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『Yesterday』
Yesterday、昨日があるから今日がある。
今日の積み重ねが過去を作り、
過去があるから今日がある。
未来は今は見ない。
ただ今日を生きる。
そうすれば過去という名の今日の足跡ができて、その足跡がいつか俺に今日を生きる力をくれるから。
ふいに過去という名の今日の足跡を振り返りたくなる。
それは懐かしい匂いを嗅いだ時だったり、
双子たちやフェンの何気ない言葉だったり。
だけど俺には失われた感覚があった。
味覚。
舌がある時から何も感じなくなったのだ。
しょっぱいも、塩っ辛いも、すっぱいも、甘いも、苦いも、何も。
でも別にそれを辛いとは想わなかった。
民話などで語り継がれる人の味覚とは、ただ腐ったモノとか体に悪いモノを判別するために神は人に味覚を与えたのだ。
俺はもうどうなろうがいい。
―――あの子が居ないこの世界に何の意味がある?
世界はあの日あの時に俺を残して壊れさった。
あらためて想う。
俺の世界はあの子を中心にして成り立っていたのだから、それは本当に当たり前の事なのだ。
色を失ったモノトーンの世界。
あやふやな自分。
どうしようもなく破滅的で、世界にも、自分自身にすらも興味の無い俺。
だから味覚が無くとも関係無かった。
+++
俺にとってもあの子は特別な子だった。
『海とお空の色』
―――見る者の心に禍々しさを感じさせる蒼い瞳を見たあの子が言ってくれた言葉。
そして俺がユーンにあの子を引き合わせてから、ユーンにとってもあの子は特別な存在となった。
あの子を失ったユーンの世界は粉々に壊れただろう。
それは俺も同じ。
俺の世界の中心もあの子だったんだから。
大切な恋人が死んでしまって、世界の中心で叫ぶ?
俺もユーンも叫びようがなかった。
世界の中心が喪失してしまったんだから。
そして核を失った世界はぽっかりと穴が開いた中心から即行で壊れさった。
色の無い世界。
そこに生きる俺とユーン。
『あのね………幸せのおすそわけ』
―――幸せだったあの子。
その幸福は確かに俺にもユーンにも与えられていた。
与えられていたからこそ、それが無くなった時、狂おしいほどの喪失感は決定的にあいつを傷つけた。
硝子細工だったんだ、ユーンの心は。
俺は、俺のこの蒼い瞳のせいでキツイ想いも多くしたが、一族の有望な若者として特別扱いされていたが、でも違った。俺はいつも独りだった。心は茫洋な喪失感…一体何を何時失ったかもわからないほどの何かを感じていたが、でも、そう、俺にはあの子もいたが、ユーンも居たのだ。
それが俺の心の糸をぎりぎりで繋ぎとめた。
しかしユーンは違う。
ようやく手に入れた大事なモノ………あの子。
それを失った時、あいつの硝子細工のような心はどうしようもなく決定的に致命的な罅が微細に走り、そしてそれはあいつに欠如をもたらした。
あの子を失った俺とユーン。
俺たちがそれ以降に出会ったのは『羈絏堂』。
安心した。
優しい人に出会って、癒されていっているユーンに。
彼女はそういう人だった。
きっと俺は彼女に母親を求めていた。
ユーンはどうだったのだろうか?
―――それはわからない。
だけどすべてに絶望して、諦めて投げやりだったユーン。彼女と会うまでは荒廃的だった奴も、しかし彼女と出会い、この時計の精霊が居る『羈絏堂』で過ごすうちに少しずつ頑なに閉じていた蕾みが花開くように心に色を付けていった。
世界の中心が彼女になる事も良いと想った。
それで本当にあの子を失った哀しみが紛れる事は無いかもしれないが、それでも心は何も無い時よりかは救われる。
それで良い。
それで良いと想ったんだ、俺は。
少しずつ、少しずつ、少しずつ変わっていくユーン。
しかし事は予想もしてなかった方向に向った。彼女は『羈絏堂』をユーンに任せて旅に出てしまったのだ。
だけどその判断を俺も支持したいと想う。彼女は自分が奴の大切な場所になるのではなく、ユーンに居場所を与えてくれたのだ。
そうだ。そうかもしれない。俺もユーンも想えば居場所が欲しかったのかもしれない。
そしていつかあの子が俺たちにくれたモノを誰かに分け与えられるようなそんな人に。
その想いが運命を引き寄せたのか、
それともその運命があったからこそ、
こうなったのだろうか?
