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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


◇◆ さくらひらり ◆◇


 セレスティ・カーニンガムの朝は、遅い。
 太陽が中天近くなる時分、シルクと羽毛で埋め尽くされたベッドから起き上がる。
 柔らかい感触をひと撫でしてから傍らのベルで執事を呼び、ベッドで朝食を摂る。それが、セレスティの近頃の習慣だった。
 今日は、久方ぶりの休日だった。
 財閥創設以来、総帥の座に付いているとは云え、セレスティの近くに人材は多い。骨董を選り分けるように、財閥の有用な者、有益な者を世界中から拾い上げ、地位を与えていく。どこか、チェスじみた差配は間違いがなく、セレスティは総帥と呼ばれつつも悠々自適な時間を過ごしているはずだった。
 それなのに、ここ数週間、公私混ざりでなにくれと細々した仕事が舞い込み、セレスティの意識は張り詰めっぱなしだった。そんな心身の疲労を回復するために、今日の朝はいつもにもましてゆっくりになった。
 心得た執事が、朝食を運んでくる。
 小さなテーブルが用意され、目の前に広げられる食事。
 出し巻き卵や根菜の煮物、焼き魚に味噌汁や白米。天蓋からレースの垂れた寝台に相応しくない、絵に描いたような和の朝食。
 これは最近、和食に凝っているお抱え料理人の仕業だった。最初は流石に違和感を感じていたセレスティだが、毎日ともなれば慣れてしまう。ましてや、彼の作る料理は、ささやかな一品まで文句なしに美味なのだから、否やを云うつもりはない。
 だが、そんな膳を前に、今日のセレスティは少しばかり眉を潜める。
 そのまま退室しようとする執事の背に、清んだ声を響かせた。
「彼を……兎月君を後で、寄越してくれないか」


 無彩色の装いが好く似合う乾いた雰囲気の執事に云い付けられ、シェフコート姿のまま、池田屋兎月は屋敷と己の主の部屋のドアを叩いた。
 静かな、水の流れる音色のような主の声に促され、恐る恐る扉を開く。
 実を云うと、呼び出しの理由はわかっていた。
 最近、兎月は和食に嵌っている。朝食・昼食・夕食。あわよくば全てに和の心意気を滑り込ませんと、全力を尽くしている。だが、兎月の全力は、意外なことに阻まれていたのだ。
 一言で云うならば、『器』。
 舶来の生活様式に慣れ親しんだこの屋敷には、屋敷の装備に対して驚くほど和食器の在庫が貧困だった。下手をすると、回廊に飾られた花器の数よりも、和の風合いを宿した陶器の数は少ない。……無論、この屋敷に飾られている花器は、普通のコレクターの倍、更に倍、更に更に倍、な勢いではあるのだが。
 つまりは、毎日和食を出しているうちに、和食を盛る器が尽きてしまったのである。
 今日は、思い余って、自己主張の少ないボーンチャイナに朝食を盛った。すまないすまないと謝りつつ醤油の香ばしい香り漂う食材を載せた瞬間は、器が顔を顰めたような気すら、した。
 器と、兎月はどこかで繋がっている。器が、ただの器であったことは、ない。だから、それだけで陰鬱な気分にもなる。
 そんな屈託を、あの聡い主が見逃すはずはない。
 呼び出しはだから、兎月にとっては必然でもあったのだ。
 俯きがちにドアを開くと、ぱっとひかりが広がる。
 この屋敷は、回廊まで大きくアーチ型の窓が取られ、どこもかしこも陽光で満ち溢れている。だから、ドア一枚隔てたこちら側とあちら側、ひかりの量があからさまに違うとことはない。
 ――だけど。
 目の前に立つ、銀色の髪の主がいるだけで、ぱっと明るさが変わる気がする。それも、無邪気なひかりではなく、どこか寂しい、海の底に差すひかりのような仄白い明るさ。
 ――清冽な、月のひかり。
 なんとなく、兎月はこの主を見るたびに、ひどく胸軋むような想いにさらされる。まるで、手の届かないものを仰ぎ見るような。
「兎月君」
 そんな兎月の内心を知らず、柔らかな声でセレスティは兎月を呼ぶ。
 見れば、すでに夜着を脱ぎ捨てて仕立ての好い上下に身を包み、いつでも出掛けられる姿。傍らには、愛用の杖まで準備されている。
「お出掛けでございまするか?」
 こんな優美な彼が己を叱責する姿が想像できず、でもそれ以外の用で呼ばれたとは思えない兎月は、なんとも微妙な声色でお伺いを立てる。それにひとつ頷いて、セレスティはもどかしそうに云い募る。
「ほら、キミもそんな格好をしていないで。すぐ、着替えて来なさい。和食器を、買いに行こう」
 急き立てられるままに、いま入ってきたばかりの扉に逆戻りしそうになる。
「和食器、でしょうかな?」
「ええ。どうやら、キミの腕には、うちのストックでは足りなくなってきたみたいだね。私も、膨れっ面の器に載った食事は、あんまり嬉しいものではないよ」
 やはり、ばれていたらしい。それを叱責ではなく優しい誘いで往なした主につくづく感服しながら、兎月はひとつ、提案をしてみる。
「和食器なら、骨董市ですと好いものが多いと聞き申します」
 これは、本当のことだ。ただし、ニュースソースは人間ではなく、この屋敷に居座る骨董たち。彼らはどれも一度は、どこぞの骨董市に並んだことがあるらしい。
 主に選び出された骨董は、どれも素晴らしい一品だ。だから、その経由地のひとつである骨董市には、それなりのものがあるに違いない。
「好いね。では……やっぱり早く、着替えて来なさい。骨董市ならひとつ、私にも心当たりがある」
 にこりと微笑った主に急かされ、兎月は今度は、素直に扉に向かって見せた。


