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桜墓標
最初の餌食は散歩途中の犬だった。飼い主が視界から『彼女』を見失った、僅か数分のことである。
愛くるしい尾を揺らしていた白い毛皮は忽然と姿を消し、まだ使い込まれてもいない青い首輪だけが、老樹の根元を濡らした紅い海の中に残されていた。
鑑識の結果、それは獣の血だと断定された。
彼女は帰ってこなかった。
そして、その不穏な出来事から一週間が経ったある日、藍原和馬の元に、一本の電話が入った。
「殺人、スか」
『好きだろう? そう言うの』
冗談めかした言葉だが、壮年の声は笑っていない。
いつ頃できた伝だろう。手に負えないと判断した事件を、彼は和馬に流してくる。
日の丸を背負う仕事についているが、その威厳も権威も、部下ではない和馬には及ばない。
「人聞きの悪いこと、言わないでくださいよ」
大きなパンダの頭を抱え直し、和馬は言った。
店頭で催された福引き所から、アタリを知らせる賑やかな声が聞こえてくる。今日は、ドラッグストアの開店祝いに忙しい。和馬には、親子連れの足止めと言う大事な役割があるのだ。早々に事務所を引き上げないと、賃金にマイナス査定がつくだろう。
受話器の向こうの声は、そんな和馬の心配をよそに低く笑った。
『全くお手上げだ。目撃証言通りなら、の話だが』
「バイト中なんスよ」
和馬が放った一言に、彼はわかったと言ったがかけ直すとは言わなかった。双方が慣れた、暗黙の了解である。これで、返事を返す手間は失せ、話が簡潔になった。
和馬は無言で携帯を耳に押しつけていた。
途中、二度ほど、花粉症の事務員が繰り返した盛大なくしゃみに邪魔をされたものの、内容はほぼ把握できた。
「終わったら、見に行きますよ」
そう言って、電話を切る。
「その前に、『クマさん』を、しっかり頼むよ」
振り返った和馬に、イライラとした店長の視線が突き刺さった。
四月の夜風は、まだ少し冷たい。
和馬が解放されたのは、とっぷりと日の暮れた後だった。幸いにして給金を引かれることもなく、たくさんの子供達の笑顔と、時にパンチやキックを受けバイトは終了した。
大きなパンダ頭の失せた首が軽い。和馬は飄々とした足取りで、件の現場へやってきた。
「桜、ねェ……」
太い幹である。恐らく、和馬が両腕を回しても、まだ足りないであろう。枝はやや垂れ気味で、白桃色の花弁に彩られていた。
ソメイヨシノではなく、エドヒガンザクラと呼ばれる歴史の長い種だ。古物を扱う中で染みついた知識が、和馬にその名を連想させた。
「古いな……百年、いや、二百年か?」
満開の花をつけてはいるものの、覇気がない、と和馬は感じた。
桜が立っているのは、最近、分譲が開始された高層マンションの一角であった。丸太を見立てた低いコンクリートの杭と、たわんだチェーンが桜を保護しているが、ひょいと足を上げれば、どちらも子供が易々とまたげる高さである。
周辺住人たっての希望で残されたらしいが、建設業者にとっては邪魔者だったに違いない。剥き出しの土の周囲は、余すところ無くびっしりと綺麗な薄茶色のタイルが敷き詰められていた。
「元気が無くなるのも、当たり前か」
和馬は、事件の中身を反芻した。
初めは犬が、そして次は男が犠牲となった。
いずれも死体は見つかっていないが、二度目の事件には目撃者がいた。マンションの住人が、ベランダから一部始終を見ていたのだ。
被害者は、三十代の会社員であった。最終電車も過ぎた頃、男は往来をやってきて、桜の前へ差し掛かった。目撃者からは死角になる位置である。
見えなくなったその直後――男が絶叫をあげ、突然ヨロヨロと後退した。誰かが潜んでいたようだ。木陰から伸びた白い腕が、男の胸にずぶりと沈んでいた。咄嗟に何が起こっているのか、判断しかねる光景だったと言う。
シャツが赤い。それ以外、浮かんだ言葉は無かった。目撃者が呆然と見下ろす前で、男の体が二度、三度と大きく痙攣した。
そして、男は女と共に桜の幹に吸い込まれた。
現場に前回同様のおびただしい血と、男の所持していた通勤カバンが残されていなければ、目撃者は夢でも見たのだろうと警察官の嘲笑を買っていただろう。
「さて、始めるとするか」
和馬は鎖をまたぎ、硬く湿った土を踏んだ。首筋から背中にかけて、ビリリと『気配』が走った。
突如として風が巻く。花弁が舞い、視界を遮られた。
和馬は目を細めた。花のうねりが収まった時、『それ』は姿を現していた。
女である。白い着物に、金糸の椿と橘模様が鮮やかだった。長く垂らした髪の間から、朱い唇が笑いかけてくる。和馬の視線は三日月に歪むそこから、同じ色に染まった腕に落ちた。
『オ前ハ食エナイ』
「初対面に向かって、随分なことを言うな。そりゃあ、肉は硬いかもしれんが」
軽口を叩く和馬を、女は冷たく突き放した。
『何ヲシニキタ』
「しかも、せっかちと来た。んじゃ、単刀直入に行こうか。『何故、そんなことを?』」
和馬の問いに、女はツと顔を上げた。赤い光彩を放つ目には、角膜が存在しなかった。
