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桜色の気持ち。
「うん、良い天気」
空を仰げば、そこには一面の青の色。
沙羅はゆっくりと綺麗な空気を吸い込みながら、瞳を閉じる。
頬を擽るのは、春の匂いを含んだもの。それは花の香りだった。
春休みも終わりに近づいた、ある日の午後。
沙羅は一人、散歩ついでに自分のお気に入りの場所のひとつである、桜のアーチが出来上がっている高校の校門前へと足を運んでいた。
ひらひらと、緩やかな風に乗って沙羅の目の端を掠めるのは、桜の花びら。
彼女はそれを目で追いながら、幸せそうに笑っていた。
アーチの中へと入ってしまえば、そこは見渡す限りの桜色。その先に見えるはずの空の色も、それには負けてしまうようだ。
「…………あれ…?」
ふとした瞬間に、沙羅の視界に入ってきたもの。
それは、普段から人気のないこの路に、今日は多くの先客の姿だった。見る限りでは桜を愛でに来たようではなさそうだ。何かを囲み、人だかりになっている。
沙羅は少しだけ歩くスピードを上げ、その人だかりへと近づいていった。
よく見ればその人だかりの多くは、若い女性ばかりだ。
「……?」
ざわざわ、と小さいながらも興奮を隠し切れないような女性たち。
沙羅は背伸びをしてその中心となっているものへと視線をめぐらせて見た。
「……あっ……」
周りの女性たちが、黄色い声を出しそうになっているわけが、その一瞬で解ってしまった。
今、沙羅の瞳に移っている人物。それは彼女にとって、何より大切な人。淡い恋心をずっと抱いている相手、久遠の姿だった。
(…そっか…お仕事で…)
久遠はフリーのモデルだ。こうした場面は珍しい光景でもない。沙羅も過去に何度か遭遇している。彼は雑誌関係の仕事で、この桜並木で撮影を行っている最中なのだ。
(……いつ見ても…素敵…)
人だかりの後ろのほうから、沙羅は久遠を見つめていた。
桜舞い散る木の下で、気だるげにカメラへと視線を送っている彼が、とても美しく見える。
偶然でも姿を見ることが出来てよかった、と思う反面、沙羅の心の奥でチクリと刺さる、何か。
「……………」
彼女は右手胸の辺りへと置き、ぎゅう、と自分の服を握り締めた。
こういう時に、嫌というほど思い知らされる、久遠と自分との距離。それは、大きな障害のひとつだ。
自分はただの高校生。久遠は人気モデル。口にしてしまうだけでなら、簡単な位置。だがそれを深く掘り下げて見れば、あまりにも違いすぎる、現実。
久遠にしてみれば、自分などはこの場にいる多くの女の子と変わらないのだ、と。
ゆらり、一瞬沙羅の視界が揺れた。
それに気がついた彼女は、慌てて数回瞬きをし、自分を誤魔化す。
「……ばか、沙羅…」
俯きがちに呟いた言葉は、周りの喧騒に掻き消される。
彼の携帯番号を、知っている。その番号を押せば、彼は電話を受けてくれる。そして都合がつけば、会ってもくれる。
―――ほんの少しだけでも、特別に思ってもらえているかもしれない。
そんな状況下では、淡い期待を抱いてしまっても仕方のないこと。だが沙羅は、浅ましい自分の考えを悔やみ、心の中で掻き消そうと必死だ。
(…帰ろう……。此処にいても、辛くなるだけ…)
沙羅は胸の下あたりでいつの間にか組んでいた両手を静かに解き、小さな溜息を吐いた。
そして一歩、後ろへと右足を引く。そのまま勢いで、体を回転させ人ごみから離れる。
その、直後。
「…――橘?」
(…え…っ……)
沙羅の耳に届いたのは、誰よりも暖かな声。
彼女はその声に過剰反応をし、顔を上げた。それと時を同じくして、周りの空気が一気に沙羅へと向かい、流れてくるのが背中越しでもよく解る。
人ごみを掻き分け、彼女へと歩みを進めるのは、久遠本人。
ゆっくりと振り返れば、いつもと変わらない、彼の優しい笑顔がそこにあった。丁度撮影も終わったのか、ラフな格好をした久遠は、片手にミネラルウォーターを持っている。
