|
煌く地上の星を君へ
藤井雄一郎がそのサイトを見つけたのは、3月の初めだった。
ヴァレンタインに妻のせりなから恒例のチョコレートを受け取った。そのお返しを頭の片隅で考えつつ、何気にネットサーフィンしていった先で、この文句。
『例えば、愛情を確かめ合う手段、あるいは愛の大きさを測る手段として、女性達は思いのほかこの日を大切に考えているものかもしれない』
彼はパソコンのモニター前で低く唸った。
衝撃を受けたといっても過言ではない。
女性は男性からのお返しを期待している。
つまりは、妻が自分に期待している。
答えたい。
それからの雄一郎は、ありとあらゆるコネを使って情報を収集し(そこには興信所関係で知り合った者たちも多く含まれる)綿密な計画を立て、おそらくは生まれて初めてとも言えるプレゼントの作成に勤しんだ。
何とかパソコンから『招待状』プリントアウトして、どちらかと言えば器用な手先で、今度は封筒の装飾に凝り始める。
そういえばこの間買ったばかりのロウがあったはずだ。
更に机をゴソゴソ。
準備万端整うまでの所要時間は、彼の愛の深さに比例した。
そして、3月14日。
「せりな」
色とりどりの花に囲まれて開店準備を始める妻に、雄一郎はそっと声を掛け、そして振り返った彼女の前に、ロウで封をした招待状を差し出した。
「いきなりどうしたのよ」
「受け取ってくれ」
不思議そうな顔をするせりなに、何故か胸が妙にドキドキしている。
懐かしい、学生時代の淡い初恋を思い出す。
「俺から、お前へ」
「アナタ……これってもしかして……?」
「あ、後で開けてくれ。ええと、な、今日はアレだから、な?」
それから1日、雄一郎は落ち着かなかった。
妙にぎこちなくて、そわそわする。
やっぱり招待状は夜に渡すべきだったかと密かに後悔しつつ、いや、でもそれまでに妻に用事が入ってしまっては何もかもダメになるじゃないかと思い直し、それでもやはり気になって。
いろいろいろいろ、手につかない。
けれど、閉店時間が来、店じまいをして、それぞれが外出用の服に着替え、妻が部屋から出てきたとき、彼のグルグルとした様々な思惑や後悔はきれいに吹き飛んだ。
胸元に繊細な刺繍を施した白のロングドレスと、それに合わせた真珠のネックレス。シンプルだからこそ、より一層彼女の清楚な魅力が際立つ。
「……変、かしら?」
声も出せずにパクパクと口を動かす雄一郎に、せりなが少しだけ心配そうに首を傾げる。
このままいつまでも見惚れていそうな勢いだったが、辛うじて現実に引き戻され、雄一郎は力の限り首を横に振って彼女の言葉を否定する。
そして、どぎまぎしつつも、微笑む。
「せりな、行こうか?」
いくつになっても彼女はキレイなんだ、自分の妻はこれほどに素敵なのだと、泣きたくなるくらい嬉しくなってしまった。
配達用の車ではなくちゃんとした自家用車にせりなを乗せて、デートスポットとして名高いお台場まで走らせる。
ライトアップされたレインボーブリッジ。
取り囲む照明たちに照らし出された水面。
見せる事を重視した海岸線。
車から見る景色もいいけれど、自分が今日用意したのはもっと別のものだ。
目的の場所に到着。
駐車場に入り、車を置き、幸せそうなカップルたちの間を縫って、ドレスアップした美しい妻をエスコートする雄一郎の心は完全に恋人時代に戻っていた。
けれど、あの頃ではけして来ることの出来なかった場所を、自分たちは歩いている。
豪奢なシャンデリアと、煌びやかな調度品。やわらかな絨毯。優しい光。
最上階のレストランはこの時期であっても混雑しているという印象はなく、むしろ優雅な音楽にあわせた心地よい空間が広がっていた。
恭しくウェイターに迎えられ、2人が案内されたテーブルには、ドラマチックレインのアレンジメントが配置され、深みのある彩を添えている。
驚く彼女の表情がまた、たまらなくいい。
「せりな」
そっと彼女の名前を呼ぶと、
「雄一郎さん……と、呼ぶべきかしら?」
くすぐったそうに、妻が微笑む。
海のような、空のような、宝石のような青い瞳に、天井から注ぐやわらかで暖かな明かりが映り、揺らいでいた。
頑張った甲斐があったと思い、同時に、この店を紹介してくれた娘たちに感謝しつつ、彼は席に着いた。
シャンパンがグラスに注がれる。
「ああ。こういうとき、何て言って乾杯すればいいんだろうな」
メリークリスマスでもなければ、ハッピーバースディでもない。ホワイトディの単語を入れた文句を考えてみても、どれもこれも語呂が悪い。
「別に、そこまで悩まなくてもいいわよ?」
お疲れ様という一言でも問題はないとせりなは思っている。
『おめでとう』や『有難う』では少しおかしいかもしれないけれど、それだって思いがこめられ、通じているのなら何の問題もないような気がした。
けれど、雄一郎は、この人一倍子供っぽくてこだわりのある夫は、神妙な顔のままで首を横に振る。
「いや。いやいやいや、これは悩む価値があるんだ」
真顔で告げて、必死に頭を捻る。
そんな彼を微笑ましく眺めながら、心がほわりと温かくなるのをせりなは感じていた。
「ああ。そうだ」
ようやく、ひとつの答えに行き着く。
雄一郎はグラスをちょっとだけ傾けて、
「これまでの俺たちと、これからの俺たちに、乾杯」
