|
■+ 桜咲く季節 +■
「じゃあな、行ってくる。良い子にしてるんだぞ」
そうやって暖かな緑を思わせる瞳を和ませて、それを言い聞かせている少年の頭を撫でているのは、まだ若い女性だ。
「はいなのー」
艶のある緑色した髪を微かに揺らせ、撫でられた手に心地よさを感じている少年は、水のせせらぎにも似た銀の瞳をうっとりとさせていた。
「良いか、ちゃんと光合成はするんだぞ。そして眠くなったらちゃんと寝ろ。育ち盛りなんだからな。ああそれと、寝倒して水を飲むのを忘れたりするなよ。勿論、食べることもだ。お昼は冷蔵庫、おやつも冷蔵庫だ。おやつは三時だからね? 解ったか?」
心配性と言う訳ではないのだろうが、こうして彼女は細々と世話を焼いてくれる。
「忘れないのー」
素直にそう答えるのも、また少年の良いところだ。
「そうか。じゃあ、今度こそ行ってくるな、蘭」
「いってらっしゃいなのー」
扉から姿を消す持ち主に向かい、精一杯の背伸びをして手を振る少年の名は、藤井蘭(ふじい らん)。
見かけは、ぽやぽやな十歳児。けれどその正体は、オリヅルランの化身であった。
「ふーんふ、ふふふーーーん、ふっ、ふーーんふっふふふーん」
何処か調子っぱずれなメロディライン。けれどそれは蘭に取って、真剣に掃除をこなす為の重要な歌でもある。
ちなみにそれは、『手のひらに太陽を』であるが。
蘭の持ち主からは、特に掃除をしろだの料理をしろだのは言われない。
『自分が散らかした分は、ちゃんと片づけような』と言うことだけだ。
けれど蘭は、こう思う。
『持ち主さん、さいきんとってもいそがしそーなのー。だからボクが、お手つだいするのー』
自分が散らかしていた鉛筆やくれよん、絵本や日記帳など、決められた場所に仕舞って行く。更に蘭の持ち主が、そのままにしていた雑誌類なども同じようにして、本棚へと片づけた。
お気に入りのビーズクッションも、ぽんぽんと叩いてからソファに置く。お気に入りのクマさんにも『ちょっと待っててなのー』と声を掛けて、キッチンの椅子へと座らせた。
二人で一緒に取った朝食の食器は、既に彼女が綺麗に洗って食器棚に仕舞われている為、これにおいては、蘭の出番はないが。
「おかたづけできたなのー」
では次ぎだと、蘭は思う。
ぐるりと部屋を見回して、ゾウさんの様な物体のことを思い出す。
「こんどは、ぶおぶおするのー」
まずは窓を開けてから、掃除用品や家庭内の消耗品を詰め込んでいるクローゼットを開け、うんしょとばかりにきちんと立てかけられている掃除機を取り出した。
ゾウの尻尾で遊ぶのは、また今度。
蘭は尻尾をきゅるると取り出して、コンセントへと差し込んだ。
ぶおぶおと鳴る掃除機を、その小さな身体で何とか操り部屋を掃除している。隅々に行き届かず、部屋に丸く掃除機をかけているのはご愛敬だ。
「きれーにするのー。持ち主さんも、よろこぶのー。そしたら、ボクも、うれしいのー」
にこにこと、まるで日の光をその身に沢山集めた時の様な満面の笑顔で、ぶおぶお掃除機を進めて行く。
ソファの下は、首が入らず諦めた。絨毯は、この前覚えた床モードから絨毯モードへの切り替えを行い、スムーズにぶおぶおしている。蘭は目に付いた場所を、嬉しそうにぱたぱた駆けながらぶおぶおと掃除機を使っていた。
「ゾウさん終わり! なのー」
取り敢えず、目に届く場所は綺麗になった。
満足げな笑みを浮かべた蘭は、ふと時計を見る。
時間はお昼よりは、もう少々と言った頃合いだ。
「あ! ふきふきするなのー」
そう言えば、棚や窓の拭き掃除はまだだったと思い出す。
何時もの場所から雑巾を取り出し、お湯を張ったバケツで湿らせ、自作の鼻歌をふんふんと歌って拭き始めた。
勿論拭くのは、手の届く範囲だ。下手に高い場所なんぞに手を出して、怪我をしては持ち主に心配がかかる。
