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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


イナゴの箱 〜Gate of the Heaven 1〜


 都内某所の片隅に、アンティークショップ・レンは看板を立てている。
その店主である蓮は、店の扉が来客を告げるのと同時に睫毛を持ち上げ、紫煙を一筋吐きだしながら微笑した。
「――――いらっしゃい。忙しいところ呼び出しちまって、悪かったね」
 言葉を発するたびに、煙はふわりふわりと揺らぎ、空気の中へと溶けいっていく。
 店に足を入れたのは城ヶ崎由代であった。由代はレンの挨拶にそっと目を緩め、それから店の奥の席についている人影に視線を向けた。
「申し訳ない、どうやら僕は遅刻をしてしまったようだ」
 言いつつ、やんわりと頬を緩めて笑みを浮かべる。
「いいえ、私もつい先ほど到着したばかりですから……」
 由代の言葉に微笑んだのは、リンスター財閥の当主セレスティ・カーニンガム。
セレスティはレンが淹れた紅茶の香りを楽しむように、深海の色をうつしとった双眸をゆらりと細めた。その言葉に軽い会釈をしつつ椅子の一つに腰を落ちつかせた由代を確かめると、レンはカウンターの上に小箱をひとつのせて見せる。
「みんな集まったところで、今回の品を紹介するとしようか」
 レンは艶然とした微笑をのせつつも、静かな声音で話を始める。
「これを持ってきたのは若い女の子でね。年は、そうさねぇ、十代後半くらいってところかねぇ」
「その女性が、今回の依頼主ということですか?」
 訊ねたのは高峯弧呂丸。和装のよく似合う青年だ。
 レンは弧呂丸の問いかけに向けて目配せをする。
「ああ、その通り。――まぁいつも通り、曰くつきの代物さ」
「随分と可愛らしい小箱なのですね。わたくしの掌にもおさまってしまいそうです」
 穏やかに微笑し、小首を傾げているのは海原みその。艶やかな黒髪が、その挙動に合わせて踊る。
「お借りしてもよろしいでしょうか」
 みそのはそう言葉を続け、レンの顔を真っ直ぐに見やった。
 手渡された小箱は、それ自体の重みもさほどにはなく、また、内になにかがおさまっているような重みも感じられない。
「ほう、骨董にしては、大層な装飾も見当たらないとみえる」
 みそのの横で退屈そうに頬づえをしているのは杜埜犬鴉悸。文字通り、鴉を思わせる、漆黒に包まれた男だ。
「確か杜埜犬さんも骨董屋をやってたんだっけねぇ? あんたから見て、この箱の価値はどのくらいだと思う?」
 カウンターの向こうから杜埜犬を見やり、レンは面白そうに微笑みを浮かべた。
「装飾の類いはあまり為されていないようだが、それなりの骨董価値はあるだろう。見たところ、案外歴史をまたいできた品のようだからな」
 眉ひとつ動かすことなく、杜埜犬がそう返す。レンはわずかに肩を上下させたりしたが、
「まぁ、そんなところだろうかねぇ」
 小さく笑い、煙管を口に運んだ。
「話の途中でしたね。続きを聞かせてくださいますか」
 弧呂丸が口を挟む。
「――おっと、そうだったね」
 煙管をふかし、レンは話の続きをし始めた。
「どうもこの箱は、依頼主の父親の遺産だってんだよ」
「……遺産? ということは、その父親っていうのは、亡くなってしまったのかい?」
 由代が訊ねる。レンは首を動かして応じ、煙を静かに吐きだした。
「彼女の言い分だと、五ヶ月間、死病にとり憑かれていたらしいねぇ。腸が徐々に溶け出していく奇病だったようだよ」
「それは、まさに地獄の苦しみだったでしょうね」
 セレスティが眉根を寄せる。
「死のうにも死ねない。痛み止めの薬もあまり効かない。……想像を絶する死病だったろうさ」
 煙管の中の灰を灰皿に落とし、レンは声を低めた。
「五ヶ月間、ですか……あら?」
 小箱を色々な角度から確かめていたみそのが、その時疑念の声をあげた。
「この小箱、中になにか虫でもはいっているのでしょうか? 何やら羽音のようなものが聞こえてまいりますけれど」
 小箱を耳にあて、ゆったりと目を閉じながら、みそのはそう訊ねて背筋を正す。
「……羽音?」
 弧呂丸は席を立ってみそのの傍に寄り、小箱の内から聞こえてくるという音に耳を傾ける。
確かに、それらしい音がカタカタと聞こえる。
「依頼してきたその子は、それがどうにも恐ろしいと、そう言うわけさ。なんでもイナゴの王がおさまっているってねぇ」
 煙管に新しい葉を詰めこみながら、レンは小さな嘆息をひとつ。
「イナゴの王?」
 セレスティが問うと、由代がそれに応じた。
「すぐに思いつくのはアバドンかな。破壊、死、墓。そういったものを意味する名前を持つ魔神ですよ」
「魔神ですか……この小箱、どうやっても開きませんのね」
 華奢な腕で蓋を引っ張っているみそのを見かねたのか、杜埜犬がそれを受けとって蓋に指をかける。
しかしやはり開きそうにもないのか、やがて杜埜犬は片眉をつりあげて不愉快そうな表情を浮かべた。
「依頼主は、その箱の浄化と保護を頼むって言ったっきり、消えちまったのさ。連絡もつかなくてねぇ。まったく、いつもながら厄介な代物を押しつけられたってわけさ」
 レンはそう述べて煙管をふかす。
「ま、よろしく頼むよ。あんた達ならどうにか出来るんだろう? 報酬に、紅茶くらい淹れてやるからさ」



