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桜酒
ひらり、と宴の元に桜の花びらが一枚降りてきた。
それを宴は掌で受け止めるとふわりと微笑む。
「もうそんな季節になったんだね」
空を振り仰ぐ宴だったが、桜の木は近くには見あたらない。
それなのに宴の元までその花びらが届いたのは偶然か、それとも必然か。
「もちろん、会いに行くよ。此花咲耶姫ちゃん」
古事記に出てくる桜の精でもあり春の女神でもある名を呟く。
この花のように美しい姫という名を持った精霊が何処にいるか、宴には分かっているのだろうか。
そして本当にその者が宴の元へと花びらを届けたというのだろうか。
しかし宴はそれを疑いもせずにある場所へと足を向けたのだった。
宴が向かったのは人々の集まる公園などではなく、ひっそりとした一本の桜の咲く場所だった。
人気はない。
現代から隔離され、過去の空間とも呼べるような雰囲気が漂っている。
そこに咲いているのは染井吉野よりも深い色を湛えたように見える山桜。
山桜は紅っぽい葉と共に花が咲き、遠目には染井吉野よりも紅く見えるのだ。
「今年も呼んでくれたね」
その宴の言葉に応えるように、桜の花びらは風もないのにはらはらと散った。
「駄目だよ。まだ散るには早すぎる。さぁ、私に顔を見せて」
宴が細くしなやかな手を前へと差し出す。
誰も居ないというのに手を差し出すその姿を、他の誰かが見たら可笑しいと思うだろうか。
しかし宴の一人芝居のように見えたそれは他人に見られる事もなかった。
差し伸べられた手の上に重ねられる白い手。
ふっ、と現れた長い黒髪の美女によって宴の一人芝居は終わりを告げる。
見た目の歳は二十歳位だろうか。
宴はその人物に爽やかな笑みを浮かべてみせる。
それは何百年、何千年と変わらぬ笑みだ。
「やぁ、久しぶり」
「来てくれると思っておりました。愛しい方」
宴から差し出された手を両手で包み込み、ゆっくりと頬にそっと当てる女性は柔らかく微笑む。
「そりゃぁね。私はキミには甘いんだ」
「そうでしたわね。昔からそうでした‥‥私が一人きりで悲しんでいる時も貴方はいつも手を差し伸べてくれた」
姿形が変わってもこの温かさは変わりません、と何度もその手に頬ずりをする女性。
自らの花で髪を飾ったその女性の黒髪を、宴は空いた手で梳いてやる。
指の間をさらさらと流れ落ちる艶やかな黒髪。
その感触を楽しみながら宴は女性の言葉を聞く。
「春が来てやっとお会いする事が出来ました。もう今年こそ忘れられているのではないかと‥‥」
「ハハッ。面白い事を言うね。もし万が一、私がキミの事を忘れてもキミは呼んでくれるだろう?」
それは宴の中で確信にも似た想い。
「意地悪ですわ。そうやって‥‥」
いじけたように宴を見つめる女性の額に宴は軽い口付けを落とす。
「そういう顔も可愛くて見るのが好きなんだよ。それにさっきも言ったけれど、私はキミに甘いんだ」
「宴さまったら‥‥」
「キミがそうさせるんだよ。それと『さま』は止めてって前にも言ったろう?」
「つい、口をついて出てしまうんですわ」
癖とは恐ろしいものですわね、と女性は艶やかな笑みを浮かべながら鈴の鳴るような声で笑い、宴の目を耳を楽しませた。
一本の咲き誇る桜の下に座り、二人は杯を交わす。
宴がもちろん出した酒なのだが、宴の持つ杯にそっと注ぐのは艶やかな笑みを浮かべた女性だ。
「今年もまた綺麗な花を付けたね」
酒が美味しいよ、と宴が告げると恥ずかしそうに頬を染めた女性が宴を見つめた。
「そう言って頂けるととても嬉しいですわ。私、宴さまにみっともない姿は見せたくありませんし。褒めて頂けるのが本当に嬉しいのです‥‥」
ハハッ、と宴は明るく笑い女性の髪を弄ぶ。
「そんなに私の事が大事かい?」
キミの旦那よりも?、とおちゃらけた様子で宴が尋ねると女性の眉は顰められる。
「もちろんです。当たり前の事を聞かないでくださいまし。私がどれだけあの人に苦しめられたか‥‥あの時、宴様が手を差し伸べてくださらなかったら私は‥‥」
悔しそうに唇を噛みしめる女性に、宴は人差し指でそっと女性の唇に触れた。
あっ、と息を呑む女性。
「綺麗な顔に傷が付いちゃうのは駄目だよね」
「宴さま‥‥」
うっとりとした表情で女性は宴の杯に酒を注いだ。
女性の旦那が不義の子を身籠もったと非難し、その無実を晴らす為に隙間を全て塞いだ無戸室に入り、産気づいた所で室に火を放ち出産をした事を宴も知っていた。無実であれば無事にそんな中でも出産出来るだろうと。
本当はそんなにも気の強い部分を持っている女性なのだ。
しかし気が強くてもずっと気を張りつめていれば壊れてしまう。
そんな時に宴は女性と出会ったのだった。
全てを信じられなり、自分の夫さえも敵のように思い始めていた女性に手を差し伸べたのは、見た目の美しさに惹かれたからだったのかもしれない。
しかし宴にはそれだけでなかったのも、今ならば分かる気がしていた。
美しく咲き乱れる桜の下でひっそりと泣いていたあの姿が今でも目に焼き付いている。
風が吹くたびにその花は散り、女性の気が小さくなっていくのを感じた。
そんな悲しい気分のまま花を散らすのは宴には許せなかったのだ。
だから手を差し伸べて、暖かい腕で包み込んで。
儚く散っていく魂をその手で繋ぎ止めて。
優しさなのかエゴなのか。
そんなものは後で考えれば良いと宴は思った。
理由など後で付け加えてやれば良いのだと。
「また春になったら呼んでくれるだろう?」
杯を煽りながら宴が尋ねると、女性は大きく頷き笑みを浮かべる。
「私がそんなに簡単に宴さまを手放すとお思いですか?」
暖かな温もりをくださった方を、と女性は宴に寄り添った。
「私の方が離したくないね」
「まぁっ‥‥っん」
何か言おうとする唇を宴はそっと塞いでしまう。
言葉は二人の口腔に消え、風が緩やかに舞い上がり桜の花びらを散らした。
ふわり、と舞い降りた桜の花びらは宴の杯の中に浮かぶ。
「桜酒‥‥か」
まるで私達のようだよ、と宴はうっすらと笑みを浮かべもう一度桜の精に口付けた。
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