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<東京怪談ノベル(シングル)>


春待ち草
「いってらっしゃいなのー」
 とたぱたと自分の足には大きなスリッパの音を響かせつつ、藤井蘭は毎朝の見送りをするために玄関へと足を運ぶ。
「それじゃあ、行って来るからね。ちゃんと留守番してるんだよ?」
「はーいっ」
 元気の良い声を受けた蘭の『持ち主』が、ほんの少しだけ目を細めて、ふりふりと手を振るのを見ながら外へと出て行く。
「ん〜」
 ととと、ぴた。
 ドアの前に立ち、耳をひんやりとした扉に押し付ける。元気良く闊歩する足音が次第に遠ざかるのを聞き終えると、がちゃんと音を立てて鍵を掛ける。
『ひとりでいる時は鍵を忘れないでね』
 何度も繰り返し教えられた言葉。
 そして、蘭の日常が、始まった。

*****

『お姉さんお姉さん、水に漬けた豆から芽が出て来たよ!』
「わー」
 平日の、子供向け教育番組にかじりついて楽しそうにそれを見詰める蘭。
 画面の中では、早回しにされた植物が著しい成長を遂げており、目を丸くした蘭が思わず自分の手を見る。
「すごいなのー、早いなのー」
 自分だったらどうだろうとちょっと考えてみて、新しい葉が生まれて育つまでの時間を思って肩を落とす。
 …カメラが早回しをしたと言う事には思い至っていないらしい。
 いつも、蘭が喜んで見るのはこうした番組が多かった。同じ時間帯にやっている他局の番組は騒がしいだけで内容が良く分からないため、見ても面白くないからだった。
 そして一通り、わくわくする時間が過ぎた後。
 からから…。
 窓を開けて、春らしい空気を中へと招き入れる。
「すー」
 今日は特に良い天気らしい。空を見れば、青と白のコントラストがくっきりしている。
「はー」
 何度か深呼吸を繰り返し、にっこりと笑みを浮かべた後、蘭はぎゅ、と腕まくりをしてこっくりと頷いた。
「さあ、やるの、なの」
 手に持つのはハタキと、埃取り用のふきん。
 やがて、やや調子外れな鼻歌と共に、ぱたぱたと家の中を掃除し始める。
 上の埃が落ちた後は、きゅっきゅっと手の届く高さのテーブルや、勉強机の上にふきんを走らせ、ぴかぴか光ると嬉しそうににんまりと笑み。
 掃除機は危険だから独りでいる時は駄目、と言われているため、ちょっと名残惜しそうに部屋の隅に立てかけてあるそれを見ると、そっと手を伸ばしかけて、止めた。
「む〜ん」
 ちょん。
 そっと、つついてみる。――掃除機が噛み付きはしないかと言うように。
 使い方も、いつも見ているから当然分かるのだが、使ってしまえば彼女に怒られると言うのも想像がついたため、ちょっぴり残念そうに見ながらも、諦めてとことこと掃除機から離れて行った。
「あったかいのー」
 空気の入れ替えも済み、締めた窓から差し込む日差しにうっとりと目を細める。その手には、好みの銘柄のミネラルウォーター。
 お気に入りの場所は、窓際の、一番おひさまが良く当たる位置。ここなら暫くの間、影に日の光を遮られる事無く好きなだけ光合成していられるからだ。
 ペットボトルの蓋を開け、こくこく…と体の中に水を染み込ませて行く。気持ち良さそうに目を閉じながら。
 やがて、ボトルの中身が半分くらいになった頃、蘭の座っていた場所には一鉢の植物の姿があった。…さわさわと風も無いのに揺れながら、一番日の当たりが良い場所に自分の葉を当てて。
 その様子は、植物の表情など分かる筈が無いのに、何故だかとても楽しげに見えた。

*****

「あふあふ」
 もこもこと動く毛布の中で、欠伸なのか寝言なのか良く分からない呟きを発する蘭。
 昼間光合成を行っていたせいか、心なしか緑色の髪がつやつやとして見える。
 ――光合成を止めて人間形態になったのは、少し日がかげって来たからだった。夕方には少し早かったが、それまでさんさんと太陽を浴びていた事もあって、そのあたりで切り上げたのだった。
 そして、今は『持ち主』のベッドの上で毛布にくるまっている。その枕元には、12色入りの色鉛筆と、広げられたままのノートがあった。ついさっきまで、この場所で今日昼間の出来事――主にテレビで見た内容を、絵日記のようにしてぐりぐり書き綴ったものだったが、夢中で書いているうちに夕方になり、空気の冷えを感じてそのまま毛布の中で丸くなった、と言うわけだった。
 ころころと寝返りを打ちつつ、楽しい夢でも見ているのか口元を笑みの形に押し広げながら、蘭は寝入っている。
 少し離れた場所でがちゃりと鍵の開く音がしてもそれには気付く事無く。
「…やれやれ。やっぱりここか」
 少し後に、呆れたような、ちょっと諦めたような…それでいて柔らかな、笑いを含んだ声がした。
 つやつやした髪をそーっと撫でられ、うにゃむにゃと何か呟きながら蘭がゆっくり目を開ける。
「…あ…おかえりなさいなのー…あふ」
 毛布にくるまったまま、まだ眠そうな顔をふんにゃりと笑顔にしながら、蘭は上から自分を苦笑しつつ見下ろしている『持ち主』に言葉をかけた。
「おかえりじゃないだろ?また俺のベッドに潜り込んで。さ、起きた起きた」
「――うー…はいなのー」
 抵抗はほんの少し。もそもそとベッドから出かけて、ぶるんと震える。
「寒いの、嫌なのー」
「はいはい、分かったよ。…春なのに夜はまだ冷えるなぁ」
 そんな呟きと共に付けられる暖房。まっさきに一番暖かな位置に移動するのは、もちろん蘭。
 そんな、ささやかなふたりの夜が、ゆっくりと始まっていく。
 その中で、今日一日の出来事を実に楽しそうに語る蘭の声が、時折起こる合いの手と共に春の夜の中を漂って行った。

-END-