「同じ骨董屋といっても、やはり店によってディスプレイからなにから違ってくるものだねぇ」」
 レンの店を後にして、五人は、杜埜犬が働いているという骨董屋に腰を落ちつかせていた。
もっとも、同じ骨董屋とはいえ、レンの店と比べれば、置いている品も比較的真っ当なものばかりであるようだ。
由代は目を細ませて周りを見やり、手近にあった椅子に手を伸ばし、告げた。
「そんな事はどうだっていいだろう。さっさと用を済ませてしまうとしよう」
 大きな嘆息を共に、杜埜犬がそう返す。
「箱は古い時代から在ったものなのでしょうか? 箱の中身を欲している者がいるということは、それなりの歴史をまたいできた品ということにもなりますよね」
 弧呂丸はアンティークの椅子に座って静かにそう発すると、しばし思案顔で眉根を寄せた。
「わたくし思うのですけれども」
 そう返したのはみそのだ。みそのは艶やかな黒髪をやわらかく撫でつけつつも、反応を確かめるように、四人の顔を見やっていく。
「箱を開けること自体はさほどに難しくないと思います。箱の内にも気は流れているのでしょうから、その流れを少しいじってやるだけで、容易に開くはずですし。……ただ、思うのです」
 艶然と微笑みながら言葉を続けるみそのの声に、四人の視線が集中している。
「人一人殺めるのに五ヶ月も必要としている存在であるならば、さほど大きな存在ではないのではないでしょうか。仮に解放したとしても、もしかしたらそれほど大きな災厄にはならないかもしれません」
 みそのは眉ひとつ動かすことなくそう述べて、ふわりと笑って小首を傾げた。
「災厄などといった事柄には興味はないな。俺が興味を惹かれるのは、箱を狙っているという連中がどんな輩かという事だけだ」
 杜埜犬はそう告げて、足を組み替えて腕組みをする。
「私は……知りたい事は多々ありますが、まず気になるのは、行方をくらましているという少女の安否です」
 思案顔で眉を寄せていた弧呂丸は、低く唸るようにそう述べる。
「そうですね。出来る限り、穏便に事を進めていきたいものです」 
 セレスティが微笑むと、
「依頼主の調査に関しては、私が術を行使します」
 弧呂丸が、つと片手を持ち上げる。持ち上げたその手をふわりと開くと、どこからともなく一羽の白い鴉が姿を見せた。
弧呂丸はその鴉を顔に近付け、ふっと短い息を吹きかける。真白な鴉はその息の流れに乗るように羽を動かし、間もなく、店の壁をすり抜けて外界へと出立した。
「ほう、式かい?」
 由代が感心したように頷くと、弧呂丸は微笑しつつ頭をさげた。
「それでは、次は箱の処置ですが……。さすがに、容易に開けてしまうわけにもいかないでしょうね」
 セレスティが困ったような表情を浮かべて顎を撫でる。
「それに関しては、俺に考えがある」
 杜埜犬が片眉をつりあげ、口を開けた。
「この箱だが、この店で売り出してみたらどうか」
「売り出す?」
「これを欲している輩がいるなら、当然、どんな手段を労してでも手にしようとするだろう。それが売り物として出されているのを知れば、値がどれほどであろうと求めにくるのではないか」
「……なるほど、それは名案ですね」
 セレスティが頷いた。
「しかし、アンティークで手頃な大きさの箱となれば、一般の客もひやかしくらいには来るだろう?」
 由代が訊ねると、杜埜犬は鼻先で笑いつつ言葉をなした。
「箱に触れた者全てに目印を残せばいい。そうすることで、追尾は容易になるからな」
 そう返して持ち上げた手の内に、黒い羽が握られていた。


