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春に想う
ブロロロロロ……と、新聞配達員の車の音が響く。
明け方の庭の朝露に濡れた草花が陽の光を浴びてキラキラと瞬いて見える。
すっかり温かくなったとはいえ、さすがに早朝の空気はまだ肌寒さを感じさせる。
ようやく春の気配が近付いてきていたと思ったいたのに、気が付けばあっという間に桜も散り始めすっかり春も盛りを迎えていた。
一日千秋で待っていた春は訪れてしまえば一日一日があっという間に過ぎてしまう。待ち焦がれていたものほど、時間と言うものは早く過ぎ去っていこうとするのか。
縁側で庭を眺める江戸崎満(えどさき・みつる)は庭の隅にあった早咲きのタンポポが白い綿毛を付けているのに気が付いた。
周囲よりも先に春を感じとったタンポポはすでに真っ白な綿毛を広げる準備をするのもどうやら人一倍早いらしい。
そのタンポポを見て満は先日再訪した療養所に居る彼女の事を思い出した。
ひょんなことから出逢った弓槻冬子(ゆづき・ふゆこ)という女性。
再訪した時はまだほんの気まぐれだった。
ただ、その時に見た彼女の表情が、帰ってきてからずっと満の頭の中に残っている。
寂しげな表情。
それを押し殺そうとする芯の強さを垣間見て以来、冬子のことが気になって仕方がないのだ。
その為か、どうもあれ以来仕事が思うように捗らない。
陶芸家という、所謂芸術的な仕事を生業としている満にとってメンタル的なものは仕事の出来に深く係わってくる。
しかし、こうして気分転換に庭を眺めていてもやはり思い出すのは彼女の事ばかりで、そんな自分に半ば呆れたように小さく溜息を吐くと満はゆっくりと立ち上がった。
「気晴らしに少し出かけてみるか……」
ある場所を思いつき、満は手早く荷物をまとめ大きめのナップザックのような鞄に一式の道具を詰め込むと、思いついたが吉日とばかりにすぐにその場所に出かけることにした。
まだ寝ているであろう同居中の養女が心配しないように、一筆残して満は自宅を後にした。
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「お帰りなさい、早かったのね」
満の部屋を覗き彼が部屋に居るのを知って養女がそう言った。
「あぁ」
満は振り返りもせずに黙々と絵を描いている。
それは今日行って来た富士山の頂上から見た景色だった。
「富士山まで行ってきたの!?」
と、驚いた声を出す。
「気晴らしにちょっとな」
富士山はちょっと気晴らしにと言って山頂まではあんまり行かないんじゃないのと半ば呆れたような顔で絵を覗き込む。
瞼の裏に焼き付けてきた風景を思い出しながら満は黙々と描いている。
同じ風景を写真にも収めてきてあるのだが、写真と絵ではまた赴きが違うだろう。
今度はこれを手土産に彼女を訪ねていくのもいいかもしれないと思いついた。
そして、はっと気づく。
結局気晴らしに行っても最終的には彼女にまた会いに行く事を考えてしまっている自分の気持ちに。
手を止めて考え込んでしまった満を見て、
「どうしたの?」
と、養女がからかう様な表情で笑っている。
「?」
「恋でもしてるみたいな顔してる」
「……何言ってるんだ」
大人をからかうんじゃないと目で諌めると養女は首を竦めながら部屋を出て行った。
「恋だって?」
視線を絵に戻して満は再び考え込んだ。
■■■■■
いつのまにかすっかり通い慣れた山間の静かなバス停でバスを降り、満は『白樺療養所』に足を向けていた。いつのまにか。
「あら、こんにちは」
どうやら顔を覚えられてしまったらしく、廊下ですれ違った看護婦に挨拶される。
「弓槻さんでしたらさっきロビーの方に行かれましたよ」
病室に向かいかけたところそう言われて療養所の人たちがロビーと呼んでいる共有フロアへと向かった。
柔らかな春の日差しに溢れたフロアへ行くと外を眺めている彼女がいた。
「弓槻さん、江戸崎さんがいらっしゃってますよ」
そう声をかけられ冬子が振り向く。
そして、満の姿を見つけて微笑んだ。
その瞬間、どくんっと大きく満の心臓が跳ねた。
「綺麗ですね」
満の持って来た富士山の写真と絵を見て感嘆の息を吐く。
「こうやって写真と絵を見比べるのも面白いと思って」
「そうですね」
ニコニコと笑う冬子とは対照的に、満は何処かぎこちない微笑を浮かべる。
満はいつになく大きな荷物から持参した画材を取り出した。
「もしも、体調が良ければ一緒に絵でも描かないかと思って持って来たんだが」
まるで初めて女性をデートに誘うような緊張した面持ちの満の様子が可愛らしく感じて冬子は、
「よろこんで」
と笑顔で快諾した。
■■■■■
すでに春も中旬になり今日のように天気の良い日中は少し日差しが強く感じられるほどだ。
ロビーから中庭に出た2人は、中庭にある花壇がよく見える位置にある大きな木の陰に腰掛ける。
満はさっと懐からハンカチを出してその上に冬子に腰掛けさせた。
2人は静かにそれぞれ思い思いの絵を描く。
特別な言葉を交わすこともなくただ描いているだけだが、それは心地の良い静けさだった。
何処か遠くで小さくなく鳥の声。
木々を揺らす風の音。
満ち足りた気持ちは絵にも表れるのか、自然と淡い色の優しい絵になる。
先に筆先を水につけていた満の手に、同様に筆をバケツに入れようとした冬子の手が触れる。
冬子の手の柔らかな感触にびくりと満の手が揺れ、弾みで筆が転がる。
「あ、筆が」
とっさに転がる筆を追いかけた二人の手が今度は筆の上で重なる。
それはたった一瞬の事であったのだが、確かな感触が満の手に残る。
ちらりと見ると、
「ごめんなさい」
と冬子のふっくらとした耳まで紅潮していたが、
「いや、こっちこそ」
と言った満の方も同様に頬を染めている。
2人の視線が絡まる。
ふと、心地よいながらもどこか張り詰めていた空気が綻んだ。
それが何故だか可笑しくて、自然と笑い声が春の空に響いた。
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