|
想いつむぐ糸〜瑠璃色の二重
頬を撫でる風の変化に、汐耶の意識は目の前の風景に引き戻された。彼女は休日恒例の書店巡りをする気が起きず、家の近くを散歩しながら思考を様々な方面に遊ばせていたはずだった。
しかし眼鏡のレンズ越しに広がる風景は東京……少なくとも、少々意識を飛ばしながら歩いたところで辿りつける範囲にあるものではない。
穏やかな春の空気は街中よりもやわらかく、風はほんの少しばかり涼しい。その風に乗ってくるのはどこから流れてくるのか桜の花びら。そして草の、土の匂い。
曖昧な空の下へ繋がる、一本の細い坂道。コンクリートで固められたそれは、しかし車両通行帯も引かれておらず、あちこちでひび割れを起こしていた。
道の両側には古い家屋が並んでいる。どうやら、とうに住む人間を失った家もぽつぽつとあるようだった。
幸か不幸か彼女は『不思議なこと』には免疫がある。真っ直ぐに伸ばされた背筋をみだりに揺らすようなこともなく、彼女は己が置かれた状況を認識した。彼女は現実主義者ではあったが、それゆえにどのような事態でも、自身が体験したものならば冷静に受け入れることが出来る。
一度は止めた足で、坂道を登り出す。頂上が近くなり、この坂を登り終えた先には何が見えるのだろうと考えたとき、左手の小さな日本家屋が目にとまった。と、その玄関の戸がからからと開き、中から現れた少女と汐耶の視線が絡んだ。
歳の頃は十一、十二。薄紅の紬に橙の帯揚げが良く映えた、小柄な着物姿の少女である。あっさりとした特にこれという特徴のない顔立ちであるが、眸に宿る感情はどこか捉えどころがなく、小さな口元にはかすかな、瑞々しい色気があった。色素の薄いやわらかそうな髪は左右に二つに分け、ゆるくまとめられている。
少女は汐耶を見据えたまま、さらりとした笑みを浮かべた。
「お客さんか」
「え?」
戸惑い聞き返した汐耶を気にする風でもなく、少女は汐耶を門の内側へと招く。
「あれはまだ寝ておる。すぐに起こすから待っといてくれるかの」
前を行く少女に流され、汐耶は玄関の敷居を跨いだ。知らない土地に『飛ばされた』以上、起こりうることを素直に受け止めるのが早く帰る秘訣である。
とは言え、受け入れることと警戒を怠ることは別だ。汐耶は意識を研ぎ澄まし、一歩一歩を進んだ。
外観で判断したよりも、家の内部は新しかった。おそらくは改修と、日頃の丹念な掃除によるものだろう。汐耶は靴を脱ぎ、磨き上げられた板張りの廊下に足を置いた。少女が目の前の襖を開け、汐耶を中の和室に案内する。
「お茶を持ってくるけえ」
紡ぎ師もすぐに連れてくる、と続けられ、汐耶は心の内で「紡ぎ師?」と少女の言葉を繰り返した。説明をする気がないらしい少女はすぐに襖を閉め、廊下で声を張り上げた。
「かお兄、お客さんじゃ! はよ起きい!」
暫くして汐耶は階段の軋む音が降りてくるのを聞いたが、足音は彼女のいる部屋には入ってこず、そのまま通り過ぎていったようだった。
再び静寂が降り、さらさらと水の流れる音が聞こえてきた。近くに小さな川があるのだろう。
誰とも知れぬ相手を待ちながら、汐耶は少女の言った『紡ぎ師』とは何者なのかという点に思考を働かせた。少女が兄と呼んだからには男性なのだろう。血縁上の兄、という意味であれば、少女の年齢を考えて、少年かせいぜい青年といったところか。
それにしても『紡ぎ師』……とは、一体何を紡ぐのか?