カチンと触れ合わす。
そして、ウィンクをひとつ。
「私たち、もう20年以上も一緒にいるのね」
その時間は一言で終わってしまう単語なのに、長いような短いような、早いような遅いような、不可思議な感覚にさせる。
色々なことがあった。
告白されて、付き合って、プロポーズされて、結婚して、子供が出来て、会社を辞めて、フラワーショップを始めて。
精一杯めかしこんで、目の前に座っている夫を改めて見つめる。
時折思いもよらないことをするけれど、彼の愛情を疑ったことはないし、彼の情熱が冷める瞬間を考えたこともなかった自分に気付く。
せりなの『眼』は人の心を覗いてしまう。
若い頃は今のようにコントロールできず、意識せずに相手の領域に踏み込んでしまうことだってけして少なくなかった。
けれど、彼はソレを怖れたことがないのだ。
自分のチカラを告げた時も、驚かなかった。
そして、自分も彼の内側に触れて傷付いたことがなかった。
いつでも彼は真剣で、いつでもまっすぐで、驚くほど純真で正直なまま、ここにこうしている。
ソレはなんだかとてつもない奇跡のような気がしてきた。
「あのな、せりな」
じっと見つめるせりなの視線にどぎまぎしつつ、雄一郎は思い切ったように口にする。
「これから20年以上先も一緒だ」
それは2度目のプロポーズでもあり。
「一緒、だよな?」
受けてもらえるだろうかと子供みたいに不安そうな顔で見上げる雄一郎に、せりなはゆっくりと頷いて見せた。
「ええ、ずっと一緒よ」
ずっと一緒。
言葉に思いを乗せて。
真実に変わるように。
真実であり続けるように。
コース料理は、まるで2人の呼吸を計っているかのようなタイミングで目の前に運ばれてくる。
前菜、オードブル、スープ、魚料理、シャーベット、肉料理……料理人の繊細で鮮やかな妙技が白い食器の上に表現される。
見た目にも美味しいその食事を前に、2人の会話は途切れることがなく、また、2人を包み込む空気もまた、壊されることなく保たれ続けた。
「そういえば、アナタとこういう場所で食事をするのは初めてね」
「ああ」
自分たちが生活する緑に囲まれた田舎町には、こんな高層ビルもなければ、洒落たホテルもレストランもない。
気心の知れた友人が経営する小さな居酒屋で酌み交わす酒も、顔見知りの人間が作った野菜や肉などを料理してもらうのも、どちらもとても貴重で素敵なことだけれど、『特別な場所』とは少し違う。
彼女に贈りたいと思えるもの。
両手では足りず、全身でも表現しきれないような、この深い愛情と感謝をどうやって伝えようかと、雄一郎はずっと考えていたのだ。
ワインを隣に置いて、最後のデザートが2人の前に置かれる。白いプレートに3種のケーキとアイス、そして飴細工とソースで描かれた芸術品。
もう間もなく、この夢のような場所での時間が終わろうとしている。
「せりな」
雄一郎は改めて妻の名を呼び、妻に向き直り、そして妻の手を、大きな自分の手で包み込んだ。
「なにかしら?」
「俺を選んでくれて有難う」
「え?」
「俺みたいのを、生涯の伴侶に選んでくれて有難う」
ずっとずっと伝えたかった言葉。
「お前がいてくれたから……俺は今こうしていられる……」
普通とは違うチカラ。
人とは違うチカラ。
時にソレは、思いがけない迫害をもたらすことがある。
長女も随分と悩んだはずだ。
今は、そのチカラの使い道を見つけ、ほんの少しだけ楽しそうに見えるけれど、それでもあの子が辛い思いをしているのを見るのが辛かった。
持って生まれたチカラを、厭わしく思ったこともあった。
でも、今は、大丈夫。
彼女がいる。
娘たちが居る。
そして、思いがけず出会った沢山の友人たちがいる。
全てはせりなが自分を肯定してくれたから、自分の存在をちゃんと受け止めてくれていたから。
怖くなったり、辛くなったり、哀しくなったり、もどかしかったり。
ままならない自分の心を持て余す日々もあったけれど、彼女のおかげで、自分はここにいる。
「ねえ?」
様々な思いで言葉が詰まった彼の手に自分の手を重ねて、せりなは微笑む。
「選んでくれて有難うって、それを言うなら私だって同じなのよ?」
互いの体温が、そっと伝わる。
優しい時間。
温かな時間。
愛しい時間。
不意に、店内の照明がゆっくりとその明度を下げていき、音楽がピアノの生演奏に切り替わる。
「そろそろ時間かな……外を見ていてくれないか、せりな」
同時に外では数多の光が一斉に瞬きだし、うねり、広がっていく。
パレードが、その間をゆっくりと通過していくのが分かる。
「まぁ……」
東京の空に星はないけれど、代わりに、窓ガラスの向こうでは、温かな営みを包む地上の星が煌き、宝石箱のような夢の光景を見せていた。
大きく、あるいは小さく瞬きながら、人間たちの手で作り出された美しい光の洪水が夜の街を覆う。
「これが、俺からお前への」
これが、藤井雄一郎から藤井せりなへの贈り物だ。
「愛しているよ、せりな」
愛している。
ソレはとても当たり前で、でもなかなか口に出せない言葉。
「有難う……ア……雄一郎、さん」
燭台の上でロウソクの光がひそやかに揺れる。
永遠を誓うのにふさわしい、特別な夜の特別なひととき。
END
|
|
|