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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


幸福と不幸の天秤


【T】


 高峯弧呂丸が月刊アトラス編集部を訪れたのは時計の針が正午をまわる少し前のこと。弧呂丸を恰も待っていましたとばかりに出迎えたのは編集長である碇麗香で、すぐ傍にはいかにも小心者だといった体の三下忠雄が立っていた。
「こんにちは」
 穏やかな笑みと共に云う弧呂丸の姿は和装だということも手伝って編集部の雰囲気には馴染むことなく独特の空気を醸す。しかし麗香はそんなことを気にすることもなく、自身のデスクの傍へと弧呂丸を呼んだ。
「今、さんしたくんと話していたところなんだけど、これどう思う?」
 言葉と同時に目の前に差し出されるのはパソコンのモニタで、そこには短い文章が綴られたメールが映し出されている。
「読ませて頂いても宜しいのでしょうか?」
 遠慮がちに問う弧呂丸に麗香はかまわないわと笑う。
 視線で追う文字は素っ気無いほどに簡潔な文章を築き、それでもただ事実を伝えようとする意思が感じられるものだった。人の痛みや辛さなどを消し去り、その代わりに幸福を与えてくれる人がいる。ただそれだけを余分なものは何一つとして挟まずに伝えてくる文章は潔く、同時にひどく乾いた気配がした。
「どう思う?」
 書類が散らばるデスクに頬杖をついて否という言葉を綴らせまいという気迫を仄かに漂わせながら麗香が問うと、弧呂丸は短く、
「本当に消してしまうことなどできるのでしょうか……?」
と呟いた。
「誰でも最初はそう思うのが当然よね。正直、最初は私もそう思ったわ。だから少しだけネットで調べてみたりもしたの。悪戯だと思わなかったわけじゃないからね。でも、どうやら本当みたいなのよ。目立った存在ではないみたいだけど、路地裏の廃ビルでひっそりと人の辛さや痛みを消し、その代わりに幸福を与えてくれる女性がいるらしいわ」
「痛みを消してくれる女性?」
 唐突に弧呂丸の背後から声が響く。誰からともなく同時にそちらへと視線を向けると、先ほどまで女性を相手に談笑していた人目を引く髪の色をした眼帯姿の青年が碇のデスクのほうへと顔を向けている。仕事中だったのであろう女性がその隙に席を外したが、青年こと狩野宴の興味は話題に上った女性のことに移ってしまったようだった。
「できたら会ってみたいな、その女性に」
 話の展開をきちんと把握しているのかどうかもわからないままに、宴は軽く言葉を綴る。それを合図に麗香はなるべく目立たないようひっそりとデスクの傍らに佇む三下に微笑みかける。
「良かったわね。今回は一人どころか二人も協力してくれるみたいよ」
 その言葉に驚くのは何も三下ばかりではない。いつの間にか巻き込まれるようにして協力者にカウントされていたことに今更ながらに気付いた弧呂丸も三下同様にささやかながらも驚いた表情を浮かべていた。宴だけがやけに楽しげだ。しかし麗香は二人のことなどおかまいなしに、自身が調べた廃ビルの住所を記したメモを三下に手渡し、頼んだわよ、と笑う。三下は元来断ることが上手くない性格も影響してか素直にそれを受け取り、弧呂丸と宴に縋るような視線を向けた。どこか放っておけないような視線に正面から向き合うことになった弧呂丸は職業柄身についてしまった柔和な笑みを浮かべ、自分の行動に諦めるほかないのだろうと胸の内で思った。
「さぁ、行きましょうか。女性の元へ」
 何故か一人でやけにやる気を見せる宴が声を上げる。
「そうですね」
 云う弧呂丸は行動を起こすことを拒んでいるかのような三下に再度、穏やかな笑みを向ける。総てを許し、包み込むかのような穏やかな笑みを前に三下はもう拒むことなどできなかった。
「はい……」
 弱々しい声で紡がれた三下の同意の言葉に麗香が満足げに笑う。そしてふと思い出したように、モニタに貼り付けていた付箋を剥がしてそれを三下の前にかざして云った。
「この件で、先に聞き込みをしてくれてる女性がいるの。今から行けば上手くビルの前で落ち合えると思うから、よろしくね」
 三下に手渡された付箋には、マシンドール・セヴンという名前が記されていた。


