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『子羊たちの一日』
【朝】
――― 悠香 ―――
下の子たち……孤児院で一緒に暮す大切な弟や妹たちとの一日の始まりはいつも大声から始まる。
「こらー、大人しくしなさーいぃ」
両拳を握って朝から大声を張り上げる。本当は朝から大声なんて出したくない。私だって朝はいつまでもお布団の中に入って寝ていたい。
起きたら朝ごはんが用意されている、というのが夢だ。周りの子みたいに何にもしなくってもすべてがお母さんがしてくれたらどんなにいいだろう?
だけどそんな生活とは無縁。シスターというお母さん代わりの人が居るけど、でも自分の事は自分でやる、というのがこの孤児院の最低限絶対のルール。上になれば上になるだけ孤児院での仕事も増えていくし。
高校生の私の役割は小さなお母さん。シスターの右腕。
だから起こされるのが夢な私が他の子を起こしてる訳で。ん? そういう風だからそれを夢見るのかな?
わからない。
だけど決してこの生活が嫌だという訳ではない。
高校生ながらに家事全般を任されてる事だって苦ではない。
血は繋がってはいないけど、下の子たちは本当に大切でかわいい弟や妹たち。
きょうちんっていうお兄ちゃんもいる(時々世話のかかる弟になるけど)。
シスターだって本当に優しいお母さん。
孤児院で生活してるからって、世間で陰口言われるようなかわいそうな子じゃない。私には家族がちゃんといるんだから。
だからこの生活は大丈夫。好き。大切で愛おしいと思える。
――――だけれども…………
「もう、こら。お姉ちゃんの言う事を聞いて、皆!」
「わぁー、悠香お姉ちゃんが怒ったぁー」
「怒ったぁー」
「おったぁー」
今日も朝から元気いっぱいな皆は私がどれだけ声を張り上げて注意しても全然聞いてくれない。それどころかこうやって茶化す始末。
子どもは三種類に別れる。冷めた目で騒ぐ子たちを見つめてるだけのおませさんグループ、私の仕事を手伝ってくれようとする世話焼きさんグループ、そして騒がしい落ち着きが無いグループ。
おませさんグループはそれはそれで心配でもあるけど一番忙しいこの朝という時間に手がかからない分はありがたい。
だけど落ち着きが無いグループは本当に落ち着きが無くって、それから少し私を舐めてる部分がある(というか甘えきってくれてる)みたいで、だから全然言う事を聞いてくれなくって、それで世話焼きさんグループはそういうところが気に入らないみたいであれこれと落ち着きが無いグループに言って、それでやっぱり落ち着きが無いグループはそれが気に入らなくって、故に………
「うるっさいなー。おまえらにそんな事を言われる筋合いは無いんだよ。ばーか。ばーか。ばーか。ブース」
「何ですってー! 何よ、あんたたちの方がいつまでも子どもで悠香お姉ちゃんを困らせる馬鹿でしょう!」
「だって子どもだもんねーだ」
「きぃー」
………こんな風にグループ同士の戦いが起こって。
「あ、あのね、皆。もう本当に静かに…して………」
もうどうにも収拾がつかなくって叱ると言うよりもお願いする、という感じになってしまって、私はもう本当にどうすればいいのかわからなくなってしまって、そしたら、
「こらー。静かにしないと昼のプリンはないぞー」
私たちのお母さん、シスターの一喝。
そしたらぴたりと子どもらの声は止まる。
………私が注意してた時はちっとも聞いてくれなかったのに。ぶぅー。
少し恨めしげに見てやる私に構いもせずに子どもらは口を両手で覆いつつ互いに見詰め合って視線で会話している。
私はげんなりと溜息を吐く。
だけど本当にシスターはすごい。プリンを人質に取るなんて。確かにプリン大好きなこの子たちには効果的な攻撃。メモメモ。
「ほら、皆。早く学校に行く用意をしなさい。遅れるわよ!」
シスターは腰に両手を置いて声を張り上げる。そのシスターの一声に子どもらはわぁーと声をあげながらそれぞれの部屋に戻っていった。
それからシスターはへなへなとその場に気が抜けて座り込んでしまった私を見て、私の頭を撫でてくれた。
私はそのシスターの手の感触と温もりに安らぎを覚える。本当にシスターは不思議で優しい人。その時に私が求めている事をやってくれるし、欲しがっているモノを与えてくれる。
――――私にはそんな風にできる自信は無い。どうやったらそんな風になれるんだろう?
