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<東京怪談ノベル(シングル)>


飛沫の夢


 気がつけば紅、それに黄。かすかな風に揺れる木の葉は、松葉色の着物に春を恋い、はらりとその身を投げ散らす――。
 一体どこをどうやって来たのか、そこはまったく覚えのない場所だった。覚えのない? 否、記憶の淵に沈んだはずの、今は亡きあの場所ではないか。……今は亡き? それでは現在目の前にある、この光景は何だと言うのか。
 少年――まとは混乱し、己の両腕でしっかりと自分を抱いた。なぜだかここはひどく寒い。それも体温を奪うような寒さではなく、表皮の上を這うようなうすら寒さ。
「……に、いたぞ! ……はあっちを……つけ次第殺せ! あれを仕留めれば金が入る」
 徐々に近づいて来る声に、体は本能で動き出していた。後方で、いたぞと見知らぬ男が叫ぶ。その時まとは男が探しているのが自分だということを悟った。彼だけではない。自分を探していたらしい男は何人もいて、それが先ほどの男の一声で集まって来ていた。そして手に手に弓やら刃物やらが握られている。
 弓を引き絞る男衆のぎらついた目に戦慄を覚えて、まとはそれ以上は振り返らずにただまっすぐ走り始めた。粗末な草履はすでに寿命を終えたようにくたびれていて、走るだけで足の裏に小石が突き刺さる感触が煩わしい。それでもつまづきながらも走り続けるまとを、背後で笑う声が上がった。それにひゅうっと何かが空気を引き裂く音も。
 ひっ、と自分の喉から意図せずして細い息が漏れたのを感じた。衝撃に背が反り返り、脚がくずおれる。膝をついたところでもう一矢、今度は左腕に深く突き刺さった。
 笑い声が近くなる。
「チッ! やっぱり死なねぇのなあ。首を落とすか肝を抉り出すかしねぇと難しいのか」
「その前に一度斬らしてくんねぇか? 近頃鼻持ちならねぇことが多くてよお」
 言って目の前に現れた男の手に握られていたのは刃渡り1尺はあろうかという打刀だった。すらりと残りわずかな陽光を反射して刃が閃き、裂く音がすぐ近くで聞こえた。途端上がる、血しぶき。
「げっ。衣が汚れちまわぁ」
「ひっ……い、あああああああ!!!!」
 己の血を見て動転したまとは、男がちょうど体を避けたところから再び走り出した。慌てて逃げ道を塞ごうとする男を突き飛ばすと、どこかへぶつかったのか鈍い音がし、後方からの罵声がひどくなる。
 弓が射られ、小柄を投げつけられ、体のあちこちに掠めた傷は増えれども、まとは足を止めなかった。
 逃げることだけが少年に許された抵抗なのだから。


 幾分も走ると視界が開けた。眩いほどの白にうめ尽くされた丘。白いのは、どうやら野菊のようだった。
 追手の声はもうない。
 気を緩めた瞬間、再び膝が地についていた。噴き出る血を眺めながらもう立ち上がれないと思う。足元の白い野菊が血を吸って、重さに耐えられず地を這ったのを見て、どうしてと、まとは己の運命を呪った。
「  」
 呼ぶ声。誰かの名だろう。だが、なぜだか耳に響く。
「  」
 思わず声のする方を振り返ると、そこには藍染めの着物を着た壮年の男が立っていた。こちらを見て微笑んでいる。ああ、誰だかわからないけれど、胸中を渦巻いていた憎悪も恐怖も拭い去って行くような、その笑顔――。
「あ」
 微笑み返そうとしたところで、急速に引き上げられる心地がした。


 目覚めれば灰色。探しても藍色は見つからず、肌寒さばかりがあの夢と同じ。何の夢を見ていたのか、よくは思い出せないが、とても恐ろしい夢だった。
 ――けれど、独りではない。
 蹲って膝を抱くと、ジーンズの膝に染みが生まれた。頬を辿れば指先に水滴が溜まる。
 ――東京。ここが生きる場所。あれほどの恐怖も偏見もないけれど。
 胸をつく痛みが眸から涙を絞りとった。

 こうして夢は、飛沫となって散り消ゆる。


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