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北風の中で
新月の晩、星が月よりも存在を示し煌めきを見せる中、岑・魁は静かに闇夜の中に滑り出す。
黒い服に身を包み、色とりどりに光を放つ街をインラインスケートで走り抜けた。
そんな魁の姿を誰も知らない。
手には薙刀を持ってはいるが、万が一の為の護身用で特に意味がある訳ではない。
誰にも会わない道を選びながら、魁は街を縦横無尽に駆け抜ける。
その姿は凛として、ちらり、とたまに姿を見せる雪が魁の周りに舞う様は美しかった。
もし見る者が居たならば感嘆の声を上げる事だろう。
しかし、魁の姿を追う者はなかった。
魁は意のままにインラインスケートを駆り、北風の吹き荒ぶ中、夜の散歩を楽しんでいた。
風を切って走るのはとても心地よく、魁の心を楽しませる。
それは慣れ親しんだ感覚だった。
身体に感じる風はまだ春を感じるにはほど遠く肌を切る様だったが、街を駆け抜ける魁の身体は火照っている。
その時、ふと誰かの視線を感じ魁は足を止めた。
静かに辺りを見渡すが、その時には射る様な視線は消えている。
おかしい、と首を傾げる魁だったが、先ほどの視線は気のせいとは思えなかった。
誰かが自分を見ている。
先ほど感じた視線は勘違いとは思えない。
しかし既にその気配はない。
もし何か害を及ぼす様であればまた相手から近づいてくるだろう、と魁は思い、再び走り出そうとして止まる。
その視線は、丁度目の前にあった蓮の店へと注がれていた。
いつ寝ているのか、いつ見ても蓮の店は開いていた。
年中無休、24時間営業。
まるでコンビニエンスストアの様な蓮の店。
不思議な事が詰まっているその店は人を呼ぶのだという。
いや、正確にはその店にある品物が人を呼ぶのだろう。
昼夜問わず曰くある品物は人を呼び寄せる。
だから蓮の店が閉まっているのを見た事がないのかも知れない、と魁はふと思った。
普段は呼ばれた時にしか顔を出さない店だったが、先ほどの視線はもしかしたら蓮の店のものが自分を呼ぶものだったのかもしれない、と魁はその扉をくぐる。
その扉は魁をすんなりと受け入れ、蓮は戸口から顔を出した魁を面白そうに眺めた。
「おや、こんな時間に珍しいね」
「こんばんは。‥‥誰かに呼ばれた様な気がして」
目の前にあったのがこの店でした、と魁は正直に告げる。
その言葉に、くすり、と蓮は笑った。煙管から紫煙を立ち上らせ、蓮は魁に視線を送る。
「呼ばれた‥‥か。確かにうちの曰くある品物達は人を呼ぶ様だけどね。でも生憎と今呼んだのはうちのもの達じゃないようだ。静かなものだよ、今夜は」
「そうでしたか」
気のせいだったか、と魁は軽い溜息を吐く。
しかしそこへ蓮が声をかけた。
「あぁ。でも気をつけた方がいいね。あんたには水の匂いがする」
「水?」
「あぁ。引きずり込まれない様に気をつけな」
はい、と蓮の忠告に素直に頷き、魁は蓮の店を後にする。
一体、水とはなんだろうと首を傾げながら。
水と言われ直ぐに思いつくのは、体質の関係上、魁は雨を思い浮かべる。
しかし今日は雨が降る気配はない。
空には星が瞬き、ときたま風花が舞う程度だ。
腑に落ちないところがあったが、気にしていても仕方がないだろう。
魁は再び軽やかな音を響かせ、夜の街へと走り出した。
突然、ぴしゃん、と耳に水音が滴る音が聞こえた様な気がして魁は立ち止まる。
そしてそのまま金縛りにあったように動けなくなってしまった。
魁は視覚と聴覚に意識を向ける。
ぴしゃん、と再び聞こえてくる水音。
しかし周りに水はない。
それなのに耳に響く水音だけはゆっくりと近づいてくる。
そしてそれはやがて雨音に変わり、周りに雨が降り出した。
魁の身体は一気に重くなる。
「くっ」
その場に立っている事ができなくなり、膝をつき必死に身体を支えた。
怠くて重くて動く事が出来ない。
雨の呪縛が魁を襲う。
『へぇ、頑張っちゃうんだね』
くすくすと小馬鹿にした様な笑い声と共に魁の目の前に現れる青年。
その青年の全身は今水を浴びてきたかの様にしとどに濡れている。