【U】


 弧呂丸、宴、三下の三人が編集部を出た頃、マシンドール・セヴンは麗香に与えられた情報を頼りに廃ビルの近所で女性に関する聞き込みを行っていた。草間興信所からレンタルされるという形で編集部を訪ねたのは午前十時頃のこと。事の概要を聞き、近所への聞き込みを中心に情報を集め始めてからもう二時間ほどが過ぎる。麗香の話では後々三下と協力者がビルに向かうだろうから、頃合を見計らってセヴンもビルへ向かってほしいとのことだったがそれが一体いつになるのかは定かではなかった。それでも目の前にやらなければならないことがあればそれをこなさなければならず、とりあえず有益な情報が手に入ればとセヴンは女性が拠点としている廃ビルを中心に手当たり次第情報を収集して歩いていた。
 もう何人もの人間を相手に話しをしたが、女性に関する悪い噂はないようだった。辺りに立ち並ぶのが雑居ビルばかりで、入っているテナントが何をしているのかわからないものばかりだということも影響しているのかもしれない。住人らしき人間を見かけても、昼の仕事をしている人間だとは思えない夜の華やかさが香る人間ばかりで一様に眠たげな顔をしていたのが印象的だった。
 そして女性について訊ねたことに対する答えもまた似たようなものばかりであった。この辺りの住人には似つかわしくない怜悧な雰囲気を持つ人だという。派手さもなく、怪しげな宗教のようなことをしているでもない。女性の廃ビルに友達の付き合いで行ったことがあるといった者は、特別なものは何もないまるで病院のような場所だったといった。陰鬱な表情で待合室に並ぶ人々には暗い威圧的なものを感じたりもしたと云っていたが、主である女性自身には胡散臭いところもなければ多額の金銭を要求するでもなく、ただ静かに話しを聞いて、そっと額に触れただけだったそうだ。
 セヴンにはわからないことばかりだった。痛みや辛さというものは決して人に取り除いてもらうためにあるものではない。総てがそうだとは云いきれなかったが、痛みとして受け取れるもの辛いと感じることの総てを人任せにすることは何か肝心なものが間違っているような気がする。
 そして何よりその代わりに与えられるという幸福は、果たして真実の幸福だと云えるのだろうか。セヴンは幸福は人に与えてもらうものではなく、掴み取るものだと思っている。苦行の末に掴み取るものだからこそ代えがたいものとして胸の内に残るのが幸福だと思うのだ。だからこそ痛みも苦しみも失った者が本当の幸福を得られるのだろうかということが疑問となって生じてくる。
 幸福と不幸は常に二つで一つであるものだ。それぞれに影響しあいながら、人間の意識に影響を及ぼし、成長させていくものだろう。幸福に学ぶ愚かさがあるように、不幸に学ぶ愚かさもある。しかし人が不幸と呼ぶ痛みや辛さを取り除かれ、幸福だけが総てになってしまったとしたら、その先には現実から目を背け幸福な夢の淵へと堕落していくことになる筈だ。痛覚を失った人間は痛みという危険を信号として知覚することができなくなる。不幸を忘れた人間にもそれと同様のことが起こるような気がした。幸福に溺れ自壊していくことが本当に幸福だと云えるのだろうか。
 女性が与えているのはきっと本当の幸福などではない。甘美な一時しのぎの気休めに過ぎず、それでいて強く中毒させる薬物のようなものなのではないだろうか。だから人はそれに溺れ、逃れられなくなる。
 聞き込みで得た情報をつなぎ合わせれば、セヴンの推測が決して間違っていないことが明らかになる。
 一度でも女性の元に足を運んだ者は何度も女性の元へ通うようになっているそうである。
 あとはもう事の中心に腰を落ち着けた女性に会ってみるしかないのかもしれない。思ってセヴンは廃ビルへ向かうべく、進路を変えた。