畳に伸びた障子の影が形を変える。汐耶は顔を上げた。南側の障子が開けられている。
広縁になっているらしいそこには、暖かな日の光を負って一人の少年……いや、青年が立っていた。
少年の気配を残した、どこか不安定な骨格。日を受けて透ける髪や涼しい目元が、先程の少女に良く似ている。色の白い頬に、細い顎。憮然としているような口元には、やはりほのかな色気が漂っている。
十七、十八歳程度の、紺の和服に身を包んだ青年である。
青年は汐耶を視界に入れると、す、と切れ長の目を細めた。
「かお兄、何ねえ。そんなところに突っ立って。はよ座りんさい」
少女も盆を持って部屋に入ってくる。青年はそちらに視線を投げると、軽く眉をひそめた。
「お前、少しは兄を敬え」
「わしは敬うべき相手はちゃんと敬っとる」
少女は兄の言葉を切り捨て、汐耶の脇に膝をついた。温かいお茶と和菓子を出され、汐耶は礼を述べた。
青年が汐耶の向かいに腰を下ろす。青年の袖から伸びる手が視界に入り、汐耶は思わずどきりとした。
美しい、とても美しい手である。
淡く色づく形の良い爪。細く長い指。華奢な手首。その全てが、完璧なバランスを保持している。
それ故汐耶は、発せられた少女の言葉に気づくのに、一瞬の間を要した。
「これが紡ぎ師の水之江芳。わしは妹のハル子じゃ」
「……綾和泉汐耶です」
芳の前にお茶を置くと、ハル子は再び部屋を下がった。沈黙が降りる。
芳がいかにも気乗りしない様子で前髪をかき上げた。
その手に目を奪われつつも、短い逡巡のあと、汐耶は自分から口を開いた。
「紡ぎ師、と言ったわね」
「……ああ」
「私は今自分がここにいるわけを分かっていないの。失礼だけれど、キミは何者なの?」
汐耶のはきはきとした言葉づかいに、芳は僅かに表情を緩めた。一度頷き、視線を斜め上に飛ばしてから口を開く。
「紡ぎ師というのは、『想い』に『糸』という形を与える者のことだ」
「糸」
「人間は骨や肉で構成されるのとは別に、『糸』のようなもので成立している。それは複雑に織り込まれているのと同時に、常にその形を変化させている。時としてその糸はもつれ、絡む。紡ぎ師はその『糸』を見、また操ることの出来る者」
芳がゆるり、と瞬きをする。
「紡ぎ師の力はそれを求めている人間を引き寄せる。ここにはあんたみたいにやってくる人間が稀にいる」
「……私に君の力が必要だということ?」
「絡んでは、いる」
汐耶が心持ち姿勢を正して芳を見据えると、紡ぎ師は再び目を細めて彼女を見返した。
「あんたの糸は二重になってる」
芳は汐耶を注視したまま、平坦な声で続ける。
「想いが……いや、もっとはっきりしているな。あんたの中にもう一人のあんたがいる」
はっ、と汐耶は心の内で息を呑んだ。確かに汐耶の中には『もう一つの人格』が宿っている。それは狂気を核とする人格だった。
「それが『直すべきもの』なの?」
汐耶の慎重な言葉に、しかし紡ぎ師はかぶりを振る。
「あんたがここにきたのは、それが理由じゃないな」
「なら……」
「今はこれしか言えない」
言葉を妨げられ呆けた顔を見せた汐耶に、芳が苦笑の色を見せる。
「一応、商売だから」
これ以上は交渉が成立してからということか。ああ、と汐耶は笑った。
興味が湧いてきた。
「その話、乗るわ。私の糸を直してもらえる?」
汐耶の明るい声に、しかし紡ぎ師の青年は予想外に複雑な表情を返した。汐耶は思わず戸惑ったが、芳は視線を僅かに下げて口を開いた。
「内側にいる人格の糸が絡んでる。大したものじゃないからほぐすくらいで大丈夫だけど、思い当たる節は?」
「特には……」
「最近変わったことは」
「そうね……ちょっと仕事が忙しかったくらい」
そう、少しばかり疲れているのかもしれない。だからのんびり散歩をしよう、などと思いついたのだ。汐耶はここ数日のことを振り返った。
汐耶はある都立図書館で司書の仕事をしている。日頃は通常の司書と同じように仕事をしているが、彼女の仕事はそれだけではない。汐耶は館の保管する特別閲覧図書や要申請特別閲覧図書である曰くつきの書物、魔術書の管理を一任されていた。
