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<東京怪談ノベル(シングル)>


 □無音に聞く□


 ドアの隙間から射し込んできた光に目を細めながら、揚羽は静かに車から降りた。
 荷物を差し出してくれた運転手に礼を言うと、吹く風に髪をなびかせ前を見る。そこには古びた、けれど威厳を漂わせる日本家屋が広がっていた。瓦屋根に、太い木の柱。どっしりとしたそれらを楽しませるかのように時折咲き始めの桜が舞い、池の水が跳ねる音が響く。

 そういえば、昔あの池には蛙がいたような。そう思いながら池へと視線を飛ばすと、石で囲まれた水面をぴょんと飛び跳ねる土色のものがちょうど現れて、揚羽は微笑んだ。時が移り変わっても、こういう生き物はいつも変わらずにそこにいる。
 蛙は葉の上に乗りつつ黒い瞳で周囲をせわしなく見回していたが、やがて突然響いた高い声に驚いたのか、蛙はその姿を水へと投げ入れてしまった。

「まあまあ揚羽様! ご連絡下されば迎えの者をよこしましたものを……! 誰か、誰か。揚羽様がお着きになられましたよ!」

 水面に残った丸い波紋を眺めて揚羽は溜め息をついたが、気を取り直して前を向き挨拶をすると、老婆に向かってゆっくりとかぶりを振った。

「いえ、そのお気持ちだけで十分です。ところで、もう皆さんはお集まりに?」
「深山の当主以下は既に。ああ、でも仙台の四男と大阪の三男夫婦がまだでしたね。三男の方は時間に厳しい子ですから、程なく来るかと思いますよ」

 老婆の言葉通りのようで、揚羽の後ろで車の止まる音がしたかと思えば、すぐに子どもの声がわっと青空へと舞った。
 振り返ると、家族らしき四人がこちらへと歩いてくるところだった。老婆が声をかけているその名から察するに、どうやらこの四人が三男夫婦一行らしい。すると揚羽の視線に気付いた女性が、老婆に挨拶をしている気弱そうな男性の横から、きつい眼差しで射竦めるように視線を返してきた。
 敵意すら含んでいるかのような女の視線をしばらく黙って受け止めていた揚羽だったが、ゆっくりと踵を返すとやってきた案内役の青年の後へと続いた。視線はついてきたが、さして気にせずに懐かしい廊下を歩いていく。揚羽にとってこんな事は、実家に帰ってくればよくある出来事のうちの一つに過ぎなかった。
 今の視線はなかなかに強烈だった、と庭に咲く淡く色づいた花を視界の端に入れながらぼんやりと考えていた揚羽だったが、思考は前を歩く青年によって中断される。
 
「……それにしても、雛の席に香元として出られる方がまさかこんなにお若く美しい方だとは。いやはや、驚きましたよ」
「あら、こんな小娘の焚く香はお嫌かしら?」
「いえいえ、そんな事は決して。貴女のような典雅な方と香席をご一緒できるとは光栄です」
「ふふふ。お上手ですこと」

 揚羽はころころと笑いながらそっと障子を開くと、青年から荷物を受け取り中へと足を踏み入れる。

「では準備が整い次第お呼びしますので、それまではどうぞこちらでお寛ぎ下さい」

 青年が出て行くと揚羽は小さく息をつき、障子越しに柔らかな光が射し込む畳に腰を降ろす。知らない間に緊張してしまっていたらしい。
 遠くから老齢の婦人方の何やら興奮したような声が微かに聞こえた。言葉の端々に生き神様という単語があがっているのをとらえ、揚羽は苦笑する。廊下の向こうではきっと自分の話でもちきりなのだろう。

 今は揚羽が拒んでいるので誰も彼女の前では口に出さないが、宗家の老人は裏でよく揚羽を生き神様と呼んでいた。
 それは彼女が本来この世にいる筈がない人間である事に由来していた。氷柱に閉じ込められ永い時を生きたばかりか、そこから脱出して今もなお生きているという事実は、老人たちが崇め奉る理由としては十分だったらしい。

 脱出を果たした当時の実家はそれはもう上へ下への大騒ぎだったが、当の揚羽はさすがに衰弱しきっていたので、布団の中からその光景をぼんやりと見つめているだけだった。するとその様がまた神秘的だとまたはやし立てる始末で、実家は数ヶ月の間まるでお祭り騒ぎのようだったと揚羽は振り返る。

 止められていた時間が一気に動き出してしまったので、もしかするとこのまま一気に老け込んで死ぬのだろうか、とも考えていた揚羽だったが、それは杞憂だったらしい。一年経ち、実家を出て香屋を開いてからも、身体は衰えるばかりか昔と何ら変わりなかった。それどころか数年が経っても老いが身体を蝕むことはなく、そのせいで『深山 揚羽』の存在はますます生き神様としての地位を老人たちの間で不動のものにしてしまったのだった。

「恐れられてそう呼ばれているのではないのだから、別にいいのだけれど……」

 少し肩を竦めた揚羽は用意されていたお茶をそっとすすり、呟く。

「やっぱりちょっと、疲れるわね」





 練衆と呼ばれる、香席に参加する客が次々に広い部屋へと入っていく光景を、揚羽は障子越しに見ていた。
 今日の連衆は多い。一門の者が出席する大きめの宴席であるのに加え雛の席という事もあり、小さな子どもたちが大人たちに手を引かれて歩いていく影絵が障子に揺れている。

