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<東京怪談ノベル(シングル)>


誓約と制約



彼女の名は、易く口にしない。
胸におこるこの記憶が、どれだけ僕を追い詰めたとしても。


 さらさらと波打つような月光が地を照らしている。
 相良千尋はベッドの上に寝そべりながら、窓の向こうにある薄い月を仰ぎ見た。
薄刃のような月には、筋のような雲が重なっている。その様相はまるで、
「十字架のよう……」
 呟き、青紫の双眸を閉じる。
ショーハウスでの仕事に疲れた体は、そうすることで、すぐに眠りの世界へと誘われた。
夢の沼へと落ちてゆく意識の内で、千尋はさらさらと流れる水音のようなものを耳にした。
水流はゆっくりと緩急を描きながら揺らぎ、千尋の意識をもゆっくりと揺らす。


――――ねぇ、千尋。そんな寝方してたら風邪ひくわよ

 静かな笑いを含めた優しい声音を耳にして、千尋は閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
 目覚めてみれば、そこは清廉な白で囲まれた病室の中。
目の前には千尋の顔を覗きこむように身を屈め、くすくすと笑っている女の姿が見える。
「……寝ちゃってたのか」
 呟きついでに小さなあくびを一つ。目の端に滲む涙を指で拭い、改めて目の前にいる女の顔を確かめた。
「疲れてるんじゃないの? 毎日見舞いに来なくたっていいんだから、家でゆっくり寝てたらいいのよ」
 女はそう言って小さく笑うと、肩をすくめながらベッドの柵にもたれかかる。
 儚げな印象を与える華奢な体。聴く者を穏やかな気持ちにさせる、穏やかな声音。
派手な美を持っているというよりは、清楚なイメージを持つ女性といった感じであろうか。
 千尋は女の言葉に首を横に振ってみせると、口許に笑みをのせて言葉を返す。
「ここへは、僕が来たいから来てるんだよ。君が気にやむことではないから、大丈夫」
「大丈夫、大丈夫。……千尋はいつもそればっかり」
 女は笑って首を傾げ、その頭に手をやった。
つられるように、千尋の目も女の頭へと向かう。
 女は、千尋に会う時、いつも帽子を被っている。
「その帽子、よく似合うよ」
「千尋が買ってきてくれる帽子はどれも可愛くって、大好きなのよ。でも少し少女趣味っぽいかしら」
 千尋が口にするさりげない言葉に、女は嬉しそうに目を細ませて言葉を返す。
彼女が横たわっているベッドの脇には、いくつもの帽子を掛けておくための場所が用意されている。そこにはクローシュ、ニットキャップ、キャスケット、様々な形のものが並べられている。
「私もあなたも、もう子供じゃないんだから」
 笑う女の表情を眺め、千尋もまた笑う。
「今度は少しシックなものを見つけてくるよ」



 彼女が病院に運ばれる前までは、二人はごく普通に幸せを重ねる恋人同志だった。
休みが合う日にはあちこち出かけ、あるいはどちらかの部屋で時間を過ごしていた。
話題をさらう映画も見てきたし、雑誌に載るような店に足を運んだりもした。逆に二人だけの穴場と称し、ひっそりとした場所を探したりもした。
夏には海や花火、冬には雪。春には咲き誇る花、秋には暮れゆく赤を。
そうして二人は、ごく平凡で、ごく幸せな時を重ねていたのだ。
 彼女は千尋が”人の心を見る”異能を持っているということを知らないままでいた。
また、時折聞こえる彼女の心の声もまた幸福なものであったから、千尋は自分のその異能を彼女に話すこともなく、ただ黙していた。
隠していたのではない。いずれ時期を待って話そうとは思っていた。

 彼女と出会ってから、どれだけの時を過ごしただろうか。
ある日突然、千尋に対する彼女の態度が、よそよそしいものへと変容したのだ。
彼女は目に見えて千尋を避けるようになり、その態度に耐えかねた千尋が訊ねると、
「別れましょう」
 そう答えて目をそらすばかりであった。
理由を訊ねても、彼女はひとつも口を開けようとはしなかった。
――僕の、
僕のことを、知ってしまったからなの?
訊ねようとすると、体が強張った。激しい緊張に囚われ、足はすくむばかりだった。
去っていこうとする彼女の背中を、しばし見送るばかりだった。
しかし、千尋は不意に気付いてしまったのだ。
去っていく彼女が、ひっそりと涙しているという事に。
知ってしまうと、千尋の足は知らずに走り出していた。
その肩を掴む。彼女は束の間身を強張らせていたが、ゆっくりと振り向き、千尋の顔を確かめて、崩れるように座りこんだ。
声を詰まらせている彼女の涙に見入った時、千尋の耳が彼女の心の声を拾い上げた。
(千尋、千尋――――私は)