【V】


 弧呂丸、宴、三下の三人が廃ビルの前でタクシーを降りたのは午後一時になろうかという頃のこと。辿りつくまでの車中では三下の放つどこか陰鬱な空気で誰からともなく口を閉ざして、タクシーの運転手と宴だけが饒舌な会話を繰り広げていた。煩いのか静かなのかもわからない車中で弧呂丸はただ真剣に思考を巡らせていた。
 編集部では話の流れに流されるがままにして女性に会いに行くことになっていたが、女性が興味を抱かなかったわけではない。自分に人が心に抱く苦しみを消せる能力があれば、どれだけの人を救えるだろうかと考えれば興味を抱かずにはいられなかった。どこか捩れた感情だと自覚しつつも、そうした力を求める心がないと云えば嘘になる。しかし同時にそんな能力を手に入れたところで本当に誰かに使うことが出来るのかと考えれば、わからないというのが本当だった。
 人間はさまざまな生き物ののなかでも唯一思考し、悩むことを知っている生き物なのだと聞いたことがあった。それを知った時、与えられるばかりではなく、自らの意識でもって多くのことを解決する術を与えられた生き物が人間なのだと思ったのを今でも覚えている。思考するという当然のように思っていることが人間として生きている価値なのだとすれば、痛みや辛さを取り払い、その代わりに幸福を与えるということは人間として生きている価値を奪うことになるのではないかと弧呂丸は思う。痛みや辛さほど人が真剣に向き合うものはないだろう。辛いと云いながらも考えあぐね、たとえ答えがないものにしても答えを求めていつまでも思案するのだ。その結果何一つとして答えらしきものに辿りつくことはできなくとも、そのプロセスを糧に人は成長していく。困難な壁を乗り越えてこそ人としての深みを増していくのだ。幸福はきっとそうした困難さを越えた果てにあるものであって、決して人の手によってまるで物のようにして与えられていいものではない。
「先ほどからキミは随分、真剣に何事かを考えているようですね?」
 ビルの入り口の前に立って、不意に宴が弧呂丸の顔を覗き込んで云った。
「人の手によって与えられた幸福が本当に幸福なのだろうかと思ってしまって……つい考えこんでしまいました」
「幸福の尺度は人それぞれだろうからね、私にはよくわからないけれど……もし、私が痛みを消してほしいと云われたら消してしまうかもしれないな」
 微笑と共に云う宴に弧呂丸は不信感を滲ませた視線を向ける。しかし宴はそんな視線を気にする様子も見せず、飄然と笑って言葉を続けた。
「目の前で泣いている女性を見るのは辛い。私は女性のお願いに弱いんだ」
 云う言葉は女性限定であって、それ以上でもそれ以下でもないのだと云う軽さを含んでいた。だから弧呂丸は笑って受止めることができた。何も真剣に云っているのではないのだと思うと、なんだかひどく救われる気がする。
「あの……お二人とも行きませんか?それとも帰りますか?」
 なんだかひどく影の薄い存在になりつつある三下が二人に声をかける。ここまで来て帰りますかと訊いてくるあたりが三下らしさだ。
「もう一人女性が来るんじゃなかったかな?…セヴンちゃんだったかな?」
「もしかすると既になかにいらっしゃるかもしれませんが、少し待ってみてもいいかもしれませんね」
 宴の言葉に弧呂丸がそう答え、三下に同意を求めるような視線を向けると、三下は抗うという言葉を知らないかのように従順に頷いた
 それから一体どれくらいの時間が過ぎたか、まさかそこに自分を待つ人間が三人もいるとは知らないセヴンが廃ビルの前に着くと何をするでもなくただセヴンの訪れを待っていた三人が同時に彼女のほうへと視線を向けた。さすがのセヴンもそんな三人の態度には不信感と同時に驚きを感じ、咄嗟に警戒するような態度をとっていた。
 しかしそんなセヴンの態度にも動じないのが宴で、滑らかな足取りでセヴンの前に立つと微笑みと共に言葉を紡ぐ。
「セヴンちゃんですか?」
「……はい。どちら様でしょうか?」
「アトラス編集部の調査に協力している者です。君とここで落ち合うよう云われて待っていたんですよ」
 宴の言葉だけでは不信感を拭い去ることのできないセヴンは背後の二人に視線を向けた。そしてそこに編集部で見た三下の姿を見つけ、ようやく納得したのか、
「女性に会いに行くのですね?」
と三人に向かって云った。 


