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<ホワイトデー・恋人達の物語2005>


■白い御使いの贈り物

ネオンがちらほらと灯り始め、街がその顔を夜へと変え始める黄昏時。空は茜色の端から徐々に紺のグラデーションが顔を覗かせ、その下を足早に急ぐ人々もどこかそぞろとして一層歩を早めているようだった。
日差しや気温は大分春めいたとは言え、夕暮れ時の風はまだ冬の匂いを残している。先の条例改正で無性にもの侘しくなった繁華街をも通り過ぎ、肌を撫でる寒風は空中へと溶け消えた。
週末の副都心ともなれば人通りはいつにも増して激しく、赤信号に舌打ちする人々の横顔を巨大スクリーンが照らしている。何とはなしに夕方のニュースを見上げる人を尻目に、何組かのカップルはお互いの話に夢中で身を寄り添わせていた。
その光景がよく見られるはず、今日は三月十四日。ホワイトデーと称しバレンタインほどではないものの、世の男女が盛り上がる恋愛イベントの日だ。
――と、その一組。片割れの今時風な茶髪の男のジャケット、その裾を引く小さな白い手があった。
怪訝そうに振り返った男の視線の先が、相手の姿を見つけられずに自然と下げられる。それもそのはず、手の主は七〜十歳歳かと言う小柄な少年――もしかしたら少女かもしれない。金の髪に透けるような陶器の肌とスカイブルーの瞳を持つ、異国の人間だった。
明らかにこの街に、場に似つかわしくない空気がそこにあった。が、そんな事を気に留める風もなく、目が合った事で嬉しそうに微笑みながら、彼は愛らしい唇を開く。
「幸せ。見せてくれる?」
問いの意味如何はともかくとして。天使のような容貌から発せられた声もやはり、外見を裏切らない透明感のあるものだった。外国人にしては完璧な日本語のイントネーション。期待にきらきらと輝く真っ直ぐな双眸が、彼を単なる迷い子ではないと物語っている。
ますます戸惑いを深めていた男の顔が、更に困惑したものへと変わる。まるで見てはいけないものを見てしまったかのように気まずい表情で、信号が変わったのをいい事に逃げるように彼女を促すと去って行った。
「あ…」
男を引き止める言葉を持たず、ただ後姿を見送ってから、少年は悲しげな顔でうな垂れた。
先程から四度目になるだろうか。最初は迷子かと警察に連れて行かれそうになり、次は男の方にふざけるなと怒鳴られてしまった。三度目は子供特有の戯れだと思われたらしく、やはり相手にされずに終わった。
それが当然の反応で、自分が見様によっては電波とも取れる問いを投げかけているとは、少年は気づいてもいなかった。ただ自分の問い方がまずかったのだろうと得心したが、かと言って他にどう尋ねたらいいのか、人の言葉は複雑過ぎて理解の範疇外だった。情けなさにうちひしがれている暇もない。
最初はもっと繁華街に近い方で呼びかけていたのだが、警戒中の警察官に無理やり保護されそうになってしまったのだ。それも警官としては当然の責務だったが、生憎彼は警察というものをまだ理解していなかった。いつまたあの制服の人達に追いかけられるかと思うと、気が気でならない。
それに――
「…早くしないと……」
焦りに似た呟きが、雑踏の隙間に零れる。
――もうすぐ。もうすぐ、今日が終わってしまう。
泣きたい気分に駆られつつ、顔を上げた彼が次の対象を探して視線をさ迷わせた。もしまた次も駄目だったらと不安がなかったわけではないが、それ以上に彼は人間が大好きだった。純粋に信じていた。
傍を通り過ぎる人々が物珍しそうに一瞬視線を流し、何事もなかったのように素通りする。目を凝らして見つけた、その先に――


□似非母子

とても知的そうな人だと思った。人間の英知と発展にはいつも驚かされるけれど、雰囲気からそれが滲み出ているような女性。そういう人は一見したところ近寄り難い場合も多いけれど、その人からは冷たい拒絶は感じなかった。それどころか、見つめていると自分の視線に気づいたのか、こちらに歩み寄って来てくれた。
「どうしたの?何か困り事?」