 
 箱は杜埜犬が働く骨董屋の窓辺に陳列された。
 際立って華美ではないが、薄く古代文字の記されたその箱は、なかなかに客の目を寄せているようだ。
 しかし店を訪れる客達は、その小箱を中心に、幾重にも張り巡らされた結界の存在には気付いていない。
 小箱を中心に、弧呂丸が敷いた陣が一つ。弧呂丸は店の奥で固く瞼を閉ざし、調査に送り出した式の様子を見定めている。
店を囲うように、由代が敷いた陣が二つ。一つはやって来た客の様相を見定めるためのもの。一つは魔なる存在から、箱を護るためのもの。
来客のほとんどは女性だが、時折男の顔も覗く。男性客の狙いは、窓辺の椅子に座っているみそののようだ。
しかし、みそのは彼らに視線を向ける事もなく、ただ静かに箱を見やっている。
――――と、静かに神経を巡らせていた弧呂丸が、ついと立ちあがり、周りを見やった。
「なにか分かったのか?」
 杜埜犬はテーブルで一人茶をたしなんでいたが、弧呂丸の様子に気がつくと、投げやるように問いかける。
「私の放った式が、何か……いいえ、誰かを探し当てたようです」
 静かにそう放つ弧呂丸に、セレスティが問いかける。
「依頼主の少女ではないのですか?」
「少女……を、追っていたのですが……」
 わずかに眉根を寄せている弧呂丸の言葉に、杜埜犬とセレスティが顔を見合わせた。
「面倒だから結論から話せ」
 杜埜犬は手にしていたカップをテーブルに置くと、ゆらりと立ちあがって目を細ませる。
と、それと同時に、由代が店の中へと立ち入って、何事かを考えこみつつ口を開けた。
「先ほど、わずかにだが、僕の結界に触れた者がいたね。……怪しい客人は来なかったかい?」
「私が記した陣には、特に反応がありませんでしたが」
 弧呂丸が首を傾げると、椅子に腰掛けたままのみそのが、小さく笑いながら呟いた。
「先ほど、殿方がお一人で見えられました。動きが細やかで、まるで網の目をかいくぐるように、こちらへと足を運んだのですわ」
「男性客ですか? 私もずっと見ておりましたが……箱には触れず、すぐ帰られてしまいましたよね」
 セレスティがそう返すと、みそのはふわりと笑って頷いた。
「箱の下の陣を気取ったのだろうね。……しかし、魔であれば、僕の結界には立ち入ることが出来ないはずだ。……そう、魔であるならば」
 由代はそう述べて、顎に片手をそえて思案にふける。
「ええ、魔なるお方であれば、ですね。器が人のものであれば、話はまた変わるのではないでしょうか?」
 みそのが艶然と笑う。
「器が人で、中身が魔だということか」
 杜埜犬は壁に背をもたれかけた状態で立ち、口の端を歪めてかすかに笑った。
「――――少女の気は、神聖都学園で立ち消えました」
 様子を窺いつつ黙していた弧呂丸が口を開く。
「しかし、あれは……恐らくは魔に侵された器であるように思います。そう、まるで」
「……器だけを何かが乗っ取ったような、かい?」
 由代が訊ねると、弧呂丸はゆっくりと頷く。
「……神聖都学園に足を運んでみる必要があるようですね」
 セレスティは立ちあがってそう告げると、ステッキを鳴らしつつ足を動かした。
「私はちょっと学園の様子を見てきます。……仮に箱から何かが出てきたとしても、私ではどうすることも出来ませんから」
 振り向き、微笑む。
「わたくしもご一緒いたします。学園のほうに、箱の内を欲している方がいらっしゃるのであれば、わたくしはぜひ一度ご挨拶させていただきたく思いますし」
 みそのも席を立ち、首を傾げた。
「少女の気は、学園の屋上あたりにいたようです。残念ながら、今はどこにいるのか分かりません……」
 店を後にしようとしている二人を眺め、弧呂丸が少し申し訳なさそうにそう告げると、セレスティが穏やかに微笑む。
「いいえ、それだけ分かっていれば充分です。今の時間ですと、まだ残っている生徒もいるかもしれませんし、仮にすれ違ってしまったとしても、他の生徒達にお話を伺えれば、少しでも情報は得られますでしょうから」
 その横で、みそのも意を同じくして頷いた。
「それでは、僕らはこの箱と、箱を見に来た客の事を調べてみよう。見たところ客の入りはそれほど多くはなかったようだし、箱に感心を示した客の足取りは分かるんだろう?」
 由代が組んでいた足を組み直しつつ杜埜犬の方を見やると、杜埜犬もまた深く腰掛けた椅子の上、薄く目を歪ませて笑う。
「当然だ。もっとも、足取りを調べてみたところで、箱を買うだけの金を持っていそうにない輩も大勢いたがな」
「私は箱の内にあるものを祈祷で確かめてみます。……もし箱の内を覗き見ることは出来なかったとしても、箱自体が持っている念は垣間見ることが出来るはずですから」
 弧呂丸はそう言い放って再び椅子に座り、ゆったりと瞼を下ろす。間もなく祈祷を始めた弧呂丸を確かめつつ、由代も口を開く。
「昔から、悪魔は自分を呼び出した魔術師を陣の外に呼び招くというね。……僕はこの場で強力な結界を巡らせることにする。解放された何かが外に出ることも、それを欲する何かが内に立ち入ることも、どちらも不可能な状況にしておくためにね」
 言いながら、ゆらりと両手をあげる。そしてそれを指揮棒のように振り上げると、まるで辺りの気を指揮するように動かした。



