あなたとっても幸せそうよ」
「ええ、とっても。彼と、そしてこの子と……こうして、ささやかだけど静かに暮らしていけることこそが、本当の幸せなんだって思いますわ――――」
 経産後、以前は少しやせ過ぎの感のあった王女の顔立ちは、健康そうにふっくらと潤っているように見える。赤子という命をその両腕に抱き留め、夫という命に安らぎを与えるに相応しい、女の姿であった。
「あなた良い女になったわ、とっても。……会いにきて良かった」

 夕方、辺りが薄暗くなってきたころ、大工の見習いをしているという彼女の夫が戻ってきた。
 みまたの来訪を知ると男は破顔し、我が子を腕に抱きながら何度も土産物の礼を云う。
「輪をかけてマッチョになったわ。今のお仕事がとても気に入っているのね?」
「まだまだ、最愛の家族を守り抜くには拙い自分ですが――――私は家族と、今の仕事、それにこの街を愛しています。こんな生活があることを、どうして私は生まれてからずっと知らずにいたのか不思議に思います」
 そこに、愛がある。
 春に野いちごがそっと揺れるように、ここには慎ましやかで暖かい、愛と絆と信頼がある。
「J国で大臣をしていた男、覚えて下さってますか?」
 帰宅した父親とひとしきり戯れさせてから、ふたたびご赤子を寝室に伴ったあとで、王女がみたまに問う。
「ええ、ホテルのご主人ね。彼がどうかしたの?」
「私たちの息子を主として、ふたたびあの国を復興したい、と」
「まあ」
「でも、せめてあの子が15になるまで待ってください、とお返事しました。何が大切で、何を守るべきで、何を愛おしむべきか――――それを手探りにでも自分で探せるだけの子になったら、改めて彼に自分の生きる道を選ばせたい。彼の親として、それが最善の方法じゃないかって、ふたりで話しあったんです」
 ――――いつの間にか、教えられちゃうことばっかり。
 ルージュを引いたみたまの口唇が、慈愛の笑みに引き上げられる。
 この家からは、あの国で見た広い草原の匂いがするような気がした。
 この国の夜は長い。
 3人はいつまでも、他愛もない話しに花を咲かせ、それぞれの細やかな幸せを噛みしめあっている。

(了)

■□■今までのご愛顧、本当にありがとうございました。 森田桃子■□■