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<東京怪談ノベル(シングル)>


 □よみがえる、春先の□


「もう、春だねぇ」


 そんな声を耳にし、伏し目がちに歩いていた揚羽はふと顔を上げた。見ると、どこからか風に乗って運ばれてきた桜の花びらが一枚、前を歩いていた老婆の頭にひらひらと舞い落ちたようだった。
 隣を歩いていた夫らしい老人が、微笑みながらそれを取ってやっている様を見送ると、揚羽の前にも桜がひら、ひらと舞い降りてきた。

「あら」

 短く声をあげ、白い手のひらをそっとかざせば、桜は気まぐれを起こしたのかその中へと舞い降りてくる。
 薄く色づいた花びらを手に、揚羽は周囲を見渡した。しかし古びた木造の建物が軒を連ねるこの街中に立ち並んでいる木々は、つぼみはあれどまだ花をつけてはいない。
 
「おまえ、どこから来たの?」

 首を傾げた揚羽の問いに答えるかのように、桜は再び風に乗った。春のぬくもりを宿した風にあおられた花びらは、しばらく揚羽の周りをふわりふわりと漂っていたが、やがてやってきたひときわ強い風に吹かれ、大きく舞い上がる。
 その拍子に遠くを見た揚羽は、ああ、と納得したような息をついた。

「あの丘の上から降りてきたのね。今日は風が少し強いから――――」

 揚羽の言葉を証明するかのように、家々の木々が植え込みが、ざっ、と音をたてる。葉がこすれ合う音が幾つも幾つも混じり合い、心地良い和音が風と共に揚羽の耳をくすぐった。
 束ねた黒髪が前へと流れるのを押さえながら、揚羽は風の中にひとりたたずんでいた。視線は変わらず小さな小さな花びらへと向けられている。その深く赤い瞳の奥に、どこか懐かしげな光が宿っていた。

「さくら、さくら……か。また、そんな季節が巡ってきたのね」

 風の中を、揚羽は歩く。草履の下から響くのが砂利の音ではなく、草のそれになるまで歩く。
 そうして辿り着いたのは、小高い丘の上だった。一息ついて下を見れば、そこには住み慣れた街が広がっている。古びて雑然とした場所だったが、けれどそれを見る揚羽の薄く紅をひいた唇は、微笑みの弧を描いていた。
 街から少し外れたこの場所には、近所の少年たちが時々遊びに来るのだと揚羽は聞いた事があった。だが今はそんな子供らの姿もなく、緑の草の中にはぽつんと一本だけ、桜の木が立っている。花をつけているのは、揚羽が見る限りこの一本だけのようだった。

 案内役をつとめた花びらはもうどこかへ行ってしまっていたが、揚羽は胸の中で小さな春の使者に礼を言うと、改めて木の根元に立つ。
 遠くから見ていただけではそれほど大層な木ではないように思えたが、こうやって見上げるとやはり壮観だった。他の木よりもよく陽光を浴びているからなのか、既に桜は満開。風が吹くたびにはらはらと幾つもの花びらが零れ落ち、下の街へと降り注いでいく様は、さながら春の雪のようでもあった。

 また、風が吹く。今度はより強く。揚羽の束ねた後ろ髪を持っていってしまいそうなほど強烈な空気の流れは、一瞬で花びらを空中に散らした。
 しかし今度はそれを運ぶのを放棄したかのように、風は気まぐれにその動きを止めてしまう。投げ出された花びらは、何かを諦めたようにゆっくり、ゆっくりと地面へと舞い落ちていこうとしていた。
 桜の雨の中、揚羽はそっと目を細めた。
 沢山の花びらが遠い記憶の蓋を、そっと開いていく。





 揚羽はその時、ちょうど今と同じような光景の只中にいた。絶える事を知らないような、桜が舞い散る中に。
 目の前に広がるのは、何もかもが似たような色に染まっている、薄水色の風景。それを認識した時には、全てが遅かった。
 閉じ込められ、動けない自分。足の先から頭の天辺、身体の隅々にまで行き渡った冷気は、氷と化して揚羽の身体の時を止めた。
 何故、そうなったのか。どうして、あんなことになったのか。それは揚羽の記憶には存在しない。ただ、いつのまにかそうなっていたということだけが、揚羽の思い出せる全てだった。

 全身を包む氷の中で、揚羽はただぼんやりと前だけを見ていた。首を動かす、ただそれだけの自由すら奪われた彼女には、眼前の光景を眺める以外になかったからだ。
 視界の端には桜の木が映っている。太い幹から伸びた大きな枝が、ぼやけた月の光に照らされる夜空を花と共に覆っていた。
 氷に包まれた揚羽へと花びらが舞い落ちてくるが、冷たい壁に遮られて全てが滑り落ちていく。花びらを受け止める為の暖かな手のひらを失った揚羽は、それを黙って眺めているしかなかった。