昨日まで図書館は蔵書整理のため休館となっており、その数日の間、汐耶は要申請特別閲覧図書の要注意封印図書を再整理していた。
彼女がこの仕事を引き受けるようになったのは、ひとえに彼女に封印能力故である。彼女の行う整理とは魔術書などの封印作業を含む。それは当然、通常の図書を整理するのとは違う労力を必要とした。
汐耶の話を聞き、芳は小さく頷いた。
「あんたの糸は外のものと内のもので微妙に色が違う」
「色があるの?」
「瑠璃色……かな。外側の糸は冴えた色をしてるが、内側の糸は少し濁ってる」
汐耶ともう一つの人格は記憶と知識を共有している。そのため汐耶はもう一人の自分のことを把握していた。『彼女』は魔術書などの書籍に目を通していることで生まれた狂気を核とする人格だったが、その人格も汐耶と同じく筋金入りの活字中毒であるため、通常は大人しく奥に篭っている。汐耶と比べても、少しばかり退廃的な部分がある程度である。
「ならその……狂気の面が強まって、調子が狂ってるんだな」
芳は一人納得すると、おもむろに立ち上がった。目で追った汐耶に、「そこ、いいか」と彼女の横を指す。
「ええ、どうぞ」
体の向きを変えた汐耶の正面に芳が座る。お互いを隔てていたテーブルの存在がなくなり、間近で紡ぎ師の顔を捉えた汐耶は、己の『糸』を見つめるその眸に思わず意識を奪われた。
紡ぎ師が見ている。
自分を構成するものを。想いから成る、自分の姿を。
芳がす、と汐耶の首筋近くへ左手を伸ばした。体を僅かばかり汐耶の方へ傾け、囁く。
「力を抜いて」
ゆっくりと息を吐いていく。その息が完全に吐き出される直前、汐耶は首筋に熱を感じた。
「……あ…………」
あたたかい。
思わず零れた声に、音は伴われなかった。首筋に生まれた熱がじわりと広がり、全身を包んでゆく。いつのまにか、体の周りを青い糸が幾重にも漂っていた。
絡んだ糸が作った小さく歪な玉を、芳のしなやかな長い指が器用に解きほぐしている。良く見るとそれは少し、汐耶の周りの糸より色が暗いようだった。その先は全て汐耶へと続き、他の糸と同じように汐耶を囲んでいる。
やがてほぐされた瑠璃色の糸を、芳は汐耶の躯へ丁寧に還してゆく。
全てを委ねる安堵感。汐耶はじんわりと温かい瞼を閉じた。
「また来ておくれ。かお兄は寝てばっかりでつまらんのじゃ」
「ええ、またね」
ハル子の言葉に微笑み、汐耶は紡ぎ師の家を後にした。躯が軽く、思考がクリアになっているのを感じる。
積み重なる疲労は心に影を落とす。誇りも愛情も奪い取り、もやもやとした影を生む。
それでも汐耶にはその誇りを見失わない自信がある。ただほんの少しばかり、彼女自身も気づかないレベルで、それは見えにくくなっていたのかもしれない。
もつれが直った今、汐耶はそれを自覚することが出来た。
汐耶は本が好きだ。そして、自身の仕事に大きな誇りを持っている。
気がつけば、辺りの風景は見慣れた近所のものに戻っていた。
さあ、明日は出勤だ。
明日彼女を迎えてくれるだろう本達を想い、汐耶は大きく伸びをした。
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
1449/ 綾和泉・汐耶(あやいずみ・せきや) / 女 / 23歳 / 都立図書館司書
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
綾和泉・汐耶様
初めまして、ライターの凍凪ちひろです。
この度は当異界作品第一号にご参加いただき、誠にありがとうございました。
そして、納品が遅くなってしまったことを深くお詫び申し上げます。
既に述べましたとおり、これは当異界の第一話に当たる作品となります。
そのためまだまだ試行錯誤している部分が多々ありますが、もし宜しければそんな面も含めて、今後の展開を見守っていただければと思います。
念願の異界立ち上げで浮かれていたところに早速発注を頂いたときには本当に嬉しかったです。
改めまして、どうもありがとうございました。
それでは、またどこかでお会いできれば幸いです。
凍凪ちひろ 拝
|
|
|