シスターは私の母であり、姉であり、そしてそうなりたい憧れの女性。
「ご苦労様。いつもありがとうね」
その言葉だけで充分。私はシスターに微笑んで見せる。それがシスターへの答え。大丈夫。全然苦労なんかじゃないよ。
「はい。でも大切な弟や妹たちだから」
「ええ」
シスターが伸ばしてくれた手を掴む。
「ほら、早くあなたも準備しないと」
「はい」
私はそれから自分の部屋に戻って、すかっりと子どもら相手に駆け回ってしまったせいで乱れた髪にブラシを入れなおして、曲がってしまったタイを神経質に直して、姿見の前で制服のチェックをする。
「よし。OK」
「今日も綺麗だね、悠香お姉ちゃん」
にこりと笑ってそうおべっかを使ってくるのは同室の子。彼女は中学3年生。それからやっぱり毎朝同じようにブラシとヘアーゴム、それからヘアピンを持ってくる。
「お願い、悠香お姉ちゃん」
ぱちんと顔の前で両手を合わせて私をおがむその子。
私は溜息を吐きながら肩を竦める。
「しょうがないな。じゃあ、はい。姿見の前に立ってください。お嬢様」
「はーい♪」
その子がそう返事をしたと想ったらやっぱり、他の女の子もブラシとヘアーゴム、ヘアピンを持ってやって来る。妹たち全員が。
「「「「「悠香お姉ちゃん、お願い。わたしたちもやってぇ」」」」」
「まったく。はいはい。わかりました、お嬢様方。順番ね」
「「「「「はーい」」」」」
私はくすくすと笑う。
妹たちはいつもこうやって互いに交換し合ったりするヘアピンやらヘアーゴムなんかを持って私の所にやってくるのだ。
だけどその気持ちはわかる。髪を弄りたいのは女の子なんだから当たり前。少しでもかわいい髪型をしたい。でも皆がこうやって私の所にやって来るのは髪型をセットする、という事が目的なんじゃなくって、セットしてもらう事が目的。そういうのが本当に私たちにとって願いなのだ。私だってそうだった。幼い頃は毎朝シスターにお願いして色んな可愛い髪型にしてもらったものだ。シスターの温かな手が私の髪に触れるのがとても嬉しかった。
だから私は自分がそうだったから絶対に妹たちの髪をどんなに急がしくってもやってあげる事にしている。
「ほらほら、できた。皆かわいいよぉ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
最後の子の髪をやって私は溜息を吐く。それからちらりと時計を見ていけないと想う。
「早くシスターを手伝わないと。って、その前にきょうちん」
私は部屋を出て、私のお兄さん、御手洗京也の部屋に行く。
扉をノック。
「きょうちん、起きてる? 朝だよ、時間だよ」
と、言ってもきょうちんはいつも布団の中。夢の中。
―――きっと今日もそうだろうと想って、私はドアノブに手をかけようとして、
ゴンッ
目の前に星が散った。
私は思わず開いた扉にぶつけた額を押さえて、その場に座り込んでしまった。
「痛ぁ〜い」
涙目でドアを開けた人物、きょうちんを見上げて、私の状況を訴える。
きょうちんは私をどこか生気の無い目で見ると、一言、
「悪い」
そう言って、食堂の方へと行ってしまった。しっかりと学校に行く準備をして。いつもは本当にぎりぎりなのに。
っていうか、悪いの一言で済まされた………!