 先程の子どもたちもいるのだろうかとつらつらと考えていた揚羽に軽く礼をして、本日の亭主が控えの間を出て行った。深山の現当主は歳を重ねてはいるが、きびきびと、けれど落ち着きのある足取りで部屋を出て行く。すっきりとした背をしている、と揚羽は心の中で評し、今はもういない自分の姉妹の背を思い出す。確か、彼女もすっと背筋を伸ばした姿勢のいい娘だった。
 血というのはこんな風にさり気なく、けれど確かに残っていくものなのかもしれない。まるで伝統のように。
 
 やがて先に入った亭主の挨拶が終わり、揚羽の出番が来る。記録係の執筆と共に畳へと足を踏み入れれば、しん、とした空間が揚羽を出迎えた。笑いも涙もないただ静かな空間の中を音もなく歩き、香元としての座へと腰を降ろす。これで、鳥のさえずる声と葉ずれの音だけが世界の全てになった。
 子どもたちの姿もあった。分からないなりに緊張してはいるのか、かしこまった顔をして必死に正座に耐えている。また若い男性の姿もあり、そちらは何やら考えている様子だった。慣れない席だからなのだろう、眉間に皺が寄っている。
 その様子に揚羽はほんのりと微笑むと、一礼をして口を開いた。

「お香、始めます」

 続いて本香焚きを始める旨を告げ、膝を崩す事を勧めれば、子どもたちや大人の幾人かがほっとした顔をしてそろりそろりと足を崩した。まずこれで緊張の一つは解けた。ここから先は揚羽の出番だ。
 香の焚き方はもう身体に染み付いているが、それでも細心の注意を払うのは誰に注意されるまでもない。香炉の中に灰を盛り、火窓を作って埋めた炭団の熱を上らせると、香の敷物となる銀葉を置いて香を乗せる。
 ここで数人が驚いたような顔を慌てて隠したのを、揚羽は気配だけで知る。それらの人々は香席と聞いて、よく出回っている線香などを焚く席の事だと思っていたのだろうが、揚羽が今焚いているのは小さな木片だったのだから驚くのも無理はなかった。

 揚羽は白い指先を流れるように動かして一つめの香を焚くと、意外そうな気配を感じたままに炉の番号を宣言し、木片を置いた手のひらほどの香炉を端から順に回していく。宗家の者はさすがに慣れた様子で香を聞いていたが、揚羽は次の香炉を焚きながらその先を楽しみにしていた。子どもと、不安そうに眉を寄せたままの青年。

 やがて、その一角へと炉が回っていく。次が子どもであると知った老人は優しい表情を浮かべ、手渡しではなく畳の上にそっと置き子どもへと促した。子どもは恐る恐る炉を持ち上げ、大人たちの真似をするように炉を回し、右手を炉の上にかぶせて小さな鼻を寄せる。
 すう、すう、と二回の呼吸音の後に揚羽がそっとそちらを見れば、子どもの表情が変わっていた。どこか呆然とした顔をしたかと思うと、次の炉が来るのをそわそわと目で追って待っている。そこにはもう緊張の二文字はなく、代わりに次の香りに対しての好奇心と興味を示す輝きが浮かんでいた。

 次は相変わらず眉間に皺を寄せている青年の番だった。彼も見よう見まねで炉へと鼻を近づけ、そして一瞬の後にふわりとどこか懐かしげな表情を浮かべた。眉間の皺はなくなり、瞳には追憶するような色が満ちていく。

 揚羽はこの瞬間が好きだった。香席というものは華道や茶道と違い表に出る事がなく、それ故にどんなものであるのかをあまり知られていない。先程不安げな様相を呈していた子どもや青年も、きっとほとんど何も分からない状態でここに来たのだろう。
 そんな彼らが香りによって素の姿へと戻されていく一瞬を、揚羽はいつも喜びと共に見るのだ。香りという目に見えないものが確かに何かを変えていく、静かな奇跡の瞬間を。

 緊張も不安も良い香りの前では揃って兜を脱ぎ、後に残るのはただ穏やかな心だけ。炉が回るたび、香りはその者の心をひとつひとつ解きほぐしていく。酸いや甘いや辛味や苦味、様々な要素が混ざり合った香りにこころが凪ぎ、やがて炉が回り終わる頃には部屋中が穏やかな気配に満ち満ちていた。 
 相変わらず部屋は無に包まれているが、それは香りという一つの糸で繋がれた人々の健やかな無。

「本香、焚き終わりました」

 揚羽の言葉と共に、それぞれが和やかな顔で、回されてきた香りがどんなものなのかを手にした紙へと書いていく。難しい知識は要らない。三つの香りを五つの炉に分けて回した今回は、どれとどれが同じ香りかを当てるだけのものなので、子どもたちや初心者の者たちもそれぞれが記憶にある香りを思い出しながら、けれどきちんと紙に筆を走らせていた。

 その後に亭主の口から解答が発表されると、小さなどよめきが起こる。それぞれが一喜一憂する中を記録が回ると、揚羽の最後の出番が来た。
 最高点を出した者が名を呼ばれると、衣擦れをたてて立ち上がり、揚羽の前へとそっと座る。宗家の中でも古株の優しげな顔をした翁が、今回最高点を取ったらしい。揚羽が微笑みながら記録を手渡すと、もう何度も最高点を出している筈の翁は、それでも嬉しそうに皺だらけの顔をくしゃりと笑みのかたちにした。
 
 これで香元のするべき事は全て終わった。
 揚羽は袱紗をそっと畳んだ地敷の上に載せると、

「香、満ちました」

 という締めの言葉を残し、部屋を後にした。
 障子を閉め終えた揚羽は亭主の挨拶の声を背に、庭で咲き誇る桜の様を廊下から見上げ、微笑む。



 ――――三月三日。新暦、四月十一日。
 麗かな春の祭りはあくまで穏やかに、そして静かに、幕を下ろしたのだった。






 END.