やがて『羈絏堂』には双子という新たなユーンの家族が居座るようになった。
ユーンはよくやっていると想う。
忌み嫌われていた殺人人形が、双子の父親をしているのだ。
―――あの子にもらったモノは確かにユーンの中にあって、そして根付いていたのだ。
それが花を咲かせ、そうして双子の中にも種を飛ばす。
きっと双子もその種を自分たちなりの育て方をして、花を咲かせるのだろう。
そしてまたその花が他者の心の中に種を飛ばす。
それでもユーンの心にできた欠如はそれで埋まらなかった。
『よぅ、死にぞこないの時計屋』
『なんだ、フェン。また来たのか?』
『ああ。お前が寂しがってると思ってな』
『誰がだ』
『で、今日の昼飯は何だ?』
『うちで食べるつもりか、フェン』
『ああ。もう何も食わずに『羈絏堂』に来るっていう事が完全に習慣になっていてな』
『知らないよ、そんなのは』
『だがお前さんもまだ何も食べていないんだろう? だったらついでじゃないか。ひとり分作るのも二人分作るのも同じだ』
―――『羈絏堂』をユーンが任されたての頃はよく『羈絏堂』に足を運んでいた。彼女のユーンに居場所をやる、という考えには賛同できていたが、しかし心配ではなかった訳ではない。
良い方向に変わりかけてきているユーンがまたどうにかならないか心配だったのだ。
ユーンは双子に対してものすごく心配性だが、どうやら俺はユーンに対して過保護らしい。
『ほら、フェン。昼ご飯だ』
平然と出された皿の上の料理にしかし俺は唖然としたものだ。
ちりめんじゃこスパゲティーに醤油をかけたモノだったのだから………
『……腹に入れれば同じだと思ってンだろう?』
『それがどうかしたか?』
首を傾げたユーン。明らかにこの時の奴は俺の方こそがおかしいといった風な感じで俺を見ていた。
味オンチの料理下手な奴はよくオリジナリティー溢れる創作料理のつもりでとんでもない料理を作ったりするが、こいつのはおそらくはそういう訳ではないのは何となく窺えた。
あいつの料理はまあ、見た目も手順もまともだ。だが味付けのみは壊滅的に間違っている。調味料等の組み合わせ方がおかしいんだ。
そう。たぶんおそらくあいつは……
『ほら、これが普通の美味しい料理というものだ』
放っておけずに俺は一週間、朝昼晩とユーンに料理を作ってやった。
それをユーンは別に何の感慨も無さそうに食べていた。
それでもやはり俺が時たま訪れると、あいつの作る料理は凄まじいモノであったが。
そんな物を毎日食べさせられる双子には正直同情などもしていたりする。
だからこそたまに『羈絏堂』に行った時はあいつらに上手い料理を作ってやろうとも思うのだが、しかしユーンはどうやら俺の味覚を信頼はしてはいないらしい。それはこっちも同じなのだが。
+++
『……腹に入れれば同じだと思ってンだろう?』
『それがどうかしたか?』
フェンとそんなような会話をしたのは師匠が出て行ってからすぐだろうか。
あの当時、フェンの奴は何かというと『羈絏堂』に出入りしていた。
別に然したる用事が無いのなら来る必要も無いだろうに勝手に押しかけてきては、
『で、今日の昼飯は何だ?』
『うちで食べるつもりか、フェン』
『ああ。もう何も食わずに『羈絏堂』に来るっていう事が完全に習慣になっていてな』
『知らないよ、そんなのは』
『だがお前さんもまだ何も食べていないんだろう? だったらついでじゃないか。ひとり分作るのも二人分作るのも同じだ』
と、図々しくご飯まで食べていく始末。
そのくせ、奴は、
『先代店主の姐サンはメチャ料理うめェのに……』
『俺の料理に対する解釈は間違っているが、あの人の料理は美味しいな』
『いい加減認めろって、お前の飯がま…』
『フェン?』
にっこりと笑って、フェンに皿を投げつけた。
いくどとなく繰り返したやり取り。
もちろん、俺はフェンの言う事なんて信じない。
そう、たとえ俺の味覚が欠如してしまっていたって。
味覚の欠如、あの子を失ってしまった時、俺という存在には徹底的に罅が入ってしまった。
そしてその俺からは味覚というモノが欠如した。
だけれども俺はべつにそれを不幸とは思わなかった。
興味が無かったんだ。自分の事すら絶望的に。だからどうでもよかった。じぶんがどうなろうが。
それでも出会いがあった。
雨の日に。
師匠との出会い、
託された『羈絏堂』という場所、
守るべきモノたち(時計の精霊、双子たち)。
それらが少しずつモノトーンの世界に色付けてくれていった。
だけれども時折俺の中に居る違う俺が囁く。
それがどうした?
それが何になる?
人間が死んでしまったペットへの悲しみを癒すために違うペットを飼うようにおまえも違う場所、モノたちを得て、それで自分を慰めるか?
そうやって自分の傷から目を逸らして、生きていくか。
忘れるなよ。所詮は『羈絏堂』も双子も時計の精霊も、フェンすらもおまえにとってはあの子の代わりでしかなく、そしてそれではおまえの中にある欠如は補えはしないさ。せいぜいそうやっておまえは自分で自分を慰めていろ。
と。
そうやって囁かれるたびに闇が俺を囚える。
沈んでいく深い闇に。
かすかに色づいていた世界が再びモノトーンの世界に逆戻りして、俺はその世界にただ独り。
壊すのは簡単だ。
世界を。
あの子が居ないのなら、それならこんな世界に何の意味があるだろうか?