「きょうちん、ひどい」
だけどそれにしてもきょうちんってば本当にどうしたんだろう? めずらしく早起きで、準備もしっかりとしていて。
「明日は雨かな?」
まあ、私に気付かずにドアを開けて、額にドアをぶつけたのはそのせいとして、ほんの少しのささやかな復讐で許してあげるか。
私はくすりと笑って、それで「本当にプリンあげないわよー」とシスターの声が聞こえてくる食堂の方へと向った。
――― 京也 ―――
髪にムースをつけてセットし、ネクタイをしめる。
それからブレザーの上着を羽織って鏡に映る自分にきりっとした表情を浮かべてみせる。
「変な顔。似合わん」
マジでそう想う。なんというかそんな表情は俺にはこそばゆく感じられる。それでもそういう表情を浮かべなくっちゃいけないっていうのを思い知らされた就職活動。
裏表があるのが大人。大人の言葉は額面通りには受け取れない。社交辞令とか色々。そういう大人に対する反抗が俺の中にはあった。
シスターはとても大切な人。尊敬してるし、大好きだし、愛情もある(家族としての)。
―――おそらく俺は俺が認める大人はシスターだけだと想う。
それでも俺はどうしようもなく周りに…社会に反抗してしまう。
自分でもどうしようもないのだ、その感情は。
俺は、俺たちは絶対に不幸じゃない。
孤児院は世間が言うような場所じゃない。家族なんだ、ここで暮す皆は。大切な弟たち、妹たち。そしてシスターというお母さん。
大切な人、場所。
守りたいと想う。
守ろうとした。
守る方法が、
訴え方が、
ただ粗暴だっただけ。
ひねくれていたんだ。
そして苦手だっただけ。自分の感情を素直に表現するのが。
馬鹿だなーと想う。
後悔している。
呆れてもいる、不器用な自分に。
どうしてももっと俺は上手くやれなかったんだろうって。某アニメのあの坊主の小学生のように。彼のようにまるでおまえは口から生まれてきたのかってつっこみたくなるぐらいにあんな風に誰にでもおべんちゃらを言って、上手く誰にでも取り入れる世渡り上手の要領の良い人間だったのなら、就職はできているのだろうか?
あ〜ぁ、何で俺はそうできなかったんだろう?
だけどしょうがない。これはきっと俺の性なんだろうから。
子どもっぽいひねくれた感情表現……今までの素行のせいで俺は就職できないでいた。
本当にどうしようもない。
守りたかったモノを守ろうとした。
だけどその方法を間違えたせいで、その守りたかったモノを守れない状況にいて。
本当に俺は馬鹿だ。
「しょうがねーなー。っとに、俺はよ」
鏡に映る俺はどうしようもなく情けない顔をしていた。
今日、学校に前に受けた会社の結果が届いているはずだ。
――――自信は、無い。
憂鬱だ。
コンコン、そんな時に部屋に響いたノック音。
心臓がどくん、と脈打った。重い痛みがじわりと胸に広がる。
「きょうちん、起きてる? 朝だよ、時間だよ」
妹、矢島・悠香の声。
だけど今はあまり悠香と会いたくなかった。
――――嫌いだからじゃない。
好きだからだ。
そう、悠香の事はずっと大切な妹だと想っていた。
ずっと一緒にこの孤児院でシスターの子どもとして、兄妹として暮してきた女の子。
何時からだったのだろう? その悠香が、妹から、ひとりの女の子となったのは?
