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<東京怪談ノベル(シングル)>


桜雨の降る夜


 盛りを過ぎた桜がひらひらと名残り惜しげに宙を舞っている。
春の訪れを人々に実感させるという役目を終えた桜だ。散り往く姿までも感嘆の吐息で彩ろうとするかの如き情景である。今年の桜は遅かった。囁かれる言の葉を浚うように。
 四月半ばの宵である。
 少し曇った空の下、夜気と戯れる者は多くない。この時間、道も町もうら寂しいものだ。
 それは桜が多く目に付く公園とて同じこと。
 なまじ広く、近隣住民の憩いの場、もしくは散歩コースとなるだけに、夜の静けさが際立つ。
 ひらひら、ひらひら。
 桜だけが音も無く舞う。
 別れを惜しんで。誰にも見られることなく散るのを惜しんで。
 そんな公園の遊歩道からは少し離れた場所で、平松勇吏は愛用の木刀で空を斬っていた。一定のリズムを保って鋭い音が響く。
 握る得物は白樫。
 一振りごとに余計な思考が削ぎ落とされ、神経が研ぎ澄まされてゆく。
 いつからそうやっているのか、こめかみを伝い落ちた汗がシャープな輪郭を描く顎の先で雫になり、地に落ちる。土に染みたその上を、薄紅の花弁が覆った。
 剣圧を受けて花弁が惑う様に流れる方向を変える。
 聞こえるのは素振りの音と勇吏の乱れない呼気のみ。
 周りの全ては息を潜めている。
 掻き乱される薄紅の姿も、勇吏には何の感慨も浮かべないのか。
 闇を見据える瞳は、その実まったく別のものを睨みつけている様でもあった。
 現か。
 夢か。
 どちらを見ているのか、それは勇吏にしか分からないこと。
 ――否。
 ひょっとすると、彼にもわからないのかも知れなかった。
「……今日はこんなモンか」
 素振りの音が止んだのは、それから間もなくの事だった。
 さして乱れてもいない息を軽く整え、額に張り付いた前髪をぞんざいに掻き上げた勇吏は、いささか乱暴とも思える手つきで汗を拭った。春の宵とは言え、身体を動かせばその分だけ熱は篭る。
 刀袋に納めた木刀をひょいと肩に担ぎ、周囲の桜をちらりと眺めた後に勇吏は歩き出した。そぞろ歩きの様でいて、目的は確り定められている。
 そんな歩みだ。
 公園を抜け、静かな町を抜けて、未だ眠らぬ街へ。
 そうして勇吏が腰を落ち着けたのは、一軒のアイリッシュパブだった。店内に一歩踏み込めば、テーブルに咲く客達の会話がざわめきとなって彼を包み込む。
 幾人かの顔見知りと挨拶を交わして空いたテーブルに陣取ると、勇吏はとりあえずウィスキーを注文した。グラスが運ばれてくる前に、挨拶を交わしたばかりの顔見知りがスモークサーモンを勧めてくる。
 差し出された皿から指先で一切れつまみ上げ、勇吏はぱくりと口に放り込んだ。
「サンキュ」
 喉を上下させ、指先を舌で舐めながらにやりと笑う。ついでにチップスも相伴に預かれば、相手は豪快に笑って皿ごと勇吏のテーブルに置いて行った。メインのタラはほとんど残っておらず、サーモンの方を置いていかない辺り、相手もしっかりしている。
 奥のステージでは丁度セッションが始まる頃合いらしい。
 ざわめきが低くなり、音楽が始まる。
 次第に戻ってくるざわめきと音に包まれ、勇吏はゆっくりとグラスを傾けた。氷がカラ、と小さく鳴る。
 喉を通る熱さがクセになるのだ。弱い酒ではここが物足りない、と勇吏は思う。
 汗を流した後の身体に、アルコールが染みていくのが感じられる。僅かに残ったタラの切れ端とチップスを肴に遠い異国の音楽に遊ぶ。
 誰かと親しくなる訳でもないが、こういった空気は嫌いではない。多分、パブという空間の持つ雰囲気が好きなのだろう。
 のんびりと己のペースで酒を愉しみ、勇吏は来た時と変わらぬ足取りで店を出た。
 後は別段することもない。単に家へ帰って寝るだけである。
 淋しいが桜だけはある、そんな道を選んで勇吏は帰路についた。
 空には右半分だけの月が頼りなさそうに浮かんでいる。
「桜に月、か。風情があるねェ」
 花弁の舞う空を見上げて呟き、勇吏はそこでぴたりと足を止めた。
「ま、俺には関係ねェけどな。――なァ、そこの」
 悠然と佇み、木刀は肩に担いだままで勇吏は暗がりに声を放った。空いた手はポケットに突っ込んだままという一見隙だらけの格好で、何もないと思える道の向こうを睨む。
「……久しぶりだな、平松よォ」
 ややあって、前方や脇に逸れる道の暗がりからぞろぞろと人影が現れた。それぞれにナイフや角材を持った男達である。剣呑な空気を纏い、話をしにきたという風には到底見えない。
