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<東京怪談ノベル(シングル)>


氷雨


 燦々、燦々。
 音もなく降りしきる冷たい雨が、夜も更け霙へと変わり行こうとしていた。
 燦々、燦々。
 重厚な黒雲に閉ざされた夜空は静謐で、いまは人影ひとり彼の目には映らない。
「……――――」
 家路を辿る、男の白いシャツは褪せた紅色を滲ませている。
 湿って肌に張り付いたそれから、かげろうのように彼の体温は奪われ行く。
 燦々、燦々。
 男――――都築秋成の足は留まらぬ。ただ黙々と、歩み慣れた道を往き、曲がり慣れた角を曲がる。
 その口唇は、過酷に浅い笑みを静かに浮かべたままである。

 数刻前。
 都築は山の奥深くに込められていた禍々しい蛇霊と対峙していた。
 走り屋の多く出現する山道から少し逸れたところに、『それ』は居た。
「――――おや……ずいぶんと珍しいのが来たもんだ――――」
 いつからそこに宿ったものだろう。なますのように刻まれて遺棄された女の死体に棲みついて、『それ』は長い時を生きていたようだった。
「そのひとを、解放してさしあげなさい。あなたが自覚しているよりもずっと、あなたはこの世界には――――異質な存在です」
『それ』は、『それ』が宿っている腐肉――――かつては女であったモノの形を模した姿をしていた。黒く長い髪は頬と額に張り付いている。もとはあどけない少女の面立ちをしていたものであっただろうか、今はきっとつり上がった双眸に光る瞳は琥珀、である。
「随分と面白いことを云う」
 にっ……と不遜な笑みを浮かべ、『それ』が曰う。
「我を異端と云うか、童。異端故に滅べと云うか」
 象牙の数珠を右手に握り繰り、都築は真っすぐに『それ』を見つめている。土と同化しはじめている骸から、『それ』がゆっくりと都築の方へと歩み寄ってきた。その下肢は細い蛇の姿を取っており、骸と長く繋がれている。
「――――我の言葉、意図を汲むな?」
「…………――――」
 都築の中に、悪寒にも似た震えが起きる。
 ……予感。
 そんな言葉にも置き換えられたかもしれない。
「なに、畏れることはあるまい? 見えるぞ、童――――お前の中に棲むモノの、影がな……」
「……――――何が云いたいのですか」
 にじり寄る『それ』の気配を、都築は数珠のひと珠を繰ることで押しとどめた。
 首筋を、冷や汗が伝っている。
 その冷や汗の理由を、都築は自覚しない。
 しては、いけない。
「すべてを云わずとも察しているだろう。お前の中には――」
 ――――云うな。
 都築の肚の底で、何かが蠢く。
「――――否。お前こそが、」
『それ』の笑みが深くなる。『それ』は自分の運命を悟り、享受している。
「お前こそが、我が同胞(はらから)よ」

 ――――――――ドクン

 その刹那、都築の中に眠っていた「蛇妖」が、目醒めた。

 己の秘めた力が成した、直径3メートルほどのクレーターの中心で、都築は佇んでいた。
「…………――――」
 すべては、一瞬のうちに終わっていた。
 骸ごと霧散した蛇霊の気配は、いまやあとかたもなくかき消えている。
 暴走した都築の中の「蛇妖」は蛇霊を祓い、都築の意識の表層を撫でる。
「――――ハ……」
 浅い呼気で笑いを吐きだした。
 笑っているのかどうかすら、今の都築には汲めない。

 深々、深々。
 音もなく降りしきる冷たい霙は、夜も更け雪へと変わり行こうとしていた。
 深々、深々。
 静謐の夜空は辺りを重たく灰色に染め、都築の肩にうっすらと白い結晶を降らせている。
 擦れ違う者があれば、その様相に目をみはったことだろう。
 褪せた紅に色取られたシャツに加え、彼の双眸はいまや鮮血の赤へと変貌していた。
「……――――」
 その口唇は、今も過酷に浅い笑みを静かに浮かべたままである。
 ゆっくりと――――雪に打たれていることにも頓着しないままで、都築は己の中に棲まう蛇にその身を委ねている。

(了)

■□■今までのご愛顧、本当にありがとうございました。 森田桃子■□■