迷子?と聞かれなかったのが無性に嬉しかった。黒の滑らかな髪を綺麗にまとめて、春らしく爽やかなシャツとベージュのパンツを着こなしている。仕事の出来る大人の女性――なんと言うのだったか、そう確かきゃりあ・うーまんみたいだと少年はこっそり思った。……一つ疑問があるとすれば、彼女が抱えているのが書類ではなく、日用雑貨品らしいのが気にかかったけれども。
「あの……幸せ。見せてくれる?」
思い切って尋ねてみると、やはりと言うか女性は面食らった顔をして瞬いた。その反応は少年には見慣れたもので、それでも頭の良さそうなこの人なら理解してくれるんじゃないかと淡い期待を抱いていた。
しばらくじっと見上げながら待っていると、顎に手を当て何か考え込んでいた彼女が思考を止めてこちらを見下ろした。――聡明そうな青の瞳。お揃いだねと言ったら失礼だろうか。なんて答えるのだろう、やっぱり警察にと言われたらどうしよう。
緊張にやや身を固くしている少年に、彼女は安心させるように微笑を浮かべた。クールそうな彼女の、初めて見せた大人の包み込むような柔らかさ。本当に目に見えない空気に包まれているようで、自然と少年も笑い返していた。
「どんな幸せが良いの?」
「えっ……」
言葉に煮詰まったのは驚いたから。そして嬉しかったから。――見つけた。やっと見つけた。嬉しくて嬉しくて、頬に血が上ってくるのを感じた。……血――ああそうか、今自分は人間の体に近い構造だったから。妙なところで戸惑ってしまう。
「えっと……私が探しているのは、今日に関する幸せだよ」
「今日?」
拳を力一杯握り締めながら、こくこくと頷く。
「今日って……ホワイトデーよね。じゃあ恋愛に関する幸せかしら……?」
自問自答している彼女の脇を、足早に通り過ぎた人のバッグが掠める。少年を誘って道の端に避けながら、適当な店を探して辺りに視線を巡らせた。
「立ち話もなんだし、どこかお店に入らない?君さえよければ」
「うん、私は構わないよ」
迷いのない快活な返事に微笑み返しながら、もし私が誘拐犯だったらどうするのかしらと彼女は内心安堵の溜息をつく。そうなる前に出会えて良かった。もっとも、この少年の質問や言動からして、ただの少年じゃないのだろうと怪奇探偵の助手は憶測をつけていたのだけれど。
「じゃあ、行きましょうか。――自己紹介が遅れたわね。私はシュラインよ、君の名前は?」
シュライン・エマはしなやかな右手を差し出した。ワンテンポ遅れて、少年はそれが人間流の挨拶だと思い出した。少し照れたようにはにかんで、おずおずと手を握り返す。――ややひんやりとした冷たい手だと、シュラインは感じた。
「私はエル。シュライン、とても綺麗な響き。素敵な名前だね」
「そう?ふふ、ありがとう」
可愛い男の子に誉められれば悪い気もしないというものだ。そのまま手を繋いで歩き出そうとすると、驚いたように少年が手を離した。その場で立ち止まって、戸惑ったように自分の手とシュラインの顔を見比べている。曇った顔はどこか申し訳なさそうな表情だった。
「……ごめんなさい、手を繋ぐのは嫌だった?」
「ううん!違うシュライン、違うよ。私の方こそ、ごめんなさい」
咄嗟に考えてしまったのだ。――気持ち悪くないだろうか。だってこの体は、手は人間のものじゃないから。あくまでそれを模したものに過ぎない。頭の良い彼女がそれに気づいて、不快な思いをしないだろうか。現に、体温調節とやらがまだ上手く出来ていないのに。
もちろんそんな事情を知らないシュラインは、何か触れられるのはまずい事情があるのだと判断した。じゃあ離れず着いて来てねと言い聞かせ、歩調を緩めながら人込みを歩き出す。
――数分後。少年は人波にものの見事に飲まれていた。シュライン、と泣きそうに助けを求める声を頼りに、道を戻ると雑踏の中から彼の姿を見つけ出す。ごめんなさい、と項垂れる少年に目線を合わせて、頭を撫でると――それは自分でも意識しないほど自然な動作だった――もう一度シュラインは手を差し出した。
「やっぱり手を繋いで行きましょう?心配だから、ね?」
「………うん」
恥ずかしそうな返事、遠慮がちに伸ばされた小さな手。やはり人にしては少し冷たいけれど、そんな事を気にするシュラインではなかった。子供と手を繋ぐのは久しぶりで、母親になったような気分になるのが少し可笑しい。でも、嫌じゃなかった。