 リーダー格と思しき男だけは、目に見える所に武器を帯びていなかった。
「何が久しぶり、なんだかな。さっきからコソコソ人の後ろついてきやがって。そんなトコは昔っから変わっちゃいねェ」
 呆れを含んだ声音で言い放ち、勇吏はやる気なさげに肩を竦めた。相手がいきり立つのを承知で、大袈裟に息をついてみせる。
 案の定、男達は色めき立った。勇吏と同じ年頃とは言え、落ち着きのなさは比べるべくもない。
「うるせぇ!! あの時の借り、ここできっちり返してやる!」
 今にも跳びかかってきそうな男を制し、リーダーが吼える。
 勇吏は油断無く四方を窺いながら、露骨に相手を馬鹿にした表情を浮かべた。
「は? そんな昔の――高3の時の事なんざ憶えちゃいねェよ」
 一瞬だけ、沈黙が落ちる。
「っざけんなぁあぁ!!」
 その直後、勇吏を包囲していた輪が乱れ、ナイフを構えた男が突っ込んでくる。
「だーから。そういうトコが変わってねェって」
 軽いステップで第一撃を交わし、勇吏は肩に担いでいた木刀を凪いだ。
ぐほ、とくぐもった音が男の口から吐き出され、ずるりと滑り落ちる。
ナイフがチャリ、と安っぽい音を立ててアスファルトに落ちた。
微かなどよめきが上がり、続こうとしていた者達の動きが鈍る。その様子を見て、勇吏はにやりと唇を歪めた。
「わざわざ邪魔の入らねェ道を選んだんだ。カタつけてやろうじゃンか」
 木刀は刀袋に納めたまま、片手で構える。
 空いた手で挑発してやれば、彼らはすぐに跳びかかってきた。こうなれば統率などあったものではない。ましてや仲間とのコンビネーションなどある訳もなく、ただ乱闘が始まるのみだ。
 そうなってしまえば、勇吏にとってはやりやすいことこの上ない。
 木刀を持っている事から一対一の戦闘が基本だと思われがちだが、勇吏が得意とするのはそれだけではない。一対多の状況でも対応できるよう、独自の剣術を習得しているのだ。遊びで角材を振り回すチンピラとはレベルが違う。
「ちんたらそんなモン振り回してんじゃねェよ!」
 出来るだけ一撃で相手の足を止めるよう、要所要所を木刀で打ち込んでいく。一番壁が薄くなっている部分に絞り、勇吏は包囲網からの突破を試みた。
 そもそも、真面目に相手とやりあう気など毛頭ない。適当に挑発して頭に血を上らせ、乱闘に持ち込んだ後で抜けてやろうとの魂胆だったのだ。
「野郎!」
 後一振りで突破できる。
 その読みが隙を生んだのか、はたまたアルコールが判断をほんの僅かでも鈍らせたか。
 視界の端を白い光がよぎったと認知した瞬間、勇吏は咄嗟に身を引いていた。
「ちっ!」
 だが、完全に避ける事は叶わず、頬に鋭い痛みが疾る。
 左頬、目にごく近い場所に。
 その位置には、昔負った傷跡が今も残っている。
 反射的に手をやると、指先にぬるりとした感触が触れた。
「……ッ」
 どくん、と心臓が脈打つのを感じた、気がした。
 視界が赤く染まる錯覚に捉われる。
「な、なんだ――!」
 唐突に動きを止め、ゆらりと振り返った勇吏に、未だ動ける状態の男達も戸惑いを隠せない。
 だらりと下げた木刀の切っ先が自分に向いていなくとも不吉な予感は拭えないのか、じりじりと後退し始める者もいる。
 奇妙な威圧感が、その場を支配していた。
「オイ平松、まさかそれっくらいでイっちまったんじゃないだろうなァ?」
 その中で一人、平然と、と思える顔で声を出すことができたのはリーダー格の男のみだった。
「てめェら、今の内にやっちまえよ」
 顎でしゃくり、仲間を促す。
 そして自らもナイフを取り出し、勇吏へ向かって踏み出した。
「――――!」
 男達の一人が、さっと顔色を変えてリーダーを引きとめようとする。
 だが、遅かった。
 木刀の切っ先が先刻とは違う唸りを上げ、リーダーの腕を打つ。ミシリ、と嫌な音がして、男の腕があらぬ方向へと曲がり、有り得ない方向を指が示していた。
「あ……」
 あまりの事に声にならない男を、更に木刀が襲う。
 ヒュ、と風を切る音がしたかと思えば、リーダーの腹に木刀がめり込んでいる。空気はおろか胃の中の物を吐き出すことすら出来ず、男はその場に崩れ落ちた。
「てめェ!」
「よくもっ!」
 一方的な打撃に、黙って見ているだけだった男達が再び動き始めた。その半分は勇吏に呑まれそうな己を叱咤する為だっただろうが、兎にも角にも、リーダーを放っておくことは出来ないらしい。
 向かってくる男達を前に、勇吏は三度木刀を振り上げた。
 無事な腕で腹を押さえて蹲るリーダーの頭上へ。
 鈍い音が響く。
 そして勇吏は、修羅と化した。