そしてその手の届く範囲と言うのは、それほどある訳ではなかった。
小一時間もしない間に、蘭の掃除は終了する。
先程椅子に座らせたクマを手に取り、ぽつりと一言。
「お昼ごはん、たべようかなー? なの」
拭き掃除をしている間に、時間的には、丁度良いくらいになっていた。
蘭は小首を傾げ、お腹に手を当て具合を探る。
ぐぅと派手な音は聞こえないまでも、午前中にした片づけと掃除と言う運動の為、お腹は減っていた。
「きょーーおのごっ飯は、なーにかなーなのーー」
るんるんとスキップしつつ、クマと一緒に冷蔵庫に手を掛けた。
冷蔵庫を開けると、そこにはお昼ご飯のスパゲッティー・ナポリタンと、プラスチックのケースに入ったお菓子がある。
「うわぁーーーー。おいしそうなのーー」
それを確認した蘭の瞳が、嬉しそうに細められた。
蘭が引きつけられたのは、ナポリタンも勿論だが、その隣にあるお菓子だ。
アイス・オレ・ショコラ。
カフェオレをアイスクリームと混ぜ、シャーベット状にしたものをカップに盛って、更にその上に砂糖入りの生クリームとチョコレートソースを掛けたものだ。
当然ながら、その周囲にはフルーツが食べやすい大きさに切られて盛られていた。
「あ、でも、持ち主さんが、おやつは三時っていってたのー」
後ろ髪引かれつつも、三時にはこの甘い甘いスイーツを食せるのだからと、蘭は考える。
ちょっとウキウキしてきた。
「るるるーーん! ボクのナーッポリターン」
語尾にハートマークが付いている。まずは昼食を食すこと。そして太陽をいっぱい浴びて、お昼寝をして……。
「あ、日記もかくのー」
これからのことを思いながら楽しくなって来た蘭の顔に、柔らかな微笑みが浮かぶ。
ミネラルウォータをテーブルに置き、小首を傾げる。しんとした部屋で食べるのは、ちょっとイヤだなと思った彼は、テレビのスイッチを入れた。流れ出すテレビからの音。それを確かめた蘭は、ラップされたナポリタンの皿を手に持った。
冷蔵庫から出したナポリタンを、何時も通りにレンジでチン。
ラップを取ると、ケチャップの良い香りがする。
「うわーーい。おいしそーなのーー。いっただっきまーーーっすなのー」
握りしめたフォークを、持ち主に教えられた通りの方法にと持ち替え、辿々しいながらも何とかパスタを巻き取っては、口に運ぶ。
「おーいしーーーなのーー。クマさん食べられないの、かわいそーなのー」
眉をハの字の形にして、そう言ってみるも、やはりクマが食べることは出来ない。蘭は、そのクマの分も美味しくご飯を食べることを、心の中で宣言した。
テレビの中では、黒めがねをかけたリーゼント頭が、年甲斐もなく何やらハイテンションで話している。
電話を介しての決め台詞では、蘭も一緒になってテレビに叫んだ。
もぐもぐと時間を掛けてパスタを食べ終わると、ミネラルウォーターをこくんこくんと飲んでいる。
「おいしかったのー。持ち主さん、ごちそーさまなの!」
手を合わせて、ぺこりと空になった皿に頭を下げる。
お腹はぱんぱん。もうこれ以上食べられない。
ふぅと、満足の溜息を漏らすと、次にはシンクへ食べ終えた食器を運ぶ。皿洗いは、持ち主からもう少し大きくなってからだと言われていた。何故なら、今の蘭の身長では、シンクの中から食器を取りだしては洗うと言う動作が、少々難しいからだ。もし万が一、皿でも割って怪我をしてはいけない。
いくら即座に治癒してしまうからと言っても。
ぱたぱたとした足音を立て、蘭がテーブルへと戻って来る。
ふと、窓の外を見ると、絶好の光合成日和だ。
「気持ちよさそーなのー」
ほややんとした顔になった蘭は、窓の方へと近付くと、降り注ぐ日の光をその身に浴びる。
うううんと伸びをした刹那。
蘭の身体がゆっくりぶれる。