嬉しそうなエルにつられてじんわりと心の奥が温かくなるのを感じながら。二人はまるで本物の母子のように寄り添って、日が暮れかけた街に溶け込んでいった。


□甘味話

「シュライン、これは何?台みたいなのがあるよ」
「それはタルトね。小麦粉とバターの生地で作ってあるの。上に乗ってるのはブルーベリーね」
「こっちのふわふわしてるのは何?」
「それは生クリームよ。牛乳を加工したものにお砂糖を加えて泡立てるの」
へぇ〜、と感心しながらショーケースの中を食い入るように見つめるエル。一方説明したシュラインは、材料の説明で果たしてわかったのだろうかと少し不安になりながら、評判の抹茶ロールを注文した。
デパートの裏に広い路地を挟んで五階建ての小さなビルがあり、そこの一、二階は喫茶店となっている。落ち着いた雰囲気で清潔感のある店内と、数自体は少ないものの種類の豊富なケーキはどれも絶品で、シュラインもよく立ち寄るお気に入りの店だった。
ケーキを食べた事がないらしいエルは、どれにしようか真剣に迷っている。店員や他の客達もその微笑ましい様子に目を細めていた。同時に、多少の好奇の視線をシュラインへと向ける。お母さんにしては若いわよね、似てない親子じゃない?親子?などと潜めた声もシュラインの耳には入ってきてしまい、小さく溜息が零れた。目ざといエルがそれに気づいて、すまなそうに眉尻を下げる。
「ごめんなさいシュライン、早く決めるね」
「え?ああ、ううん、違うの。大丈夫だから、ゆっくり悩んで。どれとどれで迷ってるの?」
慌てて尋ねると、どうやらチーズケーキとブルーベリータルト、苺のショートケーキで迷っているらしい。……自分の財布と相談する事しばし。
「じゃあ……全部頼みましょうか」
「えっ!?いいの?ありがとうシュライン、大好き!」
そのまま勢いよく抱きつかれて、驚きながらも微笑んでしまう。妙なところで遠慮深いのに、こういうところは普通の子供らしい。こんな笑顔が見れるなら、これくらいの支出が何だというのだろう――とは普段のシュラインを知る事務所の長が聞いたら耳を疑うだろうが。それは事務所が常に火の車であって、他にも仕事を持つシュラインがそうというわけではない。にも関わらず経理も担当するうち金銭感覚に厳しくなったせいか、自身の経済生活にも影響を受けた気がする。――つまるところ、少々ケチになってしまったような。いや節約と言いたい。言わせて。
「シュライン、こっち。外の席が空いてるよ」
「そ、そうね。先に行って取っておいてくれる?」
そんな大人の事情を知るべくもないエルは、嬉しそうに頷くと軽快に走って行った。一足遅れてケーキと紅茶を乗せたトレイを手に、オープン席へとシュラインも向かう。
陽気はすっかり春めいて、風も穏やか。桜は丁度満開の時期を迎えている。柔らかな日差しを受けて輝くケーキに、エルの視線は釘付けになっていた。まるで待て状態の姿に小さく笑いながら、シュラインはどうぞ?と促す。お日様より顔を輝かせながら、頂きまーす!とエルが元気よくフォークを手に取った。
「そうだわ、武彦さんに電話……」
ちょっとごめんね、とエルに断ってから携帯で事務所の番号を呼び出す。三コール目で呼び出し音が切れて、失礼とは言わないまでも愛想のない声が返って来る。
『はい、草間探偵事務所』
「武彦さん?私」
『どこまで豆買いに行ったんだ、ブラジルまで行ったのかと思ったぞ』
「……そんな経費があると思って?貴方の義理チョコのお返しまで見てたんだから、少しくらい遅くもなるわよ」
そもそも何故私が貴方のお返しを買いに行かないとならないの?潔白の裏返し?それとも単に何も考えてないだけ?乙女心がわかってないんだから――渦巻くシュラインの心の内が伝わってるのかどうか、草間は呑気な声で「そうか、ご苦労さん」と労いの言葉を返した。
「ともかく、もう少し遅くなるから」
『なんだ、やっぱりブラジルに――』
「ブラジルから離れて。――デートしてから戻ります」
デート、の言葉に多少語気を強めながら一方的に電話を切った。ちょっと大人気なかったかしらとも思ったけれど、少しくらい心配してくれてもいいんじゃない?と意地悪な気持ちで。でもあの人のことだから、本気になんてしてないんでしょうねとも。信頼と言えば聞こえはいいけれど、少々寂しくもある。なんて言うのは贅沢かしら?
