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鋼色の来訪者
本堂から縁台に出ると、まだ僅かに冷たさの残る春の風が、汗ばんだ肌に心地よかった。
ふう、と息を吐いて、菱・賢(ひし・まさる)は稽古着の襟元に手をかける。ゆるめる前に、誰も来ないのを確認するのは忘れない。先輩僧侶などに見付かれば、だらしがないと叱られるに決まっているからだ。
誰の気配もないことがわかると、賢は修練用の棒を放り出して、縁台に座り込んだ。荒い息をゆっくりと整えると、風の中に混じった蓮の葉の清しい香が鼻腔をくすぐる。蓮池を擁する中庭に面したこの場所は、体を冷やすのに一番丁度よかった。
毎日、時間さえあれば、賢はこの寺に上がり、修練を積む。
普通の高校生なら、部活やバイトといった、もっと別のことに夢中になっているところなのだろうが、現役高校生にして僧兵という、変わった職業をもつ彼にとっては、これが日常だった。
それは自らが選んだ道であり、仕事には埃を持っているし、もともと体を動かすことが嫌いではないことも手伝って、後悔もしていなければ、不満もないのだけれど。
「あーあ。今日はつまんねぇなあ」
汗で湿った短髪を、タオルで乱暴に拭いながら、賢は唇を尖らせた。こんな風に言いたくなる日も、たまにはある。
「……手合わせしてもらう約束だったのに」
賢は今日、錫杖を扱う為の棒術を教えてくれた僧侶から、稽古をつけてもらう予定だった。ところが生憎、その僧侶に急な仕事が入ってしまったのだ。退魔を請け負うこの寺における急な仕事とは、即ち、人に仇を為す妖怪なり怨霊なりの調伏である。
「たまには妖物どもも、こっちの都合を考えて暴れてくれってんだよな!」
聞いている者がいれば、それは無理な相談だとツッコミを入れられたことだろう。
息を吐いて、賢は仰向けに寝転がった。軒の向こうに、薄雲で粉っぽく霞んだ空が見える。うららかな天気だ。稽古をつけてもらっていたなら、このまま眠ってしまいたくなるくらいクタクタだっただろうに、一人で型の練習をしただけでは、やはり物足りなかった。
「あーあ。つまんねぇの」
改めて、賢が呟いた時。
境内の砂利を踏み、山門の方からこちらに向かってくる足音がした。
歩調はゆっくりとしていて、音の軽さからすると、あまり大柄な人物ではない。左足を踏み込む音が若干強いのは、体の左側に何か荷を負っているからだろうか。
この寺の僧侶が境内を歩く音なら、大体どれが誰か、賢には聞き分けることができる。しかし、これは初めて聞く足音だった。
珍しいこともあるものだと、少しいぶかしみながら、賢は体を起こした。
普通の寺ならば、一般の参拝者も来るだろうが、何しろこの寺にはそれがない。訪れる外部の者といえば、広い境内を遊び場にしている、近所の子供くらいのものなのだ(因みに、数年前までは賢もそんな子供の一人だった)。
「これは、作倉(さくら)殿!」
本堂の奥から誰かが歩み出きて、足元の主を迎えた。老いた響きの中にも胆力が感じられるこの声は、この寺の住職のものだ。
「お久しぶりです。いらっしゃると一言お知らせ下されば、迎えをやりましたものを」
賢は目を瞬いた。年齢も、僧としての位もここでは一番高い住職が敬語を使うところなど、滅多にない。
一体どんな大人物がやって来たのかと、賢は本堂の影から顔を出した。
そして、再度目を瞬く。
本堂の軒先に立っていたのが、賢と同じ――いや、もっと下の年頃の、少年だったからだ。
白い砂利の敷かれた境内に、黒いパーカーを着た小柄な少年がぽつりと立っている姿は、まるで彼自身が何かの影であるかのように見えた。顔は、服と同じく黒いキャップの影になって、口元以外よく見えない。けれど、雰囲気から察するに、下手をすると中学生くらいなのではないだろうか。
「いいえ。そんなにお気使い下さらなくとも結構ですよ、住職殿」
苦笑を浮かべながら、少年が口を開いた。子供っぽい高さの残る声だった。そういうわけには参りません、と、住職の声が非常に恐縮した風でそれに答えるのが、ちぐはぐな感じだ。