 そんな揚羽の前に、ひとりの青年が沈黙を携えて立っている。 
 月を背にしたその青年は、氷柱の中にいる揚羽をひっそりと見上げていた。細面で顔立ちが美しいせいか線の細い印象を受けるが、けれど細身ながらもすらりとした体躯は、どこか野生の美しさのようなものすら匂わせている。
 青年は憂うような顔をしていた。いや、憂いよりももっと単純な表情だった。そう、たとえるのなら泣きそうなと言った方が正しいだろう。別段顔をくしゃくしゃにしているわけでもないというのに、何故か氷の中の揚羽はそう確信していた。
 眼下の青年は、真っ直ぐに揚羽だけを見ている。舞い散る花びらの美しささえ目に入っていないかのような瞳は、複雑な色に染まっていた。それが後悔の為か悲しみの為なのかは揚羽には分からなかったが、青年が負の感情をたたえている事だけは見てとれた。それが今にも涙となって溢れ出そうとしているのを、必死で押し留めている。そんな表情だった。

 自分は今までどうしていたのか。
 これからどうなってしまうのか。
 そして、青年はどうしてそんな顔で自分を見ていなければならないのか――――。 

 疑問は多々あれど、揚羽はただじっと前を見ているしかなかった。
 舞い散る桜と、夜の空。そして正面にたたずむ青年。
 それら全てをどこか綺麗だと思いながら、揚羽は意識が冷気に侵食されていく音を聞いていた。

 ぴしり。と音がして、全てが凍る。





 春の空気の中、揚羽はそっといつも身につけている香袋を手に乗せ、軽く振ってみた。
 蝶の柄が施された袋の中からは、布地と何かがこすれる微かな音がした。これの中身は揚羽だけが知っている。袋の中にひっそりと閉じてあるのは、小さな牙だった。
 白く尖った牙は獣のそれのようだったが、詳しくは分からない。あの青年からもらったという事実だけは揚羽の中に確かにあるのだが、何故彼がこの牙を自分にくれたのかという理由すら、今は思い出すことができなかった。

 揚羽はもう一度、袋を振った。きしきしと微かな音が耳にとどくたび、胸の中にも同じような音をたてて痛みが走る。
 青年の記憶。確か、彼は自分の事を大切にしてくれていた。甘い思い出が存在したのかどうかすら揚羽には分からないが、眼差しは覚えている。春の陽気のように暖かく穏やかな瞳で、青年は揚羽を見ていた。

 だが、青年が自分を大切に想っていた事は知っていても、自分が青年の事をどんな風に想っていたのか。その部分がまるでぽかりと抜けていた。
 彼の事は知っている。多分繋がりも深いのだろう。だが、あんな瞳をして見つめてくれる相手を、自分がどう見つめ返していたのか。分からないのはどう考えてもおかしな話である筈だというのに、どうしても思い出せない。
 桜の落ちる中、揚羽は呆然と上を見た。満開の桜は空さえも覆い隠し、視界を柔らかく一色に染め上げている。
 
「分からないのならばいっそ、全て桜のせいにしてしまいましょうか。……なんて、ね」

 静かに笑って目をつむり、春の空気と桜の気配だけに包まれながら、揚羽は胸の奥からわき起こる胸の痛みにそっと溜め息をついた。
 思い出と共に浮上し、懐かしさと共に胸をつくこの痛みは何なのだろうか。微かに甘いこれは、まるで桜のようだった。
 甘く儚い色をしたこの想いは、春の中に現れては幻のように消えていく。

「いずれ分かる時がくるのかしらね。――――ねえ、何処かにいる、あなた」

 言葉と共に最後の花びらが、揚羽の足元へと落ちた。
 そしてまた、舞い上がる。



 

 まだ若い色をした葉が舞う中に、たったひとつの桜色がよぎる。
 その様を店の窓から微笑みながら見つめている揚羽へと、顔見知りの少女が声をかけてきた。

「桜、お好きなんですか」
「あら、どうしてそう思うの?」
「だってとても穏やかに見ているから、好きなのかなって思って」
「そうね……」

 遠い丘の上の桜を眩しげに見つめながら、揚羽はぽつりと言った。


「桜はとても綺麗ね、昔から好きよ。でも思うと少し痛いわね。らしくないけど」

 
 いずれ、この街中にも多くの桜が咲き乱れることだろう。
 その時自分は何を思うのか。

 そんな事を思いながら、揚羽はもう間もなく来るだろう花盛りの季節を、待っている。







 END.