 リムジンから降りた瞬間、何故、この骨董市をセレスティが選んだのか、兎月にはすぐわかった。
 広い公園のなかでの催し物。細い通路に直接シートを敷いて店開きのものから、しっかりとした出店の作りをしているもの。
 それら有象無象の店先を飾るかのごとく、通路に沿って、満開の桜が花開いていた。
 時折可憐に、ひとひらふたひら、薄紅の花びらが客の肩に舞い降りる。 
「ここは、桜の名所でもあるらしいね。春の桜、秋の紅葉。その時期の休日だけ、この骨董市は開かれるそうだ」
 とある店の女主人からの受け売りだけどね、とセレスティははんなりと微笑む。
 兎月はと云えば、居並ぶ骨董の数々に、少しばかり圧され気味だ。
 なにせ、通路はひとがふたり摺り抜けるにぎりぎりな程度、店はぎっしり、その通路を残して居並んでいる。そこには、無造作に並べられた骨董、雑貨、そして和食器。ひとつひとつを見分けるだけで、うんざりしてしまう。
「これだけ数があると、どれが好いのやらわかりかねまするが……」
「そうかな?」
 云う間に、ひょい、とセレスティは近くの茣蓙に歩み寄り、中年の店主と交渉を始めてしまう。
「別に、難しいことではありませんよ。ただ、一番強い、引く力のあるものを選べば好い」
 そうやって、セレスティが選り出した品は、確かに、引き出してみれば素晴らしく、兎月は尊敬のまなざしで主を見るしかない。どこか無邪気に、店主たちと言葉を交わすセレスティ。熱心なやりとりは金額のことかと思えば、全て骨董の由来について。セレスティがささやかな会話で容易く、骨董や和食器に貼り付いた嘘のラベルを剥がしていく。それでも、交渉が十を越えた時点で、やや、眺めるばかりの兎月ですら疲れてきた。
 なにせ、ひとつ会話が終わるごとに、確実に兎月の腕は重くなっていくのだから。
 丁度、日も翳り始めてきた。
 両手に抱える羽目になった荷物を持ち直し、生き生きと新しい店を覗き込むセレスティに声を掛けようとして、ふと、兎月はひとつの皿に目を奪われた。
 それは、灰色味の掛かった、白い、丸い大皿。
 曇り空の満月を切り取ったような、少しばかり陰鬱な印象の品だった。
「それが、気に入った?」
 横から、セレスティが首を伸ばす。
「いいえ……」
 曖昧に首を振ってみても、兎月はまだ、その器から目を放せない。
 なにか、足りないような気がするのだ。でも、そのひとつを得た瞬間にそれが大化けするような不安定な魅力があって、ひどく心惹かれてしまう。
 どれほど、その皿と対峙していたのか。
 ざっと、背中で強い風が、鳴いた。
 枝が重く感じるほど咲き誇っていた花が、散る。
「あ……」
 ひらり、ひらり、と。
 寂しいばかりの白い月の上に、薄甘い花びらがひとつ、落ちて来た。
 小さな溜め息が、傍らのセレスティの唇から、漏れる。
「ご主人」
 兎月がなにかを口にするよりも、早く。
「この皿を、頂きましょうか。値段は、そちらの云い値で結構。この皿は逃してはならない気がするんです」
 そう、兎月が考えた言葉そのままを、セレスティはうたってみせた。


 帰りのリムジンのなか、そして屋敷に着いてからも、セレスティはどこか浮かれていた。
 不審に思った執事に捕まってみれば、すぐに寝台にダウン。
 近頃の疲労も後押しして、倒れてみればもう立ち上がるに苦労する始末だった。
「申し訳ない事でございまする」
 ふかふかとした寝具に埋まるセレスティを前に、兎月は項垂れるしかない。
 生身ではない兎月にとって、セレスティの虚弱な身体はいつまでも理解し切れない代物だった。だから、兎月はいつも、セレスティの限界を見極められない。完璧に仕え切れない己のふがいなさに、歯噛みする。
「わたくしめが、もっと注意をしておけば……」
「そんなことはないよ、兎月君」
 いつもは青白くさえ見える美貌をやや上気させて、慰めるようにセレスティは手を伸ばす。よしよし、と兎の毛並みを撫でるように、兎月の頭を好い子好い子する。
「兎月君と外出出来て、本当に愉しかった。あれだけの戦利品もあるし。それに、愉しみも」
 そこまで云って、ふと、セレスティは子供のように無防備な表情をする。
「こんな風になってしまったら、あの皿に盛られた料理を、食べることは出来ないかな?」
 兎月は勢い好く首を振る。
「いいえ。わたくしめ、腕によりをかけて料理を致します。セレスティ様がすぐに元気になるような食事を、いますぐ支度させて頂きましょう」
「ありがとう」
 安心したように、セレスティが笑う。
「あの皿……ああ云う皿を選び出せるのは、キミが料理人だからだね。私は、そのままで美しいものを探そうとする。キミは、料理を載せて一番、映える器を探す。なんだか、素敵だね」
 愉しみだよ、ともう一度、セレスティは儚い声で繰り返す。
 ぎゅっと、兎月の胸が引き絞られる。
 夜の月を眺めている。手が届かないのに、焦がれ続ける。
 そんな軋みに似た想いを噛み締めながら、兎月は力強く頷いた。
「すぐに、お持ちしまする」
 青褪めた月のひかりを仰ぎながら、偽りの現の身体で生きていく。
 それもまた、この主の下でならひどく幸福なことだと、セレスティの微笑みに兎月は想った。