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部屋とYシャツと私
夢は、一向に醒める気配がなかった。
遅い朝食を終え、男が洗い物をしている背中を見つめていても、その後、手持ちぶさたにベランダから街並を眺めていても。
快晴の、青い空に、真っ白い雲がぽっかりと浮かび、ゆっくりと風に流されてゆく。
時間までが、のんびりとしているようだった。
紅牙は、街の風景が、なぜか目新しいもののように感じられて、とまどう。ずっとここで暮らし、彷徨ってきた街であるというのに。
考えてみれば、あらためてこんなふうに、街を眺めたことなどなかったのだ。
どこまでも続く屋根の群れ。遠くにかすむ摩天楼。子どもたちの嬌声。
ああ、ここには人が暮らしている。
紅牙にとって人とは、次の瞬間には血まみれの肉塊になってしまうもののことだ。それは「今はまだ生きているというだけの、死者」でしかない。
だが、この街には……人々が生きている。
朝になれば目覚め、パンを焼き、コーヒーを入れて、学校や職場へと出掛けてゆく。そして……。
そこまで考えて、紅牙は自分の発想や想像力がひどく貧困なのに気づく。
人々の、あたりまえの暮らしというものが、うまく思い浮かばない。知らないのだ。東雲紅牙は、そんなものを何ひとつ。
「おゥい」
和馬が、ベランダへ顔をのぞかせた。
「俺、ちょっと出かけてくるけど」
「……」
どう応えていいかわからない。
「ま、ゆっくりしてろよ」
そう言われても。
紅牙は、何か言わなければ、と思うのだが、言葉が出てこない。喉になにかがつまったように、無理に口を開こうしても、たぶん「うう」とか「ああ」とかいう唸り声しか出てこなかっただろう。
それでも、何か言わなければ。――だが、何を……?
石像のようになっている紅牙をどう思ったか、和馬は、
「ヒマだったら風呂そうじでもしててくれ」
と言って、にやりと頬をゆるめた。
「…………え――?」
やっとのことで、紅牙が言えたのはそれだけだった。
「夕方には帰ってくるが……時間が余るようだったら……、今、洗濯機回してっから、それ止まったら干して、乾いたらアイロンでもかけといてくれな」
「…………」
「それでもヒマなら昼寝でもしとけ。じゃあな」
そして、さっさと、出て行ってしまう。
言わなければならないことを言いそびれた、という感じだけがするが、それなのに、何を言うべきだったのか、紅牙にはまだわからない。
とりあえず、風呂そうじだった。
よくよく考えてみれば、そんなことをしなければいけない筋合いはない。
しかし一方で、意図したことではないとはいえ、一晩寝かせてもらって食事も与えられたのだから、このくらいはしたほうがいいのかとも思う。だが、それとて頼んだわけでもないし、そもそも紅牙とあの男は敵同士なのだ。
もっとも、敵と言っても……
最初にあの男の命を狙ったのは、単にその時属していた組織の命令だったからに過ぎないし、そのときのことがもとで、彼は組織を出奔して男を追うようになったけれど、男にしてみれば追われていただけで、紅牙を敵とはみなしていないのかもしれない。そう、でなければ、どうして部屋に泊めて飯などつくってくれるだろう。
だが、何度か命を狙われ、闘った相手を、どうして部屋に連れて来て食べ物を与えたりするのか。
あまつさえ、風呂そうじだなどと……。
紅牙の思考は、さっきから同じところをぐるぐると堂々めぐりになっていて、混乱するばかりだった。
だからとりあえず、風呂そうじをするしかない、と紅牙は思うのだった。
シャツの腕をまくって、裸足になり、一心に、バスタブをクレンザーで磨いた。
何かに没頭していれば、よけいなことを考えずに済む。
バスルームの壁に落ちる影は、今日もどこかしら薄く見えた。
小一時間ほど中腰でいたら、身体が痛くなった。
それを伸ばしながら、バスルームを出ると、洗濯機が止まっていた。
中身を傍にあったかごに取り出し、ベランダに出る。
とりあえず、吊っておけばいいのだろうか。
洗濯物を干す、という行為の経験が、自分にはないことに気づく。
組織に斡旋された部屋にひとりで住んでいたこともあったと思うが、その頃はどうしていたのだったか。なぜか、その頃のことが――ひどく遠く思えるその頃のことがよく思い出せない。
あの頃の紅牙は……そういったごく普通の暮らしのようなものをしていなかった。
生活面は組織がサポートをしてくれていて、かれらはただ任務に集中することだけを奨励されていたのだ。
なんとか、すべてのものを干し終えた。
白いワイシャツが、風に揺れるのを、ぼんやりと眺める。
自分は何をやっているのだろう。
あの男は何を考えているのだろう。
洗濯ものの、糊の匂い。うららかな午後の、風の匂い。
洗いたてのシャツは真っ白だ。
紅牙の服は……いつも血で汚れていた。
あの服はどうしたのだったろう。
組織にいた頃は……誰かが洗濯してくれていたのだろうか。いや、たぶん、血で汚れたシャツは捨ててしまっていたのではなかったか。
血の汚れはなかなか落ちない。
ましてそれが、殺された人間の血であるときは。
そしていつのまにか、紅牙は眠り込んでしまっていたらしい。
日はいつのまにか、傾きかけていた。
はからずも、男の言った通りになってしまった。風呂そうじに、洗濯物を干して、昼寝。こうなったら、最後のひとつもやってしまわなくては。
紅牙は洗濯物をとりこみはじめた。
あの男は、ふだん、こんなことを日々、やっているのだろうか。
パンを焼き、オムレツをつくり、風呂をそうじし、真っ白なシャツを干して……。
たぶんそうなのだろう。いや――。男だけではない、人はみな、そうしているのだ。この街の人間は、みな、そうして……日々を生きている。
「帰ったぞーーーーゥ!」
大声で、騒々しく、男が帰ってくる。両手にビニール袋を提げていた。
「わはは、感心だな」
アイロンと格闘していた紅牙を見つけて、笑う。
「だが下手くそだ。貸してみろ」
紅牙はうまくアイロンをあてることができなかった。どうやっても、むしろどんどんしわがついていってしまう。和馬は魔法のように、そのしわを伸ばして、一着目のシャツはぱりっといい形に仕上がった。
「ほい、一丁あがり。あとは飯食ってからにしようぜ。今日は和馬様特製カレーだ」
そしてまた騒々しい料理がはじまり……、和馬だけが一方的に喋っている食卓があり……、紅牙の、奇妙な夢の時間は過ぎてゆく。
「…………」
夕食後、再び、アイロンを使おうとして、うまくいかない紅牙が顔をあげると、和馬はベッドに大の字になっていた。
しかもいびきをかいている。
紅牙は黙って、彼の寝顔を、見ていた。
無防備で、大平楽な寝顔である。
そしてまた、紅牙は自分が人の寝顔というものを見慣れていないことにも気づくのだ。彼がひややかに見下ろしてきたのは、死に顔ばかり。安らかなものもある。しかし死に顔の死者たちは、二度と起き上がることはない。目を醒まして、彼におはようと言ってくれることはないのだ。
どのくらいの時間が過ぎただろう。
東雲紅牙は、静かに立ち上がると、足を忍ばせて部屋を出てゆく。
ややあって、かすかにドアが開き、また閉じる音がしたが、和馬は、ベッドの上でむにゃむにゃと寝言を呟いているだけだった。
(了)
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