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<東京怪談ノベル(シングル)>


THE DEAD


彼女が逃げていってしまって、山岡風太はそこにとどまり続けていた。とどまるということは、もはや逃げているのと何も変わりないことになりつつある日々――風太の乾いた毎日は、無常にも、刻々と過ぎていく。
 彼がついに想い人に想いを告白したその日から、もう、相当の日数が経ってしまっていた。彼にとっては、相当なものだったのだ。たとえただの3日しか過ぎていなかったのだとしても……風太は、答えを100年先延ばしにしているような後ろめたさに駆られている。
 今すぐにでも答えを出したい。自分は二度告白しなければならない。
 山岡風太が手に入れたのは、想い人のすべてだった。彼がこれまで目をそむけ、逃げ続けた彼女の秘密が、彼女の保護者から渡されたファイルに挟まっているのである。資料がぎっしりと詰まったファイル――すべての文章は、英語でつづられていた。英語の知識がある風太であるから、多少の時間があれば、読み解くことが出来る。
 しかし彼は、そのファイルを前にして、3日間悩み続けていたのだった。

 ――この世の中には、知らないほうがいいことがたくさんある。
 ある作家から、風太はそう言い聞かされていた。
 ――俺の知らないことは、俺が知らなくてもいいことなのかもしれない。俺はただの人間だから……俺って、あんまり強くないから……耐えられないかもしれないじゃないか。
 風太は、はじめ、ファイルに触れることさえ恐ろしかった。自宅に持ち帰り、机の上に置いたきり、手を近づけることをためらっていた。ファイルの表紙には、2003年というレポートの作成年と――調査コードネームが記されていた。

 “ THE SPINE ”

 ――俺は、きみを追いかけるよ。怖いけど……もう、決めたから。
 風太は英和辞書を机に叩きつけ、ファイルに手を伸ばし、その表紙に手をついた。ぬめる棘が、彼の手を貫く。その幻影は、痛みを伴った。風太は歯を食いしばり、表紙をめくったのだった。
 アルファベットの羅列の中に、彼の知らない世界が広がっていた。
 しかし、未知の世界を探るそのときの、血沸き胸躍るような爽快感はどこにもなかった。風太がいま覗きこもうとしている未知の世界は、ただ漆黒の深淵に続いていた。わけのわからない呪文と呻き声と囁き声とが、その闇の中からしのび寄ってくる。
 風太の胸にせり上がってくるものは、恐怖心と――嫌悪感だった。


  棘。
  アトラス編集部に届いた封書の中に入っていたもの。
  それをある作家が手に取り、彼は恐ろしい悪夢に夜な夜な苛まれることになった。
  棘は、古い水神の身体の一部であった。
  湖に住まう、おおよそ神とは思えない風貌の、忘れられかけた神である。
  忘れられかけているからこそ、神の力は今や弱まり、
  近くに居る者や、自分の身体に触れたものにだけしか、
  その邪悪なる念波を送りつけることが出来なくなっていた。
  しかし神はそれだけの力で、細々と人々の信仰をつなぎとめていた。
  日本でも、イギリスでも――別の次元の湖のほとりでも。
  信ずるものがある限り、神が滅びることはない。
  棘。
  なめくじのような身体に、かれは鋭い棘を生やしている。

  棘は、かれを信ずる者の――これから信ずるはめになる者の身体を貫き、
  穴を穿つ。
  生命を奪い取る。
  魂を喰らいつくす。
  そうして殺した者を、かれは自分の手足のように操ることが出来る。
  本来ならば、いわゆるゾンビやスケルトンのように、
  自由意志もないまま盲目的に従う使者にすぎないのだが――
  いまのかれには、力がない。
  神に喰われたあとも、現代の信者たちは自分の意思を持ち、
  普通の人間とさほど変わらぬ生活を送ることが出来るのだ。
  夢の中で神は信者と交信し、信仰を強制する。
  悪夢を操り、神の力の絶対を知らしめる。
  棘。
  それこそが、死せる生をもたらすものだ。