『生キ長ラエルタメダ』
ヒラヒラと、和馬の目の前を白いものが落ちてゆく。
「なるほどね。もしかして、『コイツ』の為か?」
和馬は花を見上げた。覇気が無いと思ったのは、気のせいではなかったようだ。女も老樹の死期を気取っているのだろう。否定しない代わりに、きゅっと唇を結んだ。
「何百年か知らんが、永く生きたんだろう? 血肉を与えても、命を延ばしてやることはできないぜ?」
『デキナクテモ、シナケレバナラン。死ナレテハ困ル』
「その理由は」
『ココニ帰ッテ来ル。約束シタ』
「あァ」
そうか――
女を透かして、和馬は過去を視ていた。
それはもう、随分と古い話のようだ。辺りには長閑な田が広がり、家々の屋根は藁を葺いていた。女は若く小綺麗な姿で、旅支度の男を見送った。
そうか――
小さな呟きに、僅かな悲哀が混じる。
女はずっと待っていた。帰らぬ理由はわからない。だが、確実に言えることが一つあった。
「人の命は短い。アンタが待っている男は、残念ながらすでにこの世にはいないだろう」
『ダマレ!』
女は凄まじい怒りを、和馬に叩きつけてきた。刃物のような鋭い気が頬を薙ぐ。
和馬は身じろぎもせず、言い放った。
「見てきたはずだぜ? ここで、アンタを見上げる人間達を。歳を重ねて老いてゆく姿を」
女は納得しなかった。
『死ンデナドイナイ! 約束シタノダッ!』
白色が和馬の胸に伸びた。指だ。人間なら視認できないであろうスピードであった。だが、和馬には見えた。咄嗟に動いた右手が、女の手首を掴む。
「信じないならしょうがない。だが――俺も仕事だ。『人を食う桜』を放置して、帰るわけにはいかないんでね」
『クッ――』
女は和馬の手を振り払い、樹の後方に飛び退いた。額に小さな突起が現れている。
帰らぬ男を待つ女は、果ててもそれを止めなかった。鬼に魅入られてしまったのか、それとも鬼になることを望んだのか。どちらにしても、悪鬼になりかけているのは確かであった。
和馬は上着の内ポケットに手を伸ばした。
『殺スノカ』
「いや、アンタはもう死んでるだろう? 殺す必要はない。送ってやろうってのさ」
和馬も女も動かない。対峙したままの距離を保った。女の口から、嘆息が漏れるのを和馬は聞いた。
『何故ダ。何故、戻ラナイ。待ッテイタノダ――待ッテイタノダ! ダガ……寿命ニハサカラエナカッタ』
「桜も同じだ」
沈黙する女を和馬は見つめた。小さく傾けた顔に、悲しげな色が乗る。
和馬はポケットから取り出した手を、ダラリと脇に下げた。指の間に、小さな紙を挟んでいる。梵字の浮かび上がるそこに、女の視線が止まった。
『ワカッテイタ。アレハ、モウコナイト』
踊る花びらが一片、和馬の肩に止まる。
『見ロ……桜ガ、私ノカワリニ泣イテイル』
それを一目して、和馬は呟いた。
「悲しいことは忘れろよ。その方が楽だぜ?」
不意に視界が暗くなり、和馬は空を見上げた。月が雲の影に入ったのだ。一握りの雲海を、淡い光が象っていた。
『ソレガデキタラ、ドレダケヨカッタカ……』
弱い囁きであった。目を戻した和馬の前で、憂いを乗せた血の色の瞳が濡れていた。
女は振るえる声で言った。
『獣ノ匂イガスル人間ヨ――裏切ラレタコトハナイカ? 取リ残サレル哀シミガ、辛クハナイカ。待ツ間ノ、孤独ノ痛ミヲ知ッテイルカ?』
和馬はゆるゆると首を振った。
さァ――
「どうだったかねぇ。忘れちまった」
『オマエハツヨイ』
女の涙が、微かに笑んだ白い頬を伝った。
『あぁ? 人を食ったのは桜じゃなく、オニでしたってか』
「ンなこと言ってもスねぇ。そうなんだから仕方ないスよ」
『どうやって報告すりゃあ良いのか、教えてくれよ』
「んまァ、頑張ってください」
日の丸の肩書きに、わざとらしく『サン』を付けて呼ぶ。
電話の向こうで彼が渋面を作る姿を想像して、和馬はニヤリと笑った。
お礼はあとで。そう言って踏み倒されたことが何度あったか。忙しない勢いに飲まれる前に、和馬は電話を切った。
青空に、花が萌える。
「綺麗ねぇ」
「そんな暢気なこと、言ってる場合じゃないのよ。ここでさァ」
通り過ぎ行く娘達の声を、和馬はスーツの背で聞いた。
そら、人食い桜なんて不本意な呼び名が、ついちまったじゃねェか――
ただ静かに舞う薄桃を、和馬は見上げる。
あの悲しげな瞳は、何色だっただろう。鉛、それとも闇、血の色か。すでに曖昧としてハッキリ思い出せなかった。
「強い、ねェ……」
忘れて生きるケダモノが?
そう、心に問いかける。
永い永い年月を越え、その間にいくつもの忘却を繰り返した。それは果たして、『強さ』なのだろうか。
「わかんねェ……」
和馬はブルンと首を振り、頭から考えを振り落とした。
果ててしまわない限り、これからも続く道だ。肯定であろうと否定であろうと、答えを出すことに意味はない。
――お疲れサン。
黒いスーツが、老いた墓標に背を向ける。
桜はもう、泣いていない。
終
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