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<東京怪談ノベル(シングル)>


「空の最果て」

荒野(ハルラ)を、風が渡る。
ザヒーラ・アスターヘルは、そのどこまでも乾いた空を見上げた。
砂を噛む様に吹き渡るその風に向かって、ザヒーラはくんと鼻を鳴らした。僅かではあるが、行く手の方から水の匂いがする。もう少し行けばオアシスに辿り着くだろう。そう小さく呟くと、ザヒーラはまたゆっくりと歩き出す。側を行く商人達がうとましかった。彼らは駱駝に乗り、自分は歩かなければならない、そんな道理など無いような気もしていた。だが、そう言い放ってみたところで彼らは笑い飛ばすだけだろう。何故なら、自分は『奴隷』の身分の者だからだ。
・・・自分の一族が、いつから奴隷に甘んじているのか、ザヒーラは知らない。
別に知る気も無かった。同じ奴隷である彼らからも、ザヒーラは捨てられたからだ。
母親とともにアレキサンドライトに売られてきたのは、ザヒーラがまだごく幼い頃だった。
小さな子供ではあったが、小麦色の肌に金の髪というその風貌は、とにかく人目を引いた。混血の証であるその姿を、一族は好ましく思わなかった。その結果、異国人の多い港町アレキサンドライトに、母子ともども売り払われる羽目になったのだ。
アレキサンドライトを、ザヒーラは嫌いではなかった。
自分と同じ金髪の者も多く、明らかに幾つかの血が混じっている民も少なくなかった。ザヒーラが街を歩いても大して悪目立ちしない事に、何より母親が喜んだ。ザヒーラ自身は自分の風貌に引け目を感じたりはしていなかったが、その所為で母親が気を揉むのは少し辛かった。その母親が、アレキサンドライトではザヒーラの姿を気に病まなくて済む。それは好ましい事だった。
だが、そのもの珍しい姿と、・・・そうしてその生来の美貌ゆえに。
ザヒーラは今、バグダードへと赴く羽目になったのだ。献上品として。
ここまでもう一ヶ月、隊商に引かれて砂漠を渡ってきた。数日後には、商人達の手によってバグダードの有力者の一人に届けられる予定になっている。隊商が運ぶのは、無論奴隷だけでは無かった。乳香、オリーブ、乾燥イチジク、紅やフェニキア紫の染料、銀、香辛料の類、他にもあらゆる高級品を駱駝に積み込んで、彼らは目的地まで、砂と死と太陽以外何もない、いっそ美しいほどに荒涼とした道を旅するのだ。
ぶるる、と駱駝が鼻を鳴らした。
ゆっくりと隊列が止まる。水の気配は更に強くなった。
商人達は、次々と駱駝から飛び降りる。
「ここで、休憩するのか。」
ザヒーラの問いに、商人の一人が頷いた。
「この先バグダードまでオアシスは無い。商宿も集落も無いただのオアシスだが、水を確保するためだ、仕方ない。」
「干上がれば、何もかも終わりだからな。」
駱駝を日陰に、うっすらと広がる緑の上に腰を下ろす。手に触れた草の柔らかさが心地良かった。ナツメヤシの木が、風の抜ける度にさらさらと音を作っていた。
商人の一人が、ザヒーラの腰に巻きつけられた麻紐を解いた。
くいと顎をしゃくる。水を飲みに行って良いという意味なのだろう。
「・・・日が沈む前に、戻って来い。」
ぞんざいに、男がそう言い放った。
「お前などに言われずとも、」
そうする。
言い捨てると、ザヒーラは立ち上がった。身体を覆う重いフードを、ばさりと無造作に脱ぎ捨てる。黄金の輝きを持つ髪が、光を孕んで空に舞う。その美しさに商人がごくんと息を呑んだが、ザヒーラはそれを頭から無視した。いちいち相手にするほどの男ではない。振り向きもせずに、こう口にする。
「夕闇が迫る前に、戻る。」
逃げ出す気など、毛頭無かった。大体、この砂漠の何処へ逃げるというのだ。
近くには集落も、他のオアシスすらも無い。そんな状態でここから一人逃げ出した処で、乾いて死ぬか飢えて死ぬかするだけだ。この砂漠に住まう者ならば、誰だってそんな事知っている。
思いながら、ザヒーラは水場に向かって歩き出した。駱駝達の側にも水辺はあったが、家畜と同じ水を口にするほど、自分の価値を軽んじてはいない。離れた場所で綺麗に澄んだ清水を、喉に通す権利くらいある筈だ。
砂と緑の混じる大地を、緩やかな足取りで進む。
幾らか離れた場所に石壁を見つけて、ザヒーラはそこへ足を向けた。
「・・・ほう、」
それは、人工的に作られた水飲み場のようだった。
人工的にと言っても、どこかから運んできた石を重ね合わせただけの、簡素なこしらえだ。水受け代わりに敷かれた石の上に、上から水を通してあるだけのものだ。砂漠を行く隊商か、それとも何か別の者達か、・・・どちらかは知らないが、この場所へ頻繁に訪れる何者かが、きっとこれを作ったのだろう。
「こんな場所に、ご苦労な事だ。」
そう口にしつつも、ザヒーラは笑った。ここで休むとしよう。そう決めると、ザヒーラはその水飲み場の側へと座り込んだ。
そうして。
何を思うでも無く、上へと目線を移し。
「・・・・・・・・・」
空はどこまでも広く、遠い。果てなど思い描けない程に。
その色を目に縫いつけるように、ザヒーラは雲一つ無い空を見上げた。
そうして、深く呼吸する。大気と水の香りが、心地良かった。
両手でくぼみを作ると、ザヒーラは清水をその手で掬う。乾いた土地に沸く水だというのに、それは酷く冷たかった。その冷たさに微笑むと、ザヒーラは水に口をつける。美味しい、と素直にそう感じた。命が注ぎ込まれる気がした。続けざまに水に手を差し入れ、最後は直接水面に唇を寄せて、ザヒーラはその冷たさを楽しんだ。
その時だった。
「野盗だ、」
「ハムシーン(砂漠の嵐)が、」
あがる叫び声に、ザヒーラは顔をあげた。駱駝の列が崩れている。商人達の慌てふためく姿が目に飛び込んでくる。ハムシーンという名に覚えがあった。少し前に立ち寄った大きなオアシスで、付近に出没する大盗賊団を、そう呼んでいたのではなかったか。
「何事だ、」
思わず声をあげ、立ち上がった。そして。
同時に舌打ちした。しくじった、声を立てなければ。
「盗賊ごときが、」
一人の頭がこちらを向いた。その手が振り上げる金属の輝き。
迫って来る。一気に距離が詰まる。せめて武器があったらと、瞬間的にザヒーラは思う。相手を貫くための何か一つでもあればと、そう願う手の内にあるのはただ水の雫だけだった。
売られてゆく奴隷の自分に、どうして武器などあるだろう。
何故奴隷なのだ。何故、こんな輩に無抵抗で襲われねばならないのだ。
爆ぜるような憤りは、しかし剣を止める力を持たなかった。
振りかざされる剣の切っ先を、目を逸らさずに睨み付ける事が、ザヒーラに出来る全てで。
「・・・・・・・・・・・・っ!」
声を上げなかったのは、その誇り高さ故だったかも知れない。
強い衝撃が体を揺さぶって、ずるりとザヒーラは後ずさる。
痛みは無かった。いや、あったのかも知れないが、それ以上に。
「何故、無い。」
呟きは、言葉になったか分からない。
無い。そこに確かに有る筈の、右腕が。そうして、それを映している筈の、左目が。
皮膚を暖かく滑り落ちてゆくものの感触、対照的に冷えてゆく自分の四肢。
オアシスの清水が赤く染まる。それは自分の血の所為なのだと、薄れて行く意識の中ザヒーラは気づく。
がくん、と、体が崩れた。赤く染まった水滴が、ばしゃんと音を立てて跳ねた。
前のめりに倒れ込むその目に、飛び込んできたのは果てのない空。
後は、・・・どこまでも、真っ赤な。