まるで魔法に掛かった様に、伸びた手が先細る。
肌色からグリーンとクリームがかった白へ。
幾本もの緑が、中心から外へと向かって現れる。優美なその葉は、まるで日を浴びることを楽しんでいる様に震えていた。
その身を本性へと転じた蘭は、既に発声器官を持たぬまま、思念でゆっくり呟いた。
『気持ちいーのー』
蘭のその声に、眠りそうになっていた桜が答える。
『おや、坊(ぼん)や。今からお食事かい?』
たおやかな女性の思念だ。
『うーんと、おしょくじはねー、ナポリタンだったのー』
『なぽりたん?』
小首を傾げている雰囲気だ。
『そうなのー。持ち主さんが、ボクにご飯よって作ってくれたのー』
『そうかいそうかい。優しい人で、良かったねぇ』
恐らくナポリタンが何か、桜には解っていないだろう。けれども、蘭のその幸せいっぱいの思念から、大切にしてもらえていることを感じて、深くは問わずにいると思われる。
植物たちは、人の形代を取っていようと、自分達の仲間であると、大切で可愛い仲間であると思っている。だからこそ、こうして独り言であったとしても、蘭に優しく話しかけるのだ。
返る言葉で、幸せに満ちた蘭を知るのが嬉しくて。
次々植物からの言葉を受け、楽しそうに蘭は答える。
しかし、太陽の恵みがあまりに気持ち良すぎた蘭は、何時しか眠りに落ちて行った。
『……うぅぅ…ん……』
『起きたのかい?』
『……。おはよーなの……』
寝ぼけ眼──現在、目はないが──と寝ぼけた頭を持ちながら、蘭は先程聞いた思念に、そう答えた。
ちょっと喉が渇いたかなと、そう感じつつ。
『のどかわいたの……』
『おやまあ、それは大変。あたし達植物は、水分が大切だからねぇ』
どうしようかと言った風な思念が伝わる。彼(または彼女)らには、部屋の中にいる蘭に水をやる術はない。
『そうなのー。ボク、お水のんでくるのー』
『はい、行ってらっしゃい。また遊んでおくれね』
『はいなのー。またねーなのー』
するすると、先程の巻き戻し現象を見る様に、オリヅルランが蘭へと変化する。
人の姿に戻った蘭は、再度、窓の外に見える桜へ、またねとばかりに手を振った。
てけてけと冷蔵庫へ行き、ミネラルウォータに手を伸ばしつつ、そこにあるアイス・オレ・ショコラへと視線をやる。
「もう、食べてもいい時間なの?」
小首を傾げた後、ちらりと時計を見る。
「わーい! おっやつのじっかんっ! なのーー」
時計の針は、三時を指していた。
嬉々とした蘭が、ミネラルウォータと共に、プラスチックの容器を取り出す。一旦テーブルにそれらを置いてから、スプーンを取りテーブルに着いた。
こくりこくりとミネラルウォータを飲み、手を合わせ一言。
「いっただっきまーーっすなのーー」
スプーンでアイスを掬い上げ、一口。
「んんんんーーーー! おいしーーーー」
まるで喉を撫でてもらっている猫の様に、その顔を反らせて満面の笑みを浮かべる。
それは口の中で、とろりと甘い味を広げた。
嬉しくなった蘭が、そのままアイス・オレ・ショコラの攻略に励んでいると、付けっぱなしであったテレビからの音が耳に飛び込んで来る。
『…新年度が始まり、入学式のシーズンとなってきました。全国にある学校では、ニューフェイスを迎えようと………』
マイク片手な女性が、何やら人通りの多い場所に立って話している。
「にゅーがくしき……?」
蘭はスプーンを口にしたまま、小首を傾げた。
女性の背後にいる多くの人は、まだ若い様に思える。蘭の持ち主とあまり変わらない様に見えたのだ。
──蘭が、正確に人の年齢を把握しているかどうかは、可成りの度合いで不明だが。
更に場面が変わり、今度は蘭と余り変わらないくらいの少年少女が、親に手を引かれて、門を潜っている。
「みんな、どこ行くのかなーなの」
そもそも『ニュウガクシキ』とは何ぞや?
