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<Rainy Cat>
人として最低だなと思わされる瞬間。
自動販売機の釣り銭受けのところを”金を投入した覚えなどないにもかかわらず”指を入れてかちゃかちゃと探るとき……
「俺だけじゃなく世の中も不景気なのかね」
あきらめの気持ちが生まれるよりも先に腰にそろそろ痛みが生じ始め、草間は頭を無造作に掻きながら空を見上げた。
今にも降り出してしまいそうな、どんよりと煙った頭上。
ふっ、と鼻をかすめた風に、砂っ気がまじっているアスファルトの湿った香りを感じて草間は慌てて事務所に向かって走り出した。
今この服を濡らしてしまうわけにはいかない。
天候の女神様に――ニヒルな男は神様は信じないが女神様は信じるものだ――どうかもうしばらくそのなめらかで透き通った白い手に雨をたたえていてくれ、と祈りながら息を切らせる。
「余計な洗濯物を増やしたかねぇんだよなぁ」
彼は今、とてもとても困ったことに……
もうそろそろ水道が止められてしまいそうなのだった。
人間、一週間程度ならば水だけで生きていけるらしいのだが正常な精神と肉体を保っているためにはやはり常に満腹ではないにしてもそれなりに食事が必要なものである。
この無駄にだだっぴろい世の中には自ら食を断って精神的境地にその身を投じる人たちがいるらしいが、草間はまっぴらごめんお引き取り願えますかってなもんだという考えしかもっていなかった。
しかし草間は今、望むべくもないその状況にどっぷりと肩まで浸かっている。
要するに金欠。
いやしかしそんなものは彼にとって日常茶飯事なことのはず……なのだが、今回のそれは度を光の速さでぶちぬいて、食費はもとより電気、ガスにいたるまでになっているのである。
水道というのは一番最後に止められるものであるらしい。逆にいってしまえば水道が止まった時点で草間は本格的な浮浪者への第一歩を踏み出すことになるのだ。
「お兄さん。大丈夫ですか? はい、お水」
散らかすためのゴミすら出せなくなってしまったがためにいつになく綺麗なソファで首の根っこまで沈み込んでいた草間に零が丁寧に両手を添えて一杯の水を差し出す。ようやく落ち着きを取り戻した心臓と肺をねぎらうようにゆっくりと喉に水を流す草間。
「今日という日にかぎってはおまえの胃袋がうらやましいよ……」
風に乗った雨粒がお世辞にもビクともしないとはいいがたい窓をひっきりなしに叩く。
「くそっ……ポップコーンくいてぇな……」
兄のぼやきに「はて?」と小首をかしげた零は一呼吸置いてぽんっ、と手づちを打つ。
「そういわれてみればとうもろこしをフライパンゆすってあぶってるときの音に似てるわ。さすがお兄さん。こんなときでも余裕ですね」
「そいつはどうも……」
妙な相づちに空腹感をさらに増した草間は起きあがるのも億劫になって申しわけ程度にまぶたを開けて天井を仰いだ。
静寂。
ノスタルジックな手触りと重厚感を持った黒電話は祝福のベルを鳴らすことはない。とっくに電話は止められている。と、いうことは仕事の依頼はここでこうして倒れていてもやってこない。かといって外に探しに行ったり当座しのぎのバイトをするだけの気力も体力もない。
「チープな死に様っていうのも、ハードボイルらしいっていやぁそうかもな……」
妄想に浸りながら意識を遠い旅に出しそうになったそのとき、
「あの〜すみませ〜ん」
入り口の向こうから声が聞こえてきた。
(女神様ありがとうございます!)