「シュライン、でぇとって何?」
黙って電話のやり取りを聞いていたエルが、フォークの手を止めて首を傾げる。
「え、えーと……男の人と女の人が仲良く出かける事、かしら……」
理知的な彼女にしては珍しく言葉尻が濁ったのは、思いもがけない質問だったのとエルの純真な瞳を受けて、出しに使ったようで申し訳ない気持ちが生まれてしまったから。そのエルと言えば、仲良くという表現が嬉しかったようで「シュラインと私は仲良し」とご機嫌そのものだ。余計に良心が痛んでしまう。
他の心理戦では冷静沈着なシュラインも、恋愛沙汰となればなかなかそうは行かない。慣れない事するものじゃないわね、と内心溜息をつきながら抹茶ロールに口をつけた。程よい苦味と甘味が口の中に広がって、気分を和らげてくれる。
「……今のが、シュラインの幸せの源?」
丁度伝えようかと思っていたところに、エルに先を越されて驚く。先程までとは違う真面目なトーンに顔を見れば、幸せそうにエルが微笑んでいた。――何故だろう、初めてその顔が子供っぽくない気がした。全てを慈しみ包み込むような、柔らかな微笑。
「源……というか、対象ではあると思うわ。でもどうして?」
「シュラインがくるくる変わるの、その人の所為かなって」
「私、そんなに顔に出てた?」
確かに人前であんな会話をしていれば、出ていてもおかしくないものだ。今になって少々気恥ずかしくなり、思わず頬に手を当てる。
「えっと……空気がね。そう、見えたの。顔に出るのは恥ずかしい事?」
「そういうわけではないけれど……ううん、やっぱり恥ずかしいかもしれないわ。みっともないところ見せちゃって」
みっともない?と目を瞬くエルに、シュラインは目元を和らげていささか寂しそうに微笑んだ。
「大人になると、色んな場面で感情を抑制しなければならなくなるから。人前でそういうのを見せるのは、あまり誉められた事ではないわね」
少し難しかっただろうかとエルを見遣ると、真剣な面持ちで何考え込んでいるところだった。やがて顔を上げると、微かに眉を寄せて気遣うようにシュラインを見つめ返した。
「私は、みっともないの、嫌じゃないよ。悪い事でもないと思う。色んな色が必要。幸せ作るのに、必要なものじゃない?えっと……ごめんなさい、上手く言えてる?」
不安そうに瞳を揺らすエルに、大丈夫、ちゃんと伝わってるわと頷く。ホッとしたように胸を撫で下ろしたエルが、再びクリームを絡め取った。至福そうな様子を見守りつつ、抽象的ながらも核心を突いて来るエルの言葉を頭の中で反芻した。
みっともない自分を晒すのを恐れるようになったのはいつからだっただろう。それは大人になれば誰しもが少なからず抱えている事だ。それでもあの人には随分見せている気もするけれど、格好つけてしまうところも多々で。取り立てて自分が素直でないとは思わないものの、割と不器用だという自覚はある。でもそれはあの人もきっと同じで、だからこそバランスが取れているのかもしれない。――要するに本質的には似た者同士という事かしら?ちょっと不服な気もするけど、だから居心地がいいのだろうか。
「シュラインは、考える人なんだね」
「えっ?」
唐突なエルの表現に、一瞬頭の中に有名な像が浮かんでしまった。慌てて打ち消すと、どういう事?とエルの説明を待つ。ショートケーキの最後に取って置いた苺を存分に味わったエルが、また考えをまとめるようにしばし黙り込んだ。やがて口を開きかけると同時に、澄んだ目がこちらを射抜く。睨んでいるわけでもないのに、心の奥まで見透かされるような強い眼差し。――まただ。この子は本当に子供なのだろうかと、疑ってしまう瞬間。
「単純な事、難しくしてしまう事とか、ない?周りの事じゃなくて、自分の事。頭のいい人によくあるから。――聞かせて。考えたのじゃなくて、シュラインが感じる幸せ。どういうの?」
ないとは言えなくて、我が身を振り返ってしまう。つい先程あったばかりだ。本当は、あの人に他意はないのかと直接尋ねればいいだけの話なのに。怖いわけではなく、躊躇ってしまう何か。
この子の前では嘘はつけない気がした。元より、つく気もなかったけれど。
「……そうね、私の感じる幸せは――」