多分それが解れば、みんなが向かっている先が解るだろう。
蘭はそう考える。
持ち主さんに聞いてみることにしようと、蘭は思う。
もぐもぐとアイスを食べ終わり、ミネラルウォータも飲み干して、手を合わせごちそうさま。更に後片付けまで終えてから、蘭はすっくと立ち上がった。
「日記にかくのー」
先程の『ニュウガクシキ』の風景を日記に描き、それを見せて聞くと言うのが、一番解りやすいだろうと思ったのだ。
先程片付けた日記とくれよんを出して来て、蘭は一生懸命描き始めた。
「ただいまー」
朝出て行った、蘭の持ち主の声が聞こえる。
「おかえりなさいなのー」
ぱたぱたと足音をさせて、蘭が日記を抱きしめつつ玄関へと向かうと、丁度靴を脱いでいる持ち主が見えた。
そのまま飛び込んでいきたい衝動を抑えつつ、蘭は後ろ手に日記を持ったまま手を組んで、にっこりと笑う。
「持ち主さん、おかえりなのー」
「ただいま、蘭。良い子にしてたか?」
くっと頭を撫でてとばかりに突き出すと、柔らかな手が、髪を梳く様な仕草をする。
目を細めてその感触を楽しみつつ、蘭は上目遣いに彼女を見た。
「あのね、持ち主さん。聞きたいことがあるのー」
「何をだい?」
目を見開き、どうしたとばかりに問い返す。
「ボクね、今日、にゅーがくしきって言うのを見たのー」
「ああ、入学式か」
得心した様な顔を見た蘭は、流石は持ち主さんだと思う。
「持ち主さん、知ってるのー? おしえてほしいのー」
頭を撫でられつつ、蘭と持ち主はリビングへと向かう。向かう際に、日記も彼女に手渡した。
持ち主は、リビングにあるソファへ腰掛け、蘭はそこに置いてあるビーズのクッションを抱きしめつつ隣に腰を下ろした。
ぱらぱらと蘭の日記を捲っている持ち主に、『ここ、ここ』とばかりに、蘭は『ニュウガクシキ』のページを教えてやる。
「上手く描けてるな」
彼女の顔がほころんだ。
『なんだかすごく、うれしーのー』
「えへへー。ねえねえ、持ち主さん、にゅーがくしきって、なになのー?」
蘭が再度、そう聞く。
持ち主である彼女は、蘭の絵と顔を交互に見つつ口を開いた。
「蘭、入学式ってのはな……」
彼女が笑みを浮かべつつ、話し始めた。
ゆっくりと話す声が大好き。
優しく見てくれる瞳が大好き。
頭を撫でる柔らかな手が大好き。
大好きな大好きな持ち主さん。
こうして一緒にいる時間が、今の自分には一番大切。
ずっとずっと、持ち主さんといられます様に──。
Ende
|
|
|