  水神によって殺された人間は、凍死体のように青褪め、体温と気配を持たない。
  悪夢に悩まされ、光という光を恐れる。
  湖の底にある暗黒を求め、この世をさまよい続ける。
  信者たちは神の目と棘にすがって、すでに終わった生を生きるのだ。
  棘。
  棘の民。
  彼らはこの宇宙のどこにでもいる。
  湖という湖に、彼が居るということは、つまり、そういうことなのだ。


「う……嘘だ……嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ」
 風太の嘆願は、むなしく机の周りを這いずり回った。風太の髪は今や乱れ、目の下には隈が現れている。ボールペンと辞書を持つ手、トレーナーの下の背はじっとりと汗ばみ、今や心臓は早鐘を打っている。
 レポートに、ずらりと並んでいるように見えるのだ。
 死者、死人、死、死、
 DEADというその言葉が。
「そんなの……嘘だ……彼女が――死んでる、なんて……!」
 レポートに向かい始めて、一体どれほどの時間が経っただろうか。ほんの数時間だろうか――それとも、数日だろうか。風太はその間、まったくDEADの単語に憑かれていた。時間は意味をなさず、暗い部屋の中で彼は寝食もとらず、デスクのスタンドをつけっぱなしにしている。
 彼女は、死んでいた。
「そんなはず、あるもんか! 死んだ人間が動くわけ…………彼女が死んでるわけ、ないじゃないか!!」
 ついに最後まで読み終えたファイルを、風太は机の上からはね飛ばした。レポートを読み進め、水と水の神の姿が真実の中に見え隠れし始めた頃から、風太は気分が悪くなってきていた。いま、彼の体調はひどく優れない。まるで椅子に根を下ろしたかのように、長いこと座り通しで、異国の言語を睨みつけていたせいもあるだろう。
 彼はとにかく、恐ろしく気分が悪かった。胸がいやにむかつき、喉と肌は焼けつくようだ。詳しく描写された水神の奇怪な外見のくだりを読んでいると、怒りすらこみ上げてきた。
 それよりも、だ(彼は逃げている)。
 想い人はその醜悪な神の従者なのだった。
 すでに魂を神に奪われ、夢の中で信仰を強いられながら、闇の中に身をひそめている。
 彼女は生まれながらにして、邪神を信ずるさだめのもとにあった。彼女はその運命から、逃げたのだ。
 ――ちがう。
 青褪めた唇で彼女は笑う。
 ――彼女は、
 濁った瞳で街を見つめている。
 そして彼女は、振り返って風太を見上げた。

 ――戦っていたんだ。


 風太の世界の中で、死が死に絶えていく。時は止まり、星がまぶたを閉じる。
 彼女は笑って、ブラウスをまくり、白い白い腹を見せた。鳩尾に、忌まわしい穴が穿たれていた。赤紫の蚯蚓腫れが、穴を彩っていた。穴の中にあるのは、ただの漆黒だ。
 風太の世界の門が開く。風太の乾いた爪が、鍵をこじ開けたのだ。
 門の向こう側から陽光が射しこみ、風太のやつれた顔に白の線を引く。
「腹……減ったな……」
 一緒に、食べに行かなくちゃ。
 今が何日で、何時なのか。いや、自分が何であるかも、意味をなさないような気がする。
 ――彼女はもう、助けられないんだ……。
 守ろうとしていたものは、すでに守ることも出来ないまま失われていた。
 彼の世界の中で、彼女は振り向いている。そうして、微笑んでいた。

(風太さん)

(お昼、食べに行きませんか)

「……行くよ」
 風太の手から、かたりとボールペンが落ちた。
 彼はカーテンを開けて陽光を部屋の中に呼び、数日ぶりに机から離れる。数日分の汗を洗い流し、風太は山吹のパーカーとスポーツバッグを掴んで、数日ぶりに部屋を出た。

 陽光が切り裂くのは、机いちめんに書き綴られた、神への呪詛にすぎなかった。




<了>