何気なく過ぎる日常のワンシーンに散りばめられているもの。雨の日にさり気なく車道側に立ってくれたりとか、世話を焼かせる隙を作ってくれる事。もちろん全てがわざとだなんて思いもしないけれど、自分で出来るのにやらない事で私の居場所を作ってくれる。そういう口に出さない優しさが、あの人らしくて嬉しくて。
煙草の灰を無造作に落とす指先、階段を上ってくる足のテンポ、扉の開け方。依頼人に向けるものとは微妙にトーンの違う、低くてでもどこか温かい声。こんな風に苦労して買って来た豆で淹れたコーヒーも、きっとお礼は言ってくれないんだろうけど。美味しいんだなとその表情でわかるから。
一つ一つ思い出すようにして語り終えた頃には、シュラインの胸の奥に不思議な感慨が生まれていた。ほんわか温かくて、でも少し切ない。いつの間にか当たり前になりつつあった感情。それを再確認させてくれるかのように。
「……単純なのね、私」
呟いたその口調に、しかし自嘲の響きはない。むしろ、そんな自分を認めて受け入れる余裕を滲ませていた。――出来る事なら。もっと肩肘貼らずに自然体でいたい。あの人があの人のまま、私に示してくれるように。日常の中で、私も伝えられているのかしら?あの人はわかってくれているのかしら?
そんなシュラインを見つめるエルが、満足そうに一人頷くとテーブルの上に身を乗り出す。上目遣いにシュラインを見上げて、にっこりと微笑んだ。
「シュライン、とても素敵な顔。人が人を好き。それはとても純粋な原石だから、きっと間違っていないよ。……ありがとう、見せてくれて。教えてくれて」
「こちらこそ、エルのお陰で色々見つめ直せたわ。……ね、もしよかったら、これから一緒に事務所に行かない?――幸せ。もっと見せてあげられると思うから」
「えっ……いいの?」
もちろん、と頷くシュラインにエルの顔がぱっと明るくなる。提案してから、なんだか惚気る気満々みたいねと少し恥ずかしくなったけれども。あの人はこの子を見たらなんて言うかしら?子供は苦手と言いつつ実際は優しい人だから――ぶっきらぼうな反応を予想すると可笑しくて笑みが零れる。
さしずめ三人で並んだら親子みたいだろうか。なんて、想像がちょっと飛躍してしまったけれど、それも悪くない気がした。仕事が忙しくてまだまだ結婚なんてお互い考えられないけれど、シュラインだって女性として幸せな家庭に憧れる部分もある。
きっと十年二十年経っても、お互いお爺ちゃんお婆ちゃんになっても。あの人はコーヒーを黙って飲んで、私はそれを幸せに思うのかもしれない。そんな幸せを夢見るくらい、いいわよね?
「あ……でも……」
「どうしたの?」
言い難そうに視線を彷徨わせていたエルが、ピタリと自分の残っているケーキに目を留めた。それから、遠慮がちにシュラインの抹茶ロールへと。往復することしばし。
「これ……食べてからでもいい?あのね、シュラインのも味見してみたいんだけど……あ、私のもあげるから!」


□恋愛大人事情

薄汚れた壁の迫る狭い階段を、エルの手を引きながら上がる。築年数で言ったら間違いなく古い部類に入るこのビルに、エレベーターという文明の利器はついてはいない。やや勾配の急な階段は一番最初の頃はヒールで滑りそうになる事も多々あったけれど、今ではダッシュで駆け下りるのも余裕だ。それほど通い慣れてしまった建物には、愛着に近いものすら感じる。
昼でも薄暗い廊下を抜け、『草間興信所』と小汚い看板のかかった扉の前へ出る。看板からしていかにも寂れ具合を醸し出しているようで、いっそ取り替えた方がいいかしらと思わずシュラインは見つめてしまった。いや、看板だけ変えても意味はない。寂れていると言っても、客が少ないわけではないのだ。そう、決して。ただ一般の依頼人があまりに少ないだけの話だ。
それでも初めの頃に比べれば、多少はお金になる依頼も増えてきたように思う。が、入ってきた分諸々の支出もあるわけで、興信所に残るお金と言えは微々たるものに変わりはない。
経済状況に関しては、持ち込まれる依頼の質もあるだろうが、ひとえに草間の経営方針によるところが大きい。要するに本人が設けようという気がないのだ。別に貧乏を好んでいるわけではないだろうが、長年の付き合いでシュラインは悟っている。彼には商売上手なあざとさ、抜け目のなさが欠落し過ぎていると。加えて経理能力もないのであれば、繁盛する方がそれこそ怪奇でしかない。