もはや叫ぶ気力もない草間は心の中で両手を組んで感謝の祈りを捧げるのだった。
「は〜い。どうぞいらしてください。ただいま草間は席をはずせませんので〜」
グラスになみなみと注がれた”水”が二つ、テーブルに置かれている。
依頼者はどう反応していいか戸惑った様子でそれを眺めていたが気を取り直したように草間の方に顔をむき直すと――どうやら持つとこぼしてしまいそうなので飲むのを控えたらしい――思い詰めたような口調でこういった。
「猫を”ひとり”探して欲しいんです」
依頼者は確かに”一匹”とはいわず”ひとり”といった。
今にも空腹で卒倒しそうな草間であったが、今まで培ってきた”カン”が鋭く反応していた。
これはオカルトの類だな、と。
いつもの草間ならば一蹴に伏してしまうところなのだが、いかんせん現状打破が優先で早急で”ひっぱく”だった。
つまり返答は依頼者が詳細を話すよりも先に決まっている。
「その猫というのは」
「ご依頼をお受けいたします」
「え?」
拍子抜けした依頼者に草間はさらに間の抜けた声を出させるために――もちろんそんなつもりはまったくもってないのだが――こう続けたのだった。
「とりあえず……何かくわせてくれ……」
それ以上何かを喋るだけの力もなく、テーブルの上に”つっぷして”ピクリとも動かなく草間。
「……あ、あのぅ?」
「…………」
「大丈夫、ですか?」
はたしてそれは草間の身体を心配しての問いかけなのか、それとも捜査ができるのかどうかの心配をしているのか。
と、そこへ、
「なぁに? ずいぶんと事務所がきれいになってると思って感心してたら、それをひっくりかえしたような陰気な空気が漂ってるわねぇ」
じめっとした事務所内を透き通った声が走る。
「あ、いらっしゃいエマさん」
「ご無沙汰しちゃってごめんね零ちゃん。掃除とかもろもろ一人で大変だったでしょ?」
慣れた様子でそのすらりとした長身の女性は零と言葉を交わす。
シュライン・エマ。
普段は翻訳や作家(ゴースト)を生業としている彼女だが、それ以外のときはもっぱらこの事務所に出入りしてはここの家事や事務仕事をしにきている。水を張ったような黒髪を束ねてスーツをぱりっと着こなすその風貌、そして切れ長の瞳は見る者を否応なく魅了する。
「…………」
依頼者の男もまたそれにもれず、自分が先客であったにもかかわらず何やら間の悪いところにきてしまったような感覚にあって、ソファの中央から無意識に端へと場を移す。
「よぅ、シュライン……」
「もぅ、また金穴? ま、そんなことだろうと思ってホラっ、お弁当作ってきたわよ武彦さん」
「おぉ! さすがシュライン! おまえは俺の天使様だぜ!!」
「なにいってんだか」
桜色の布巾に包まれたお弁当に目を輝かせていきおいよく飛びつく草間に「仕方のない人ね」なんて憎まれ口を叩きながらもどこか嬉しそうなシュライン。
「? あんただれ? ちょっとそこ邪魔だからどいてくれるかしら」
「あ、はっ、はい!」
今初めて見知らぬ男がいることに気づいたシュラインは犬でも追い払うように手をふって草間の正面に席を陣取る。
男は怒ることもなく彼女の言葉に従って立ち上がり邪魔にならないような位置に移動する。草間はというとさっきまでの屍っぷりはどこへやら、まるで手品かなにかのような早さでお弁当の中身を胃袋に運んでは「お茶」と視線もあわさずシュラインへ手を伸ばす。それに対して当然のように――しっかりと用意してある――魔法瓶から湯気のたつお茶をそそいで渡すシュライン。
と、そこで零が驚くふうもなく冷静に、
「依頼者の方、あっけにとられてますよ」
ツッコミをいれる。
その言葉にシュラインは振り返り男に一言。
「あら、あんた依頼者だったの? それならそうとはやくいいなさいよ。で、内容は?」
無言でお弁当に向かう草間のカッカッ、という箸の音以外一瞬の沈黙が訪れた事務所内。
これもまた、ここではあたりまえの一コマであった。
草間とシュラインは昼前の比較的人の多いとある公園にやってきていた。
早々と昼ご飯のための場所を確保して談笑にふけるOLたち。鳩をみつけては追いかけ回す子供とそれを離れたところから眺めつつベンチで休む奥様たち。学生だろうか、彼らはこれからどこに遊びに行くかを話し合っているらしく、あーでもないこーでもないと言葉を飛ばし合っていた。
「確かに客寄せするにゃ恰好の場所だな」
あのあと男から聞いた詳細はこのような内容だった。
「実はあの日、仕事でヘマやらかしちゃって……まぁそれはいつものことだったんですけど、公園のベンチで落ち込んでたら急に雨が降ってきて……」
そうやって嫌なことが重なったせいでいつになく気分が滅入ってしまいなにもかもどうでもよくなって雨に打たれていたところ、不意に傘が差し出された。
「最初は大きな猫だなぁって思って、でも人間と同じ大きさで二本足でたってるわけないし、それではたと気づいたんですけど雨が降る前はそこでなにかお祭りの宣伝ビラを配ってたんです。それであぁ、着ぐるみかぁって」
その猫は何もいわず傘を男に渡すと自分は濡れるのもかまわず――そもそも傘に入りきらないから気にはならなかったのかもしれないが――立ち去っていったのだそうだ。
「なんだかその時はあんまり突然のことで呆然としてたんですけど、後になってその親切とか優しさがじんわり染みてきて……すごく、うれしかったんです……救われたんです」
そして我に返った途端、その猫があとで着ぐるみやビラを濡らして事務所に怒られなかったかとか、借りた傘を返してお礼がいいたいという気持ちがどうしようもなく湧いてきたのだそうだ。しかし男にはその猫が何の宣伝をやっていたか、どの事務所なのかもわからず……
「せめてチラシの一つでも持っててくれれば簡単な話だったでしょうにねぇ」