・・・真っ赤だった。
二度三度瞬きすると、ザヒーラは無言で室内を見回した。目に映るのは、がらんとした見慣れた自分の部屋。限られた調度品だけが置かれた殺風景な室内に、窓から濃い夕陽が差し込んでいる。赤いのはその所為だと、そう気付いてザヒーラは息を吐いた。・・・今のは。
・・・何もかもが夢だったと、・・・そう気づくのに大して時間はかからなかった。
「どのくらい、眠りこけていたのだ・・・。」
不愉快そうにそう言い捨てる。確か昼過ぎにベッドに転がった気がする。きっとそのまま眠ってしまったに違いなかった。
「・・・下らん。」
うたた寝なんて、するものじゃない。
手荒く髪をかき上げると、ザヒーラはそう口にした。その声が掠れている。
酷く、喉が乾いていた。
だからだと思った。砂漠の夢を見たのは。
仰向けのまま、ゆるりと右側に目を向ける。そこに腕は無い、いつも通り。失ったのはもう数えられない位昔だった。それなのに、まるでさっきまでそこに腕が着いていたような生々しさがあった。見えない筈の左目に、最後に見上げた空の残像が残っている気さえした。
夢は、夢だ。ザヒーラは緩く頭を振った。
ベッドから左腕だけを伸ばし、煙草を手に取る。二本ばかり取り出した煙草をそのまま斜めに口に銜えると、ざら、と髪をかき上げる。ライターが見つからなかった。探すのも面倒で、エッセルを右手に模すと、その爪先に火を点す。吸い込んだ煙の苦さに、喉の渇きが収まった気がして。
そうして、・・・ゆっくりと、窓の向こうに目を向けた。
深い深い果てのない夕焼けが、空を満たしている。
こんな風景は久しぶりだと思った。そう思うほどに、自分が空を見上げる事がなかったのだと、ザヒーラは気付いた。こんなにも長い間見ていなかったというのに、窓の外の夕陽は、かつてと少しも変わらぬまま、ザヒーラの目を射した。
「・・・変われないのは、お前もか。」
空に話しかけるように、呟いてみる。少しだけ、その言葉がもの悲しいと思う。最果てのない空、最果てのない自分。
ごろんと、ザヒーラは寝返りをうつ。煙草の煙が二つ、軌道を描いてその後を追う。
・・・すぐ其処まで、夕闇が迫ろうとしていた。
<<了>>