俺は悠香を女の子として見るようになっていた。
好きだった悠香が。
とても大切で愛しい女の子。
シスターや他の下の子たちに抱いている家族愛とは、違う。
それは確かな恋心。
だけどそれは同時に俺を苦しめた。
怖かった。
その想いを彼女に告げて拒絶されるのが。
―――この大切な空間が、関係が壊れてしまうのが。
俺は寂しさを知っている。
独りの。
シスターたちと出会うまでは俺は独りだったから。
でも今は違う。
大切な場所、人たちができた。
もう独りじゃない。
だからこそ独りなのが寂しいと知る俺はその感情に気付いたが故に、悠香に壁のような物を最近作ってしまっていた。
本当にジレンマだ。
しょうがない。
不器用な、俺。
ゴン、
「痛ぁ〜い」
「悪い」
「きょうちん、ひどい」
そんな会話さえ愛しいのだけど、でも今はその余裕が俺には無かった。
そして俺は何でも無いフリをしながら、しかし内に重いモノを秘めて、学校に行った。
――――――――――――――――――
【昼】
――― 京也 ―――
どうにも授業に出る気にはなれなかった。
朝のホームルームが終わると、担任は俺を廊下に呼び出して、会社の結果を教えてくれた。
結果は………
そのまま俺は学校を早退して公園の小山形の滑り台の上で寝転がっていた。
本当に俺は大馬鹿だ。
それでも腹は空く。
12時きっかりにぐぅーと鳴った腹の虫。
身を起こして、あぐらをかいて座った俺は、枕にしていた鞄から悠香が作ってくれた弁当を出した。
弁当の中身には俺の嫌いなモノが一品入ってる。
それを見た瞬間に悪戯っぽく笑う悠香の顔が思い浮かんで。朝のささやかな復讐。
俺はしょうがねーなー、って感じの苦笑を浮かべながら弁当を食べた。
弁当はとても美味かった。
悠香の作る飯は本当に美味い。
シスターよりも。
悠香が好きだ。
とても大好きだ。
本当にとても大切な子。
だからこそ、俺は自分の気持ちを言えない。
それに言う資格は無いように思えた。
だって今の俺は自分のやってきた事のツケでにっちもさっちもいかない。
どうしようもない。
とてもじゃないけど、悠香を背負えない。守れない。彼女に何もしてあげられない。それが苦しいんだ。
そして恥かしい。
―――自分の素行の悪さで、守りたいモノを守れない自分が。
俺は悠香が好きだから、だからこそ彼女に自分の弱みを見せられない。
弱い部分を彼女に見せるのが恥かしい。
見栄っぱりでカッコつけ屋。でもそれが男の性。
本当にしょうがない。へこむ。好きだからこそ。
そのまま俺はまた寝転がり、空を見ていた。
青かった空。
どこまでも青く広がる空。
白い雲。
それがだんだん移りゆく。
蒼から橙色に。
そんな時分に下から聞こえてきた声は子どもが喧嘩をする声だった。
「若いってのはいいねー」
俺は前髪をくしゃっと掻きあげて、笑う。
だけどどうやら事はそうも言っていられないようだった。だってよくよく聞いていると、喧嘩をしている小学生のガキの声に聞き覚えがあったのだから。
それに喧嘩の内容はどうやら孤児院の事のようだ。
俺は跳ね起きて、滑り台の上からそれを見下ろす。
弟は泣きながら、それでも………
「謝れぇー」
と、向っていった。
1対3。
数では圧倒的に不利。ひとりで弟は三人に向っていく。
―――泣きながら。
だけど俺はそれをとめるつもりは無かった。
だって弟は自分の大切なモノのために戦っているんだから。
そう弟が戦っているのは三人じゃない。
もっと大きなモノなんだ。
あの弟は喧嘩なんかをするような奴じゃないから、きっとシスターだろう。
俺はシスターの顔を思い出す。じわりと胸の中に何かが広がった。
いつも俺もあんな風に喧嘩していた。
孤児院暮らしを馬鹿にする奴らと、悠香をいじめる奴らと。
そして喧嘩して、ぼろぼろになって、それから泣いている悠香の手を引いて、歩いて孤児院に…シスター、お母さんの所へ帰っていったんだ。夕方の世界を。
シスターはいつも温かく迎えてくれた。泣いている悠香を抱きしめて、悠香は大声で泣いて、俺はいつもそれを見ていた。
喧嘩をしていた小学生たちが帰っていく。
そしてそこにちょうど通りすがった悠香。
彼女は慌てて倒れている弟に駆け寄って、声をかけている。
それで弟は心配して傷の手当てをする悠香に抱きついて、大声で泣き出した。
夕暮れ時の世界で、声の限りに感情のままに、悠香に抱きついて。
泣いている弟を抱きしめる悠香の姿はシスターにそっくりだった。
とても優しい風景。
それを見てる俺の心は焼け焦げるようだった。
ちりちりと。
沸き立つ感情は俺もそんな風に悠香の胸の中で泣いてしまいたい、って。
そうだ。俺だって本当はシスターの腕の中で泣いてしまいたかったんだ。子どもの時のあの時に。
