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<東京怪談ノベル(シングル)>


神という存在

 焔樹は、神に仕える狐の中でも最上位に任ぜられる者である。
 しかしかつて生きた地上を忘れることができなくて、焔樹はときおり地上に降りてきてはあちこちを見物してまわっている。
 普段は人の街などに行くことも多い焔樹であるが、今回は少々趣きを変え、やってきたのは深山幽谷の真っ只中にぽっかりとあいた空間を訪れていた。
 その空間に浮かぶのは神が降り立ったとされる神聖な森であり、もちろん、そこに立ち入る者など滅多にいない。
 天界ではなく、また、下界とも違う。
 両者の中間地点のような聖地で、焔樹はクスリと楽しげな笑みを漏らした。
 下界でとくにやりたいことがあるわけでもなく。
 天界に帰るのも気分的にめんどうくさい。
 そんなときに焔樹は、稀にここを訪れる。
 聖地と呼ばれるここは、とある秘湯への道を閉ざした結界の扉となっているのだ。
「ここに来るのも久しぶりねえ」
 目の前に鬱蒼と繁る木々を眺め、焔樹は迷うことなくその奥へと歩を進める。
 慣れぬ者には迷宮の如き様相を見せるこの森も、焔樹にとっては自分の庭も同然。
 しっかりとした足取りで奥へ奥へと進んだ先に唐突に、小さく開けた空間が現れる。
 その中心には白い湯気をたてる泉――これこそが、この地の秘湯だ。
 焔樹にとっての本来の姿とは狐の姿であるはずなのだが、どうしてか、この秘湯にはどちらかといえば人型で入るのが好きだった。
 服を近場の木の枝に無造作にかけて、暖かなお湯に浸かって。
 焔樹は、ふう、とひとつ息を吐いた。
 そうしてのんびりとした動作で、両手で軽く湯をすくいあげ、ざっと顔を洗って天を仰ぐ。
 空と、そして森の緑が焔樹の視界に映し出される。
 なんと言えばよいのだろう……。
 この瞬間が。
 焔樹は、とても好きだった。
 自分がまるで、この森の一部になったような感じがするのだ。
 それはとても不思議な感覚であるとともに、とても心地よい瞬間でもある。
「……他の人は、どうなんでしょうね」
 そういえば、人間は温泉好きが多いのだっけ、なんてことがふと頭の隅に浮かんで、焔樹は柔らかな笑みを零した。
 今まで一度だって、誰かと湯殿とともにしたことなんてない。だから焔樹には、他の者がどうかなんてわかりようもないのだけれど。
 ここで感じる森の空気は広大で、それは神に通ずるものがあると思う。
 明確な存在としての神ではなく……果てなき世界に広がる大自然のようなものだ。
「誰かと入る機会があったら、是非聞いてみたいものね」
 人間の街でならまだしも――あそこには銭湯というものがあるから――こんな、秘湯……秘湯とまでは言わずとも、外の空気を存分に味わえるような温泉とか。
 そんなところに誰かと行く機会が今後あるのかどうかはわからないが。
 ……わからないけれど、ふと、考えてしまったのだ。
「目に見えぬ神の力を、そなたは……なんと呼ぶ?」
 ここにはいない誰かに。
 もしかしたらいつかともに在るかもしれない誰かに。
 ひとり言のように問い掛ける。
 いや、ここには焔樹しかいないのだから、その問いは結局ひとり言なのだろう。
「……珍しいな」
 自分が、そんな問いを持つことが。
 ことさら人との接触を嫌っているわけではないが、かといって特別親しくなることもあまりなかった。
 ここの神秘的な空気のせいかもしれない。
 静かで、穏やかで、どこか寂しい。
 そう。
 寂しいのだ。
 ここは確かに心穏やかになれる大好きな場所なのに。
 大きすぎる自然を感じる時、人は誰でもそんなものなのかもしれないと、ふいに思う。
 自分のあまりの小ささを無意識に自覚して、だから。
 寂しくなるのかもしれない。


 もう少し。
 もう少しだけここでのんびりして。
 そうしたら、どこか賑やかな場所にでも行こう。

 なんとなくそんなことを思って、焔樹は楽しげな表情でふうとひとつ、息を吐いた。