でもそれが彼らしいとも思う。だからこそ自分が支えなければという責任感も沸くわけで、最近ではライターの仕事の方が副業となるくらい、ここでの激務に日々身を粉にしていた。
「ここがシュラインの仕事場?」
先程から目を丸くしているエルに、浮かんだ苦笑いを返す。エルはと言えばシュラインのような知的な女性が働く場と言えばもっと綺麗で現代的なオフィス(つまり興信所の真逆)を想像していただけに、いまいち結びつかない。辺りをキョロキョロ見回している。
「ただいま戻りました」
一声かけてからノブを回す。扉が開いて、漂ってくる嗅ぎ慣れた煙草の香。そして視線の先に飛び込んでくる年季の入った机。震度一でも崩れそうな山の傍に灰皿を置いて、新聞を広げているその姿。それだけでホッとする、いつもの光景。
「デートは楽しかったか?」
出迎えた言葉に思わず面食らう。まさか草間がその捨て台詞を覚えているとは思わなかったし、覚えていても触れてくる事はないだろうと思っていた。どうせ自分の冗談だろうと。事実そうだけれども。
違和感を感じたのはそれだけではない。気のせいだろうか、口調にいささか棘があった気がする。これも思いも寄らない事で、全く焼かないとは思わないまでも草間がまさかこの程度で餅を焼くはずもないと思っていたし、焼いても露骨に現してくる事はないはずだ。それが彼の性格だから。
「武彦さん……怒ってるの?」
新聞で顔が隠れたままの相手に思い切って問いかけるも、何がだと素っ気無い返事が返る。――おかしい。明らかに不機嫌じゃないの。でも何故?
「ええ、楽しかったわよ。ねぇ、エル――あらっ?」
こうなったら事情説明しようとデート相手を振り返るが、つい今しがたまで後ろにあったはずの姿がない。おかしい――その2。気配がまだ残ってる気がするのに、扉の外を見回してもどこにも影は見つけられなかった。呼んでみても沈黙が返るだけで、一体どうなっているのかしらと混乱してきた頭で扉を閉める。振り返れば、新聞から顔を覗かせた草間が皮肉げに口端を持ち上げた。
「外人とデートか、結構な事だな」
「ちょっと待ってよ、武彦さんおかしいわよ。何か変な物でも食べた?」
「おかしいのはお前だろう、デートなんて言われて俺が全く気にしないとでも思ったのか?」
絶句。変、変だわ。もしかして武彦さんの偽者?それともやっぱりどこかおかしくなったの?貴方がそんな台詞を吐くなんて、雪どころか槍が降ってきてもおかしくないじゃない。そしたらこの事務所は呆気なく潰れるわね、とかそういう問題じゃなくて。
「だって、それは――貴方がチョコのお返しなんて買いに行かせるから……」
うっかり口にしてしまってから、何を私馬鹿正直にと内心狼狽する。草間の変な調子につられて、普段ならば口にしないような子供じみた本音を曝け出してしまった。
電話の時に確かに多少そういう意識はあったけれど、でもそれがこんな事態に発展するなんて、いくらシュラインとは言え思いも寄らなかった事だ。いや、誰が想像出来たというのだろう。こんな草間を見たら皆何て言うだろうか。
「チョコの……お返し?」
訝しげに眉を寄せた草間が、ああ、と思い出したように声を上げた。どうやらすっかり忘れていたらしい。呆れたような表情で煙草を取り出すと一本くわえた。
「なんだ、そんな事気にしていたのか」
「気にするわよ!気にしないほど私は――」
さすがにその先は飲み込んだ。――私は。割り切れていないんだから。
驚いた草間がライターの手を止める。この人に向かって怒鳴るなんていつぶりだろうか。テンポが狂わされる。最近ではお互いの事を熟知しているからあまりなかった事だけに、どうしたらいいのかわからない。依頼ではどんな状況だって冷静沈着を崩さない自信はあるのに、こんないとも簡単に惑わされる。引っ張られて保てない。
「そんなもの、他意はないに決まってるだろう」
「そう思ったわ、思って嬉しくもあったけれど」
理屈じゃないの。続けようとした言葉は、あまりに自分らしくなくて再び喉の奥で止まってしまう。でもそれ以外にこの複雑な気持ちを表す表現が見つからない。