【W】


 廃ビルの内側は朽ちた印象の外観とは裏腹に奇麗にリフォームを施され、新築されたばかりの建物のような清潔さだった。一階が受付と待合室を兼ねたフロアになっており、二階が女性と面会できる部屋になっているらしい。
 待合室は込み合っていた。そして誰もが皆示し合わせたような陰鬱な顔をして俯いている。三下はともかく、弧呂丸、宴、セヴンの三人はどこか場違いな場所に来てしまったような気がした。受付にはひどく理知的な男性がいて、男性には興味がないのか興味の欠片さえも見せない宴の代わりに弧呂丸が女性と話がしたいのだという旨を告げた。すると男性は丁寧ながらも型に嵌ったような言葉遣いで弧呂丸の名前を訊ね、順番がきたら呼ぶのでそれまで待つようにと云った。待合室を埋める人の多さを考えると一体どれだけ待たされるのか見当もつかなかったが、ここまで来て戻るわけにも行かず、四人は席の空いていない待合室の片隅に立って順番がまわってくるのを待つことにした。
 話す人などごく僅かな待合室は、受付に声をかける者以外は一様に俯いて押し黙ったまま、笑うことはおろか表情を変えることもない。何がそんなに苦しいのかと思わず訊ねたくなりそうな陰鬱な表情を張り付かせて項垂れている。見ているほうまで陰鬱な感情に引きずり込まれてしまうのではないかという気持ちにさせられる表情ばかりが、待合室には犇いていた。
 そのなかで宴だけが一人陽気にセヴンに声をかけている。そして弧呂丸や三下に声をかけたかと思うと、これから会う女性は美人だろうかとそんなことばかりを訊いた。けれどそうした宴の態度が三人を和ませていたのは云うまでもない。四人で押し黙って待合室にいるというそれだけで、気が滅入ってくる。 
 しかし呼ばれ、二階に行って戻ってくる人々は、待合室での陰鬱など嘘だったかのように晴れやかな表情をしていることが不思議だった。陰鬱な待合室で待つ間中ずっとそんな姿を見ていれば、女性の力を疑っている人間さえも本当なのではないかと思うには十分すぎる変化だった。
 結局四人が呼ばれたのは、二時間も待たされてからのこと。いい加減宴の口数も減り、誰もが逃げ出したい気持ちになり始めた頃に二階から降りてきたスーツ姿の女性が弧呂丸の名前を呼んだ。
「付き添いも可能でしょうか?」
 云う弧呂丸に女性は穏やかな笑みでかまいませんと答える。そしてついてくるよう促して、階段を上っていく。四人は弧呂丸を先頭に階段をのぼり、廊下の一番奥にあるドアの前まで四人を案内すると、ドアを開け四人が部屋に入るのを見届けると一礼を残して去っていく。
「いらっしゃいませ」
 部屋の奥に設えられたデスクの向こうから女性が微笑む。そして四人にデスク正面の応接セットのソファーを勧めた。
「今日はどうなさいましたか?」
 穏やかな声で問う女性の声には悪意の欠片さえも見当たらない。
「こちらで痛みや辛さを取り除き、代わりに幸福を頂けるのだとお聞きして伺いました」
 弧呂丸の言葉に女性は笑う。きっといつもこの言葉を聞き続けているのだろう、その笑顔はどこか事務的な気配がした。
「何かお辛いことがありましたか?」
「いいえ」
 女性の問いに答えたのはセヴンだ。
「では、どういったご用件でしょう?取材か何かかしら?それとも私が行っている事に対するご不満をお持ちなのでしょうか?」
 平静を崩すことなく女性は言葉を続ける。
「キミにとって幸福って何かな?」
 云ったのは宴だ。どこか軽薄そうでありながらもそれが確信をつく一言であるということは既に存在を忘れられてしまっているかのような三下にでもわかった。
「人を救うことです」
 穏やかに告げられた一言ではあったが、語尾から香るどこか嘲るような雰囲気は明瞭だ。
「それは本当でしょうか?」
 弧呂丸の言葉に女性は静かに頷いたが、そこからは穏やかなやさしさといったようなものは次第に失われつつあるようだった。
「失礼を承知で周囲の方のお話を聞かせて頂きました。お聞きした限り悪いお話はありませんでしたが、行われていることが本当に正しいことなのかどうか、わたくしには理解しかねます」
「あなたに理解して頂こうとなんて思っていないわ。私を求める人がいる限り私は今行っていることを続けるだけよ」