「……ちょっと、何あの子…」
「なんで相沢さんから声かけてもらってんの…?」
チクチクと突き刺さってくるのは、周りにいた久遠のファンである同世代の少女たち。その彼女たちにも怖くて視線を動かすことも出来ずにいたが、目の前の久遠にも沙羅は、目を合わせることが出来ずにいた。
「…今日は? 何かあったのか?」
「……い、いいえ……お天気も良かったので、散歩に…」
俯いたままで、久遠の言葉にいつもより小さな声で答える沙羅。
周囲の痛い視線から浴びせられる嘲笑を、受けることを事前に避けたような感じだった。
「そうか…。僕はこの通り、仕事でね」
そこで漸く頭を上げることが出来た沙羅に向けられた久遠の表情は、少しだけ複雑なように見える。…仕事で疲れてでもいるのだろうか。
沙羅の心の中で、そんな心配が生まれるがそれは次の瞬間には消え去っていた。
「満開の桜の下…橘にはよく似合うな」
「………!」
その瞬間、周囲からは『キャーッ』と声が響き渡る。
久遠が何でもないことのように、沙羅の髪の毛に落ちた桜の花びらを、取ってくれたのだ。優しい言葉を添えて。
まるでドラマのワンシーンのようだ、と。沙羅は他人事のように、その光景を受け止めていた。
「……と。これからまだ打ち合わせがあるんだったな…」
「…あ、あの…っそれでしたらもう、行ってください……」
久遠の言葉が、沙羅を現実へと引き戻す。
彼女は慌てながらも笑顔を作り、そう言う。
「それじゃ、またな橘」
「はい」
桜の花びらを手の中に仕舞い込んだままの久遠は、沙羅の言葉を受け軽く頷いた後に言葉を繋げた。
そして片手を挙げながら、彼は沙羅の前から踵を返し、離れていく。いつもの微笑みを置き土産に。
「相沢さーん、サインくださいー」
「私も〜」
周囲の少女たちは、その久遠を追い、雪崩れのように駆けていく。
沙羅はその少女たちに群がられている久遠を、暫く呆然と見つめることしか出来ずにいた。
家への帰路を進む沙羅は、まだ落ち着かない自分の鼓動を、深呼吸で整えていた。
いつもと変わらない態度で接してくれた久遠に、感謝しながら。
気がついてくれるとは微塵も思ってなかった。あの多くの人だかりの中では、到底声もかけることも出来ないだろうと諦めていたのに。
それでも久遠は自分を見つけてくれた。名前を呼んでくれた。そして、大好きな笑顔をくれた。何でもなかった――少しだけ切なくなるはずだった一日が、彼のおかげでガラリと変わってしまった。
「……………」
空を見上げる彼女の目じりには、小さく光るものがある。それは先ほど生み出した苦しみの色ではなく、歓喜の色。誰にもわからないように沙羅は、それを人差し指で拭う。
―――やっぱり、大好き。
心の中で、呟く言葉。
現実では、まだまだ音にすらすることが出来ない言葉。
大切な想い。失くせない感情。
それを再確認した沙羅の表情は、明るいものへと戻っていた。
「♪」
不思議と、足取りさえ軽くなってしまう。
風が運んでくる桜色の花びらを目で追い、沙羅は小さく鼻歌を唄い始める。
そして彼女は空気にメロディを溶かしながら、春の小道を進んでいくのであった。
-了-
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橘・沙羅様&相沢・久遠様
ライターの桐岬です。
今回もご指名有難うございました。また沙羅ちゃんと久遠さんを書かせていただけて、とても嬉しかったです。
少しだけ勝手にエピソードなどを加えてしまったのですが、イメージとかけ離れてしまっていたら、すみません(汗)。
お二人はまだまだ先にハードルがあるようで…私も書きながらドキドキしてしまいました。
少しでも楽しんでいただければ、幸いに思います。
今回は本当に有難うございました。
桐岬 美沖。
※誤字脱字がありました場合は、申し訳ありません。
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