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『歌舞伎町ペンギン伝説』
ふと、日常を思う。
我輩の日常は概ね平穏と呼ばれるものである。夜明けと共に起き、日暮れと共に休む。
この島国に暮らす人間の大半が農耕によって生計を立てていた頃と変らず、我輩はその規則正しい生活を己に課している。
――尤もこれは己を律してのことではない。我輩の我輩足る所以が、その生活を我輩に求めているのである。肉体的制約とも言う。それに不自由を感ずることはあまりないから、制約と言うのも事実に対して正確とは言いがたいが。
前置きが長くなったが、つまり我輩は、平穏に日常を謳歌している。
朝起きて夜眠る。一般的と言われるライフスタイルは、それを平穏と呼ぶに足るだろう。平穏で、そして実に健康的だ。
だから我輩は今、我輩自身が置かれている状況に小首を傾げざるを得ない。
我輩は一体何をしているのだろう……?
ぺんぎん・文太(ー・ぶんた)は独白した。
彼が置かれている状況は、確かに彼の首を――何処までが首で何処からが身体なのかそもそも肩は何処なのか、それからにして不明ではあるのだが――傾げさせるに値した。
室内は適度に薄暗い。照明の数はこれでもかとばかりに多く、同時に華やかでありながら、室内を昼のように明るくは照らさない。人工的に調節された店内の明るさは、例えて言うのであれば黄昏時に似ている。あえて言うのであればの話ではあるが。その薄暗さは細かな粗を隠す。
例えば肌のくすみ、目じりの皺などの年齢の齎す極当たり前なもの。そして、笑顔に潜む痛み、すました顔に滲む疲労、見せない涙までもを。
薄暗さなの中にそれを捨て、笑いさざめく。
狭くはない室内に数多の男女が行き来する。迎えるのは男であり迎えられるのは女だ。
俗にホストクラブという箱の中に、文太は座っていた。
文太という名の鳥物の怪――ペンギンは。
因みに文太の言うところの『肉体的制約』とは。
要するに鳥目のことである。
極一般的に考えるに。
相生・葵(そうじょう・あおい)は女性客に囲まれながら、JINROのお湯割を短い手で(翼だろうか?)ぎこちなく作っている文太を眺め、目を細めた。丁寧に手入れしてある指を顎に触れさせ、思考する。
極一般的に考えるに。
いくら少々強引(当社比)に誘ったからと言って、ホストのバイトにやってくるペンギンはいないだろう。それ以上に、ペンギンホストの存在をあっさり受け入れる客と言うのもかなり高確率で有り得ない。増して、常連客をそのペンギンに持っていかれて、アイスマンで下がってきたら野郎絶対にタダじゃおかねえ等と歯軋りするホストというのは絶対に有り得ない。
だから極一般的に考えるに、
「うん。いい経験、させて貰ってるってことかな」
整った甘いマスクに極上の笑顔を浮かべ、葵は呟いた。
極一般的に考えるに、その結論が尤も有り得ない。
文太が接客についているテーブルは、文太を中心に女性がぐるりとその周囲を囲い込んでいる。ぎこちなく差し出されるJINROのグラスに、女性たちがいちいち黄色い声を上げている。他のテーブルの客も何事かとちらちら視線を送っている。現在店内で最も盛り上がっているのが文太のついているテーブルだった。
そのテーブルにホストが文太一人と言うのは少々心もとないだろう。誰もがそれを理解していながら、ヘルプに出ないのは、まあぶっちゃけた話、ペンギンのヘルプになど入れるかという、ホストとしてのプライドの為だろう。本気でプライドがあるなら、ペンギン相手に嫉妬の炎なんぞ燃やすなと言うのが人として正しいのは言うまでもないが。
そのホスト根性――的外れな嫉妬とも言うが――とは縁遠い葵は鼻歌混じりにそのテーブルへと近付いた。見れば店の常連客が何人かそのテーブルを囲んでいる。
「や、盛り上がってるね」
「あ、葵さん!」
「いらっしゃい。僕も混ぜてもらっていいかな?」
「やだ、葵さんも文ちゃんのファン?」
早速あだ名がついている。
笑いながらソファーに隙間を開けてくれるその客に、葵は憂いを含んだ笑顔を向けた。
「もう随分前からね。中々なびいてくれないから、すっかり冷たいベッドに慣れちゃったよ」
「……」
文太は無言で葵を見た。絡み合う視線に周囲を囲む女性たちからまたきゃーっと言う黄色い声が上がる。
「もうもう、葵さんってばお茶目なんだから。今度文ちゃんぬいぐるみ作ってきてあげるー」
「ありがとう」
と、笑いかけ、しかし葵は苦笑してみせる。
「どうせなら僕は本物の温もりが欲しいけどね」
「やだそれ文ちゃんのこと? それとも人肌?」
「どっちだと思う?」
意味ありげに微笑まれ、女性客は真っ赤になった。ホストクラブで相手はホスト。それは分かっていても、店内の雰囲気に飲まれれば何処となく本気の香りが漂う。最も葵の場合は本気の割合が強かったりもするのだが。
文太はと言えば飲みすぎたらしい女性客の背をとんとんと叩いてやっている。首を(何処が首なのかは見るものの判断に任せられるが)巡らしてさりげなくトイレを示していたりするあたり中々どうしてソツがない。そうしてその女性客をトイレへと誘導した後は、また短い手でライターを操り煙草の火を着け、短い手を華麗に駆使してルイをグラスへと注ぐ。既にボトルを入れている客が居る辺り、ホスト初体験にしては相当のやり手っぷりである。
――文太を褒めるべきか、或いは客を別の生物を見るような目で見るべきかはまた見るものの判断に任せるしかないところではあるが。
「じゃあ文ちゃんの正確なサイズー!」
「……」
「ああ、ずるいな抱き上げるなんて。じゃあ『文ちゃん』ごと、君を貰おうかな?」
さて、
「……店長」
「…………なんだ」
「いやなんだじゃなくって。なんなんですかアレは!」
「アレか? アレはな……」
状況についていけなくなりつつあるホスト達に詰め寄られた店長は、既にちょっとした束になりつつある伝票に愛しげに頬擦りした。
「レミーにドンペリ、ピンドン、ゴールド、それにルイ……しかも体験ホスト、知識も何もなく、単に葵に連れられてきただけの素人だが本日の売り上げナンバー1だ。いや、この分だと今月の売り上げもナンバー1だな」
「……はあ」
恍惚とした表情の店長に、ホスト達は所在なさげに顔を見合わせあう。
「お前達よく見ておけ!」
雄雄しく立ち上がった店長は、女性客と戯れる(女性客に戯れられる)葵と文太をびしりと指差した。
「アレが真のカリスマホストというものだ!」
有り得ねえ。感動の涙を流す店長に、声を出して突っ込めるものはその場に居なかった。
この日、伝説が生まれた。
それをして人は言う。
――歌舞伎町ペンギン伝説、と。
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