「書庫を開けてもらえますか。調べ物をしたいので」
「はい。少々お待ち下さい」
少年に、住職が二つ返事で応じるので、賢はますます混乱した。寺の奥にある書庫には門外不出の文書が多数詰まっている。部外者に、しかもこんな子供に、やすやすと開放する筈がないのだ。
賢は放り出していた棒を掴むと、縁台から飛び降りた。砂利の散る音に、少年と住職が賢の方を向く。
「住職。このガキ、何者ですか? ……イテッ」
少年を指さした賢は、短く悲鳴を上げた。住職がすっ飛んできてポカリとやったのだ。
「馬鹿者! 言うに事欠いて、ガキとは何事だ! この方は……」
「いえ、仕方がないでしょう」
大目玉とはこのことだ、という見本になれるくらいに目を剥いた住職を、少年は口の端に苦笑を浮かべながら制した。
「俺は作倉・勝利(さくら・かつとし)。この寺に縁のある者だ」
よろしく、と手を出されれば、賢とてその手を握り返すことに吝かではない。
「俺は菱賢。ここの僧兵の一人だ」
「僧兵……。こんな若い人もいるんだな」
勝利が呟くのを聞きとがめて、賢は眉を寄せた。確かに、賢は寺にいる人間としては若い。僧兵としての賢を見て「若い」と言うのには、未熟だとか頼りないだとか、侮る意味が込められていることが多かった。
「何だよ、てめぇは俺よりかもっとガキじゃねえか!」
思わず不機嫌な声を出した賢は、勝利の背に負われた黒い細長い袋に目を止めた。剣術をたしなむ者が、竹刀や木刀、場合によっては模擬刀を持ち歩くのに使う袋だ。
「なあ。剣術、やるのか?」
「刀なら、使う」
勝利の答えに、賢の目が輝いた。これは、丁度良いのではなかろうか。
「では、この俺とお手合わせ願う!」
賢の大音声が、境内に響き渡った。
賢が余裕の笑みを浮かべていられたのは、それこそ最初の一撃を打ち込んだ時までのことだった。
上段から振り下ろすその攻撃を避けられるところまでは、想定通り。その後、隙の出た足許を払って転ばせて終わり、だと思っていたのに。
勝利の動きは賢の予想を越えて、速かった。
下を薙いだ棒をヒョイと軽く跳んで避けた勝利が、そのまま攻撃に転じてくる。その動きも、速い。
勝利の剣袋から出てきたのは、厳重に封の施された日本刀だった。今、彼は封を解かないまま、鞘に入った状態で、その剣を振るっている。
辛くも逃れながらも、鈍い切先が風を切る音を耳元で聞いた賢は、背筋に冷たい汗を感じていた。
(マジかよ!)
間髪いれず上段から振り下ろされた勝利の剣を棒で受け、賢はその重さに歯を食いしばる。
「この……っ!」
押し負ける前に何とか後ろに逃れて、賢は息を吐いた。
見た目は、年下の、ただの子供だ。それなのに、押されている。
「おらぁっ!」
構え直して、賢は勝利の額に向かって突きを入れた。
今賢が手にしているのは、金属でできた錫杖ではない、先にたんぽのついた修練用のただの木の棒だが、殺傷能力はけして低くはない。
だから、それまではある程度の容赦をしていたのだが、この瞬間、賢はそれを忘れていた。
鋭く風を切った棒が、過たず勝利にあたっていれば、骨を砕いていたかもしれない。しかし、そうはならなかった。
突き上げられ、舞い上がったのは黒いキャップのみ。
それが地面に落ちるよりも先に、すっ、と勝利の体が低く沈んで、剣が賢の足許を思い切り払った。倒れそうになるのを賢はどうにか堪えたが、その胸に、さらに蹴りが入る。
「うわ!!」
悲鳴を上げて後に吹き飛んだ賢は、蓮池に落ちて派手な水飛沫を上げた。
「大丈夫か?」
駆け寄ってきた勝利に、賢は苦虫を噛み潰したような顔で応じた。
「何だよ、このガキ。俺より強いのかよ」
蓮池は膝ほどの深さしかなかったが、何しろ蓮を植えるほどの池だから、底の泥がものすごい。賢の胴着は見えるところだけでもドロドロの状態だ。子供相手にこんな目にあうなど、どうして予想できただろう。
池の中から、賢は勝利に向かってがなった。
