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■+ 空に青、地に緑 +■
守崎啓斗(もりさき けいと)の朝は早い。
太陽の昇る頃には起き出し、顔を洗い、朝食の支度をする。
そして最大の難関である、弟・北斗(ほくと)を叩き起こすと言う仕事をこなすのが、彼の日常となっていた。
本日もまた、毎日の日課と呼べるそれをこなすべく、彼は定刻通りにむっくりと起きあがった。
「……。何の夢だったけ?」
先程まで、確かに何かを見ていた気がする。けれど思い出せない。
あまり良い夢でなかった様な気がするが、それでも最後に弟が笑っていたのは覚えている。それで何故か救われた気がしたのだ。
生まれた時からのつきあいだ。
弟の表情は、それこそイヤと言う程多彩であると知っている。けれど何故だろう。啓斗の中では、一番印象に残っているのは、北斗の笑顔だった。
怒っている顔も、泣いている顔も、寂しそうにしている顔も、そして強い意志を感じさせる顔も、全て見ている。
その表情一つ一つは、決して啓斗に真似できるものではない。
それを何処か羨ましく思う反面、弟がいるからこそ、自分は頑張れるのだと思う。
「朝から何考えている、俺。……ま、良いか」
こくんと小首を傾げ、そう一言。啓斗は瞬きと共に布団から抜け出た。
時は三月とは言え、まだ朝は寒い。風邪を引いたら洒落にならない。彼は手早く着替えると、そのまま日常へと戻るべく部屋を出た。
朝食は何にしようかと考え、冷蔵庫の中を思い浮かべる。
確か卵と鮭の切り身があった筈。更に、夕べ作った豆腐のみそ汁がまだ残っていた。
ご飯は炊かなければならない。朝であっても、十人前はぺろりと言う勢いを持つ弟だ。食事毎の炊飯は欠かせなかった。
それにしても、毎食毎食の米はバカにならない。
「今週も、家計簿は赤いな」
今月と言えない辺り、守崎家の財政難を如実に物語っているかもしれない。
その前に、寝起きの悪い北斗を起こすと言う大仕事があるなと、啓斗は溜息を吐く。
啓斗が顔を洗うべく、廊下を歩いていると、丁度北斗の部屋の前で声が聞こえた。
どうやら今日は、少しばかり勝手が違うらしい。
『あっ! くそっ!! 多すぎたっ。……やべぇ。危うく家が吹っ飛んじまうとこだ……』
なかなかに不穏当な台詞が、中から聞こえる。当然ながら、それは北斗の台詞であった。
まあ、火薬を扱わせればピカイチの弟だ。大丈夫とは思うのだが。
いくら何でも、かかる火の粉を振り払い、何時の間にか大火事を起こす北斗であっても、まさか家まで燃やすことはすまい。
この年で言えなき子と言うのはちょっとしまらないし、この季節、興信所の屋上で寝泊まりするのもご免被りたい。
自分がそうなのだから、弟もそうだろう。
……きっと。……いや、そう信じたい。
何となく不安になってしまった啓斗は、そっと弟の部屋のドアを開けた。
背中を向けた北斗が、啓斗の目に入って来る。
がっしりとした、そう、もう小さくはないそれ。何時の間にか、……いや、一緒に育って来たのに、何故か初めて見た気がする背中は、とても大きく感じられた。
「……んなとこで突っ立って、何してんの?」
不意に北斗から、背中越しで声がかかった。
「うーん、もうちょっと派手に何とかなんねぇかなぁ……」
うんうん唸りつつも、守崎家次男は、善良な一般市民であれば危なくてしようがない火薬の数々を調合していた。
「破壊力よりも、こうなんつーか、目眩ましと言うか……」
口と手は、そうやって調合を繰り返しつつ、彼は別のことを考えていた。
最近、彼の兄が可笑しい……と言うか、何だか変なことを考えている気がする。この前の誕生日の時だって、北斗にしてみれば埒もないことを問いかけて来た。
情緒不安定か? とも思ったが、普通の時だってある。
「いや、当たり前だし、それ……あっ! くそっ!! 多すぎたっ。……やべぇ。危うく家がふっとんじまうとこだ……」