壊したくなる、世界を。
壊してしまえ、世界を。
それでも俺がかろうじて理性を得られているのは、あの子がくれた過去と、そして師匠や双子、フェン、『羈絏堂』での想い出があるから。
+++
料理は愛情だ。
それさえあればどんな料理も美味くなる。
確かに俺には味覚は無い。
それでも嗅覚がある。嗅覚で料理の匂いをかぎながら味付けしていけば大丈夫なはずだ。
現に俺が作る料理の香りは最高だ。
芳しい匂いの料理が不味い訳が無い。とやかく文句をつけるフェンの舌の方がおかしいのだ。
「フェン。来るなら来ると事前に連絡しろ。いきなり来られてご飯を要求されても困る」
―――それにおまえはいつも食べるだけ食べて、文句を言うし。
「ほら、カレーだ。これならいくら味覚のおかしいおまえでも食べられるだろう」
「よく言うぜ。味覚がおかしいのはお前だろう。しかしまあ、カレーならただルーを入れるだけだから安心して食えるがな」
文句を言いながらスプーンを手に取るフェン。
しかし本当に美味いはずだ。
じゃがいも、ニンジンを黄金比で切って、玉ねぎ2つを切って飴色になるまで豚肉と一緒に炒めて、もう3つの玉ねぎとリンゴは摩り下ろして、それらすべてを一緒に煮詰める。
ルーを入れて、その中にソース、マヨネーズ、ポッカレモンを入れる。そうすれば香りはとてもまろやかになって。
「ふん、美味いはずだぞ、フェン」
「どうだか」
フェンは鼻を鳴らしながらカレーを口に入れた。そしてそのままフェンは固まる。きっと美味かったのだろう。
+++
偶然の賜物だろうか?
いや、カレーなんて子どもにだって作れる簡単な料理だ。本当に。
だからそれなりに食べれたってまったく不思議は無い。
しかしそれをとんでもなく不味く作るのがユーンなのだ。こいつは味覚で味付けするのではなく、嗅覚で味付けをするのだから。
なのにそのユーンがまあまあ食える料理を作った。
それは一体どういう事なんだろうか?
「双子が作ったのか?」
「失敬な奴だ」
「じゃあ、本当にお前が作ったのか?」
「そう言ってるだろう」
しかし本当に驚いたな。
あのユーンが食える料理を作った。
俺は常々、ユーンの味覚が無い事を疑っていた。だがユーンは尻尾を掴ませない。そのユーンの態度に釈然としなかった。
いや、だからといって俺はそれを知ったとしてもあいつを問い詰める事はしない。ただ言って欲しかった。
黙っていられる事が辛かったのだ。
そう、言って欲しかっただけ。
しかしどうやらユーンの奴はまた俺が知らない所で知らない変調をきたしていたようだ。
多分きっと俺がこいつに抱くのは危なっかしくって繊細な息子を持つ父親の感覚なのだろう。
「どうやら本当に俺は随分と過保護すぎるようだ」
俺は苦笑して、スプーンを持つ手を動かした。
ユーンの少しはまともな料理がこれからも食べられるのか、それともこれがただの偶然の産物なのかわからない分だけ、このカレーは食い甲斐があった。
【ラスト】
フェンはいつもと同じように食っていった。用意した料理の全てを。
あいつは気付いている。
俺に味覚が無い事に。
でも俺はあいつにそれを掴ませなかった。
心配かけたくなかったんだ。
―――きっと知られたくなかったのは俺が抱く暗い想い。
それでも俺の味覚はあの正月から少しずつ蘇ってきていた。
それはおそらくはあの子の事が少しずつわかってきたから。見えてきた未来。
だから世界は色づき、味覚も。
フェン。
おそらくは俺はおまえに何も言わない。
言えない。
言いたくないんだ。
おまえは俺の大切な親友だからこそ、言えないんだ。
「悪いな、フェン」
そうやって今日を過ごし、
その今日が昨日となり、
いつの間にか心の奥底から欲し、
だけど見ないふりしていた明日も昨日となっていて、
今日という日をあの子と一緒にまた過ごしていたいんだ。
― fin ―
++ライターより++
こんにちは、シン・ユーンさま。
こんにちは、セイ・フェンドさま。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
ご依頼ありがとうございました。
ユーンさんの味オンチはこういう理由だったのですね。^^
意外でした。でも失ってしまっていた味覚も蘇ってきているようで。
がんばれ、ユーンさん。
ちなみに本当にカレーにソースとマヨネーズを入れると濃くとまろやかさがアップして美味しいらしいですよ? 前にテレビでやってました。試したことは無いのですが。^^;
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼ありがとうございました。
失礼します。
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