だけど俺はおにいちゃんで、男の子だから、だからシスターにだって弱みを素直に見せられなかった。
「本当にしょうがねーなー、俺は」
くしゃっと前髪を掻きあげながら俺は肩を竦めると、滑り台を滑り降りた。
「見事だったぞ、弟よ」
俺はくしゃっと弟の頭を撫でた。悠香は俺の顔を見て苦笑する。
「大丈夫か?」
「うん。でも足が痛い」
「しゃーねーなー。じゃあ、俺の背中を今日は特別に貸してやるよ」
「わぁー、いいなー」
俺は弟を負ぶって、それで悠香と並んで帰った。
――――――――――――――――――
【夕方】
――― 悠香 ―――
きょうちんと並んで帰る。
会話は無かった。
きょうちんは少し大人びて感じた。
横目で見るきょうちんはとても優しい顔をしていた。
きょうちんの背中で眠る弟が羨ましく思えたのは内緒。
夕方は私にとっては特別な時間。
幼い頃、友達は皆お母さんが迎えに来てくれていた。
それが羨ましかった。
いつも公園に最後まで残るのは私ときょうちん。
砂場で遊んでいた私。
またひとり、ひとり、友達が帰っていく。
それを羨ましそうに私は見ていたんだと想う。そしたらきょうちんが私に手を差し出してくれる。
私はその手が大好きだった。
温かくって、力強い、とても大好きなお兄ちゃんの手。
いつも泣いていた私。いじめられていた。
でも怖くは無かった。哀しかったけど、怖くは無かった。
だっていつもいつも私が泣いていると、きょうちんが来てくれたんだもん。きょうちんは本当に私にとってヒーローだったんだ。
だけど最近、そのきょうちんの様子がおかしい。
時折妙に不安定なのだ、きょうちんが。
でも私はそうと想いながらもきょうちんに対してどうすればいいのかわからない。
――――私はいつも泣いていた。
泣いている私をシスターは抱きしめてくれていた。
だからきょうちんは泣けなかった。シスターの腕の中で。
私は大好きなきょうちんにどうその借りを返せばいいのだろう?
「どうした、悠香?」
「ううん、なんでもないよ」
「そうか」
私はきょうちんに微笑む。
夕方の優しく柔らかな橙色の光。それはとても優しい。だけど同時に終わっていく一日を感じさせる哀しい光。
――――その光りの中に何故か今のきょうちんは溶け込んで、消えてしまいそうに思えた。
ねえ、きょうちん、あなたは何をそんなにも憂いているの?
何度も口からでかかった言葉。
だけどそれを言ったらきょうちんとの何かが壊れてしまいそうで、私はそれを言えなかった。
きょうちんの事を想うたびに胸がとくん、と脈打って、かすかな痛みというか落ちつきなさを覚えて、ほのかに顔が熱くなるのは何故だろう?
――――――――――――――――――
【夜】
――― 京也 ―――
シスターは昔から俺たちの面倒をひとりでみてくれていた。
自分の事は自分でやる、そういう最低限絶対のルールはあったけど、だけど結局は裏でシスターが手伝ってくれているのは知っていた。
知っているだけで、でも俺はシスターに何もしてあげられなかった。
もどかしかった。
どうしようもなく、自分の無力さが。ガキなのが。
だから大人になりたかった。
大人になれば、大人になって就職すれば、シスターを助けてあげられると想った。
そうやって少しでもシスターに恩を返したかった。力になりたかった。好きだからこそ。
大切だからこそ。
でもダメだ。
想いばかりで、気持ちが空回っていた。
ごめんな、シスター。どうしようもない息子で。
気持ちが沈む。
塞ぎこんでいく。
イライラ感が収まらなかった。
「きょうちん、この宿題、教えて」
「京也、ごめん。悪いけど、その子に教えてあげて。私は今、大富豪で忙しいから」
「あのなー」
「きょうちん、宿題。これ」
ダメだ。
どうしようもできない。
沈んだ気持ちは俺の余裕を奪う。
このままでは何となく当たってしまいそうで怖かった。
傷つけたくない。
傷つければ、またへこむ。
………。
「きょうちん、どこに行くの? きょうちん」
「こら、京也。っとに、どうしたんだろうね、あの子は。ほら、こっちにおいで。私が教えてあげるから」
背中に家族の声を聞きながら俺は扉を閉めて、ひとり、夜の闇の中に立った。
――― 悠香 ―――
「きょうちん、どこに行くの? きょうちん」
「こら、京也。っとに、どうしたんだろうね、あの子は。ほら、こっちにおいで。私が教えてあげるから」
きょうちんが行ってしまう。
私はそのきょうちんの後ろ姿を見送る事しかできなかった。
「どうした、悠香?」
シスターが優しく微笑む。
まるで私を見るシスターのその赤い瞳は私が抱く想いや、きょうちんの想い、私が知らぬきょうちんの想い、そして私が気付けないでいる私の想い、そういうのを全部見透かしているような、そんな瞳だった。
もうすべて何もかもシスターに言ってしまおうか?