 全身を蝕む激痛で、勇吏は目を覚ました。
 身体がまるで他人の物であるかの如く、言う事を聞かない。じっとしていてもあらゆる筋肉が悲鳴を上げていて、どうすることもできない。
 己の限界以上に身体を酷使した後の状態に似ているが、今のこれはそれよりも更に酷いものだった。
 ずるずると這う様にして台所へ向かい、冷蔵庫の中のミネラルウォーターをボトルから直接呷った。首筋を伝った水が汗と混じり、Tシャツに染みを作る。不快な汗をかいていたけれども、着替える気力が残っていなかった。
 昨夜、逃げる様に帰ってきた時に着替えたのが精一杯だった。今もその服は部屋に散らばっているし、刀袋に至ってはそのままだ。
 夥しい血の滲んだまま。
「一体なんだってんだよ――」
 畜生、と毒づく。
 冷蔵庫に凭れ、手にしたままのボトルを再び呷る。冷たい水がいくらか痛みを緩和してくれるようにも思え、勇吏は額にそれを押し当てた。
 そうして昨夜の記憶を辿る。不自然にふつりと途絶えた空白の時間を、掘り起こす為に。
 初めに目に入ったのは、赤、だった。
 少しどす黒く濁った赤だ。
 血だ、と勇吏は思った。
 血が、ついている。己の服にも、刀袋にも。
 空いた手でひりひりする左頬に手をやれば、生乾きの血が指先についた。
怪我をしている。
そのせいで血に汚れているのだと、最初は思った。
 だが、それにしては足元にも血が飛び散っているのはおかしい。いささか、出血量が多すぎる気がする。
 それに、嘔吐物らしきものもアスファルトには散って――。
「な……んだ……っ」
 ナンダコレハ。
 徐々に周囲の景色を認識していくにつれ、勇吏は目をこれ以上にないぐらい見開かねばならなくなった。
 辺りに散乱しているのは、人、だ。
 物かと疑いたくなる惨状を呈しているが、人だ。いっそ、物だと思えたならば良かったかもしれないと願う程。
 息があるのかないのか、確認するのが恐ろしい。
「これを、俺が、やった……のか?」
 記憶があるのは白刃を視界の端に捉えたところまでだ。
 その後、一体何が起こったのか。
 適当に相手を撹乱して、とっとと抜けて帰るはずだった。それなのにこの状態は一体何だと言うのか。
「これを俺が……」
 声が震えている事を情けないと哂う事が出来なかった。
 手も、さっきから小刻みに震えている。
 笑いそうになる膝を懸命に押し留めて、半ば呆然としつつも周囲を見渡す。どこを見ても、人の所業とは思えぬ惨さだった。
 一歩、よろめきながら前に出る。
 靴が汚物を踏んで濡れた音を立てたが、不快に思っている余裕などない。
 ともすれば放り出しそうになる木刀を力いっぱい握り締め、勇吏はその場から転げる様に逃げ出した。後ろを振り返ることなど、できなかった。
 ただひたすらに走って、走って、家へ帰る。
 そうしてバタンと扉を閉じて、着替えて、眠ったのだ。
「畜生……」
 どう考えても、思い出せない。
 しかしどう考えたところで、アレを勇吏がやった事に違いはない。他の誰かでは有り得ないことだ。
 それが如何に、無残な様相を呈していても。
「俺は、ヒトだ。ただの、人間だ」
 唇を噛み締め、勇吏は腹の底から声を絞り出した。身体を蝕む激痛は、何の助けにもなりはしないけれども。
「アレは……何だ」
 昨夜、目に飛び込んできた光景が瞼に焼き付いている。
 正に、「アレ」としか表現しがたいものだった。何だ、と誰かに問いただしたいモノだった。
 それを自分がやったのだ。
「俺は……人間で十分だ……!」
 ぬるくなった水のボトルに爪を立てる。
 キシ、と小さく傷がついた。
 恐ろしい。
 だが、目を背けるだけでは終われない。
 全身を貫く激痛も、記憶に焼きついたあの光景も、むせ返る様な血の匂いも。
 一度は逃げた。
 だが、次は逃げるだけでは終わらない。
「俺は、人間だ」
 簡単にケリがつく問題ではないかもしれない。
 だから、乗り越えてゆくのだ。
 痛みに耐え、記憶に耐え、血を流して。
「――今日は流石に、素振りは休みだな」
 無理矢理に頬の筋肉を動かして、苦笑いの形を作る。
 動ける様になったなら、歩かねばならない。逃げて、閉じこもっているだけでは性に合わない。

 だったらいっそ、苦悩も抱え込んだままでいい。




−終幕−