 セヴンの言葉をそんな言葉で一蹴して、常の雰囲気とは違った鋭い視線を向ける弧呂丸に視線を向け女性は云う。
「そちらの方は随分私の行っていることにご不満をお持ちのようですね」
「あなたはご自身が行っていることによってリスクが生じるのではないかとは考えないのでしょうか?」
「考えますよ。けれどリスクが生じる前に対処すれば、それは先延ばしすることができます」
「リスクが蓄積した後のことをお考えには?」
「面白いことを仰るのね。私が生きている限りここを訪れ続ければそれはいつまでも回避することができます。私が生きている限り幸福は持続されるものです」
「人の理を曲げてまで幸福を与えることは本当にその人のためになることでしょうか?」
 弧呂丸の言葉に女性は高く笑った。その笑い声には穏やかさはおろかやさしさなど微塵も感じられない鋭いもので、三下が思わず身をすくめるほどだった
「私が誰かのためを思ってこのようなことをしているとお思いなのですね。なんてやさしい方なのかしら。私は一度だって誰かのためにこのようなことをしているだなんて思ったことはありません。総ては自分のため、それだけです」
「それでは折角の美人が台無しだな」
 云う宴に女性は嘲笑を向ける。
「器の良し悪しなんてどうでも良いことですよ」
「確かにそれは理解できます」
 云ったのはセヴンだ。
「失礼ですがわたくしにはあなたは中身も美しいとは思えません」
「よくわかっていらっしゃるわ私は醜悪な生き物よ。人の不幸を糧に生きているも同然。私が与える仮初の幸福に中毒していく人の姿を見るのが私の幸福だといっても過言ではないわ。私が与えているのは幸福なんかではない。人がそれを幸福だと思い込むから幸福になるだけであって、本質的には不幸よ。それをおわかりだからあなた方は今ここにいらしたのよね?」
「ではあなたはご自身の行動が決してその人のためにはならないことをわかったうえで、続けていると仰るのですね」
「続けている……正しくはやめられなくなってしまったのですけれど」
 僅かに表情を曇らせた女性に弧呂丸は言葉を失う。
「本当はやめたいとお思いなのですか?」
 訊ねるセヴンにしばし思案するような素振りを見せて女性が答える。
「やめたいと云えばやめたいのかもしれませんし、やめたくないといったらやめたくないのかもしれません。中毒する姿を見るのが楽しいと思いながらも、どこかでうんざりしているのも現実ですからね」
 そんな女性の言葉に弧呂丸はふと女性自身もこの行動に疑問を覚え始めているのではないかと思う。待合室にいた人数を見ただけでも、一日に相手をする人数はものすごいことがわかる。しかもそうした人々は皆陰鬱な顔をして、不幸を引きずってここを訪れるのだ。毎日そうした人間の相手をし続けることに精神的な負担を感じていないわけはないのではないか。思うと言葉が自然と唇から漏れた。
「今の状況を負担に思っておいでではないのでしょうか?」
 弧呂丸の一言に饒舌に話していた女性が言葉を失う。
「毎日毎日陰鬱な人々を相手にされて、疲れているのではありませんか?あなたも人の心をお持ちならば、あれだけの人々の痛みや辛さを一人で受止めるにはご苦労されているのではないかと思うのですが……」
「そんなことを仰るなら、止めて下さらない?私がこのようなことを続けずに済むようにして下さればあなたたちの望みも自ずと実現すると思いますよ」
「うーん、女性の頼みとなったら断れないね。そうだろう、三下くん?」
 真剣なのか真剣ではないのかわからない態度の宴が不意に三下に話を振る。突然話を振られた三下はどぎまぎするばかりだ。弧呂丸とセヴンは一体何をどうするつもりなのかといった目で宴を見ている。
「ガセネタを記事にするのは本意ではないかもしれないが、女性を救うためだと思って記事にしてみてはくれないだろうか?」
 宴の言葉に弧呂丸とセヴンはその真意を知る。本当の言葉を流布させるのではなく、デマを流して自ずと女性の元を訪れる人々を減らそうとしているのであろう。
「…いや、しかしそんなことをしたら……」
 戸惑う三下に女性が軽やかに云った。
「私なら逃げるから大丈夫です。それにこんなことを続けているとバッシングなんて今に始まったことじゃないもの、慣れているわ」