そしたらシスターがすべて上手くやってくれる。
そんな風に想える。
だけどそれが正しいのかどうかはわからない。
私はわかっている。きょうちんの不器用さを。
ううん、不器用なのは私も一緒。
そんな想いを抱きながら私は下の子たちの面倒を見て、それからシスターと一緒に明日の朝食の下ごしらえをしていた。
その時に、シスターが言ってくれた。
「悠香が想っている事を京也に言ってあげな。それはきっと京也の力になるから。悠香は自分が想っている以上に京也に大切に想われているんだから、だからもっと京也の中に踏み込んでもいいんだよ。まあ、恥かしがってる心の壁は簡単に壊れるだろうよ。その壁は嫌悪ではなくって恐怖なんだから。あの子も本当に不器用な子だ。欲しいなら欲しいって口にださないと手が届かないのに。大切なのは手を掴んで、それからどうするか、って事なのにね」
恥かしがってる心の壁?
私は小首を傾げる。シスターは何でも無いと顔を横に振って、そして笑いながら私の背中を叩いた。
「痛い」
そしたらシスターはまた大声で笑った。
――― 京也 ―――
ひとりで居ると、そこに悠香が来た。
俺たちは別に何を話すわけでもなく孤児院の裏庭のベンチで星を見上げていた。
だけどふいに悠香が俺の服の袖を引っ張った。
「ん?」
小首を傾げると、悠香はにこりと笑って、自分の膝をぱんぱんと叩いた。
「膝枕をしてあげる」
………何を言い出すんだ、こいつは?
「いいよ」
「照れなくてもいいじゃない、きょうちん」
「照れてなんかは…いない」
「だったらいいんじゃない」
そして悠香の手が俺の頭を撫でて、俺の頭は自然に悠香の膝の上に。
ふわりとした柔らかな悠香の膝の弾力はとても気持ち良かった。ほのかに香る悠香のつけてるコロンが俺の鼻腔をくすぐって、心臓の脈打つスピードを跳ね上げさせた。
「悠香」
「ん?」
「また少し太った? 膝の柔らかみ=肉付きの良さ?」
ゴン、っていうのは俺がベンチから落ちて、尻を打った音。
「っ痛ぇーなー、何すんだよ、悠香?」
「きょうちんが女の子に対して失礼な事を言うからでしょう? 言う、普通。年頃の女の子に。もう、本当にデリカシーの無い」
「何を今更。誰がおもらしをしたおまえのパンツを着替えさせたり、洗ったりしたと想ってんだよ」
「きょうちんのばかぁー」
ぽかぽかと叩いてくる悠香に俺は笑う。
それでそしたら、悠香は俺をぎゅっと抱きしめてくれた。
胸の双丘にそっと俺の顔を当ててくれた。とくんとくんとくん、と悠香の白のセーター越しに彼女の心臓の音が聞こえてきた。
優しい音色。とても愛おしいリズム。
泣いている赤ん坊が母親に抱かれた途端に泣きやむのは母親の優しい温もりと柔らかみ、そして子宮の中でいつも聞いていた心臓の音を聴く事ができて、安心できるから。
もちろん、悠香の心臓の音を聴くのはこれが初めてだけど、でもとても安心できた。
悠香の手が俺の頭を優しく撫でてくれて、もう片方の手が俺の背中を撫でてくれる。
「焦ることはないから。きょうちんの気持ちは、皆分かってるから、だから頑張れ」
はっとした。
そして涙が出そうになった。
夕方に感じた胸のちりちりとした焼け焦げるようなあの感触。
好きだから、
大好きで、愛おしいから、
だから何もかも振り捨てて、悠香に抱きついて、
悠香の温もりに包み込まれながら、
泣いてしまいたかった。
感情のままに。
泣いて家に帰った幼い子どもが、母親に抱かれて、泣いてしまうように。
真っ暗な暗闇に居た俺。
その目の前に温かな光がゆっくりと降りてくる。
その光に照らされていたい。
その光を抱きしめたい。
その温もりに抱かれて生きていきたい。