そんなことにでもなったら、笑顔般若と化した兄に瀕死の重傷を負わされてしまう。愛の鞭だと本人は言うものの、何処まで本気なのか解らない。勿論、意味なく殴る蹴るをすることなどないのは、良く解っているが。
『?』
扉から背を向けているが、そこに人が入ってきたのは十分すぎる程に良く解る。幼い頃から、ずっと共にあったそれだ。違える訳も、そして見失うこともない気配。
兄だ。
『兄貴が起きてるってことは、……うわ。貫徹したのかよ、俺』
これはどやされるなと思う北斗だが、依然その気配はない。静かな、まるで未だ人に踏み込まれたことのない森にある、湖の様に静かな気配だった。
啓斗は、何故かその場に突っ立ったまま、動こうとはしない。
何だか遠い。
多分二人の距離は、たった数歩。
けれどその中にある何かは、幾万の星々の中を泳いでいる時の様に、果てと言う終着地点が見えなかった。
『こう言うの、俺ダメだ……』
やはり先に焦れて来るのは、北斗の方だ。
「……んなとこで突っ立って、何してんの?」
その言葉に、漸く兄が動いた。
千年の眠りから覚めた都市の様に、永劫の追憶から引き上げられた精霊(ジン)の様に、それはゆっくりと呼吸を始める。
北斗はそっと、安堵の溜息を吐いた。
「いや、何だか不穏な言葉が聞こえた気がしてな」
「………」
振り返ると、兄は何とも言えない顔をしている。
ゆっくりと小さく笑うと、彼の傍らにしゃがみ込み、何時の間にやら散らかし放題となっている部屋を片づけ始めた。
黙ってそれを見ていると、兄の気遣いが良く解る。
火薬の類には一切手を触れず、もう使わない機材のみを片づけていた。恐らく、いや絶対に、兄は解っているのだ。
こうして無造作に置いている様にも見えているそれが、実は北斗なりの最適な位置に置かれていると言うことを。自分自身でも、無意識的に行っている事柄。それを理解する以前に感じている啓斗は、彼の性格を現す様に、火薬を避け、几帳面に機材だけを纏めて行った。
「お前、火薬扱いだけは、父さんより上手くなったな」
苦笑混じり、ぽつりと言われた一言。
それで北斗は、先程あった兄の沈黙の理由を悟る。けれど気付かないふりをした。
「そか?」
ちろりと啓斗の顔を見ると、何処か遠い場所を見ている様だ。
『何か、イヤだ』
思う北斗は、それを吹き飛ばすべく、にかっと笑って切り返す。
「兄貴も、薬関係はすごいじゃんよ」
「そうか?」
「うん」
北斗は笑う。
ただただ、兄にも、笑顔を浮かべて欲しくて。
何処か不安げなそれではなく、心の底からの笑みを。
だから北斗は、戸惑いすら置き去りにして、笑った。
「兄貴も、薬関係はすごいじゃんよ」
弟に、まさかそう返されるとは思わなかった。
褒めたら、即座に意気揚々と、そして自信満々嬉々として、火薬談義が始まろうかと思ったのだ。けれどその反応は、予想外で……。
「そうか?」
「うん」
迷いもなくそう言い切る弟を見ていると、眩しくて目を眇めてしまう自分がいる。
自分と同じ時をして生まれた弟は、確かに瞳の色を除き、姿は瓜二つだ。けれどその内は、全く違う。
空の青と地の緑。
何だか二人の内を現しているかの様な瞳の色だ。
昼であろうと夜であろうと、何処までも広がりを見せる空は、まるで弟を見ているのかとの錯覚を起こす。
対する自分は、その空に手を伸ばし、何時かは混じり合いたいと願う木々の様だと感じる。
空は落つることはなく、恐らくは世界の果てへと到着する時が来て、漸く二つは近しくなるのだろう。
疲れ果てた空が落ちる時、それを受けるのは自分だ。いや、受け止めてやりたいと、啓斗は願う。
例え遙けき昔に臍をかんだことがあったとしても、異なる界で悲嘆にくれていようとも、今の己は、そうありたいと思った。
「あ、そう言えば、兄貴にぴったりなヤツがあるぜ。卵で爆薬…っつーか、焼夷剤作んの。料理みたいだろ?」
「卵?」
この弟は、何時も自分の思考の上を行く。
思わず小首を傾げてしまう自分がいた。
「そう。卵と砂糖とガソリン。あ、このガソリンって、兄貴が油汚れを掃除する時に使ってるので良いんだぜ? ほら、大掃除で使ったりするだろ?」