 宴の一言をきっかけにとんとん拍子に進む話に弧呂丸とセヴンは疑問を感じながらも、事の成り行きを見守る姿勢をとることを決めたようで口を挟むようなことはしない。
「ほら、三下くん」
 煽る宴に三下はますます頭を抱える。女性はそんな三下にまるで子供に向ける笑みを向けて、
「無理なさらないで。潮時というものはいつかくるものなのですから。それに私もそろそろ人の暗い話ばかりを聞いているのは疲れてきていたのが本当なのよ」
「では、もうおやめになると?」
「そうですね。もうやめてもいいかもしれないと思っていたのは本当ですから」
 問う弧呂丸にそう答えて女性は腕を組んでデスクに凭れた。
「所詮私が与えられるのはその場しのぎの幸福。それでは本当に幸福になれないことは私もわかっているのよ。そちらのお嬢さんが仰るとおり私が行っていることは決して正しくはありません。ただ世間が恰も正しいことのように認識しているだけ。手軽に手に入る幸福に甘んじる気楽さを覚えてしまっただけのこと。―――つまらないわ」
「つまらない?」
 女性の最後の一言をすくい上げるようにセヴンが問う。
「人は足掻いてもがいて不幸のなかにいるから面白いと思うのです。やっと見つけた幸福をいとも容易く奪われても、それを求めて足掻く姿が逞しくて美しい。けれど私が手軽にそれを取り上げ、足掻きもしないで何度も何度もここを訪れる人を見ていて思いました。面白くない。醜い。そしてそんなことをしている私も同じだと。そんな自分にはいつか耐えられなくなりそうですから、折角だからこれを機にやめてしまってもいいのかもしれないと思います。私、美しいものしか愛せないんです」
 少しおどけた様子を見せて女性は無邪気に笑った。
 その笑顔に不意に部屋の雰囲気が和む。張り詰めていたものが崩れていく気配は決して不快なものではない。
「本当におやめになるのですね?」
「えぇ」
 念を押す弧呂丸に女性ははっきりと頷いて、不意に宴に視線を向ける。
「暗い話ばかりの毎日だったから、今度はそちらの方と少し楽しい時間を過ごさせて頂こうかしら?」
「喜んで」
 答える宴に女性は華やかに笑う。そしてセヴンにひどく真剣な眼差しを向けた。
「私、あなたみたいになりたかったのかもしれません。何かをまっすぐに信じて、きちんとしたものを掴んでいるあなたに。あなたなら真の幸せが理解できていると思いますから」
「わたくしは機械ですが、真の幸福を理解しているつもりです」
「そう断言できることが羨ましい。―――記事にするならして下さってかまわないわ。お好きなように書いて結構です」
 三下に云って女性はふと窓の外に視線を向けて呟いた。
「ずっと幸せになりたくて、手軽にそれを手に入れたかったのは私かもしれないわね……」
 その言葉の意味が、その場にいた四人には理解できる気がした。



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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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【4583/高峯弧呂丸/男性/23/呪禁師】
【4648/狩野宴/男性/80/博士・講師】
【4410/マシンドール・セヴン/女性/28/スタンダート機構体(マスターグレード)】


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         ライター通信          
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初めまして。沓澤佳純です。
この度のご参加ありがとうございます。
一部文章が途切れていたため修正し、再納品させて頂きました。
申し訳ありません。
今後このようなことがないよう気をつけたいと思います。
少しでもこの作品がお気に召して頂ければ幸いです。
また機会がありましたら、どうぞよろしくお願い致します。
この度のご参加、本当にありがとうございました。