だから俺はその光に指を伸ばす。
触れそうになる、手の指の先が。
だけど、俺は、その手の指を引っ込めた。
―――今はまだ俺は悠香には触れられない。
甘えられない。
甘えてもいいかもしれないし、
泣いていいのかもしれない。
でも俺はそれを嫌ってしまう。
弱い部分を見せたくなかったんだ。
好きだからこそ。
守りたいからこそ。
自分を。
悠香を。
本当にカッコつけ屋で、不器用な俺。
「結構、悠香って胸あるのな。Cカップ…Dぐらい?」
「きゃぁー。きょうちんのスケベ。最低。信じらんない」
そう言いながら悠香は俺を後ろに突き飛ばして、それからあっかんべーをして、部屋に戻っていった。
俺はその彼女の後ろ姿を見送る。
声は無しに、唇だけを動かして。
「ごめん。あともう少し待ってて、悠香。俺は直ぐに大人になって、おまえもシスターも、そしてここも守るから。守るから」
――――――――――――――――――
【ラスト】
「主よ、今日も無事に我と我の愛しき者たちが主の愛情の下に過ごせた事を感謝いたします。エィメン」
―――シスターの祈りが夜の闇に静かに柔らかに広がって、溶け込んで、そして朝を迎える。
悠香は真っ赤な顔をしながら部屋の扉をノックする。
返事が無くって、扉を開けると、いつも通りに京也は眠っていて、それで悠香はかけ布団をひっぺはがして、京也を叩き起こして。
いつもと同じ朝の光景を繰り返す。
「きょうちん、すぐに準備。早く着替えをして、食堂に来る事」
「はいはい。じゃあ、着替えるから出て行ってくれる? それとも俺の着替えを見たいのなら別だけど」
「ばかぁー。もう信じらんない」
ばたんとドアを閉めて、それからそのドアに悠香はもたれて、呟く。
「待ってるから、がんばれ、きょうちん」
そしてそのドアを見ながら京也も微笑む。
「さてと、んじゃ、ばっちりと決めて、進路指導室にある求人票のチェックにでも行くか」
こうして今日も京也と悠香の一日が始まる。
― fin ―
++ライターより++
こんにちは、御手洗・京也さま。
こんにちは、矢島・悠香さま。
はじめまして。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
今回はご依頼ありがとうございました。^^
こちら、『子羊たちの一日』は不器用でだけどどうしようもなく真っ直ぐで純情な京也さんと悠香さんの想いをその視線でPLさまに感じていただきたくって、一人称で書かせていただきました。
シングル『聖母の一日』は三人称で書かせていただいております。
少々、暴走してしまいました。^^;
というのも実は京也さんと悠香さんの関係がもう本当にどうしようもなく大好きなシチュエーションでして。ですからそこかしこに砂糖菓子のような甘い描写を書いてしまいまして。
だ、大丈夫だったでしょうか?
少しでもPLさまに気に入っていただけますと幸いです。
京也さんははっきりと恋愛感情を抱いているけど、悠香さんはわからないようですね。
ぜひとも本当にこの二人には幸せになってもらいたいな、と想います。^^
シチュ、ツインシチュで、三人さまを書かせていただけて、本当に嬉しかったですし、書き甲斐がありました。^^
またよろしければご依頼してくださいませね。^^
ファンとして京也さんと悠香さんの恋、そしてシスターの親の愛情を見たいと想います。^^
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼、本当にありがとうございました。
失礼します。
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