思わず、弟の頭に拳骨を落としてしまう。
「食べ物を粗末にするな」
「ううううっ、痛ぇよ、兄貴……」
頭を押さえつつ、涙目になって言う北斗だが、日頃の修行の賜か、啓斗の躾の成果(?)か、即座に復活している。
「だって基本じゃん。ある物使って凌ぐってのはさぁ……」
「それはそうだが、……にしても、別に今は何も困ってないだろうが」
「兄貴、固く考えすぎ」
「それを言うなら、難しく考えすぎだろうが」
「あ、そだっけ? うーん、兄貴にぴったりの言い方だと思ったんだけどなぁ…。って、嘘……。俺、兄貴に突っ込まれてるし」
「どういう意味だ」
あまりにショックだと言う顔をしている北斗を見て、思わず聞き返してしまう。
「いや、えーと……」
誤魔化しつつ、にへらと笑う弟に、何故か安堵してしまう。一緒にいると、とてつもなく不安になるのに、同時に安心もしてしまう。
危うい橋を渡りそうになる自分を引き留めてくれるのが、この目の前にいる北斗だ。
もしも彼がいなければ、自分は今まで生き延びて来れたであろうかと考えてしまう。
兄弟で良かった。
一緒に生まれて来れて良かった。
それ以上を願うことは、もう超涯であろう。
けれど、もしも願いが叶うなら。
いや、願っても良いのなら。
「お前の様になれたらな……」
瞳に映るは、大きく見開かれた奥にある、深い、青──。
何を言うのだろう。
違うからこそ、二人なのに。
違うからこそ、一緒にいられるのに。
違うからこそ、こうして相手を感じることが出来るのに。
「んなの、つまんねーよ」
内なる思いを押し込めて、北斗はにっと笑う。
上手く笑えたかどうかなんて、関係ない。
「俺とそっくりじゃ、目立たねぇじゃん」
唇を尖らせ、少し拗ねた様に言う。
「ああ、でも俺は、……お前になってみたい」
視線を外し、ぽつりと言う啓斗に、北斗は言い知れぬ苦楚を感じる。
「んじゃ、俺を真似んの?」
じっと見た。
映るのは同じ顔、けれど違う人。
自分の兄だ。
近い過去、同じ場所を辿って、二人一緒に生まれた兄だ。何よりも濃い、血と言う絆を持って生まれた兄だった。
深い森の迷路(メイズ)を彷徨っているかの様な緑の瞳。それと平行に走る、今は隠されてはいない傷跡。
こんなにじっくり兄を見たのは、何時振りだろうか。
北斗は、何一つ見逃すまいと言う様に、ただただ兄を強く見つめた。
逸らされたままの視線をもどかしく思いつつ、それでも彼には破格の辛抱強さを持ってして、返る兄の言葉を待つ。
「そうなってみたら、楽しいかもしれないだろ?」
何処か諦めた様な微笑みは、北斗の心に食い込んだ。
今まで傍らで座り込んでいた啓斗が、すっと音もなく立ち上がる。じっと見ていた北斗も、啓斗の動きで顔が上がった。
最後に見せた微笑みだけで、啓斗が静かに部屋を去る。
止めようもなく、ただその啓斗の背中を見ていた北斗が、一つ大きな溜息を吐いた。
「どうやったって、兄貴は兄貴だろうがよ……」
北斗は、勢いを付けてごろんと床に寝転がり、ぼんやりと天井を見つめながら、去った背中を思い出す。
自分になりたいと言う兄。
「……。何だよそれ。兄貴、自分のこと、嫌いなのかよ」
何故そんな風に思うのだろう。
双子だからと言って、何もかもが同じである筈もなく、そして違うからこそ良いのだ。互いに成り代わりたいなど、思って欲しくはない。
昔から、何処か啓斗は、自分と言う個の意識が希薄だと感じることがあった。自分と人──正確には自分達兄弟と他人──を区別しながらも、何故かその中心たる自分を、否定したがっている様に見えるのだ。
けれど啓斗は啓斗だ。
彼だからこそ、必要としている人もいる。その最たる者が、自分だと、北斗はそう思う。
北斗は全てを覆い隠してしまう様に、密やかに瞼を閉じた。
「目、閉じてたって判るぜ? 俺はきっと…」
例え七度(ななたび)、時を超え、天を抜き、地を分かち生まれて来たとしても──。
Ende
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