狭い部屋にしばらく静寂が降りた。響くのは裏路地を駆け抜けるバイクの排気音。こんな緊張は久方ぶりで、いつもの程好いものとは全く違う。そう、まるで片思いの時分に戻ったような。内で燻る不安が徐々に広がって行く。衝動があるのに、縛られたように動けない。
「………悪かった」
先に沈黙を破ったのは草間だった。気まずそうに視線を逸らしながら、低い声で呟く。
「本当に他意はなかった。だが配慮が足りなかったな、すまん」
「……いいえ、私こそ大人げなくてごめんなさい。疑ってたわけではないの、ただ――」
その先は言葉にならなかった。椅子から立ち上がってこちらにやってきた草間が、シュラインの顔を胸に押し付けるようにして腕を回したから。滅多にない行動にまたしても驚いてしまうけれど、草間の胸の鼓動が伝わって来て嬉しい。少し早いそれは、自分と同じで。彼も緊張していたのかなと。
服に染みついた煙草の香。伝わる温もり。意外とある硬い筋肉とか。触れる事で安心できる事もあって、それは時には言葉もいらないほど。こんなにも安心する。
「………………!?」
そのまま頭をもたれさせていると、ふいに草間が身じろいだ。顔を上げると、愕然とした様子で固まっている。どうしたのかと見守っていると、ゆっくりと降りてきた視線が眼鏡越しにぶつかった。途端、草間の耳がみるみる赤くなったのをシュラインは見逃さなかった。
「……こ、コーヒー。淹れてくれ」
ロボットのようにぎこちなく体を離しながら、草間が机へと戻っていく。途中何もないところで躓き転びそうになる様子はギャグちっくで、思わず吹き出してしまった。憮然とした背中が可笑しい。
もしかして何かの暗示にかかっていたのかしら?そう思ってしまうほど草間らしくない行動だったけれど、自覚はあるみたいだからあながち嘘でもないのだろう。追及するのも忍びないし珍しい彼が見れたのは得と思う事にして、みっともないところを見せたのはお互い様だ。でも時にはそれも必要なのかもしれない。
『みっともないの、嫌じゃないよ』
買って来た豆を取り出しながら、ふいに頭にエルの言葉が蘇った。結びつく線。もしかして、あの子――
窓の外に気配を感じた気がして慌てて視線を向けた。空と街並みは既に夜の気配に包まれている。その中で、風にひらひらと舞う、一枚の羽。白くて――小さい。


「良かった、ちょっと失敗しちゃったかと思った」
自分を探すようにこちらを見ているシュラインを見つめ返しながら、エルは胸を撫で下ろした。宙に漂う今の彼の姿はシュラインには見えない。寂しいけれど、存在を異にするものとして仕方のない事だ。それでも応えるように手を振ってみた。
『幸せ』を見せてくれたお礼に何かお返しがしたいと思って、今の自分に出来る力をほんの少しだけ使った。大人の二人が、大人に縛られないようにと。ちょっとだけ、自分の気持ちに素直になれるように。枷を外したのだ。
「でも――余計な事だったかな?」
たまにはと思ったけれど、何も言わずに通じているあの二人の事だから。わざわざ自分が手伝う必要もなかったのかもしれない。それほど、二人の見せてくれる『幸せ』は完成形に近かった。
「お母さん……って、ああいう感じかな?」
繋いでくれた手の温かさ。クリームを拭ってくれた指。頭を撫でてくれて、微笑みかけてくれた柔らかさ。全て覚えている。帰っても、二度と言葉を交わせずともきっと忘れない。
胸の奥が締め付けられるように痛かった。たった半日だったけれど、脳裏に浮かぶ数々の光景。きっとこれが、別れる事の辛さ。でも自分には自分の責務があるから、果たさなければならない。この二人のためにも。
でも、もしも叶うなら。来年またこの日が来たら、思い出してくれるだろうか?自分の事を。半分こしたケーキの事を。シュライン、忘れない?
「武彦はシュラインの事が大好きだよ。シュラインも武彦の事が大好き。大丈夫。――いと高き方。幸いなる二人に、更なる祝福を」


そして私からも。
ずっと。いつまでも、願っているから。






━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】


【NPC/草間・武彦(くさま・たけひこ)/男/30/私立探偵】