『ねぇ、ボクと遊んでよ』
すっ、と青年は蹲る魁に近づいてきて目の前に屈み込んだ。
『ボクね、一人きりで淋しかったんだ。さっきから見てたんだよ、気付いてた?』
可愛らしい笑みを浮かべ、青年は首を傾げてみせる。
口を開く事すら億劫に思えたが、魁は声を絞り出す。
「先ほどの視線がそうですか‥‥」
『うん、そう』
あっさりとそれを認め、青年は魁の薙刀に目を向けた。
『これすごいよね、切れ味良い?』
「そこそこです‥‥」
もう身体が重くて仕方がないというのに律儀に相手をしてやる魁。
しかしそんな魁に向けて、青年は驚く様な言葉を述べる。
『ボクの身体も斬れるかな?』
「‥‥一体なにを‥‥」
魁は目を見開いて青年を見つめる。
『ボクをね、斬って欲しいんだ』
笑顔でとんでもない言葉を告げた青年を魁はまじまじと眺め、重い首を振った。
「理由もなくそんな事は出来ません」
『だったら、理由を言ったら斬ってくれるの?』
「‥‥」
『あはは、そんな困った表情しないでよ』
ボクの方が困っちゃうなぁ、と青年はひらひらと手を振った。
『ウソだよ、ウソ。苛めてゴメンネ』
青年が、ぱちん、と指を鳴らすと魁を縛めていた雨が止み、辺りはまるで水槽の中にいるかのように揺らめく。
『本当に暇だったんだ。ずーっと閉鎖された水の中にいるからね』
「水槽?」
『似た様なもの。これがいつもボクが見てる世界』
辺りを取り囲むのは水の幻影。
上を見上げれば揺らめく水面が見える。
煌めく水が二人を取り囲んでいた。
「あなたは‥‥」
『さぁて、なんでしょう? 飼われてる可哀想な人魚ってとこ?』
冗談めかして告げる言葉。
『なんかつまらなくて。一人きりでいることに疲れちゃった』
「他に誰も?」
『ここにはボクだけ』
一人きりの孤独。
過去の記憶の無い魁だったが、そんな思いはした事がない。
いつだって周りに人は居た。
孤児院の子供達、そして大人達。
親や兄妹の記憶はなくても、手を伸ばせば他人の温もりが手に入る環境に魁は居た。
ずっと一人きりの孤独は知らない。
「だから斬って欲しいと?」
『ふふっ。まぁね。だってただ生きてるみたいでつまんないからさ』
だからといって何処に行きたい訳でもないし、と大きな溜息を吐く青年。
本当に夢がないな、と青年は水面を眺めた。
青年はいつもそうやってただ水の中から水面を眺めて暮らしているのだろう。
煌めく水の世界が彼の全て。
ただ一人きりでずっと。
『断ち切って欲しかったのかな、ボク。こんな思いとか全部』
キミを選んだのはよく見かけたから、と青年は笑った。
しかしよく見かけたとは一体どういうことだろう、と魁は首を捻る。
水槽のある場所を通る事はなかったように思う。もしかしたら水槽の中では無いのだろうか。
『ま、いいや。話したら少しはスッキリしたし。なんとなくキミが斬ってくれそうに思えなかったから声をかけた様な気もするし。実は命が惜しいのかもね』
青年は勝手に自己完結をし、魁に手を振る。
『本当に苛める気は無かったんだ。またそれで颯爽と街を駆け抜けるトコ見せてよね』
インラインスケートを指差し、青年は、じゃあね、と告げた。
青年は水の揺らめきと共に消えていく。
「また会えますか‥‥?」
魁は思わず尋ねていた。
青年の淋しそうな顔がそうさせたのかもしれない。
消えていこうとしていた青年の姿が一瞬動きを止める。
『さぁ? キミがボクを見つけられたら会えるかもね。この姿になるのは条件が揃わないと難しいから』
そう言って口元にだけ笑みを見せた青年はそのまま姿を消した。
一瞬、赤い尾が水面を叩いた様に見えたのは魁の気のせいだろうか。
青年と共に水の檻は消え、辺りには冷たい北風が吹き始める。
雨に濡れたはずの身体は濡れてはおらず、汗の引いた冷たい身体だけがそこにはあった。
冷えた身体を震わせ、魁は再び夜の闇に溶ける。
青年が魁を見つけたのはどこだったのだろう、とその場所を探しながら、魁は暖かな孤児院へと足を向けた。
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