「しかし妙だよな」
そういう催し物はより多くの人に知ってもらわなければならないわけで、その日のその場所だけで宣伝しているわけではないはずなのだ。
「なのにだ〜れもそんなの知らないのよね」
情報は容易く手に入りそうでいて、何一つ手に入らない。
「困ったわねぇ、最初は”猫がひとり”なんていうからてっきりケットシーか何かだと思ってたけど、着ぐるみなら楽に……」
ふぅ、とため息をついてベンチに腰掛けるシュライン。
「……まてよ」
ふと、草間がシュラインの言葉に何かに思い当たる。
「案外それ、当たってるんじゃないのか?」
「どういうこと?」
「考えてもみろよ、こんな広い所で宣伝してたんだぞ? それなのに何で誰も知らないんだ?」
まして毎日のように公園で子供を遊ばせているであろう奥様たちが知らないというのはあまりにも不自然だ。
「それじゃ猫のカーニバルでもあるっていうの? 聞いたことないわよそんなの」
「んなの俺だって知らねぇがこのままここでひなたぼっこしてるよりかマシだろ」
確かにそうだ。可能性があるならば動いてみるだけの価値は十分にある。捜査とはそういうものだ。
「しかしなぁ……ケットシーに詳しいやつなんていたっけかな」
「う〜ん……あ!?」
「どした?」
「ここって日本なわけでしょ?」
「?」
「ケットシーが日本では何に例えられるか知ってる?」
「猫又か! だとすりゃもしかして」
「零ちゃんなら、ね」
事態は一歩前進である。
事務所で四人はテーブルを中心としてそれぞれにソファに座していた。
「できるか? 零」
「やってみますね」
両の手を胸にあて、招霊の口上を唱える零。地霊祖霊から怨霊数多の霊にその声を伝え、己の欲する者に呼びかけると、周囲の空気に異変が生じ始めた。
「わわ!」
「黙って。零ちゃんの集中の邪魔をしない」
テーブルの上方に空間の歪みが現れ始め、無数の光の粒子がそこに集まるとそれは一つの存在へと形を変えていった。そして次の瞬間にはそこに、
「お呼びになられましたかにゃ」
「あ!?」
人ほどの大きさの――なぜか燕尾服を着た――猫が行儀良く”テーブルの上に”正座をしていた。
「君は」
「あ!? あなたは」
はたからみると珍妙な構図ではあったが、二人にとっては感動の対面。
そしてその反応は草間たちのカンが正しかったことを告げていた。
「依頼達成ね」
間違いなくこの猫又が男の依頼をしてきた猫だったのである。
「この前はありがとう、あのときのお礼がいいたくてね……この人たちに依頼して君を捜してもらったんだよ」
「そうだったんですかにゃ。それは申し訳ありませんでしたにゃ」
「それはこっちの台詞だよ。あのときビラを濡らしたりして怒られなかったかい?」
男は借りた傘を手渡し、猫又を自分の隣に座らせて彼の手をとり改めて感謝の気持ちを伝える。それを猫又は心底嬉しそうに聞き、頷いていた。
と、二人のやりとりを眺めていたシュラインはふと疑問に思って猫又に尋ねた。
「あんたあそこで何の宣伝してたの?」
「あれはですね、お世話になった元飼い主の方たちに宴の招待のビラを配ってたんですにゃ」
彼ら猫又たちは自分たちが猫だった頃の飼い主たちを年に一度自分たちの世界に招いて盛大な祭りを催しているのだそうだ。
とはいえ自分たち妖怪が好きでない者もいるためあくまで自分たちの素性は隠し、ただの祭りを装って呼ぶのだそうだ。だから他の人間たちには記憶への残留度が低く誰もあの日の彼らを覚えていなかったのはそのせいなのだ。男がたまたま覚えていたのは彼が猫又に対して強い感謝の気持ちを抱いて決して忘れまいと思っていたからだろうと猫又はいった。
「なんにせよ、一件落着。よかったわね」
「はい。ほんとうにみなさんにはなんとお礼をいえばいいか」
深々と頭を下げる男に草間は上機嫌で片手を差し出す。
「んじゃ、報酬の方を頂戴させていただきましょうかね」
感動もなにもこの男の前ではあったもんじゃなかった。
後日。
「腹……へった……」
草間はデスクの上につっぷしていた。
「はい、お兄さんお水」
猫又の一件を終えてまだ一週間も経っていないにもかかわらず、彼はまたしても空腹というボディーブローに打ちのめされていた。
「で、結局依頼料は家賃やら電気代やらで全部なくなった、と……」
あきれ顔のシュラインが入り口に空色のお弁当袋を手から下げて立っている。
「まったく、仕方のない人ね」
どうやら今回もまたシュラインにとってもタダ働きになったらしかった。
「ほ〜ら武彦さん、お弁当持ってきてあげたわよ。情けない顔しない」
これが彼らの日常なのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ CAST DATE ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【NPC/草間・武彦(くさま・たけひこ)/男/30/私立探偵】
【NPC/草間・零 (くさま・れい)/女/不明/探偵見習い】
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ writer note ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
記念すべき初作品です。
あぁ、ほんとうに嬉しくて嬉しくて……(感涙)
うぉっほん。
なんだかんだと書きたいこと書いていくとえらく長いお話になってしまい……これでも短くしたんですけどね(苦笑)
コミカルさを強調しつつご要望にアレンジを加えて書かせていただいたのですがいかがでしたでしょうか?
貧乏キャラ、万歳です(笑)
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