「千尋、私リンゴが食べたいわ」
 帽子を正しながら自分を見やって笑う恋人を見つめ返し、千尋は目を細めて微笑する。
「分かった、リンゴ剥くよ」
 返して、カゴに盛られた果物の中からリンゴを一つ掴み取り、果物ナイフを手にする。
「……剥けるの?」
 くすくすと笑う女の目に、見る間に激しく削ぎきられていくリンゴが映っていた。
不器用な千尋の手の中で、リンゴはかくかくとした小さな塊へと変わっていく。
「……ごめん」
 がっくりとうなだれてみせる千尋に、彼女はひとしきりくすくすと小さく笑い、やがてふと睫毛を伏せた。
片手を持ち上げて帽子を撫で、どこか虚ろな視線を泳がせている。
「どうしたの?」
 二つ目のリンゴを手に取りながらそう訊ねると、恋人は視線を窓の向こうへと投げやって、弱々しい笑みを浮かべた。
「――私ね、明日から無菌室に移るのよ」
 まるで呪文を詠うような口ぶりで、女は呟く。
「だからもう会いに来ないで」
「――――え?」
 思いがけないその言葉に、千尋の手が動きを止める。
再び激しく削り取られたリンゴが、その手の中で瑞々しい香りを放っている。
「私、あなたが好きよ、千尋。あなたが人間じゃないとしても」
 窓の向こうを見やっていた目を動かして、真っ直ぐに千尋を見据える。
その目には、揺るぎ無い固い決意が揺れていた。
「あなたが好きだから、もう会いたくないの。これから私の心はきっとどんどん醜く歪んでいくわ。死にたくないんだもの」
「僕はそれでも」
 開きかけた千尋の口は、やわらかく微笑む彼女の拒絶によってさえぎられた。
「あなたはきっと、それでも私を愛してくれると思うの。私の心がどれほど歪んでも、少しも変わらずに受け止めてくれると思うの。だから、」
 微笑みながら澱みなく告げられるその言葉を、千尋はぼんやりと聞いている。
 
 彼女は涙を流してはいなかった。心を千尋に読ませないためだ。
 彼女は微笑んでいた。千尋の心を、少しでも護りたかったからだ。
 そしてそれは、読み取るまでもなく、千尋に伝わっていた。千尋もまた、彼女を愛していたからだ。

 窓の外にはうららかな春の景色が広がっている。
外界からは、ひどく呑気な笑い声が聞こえてくる。
対して、彼女のその姿は、とても痛ましいものだった。
彼女がかぶっている帽子の下、彼女の艶やかな髪は、抗がん剤の影響で見る影もなく抜け落ちていた。
彼女の命が消えかけているのを、千尋は知っていた。
どうしようもないほどに、彼女の体は病んでいる。千尋の持つ異能では、どうすることも出来ないほどに。

 千尋の心を知ってか、彼女はふわりと首を傾げる。
「――――もうそろそろ検査の時間なの。もう帰って、千尋」


 
 携帯電話がメールの着信を告げる。
その音に目を開けると、そこは病室ではなく、千尋の自室だった。
月光は薄い朝焼けへと姿を変え、薄紫色で空を染めている。
 千尋はしばし瞬きを繰り返し、たった今まで見ていた夢を思い出した。
――――ああ、また彼女の夢を。
手をかざし、両目を覆う。頬に伝う雫に気付いて指で拭えば、それが自分の涙なのだと知る。

 あれ以来、千尋が彼女に会うことはなかった。彼女がこの世を去っていくまで。
彼女は会うことは許してくれなかったが、その代わり、手紙をたびたび書いてきた。
その内容はとても他愛のないものではあったが、千尋はそれに返事を書くことをしなかった。
 何を言えばいいのか。
 どんな言葉をかければいいのか。
 思いの丈を文字としてしたためることは簡単だ。でもそれはなんだかひどく易い行動のように思えた。
 会えばきっと抱き締めてしまうだろうと思っていた。会いたいと何度も思った。何度も病院の前で足を止めた。
 病院を見上げて唇を噛み、血が滲むほどに手を握り締めた。
 しかしそれでも、彼女に会うことはなかったのだ。

 彼女が自分の心の歪んでいくのを恐れたように、
千尋もまた、自分の弱さを彼女に見せてしまうのを恐れたのだ。

「僕は、無力だ」
 呟き、両手で顔を覆う。
――僕のこの手は、愛するひと一人護ることが出来ない。


 朝焼けが薄い光で世界を照らし出していく。
 風が窓をかたかたと鳴らす。
 
――――私はあなたが好きよ、千尋
「僕だって、」
 言いかけた言葉に詰まる。
――易く、君の名前を呼ばない。
だけどこの心は、遠い未来の先までも、君だけのものだ。 


―― 了 ――