「大体てめぇ、蹴りもアリって、どういう流派だ!?」
「別に。俺は剣術をやるとは、言わなかっただろ」
笑いを含みながら返された言葉に、賢は口をつぐんだ。
剣術なら、剣以外は反則になるだろう。しかし勝利は『剣は使う』と言っただけだ。
「俺のは生き残るための戦闘術だ。勝つためのものではない」
そう、勝利の言った声は不思議に静かだった。口先だけの虚言ではなく、まるで、実際これまで幾度もの死線をくぐりぬけてきたかのように。
「まだ水泳には早いだろう。風邪を引く前に上がれ」
差し伸べられた手を取って、賢は勝利の顔を見上げた。
キャップの影で見えなかった彼の目を初めて近くで見て、賢は息を飲む。
黒い瞳は、暗く、深く。炎に磨かれ続けた、鋼のような。
それはおおよそ、この年頃の子供が持ちうる色ではなかった。
+++
翌日には、賢が手合わせで負けて蓮池に落ちた、という事実は、面白おかしい噂として、寺の僧侶たちの間に広がっていた。
空模様は、昨日とは打って変わって雨だ。
「よう、賢。早くも泳いだって? 季節先取りだな!」
蓮池の見える縁台であぐらをかいていたところに背中を叩かれて、賢は恨めしげに後ろを振り向いた。そこにいるのは、あの日賢に稽古をつけてくれる筈だった先輩僧侶だ。
賢は溜息を吐いた。
「そりゃあ、歳に似合わず、修羅場くぐってきてる奴みたいだったけどさ……」
全力でやって、歯が立たなかったことがショックだった。
あれから何度も、目を閉じて勝利との手合わせを想像してみた。賢は試合で負けたとき、必ずそれをする。繰り返すうち、相手を破る方法が見えてくるものなのだが――それが、勝利に限っては、何度やってみても、勝てる気がしないのだ。
実力差以上に、まだ僧兵としての任務をこなし始めたばかりである自分との、場数の差、というものを感じる。
「あんな奴も、いるんだな……」
蓮池から助け出された後、賢は住職にこっぴどく怒られた。
なんでも、勝利は昔、寂れていたこの寺を多額の寄付で立て直してくれた恩人だとか。その恩人に手合わせをふっかけるとは何たることか!そう怒鳴られたのだが……。
ふと、軒下を見上げて、賢は首を傾げた。
梁に使われた木は黒く、年代を感じさせる。そう、この寺は古いのだ。建て替えはおろか、改築だってここ数十年の間では行われていないのではないだろうか?
「なあ。この寺って、廃寺寸前まで寂れてたのを、作倉って奴の寄付で持ち直したんだろ。それ、いつ頃の話だ?」
「何だ。自分の寺の歴史くらい勉強しておけよ」
先輩僧侶は賢の問いに呆れつつ、記憶を探っている。
「ええっと……それなら確か、この寺が創立してすぐの話だから……」
「ええ!? それって、何百年前だよ!?」
「ああ。それくらい前のことになるな。何しろ、その寄付をしてくれたお人というのが、人魚の肉を食べて不老不死になったっていう伝承が残ってるくらいだから」
からからと笑う先輩の隣で、賢は胸を突かれたように息を飲んだ。
思い出すのは、あの闇の深い、鋼のような瞳。
「案外、その人って、今もこの寺に来てたりするのかもな……」
呟きは、蓮の葉を鳴らす雨粒の音にかき消された。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++END
いつもお世話になっております。納品が遅くなって申し訳ありません。
そして、初めてのPCさんを書かせていただいて、嬉しいやら緊張するやら……です。
不老不死の件を、勝利さんはそう沢山の人に話してはいない雰囲気でしたので、住職さんだけが知っていると言う形にさせていただいています。
賢さんも、最後に「そうなのかも……」と思う程度で。
彼らふたり、またいつか再会した時は、良いコンビになるのでは!?と思いながら書かせていただきました。
楽しんでいただければ幸いなのですが……。では、失礼します。
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