 セレスティとみそのが神聖都学園に着いた頃には、空は夜の気配を薄っすらと漂わせていた。
「屋上でしたよね」
 ステッキで体を支えつつ歩き、セレスティはつと顔を持ち上げて屋上に視線を向ける。
 残っている生徒の数は、思っていたよりも少ないようだった。人の気配こそするものの、数にしてみれば十指で足りる程度かもしれない。
「お店を出てきてから数十分ほど経ちましたから、もういらっしゃらないかと思っておりましたが……まだ屋上にいらっしゃるようですね」
 セレスティと同様に屋上の方に目を向けて、みそのがふわりと首を傾げた。
「ええ、……しかし、どうやらお一人でいらっしゃるわけではないようです」
 小さく頷き、セレスティはふと足を止めて口を閉ざす。
「人間と魔なる者、双方の気が満ちております。……ふふ、さまざまなものが混ざり合ったような、異質な流れを感じます。面白いものですね」
 みそのは片手をあげて口許を隠し、愉しそうに頬を緩めた。
「……参りましょうか、海原さん」
 みそのの笑みを見やりつつ、セレスティは再びステッキを動かした。



 
 セレスティ達を見送った後に弧呂丸が祈祷を始め、それからわずかな時間が流れた。
 由代はさっきまでみそのが座っていた椅子に座っている。杜埜犬は店の奥の壁にもたれかかり、立っている。
 窓の外では夜の気配がしっとりと漂い、店の中にはまさに静謐といった空気が広がっている。
……と、初めに由代が身じろぎを見せた。続き、杜埜犬が瞼を持ち上げ、箱を睨み据える。
「――――この箱の内には、」
 連鎖したかのように弧呂丸が口を開いた。
「禍々しい空気が流れています。それが洩れだそうとしています。これは私一人の力では対処できないかもしれません」
 由代と杜埜犬が、ほぼ同じタイミングで口を開く。
「箱の周りの結界を強化しよう。その間に中の浄化を!」
「箱に惹かれた客が戻ってきたようだ。これには俺が応じてこよう」
 店全体が、低い音をたてて大きく揺らいだ。



「学園の生徒さんですか?」
 屋上に着いたセレスティとみそのの目の前に、一人の少女が立っていた。
 少女は学園の制服ではなく、普段着と見られる出で立ちをしている。
屋上に張られたフェンスを掴み、こちらに背を向けている。
「箱の保護と浄化を依頼したという方ですよね?」
 みそのが訊ねると、少女はゆっくりと振り向き、その目で二人の顔を見捉えた。
「――――ええ、そうです。でも事情は変わりました。今から箱を引き取りに行くところです。……あなた方はここに箱を持って来てはいませんでしょう?」
「引き取る、ですか? よろしければその理由をお聞かせいただけますか?」
 間をおかずにセレスティが訊ねると、少女はゆっくりと瞬きを繰り返し、笑った。
「亡くなった父の形見を傍に置いておきたいというのは、それは遺族の心でしょう?」
「……確かにそうですね」
「箱の内には深い悪意が流れていました。わずかに漏れ出したそれに触れただけで、貴方のお父様は長い苦しみを抱え、その故に気が触れて亡くなってしまった。……そのような品を手元に置きたいと?」
 みそのが小さく微笑めば、少女もまたくつりと微笑んだ。
「依頼主である少女をどうされました?」
 セレスティが訊ねると、少女は高々と声を張り上げて笑った。
「箱は残りの方々が持っていらっしゃるのですね。もう浄化もされてしまうでしょう。ふふふ、まぁ、いい。今回はご挨拶までに」
 その声は少女のものとは明らかに異なる、少年のそれだった。
 セレスティがステッキで足元を撫でると、屋上全体を囲むほどに大きな水の輪が現れた。
それは見る間に小さく縮んでいき、少女の姿をした者を捉えるため、球体へと変容していく。
「水牢ですか? ふふ、残念ですが、ここまでです」
 水牢が形を為そうとしたその瞬間、少女は恭しく腰を曲げて一礼をした。
水牢は弾かれたように音を立てて崩れた。少女の姿は、どこにも見当たらなくなっている。
「逃げられましたか……」
 残念そうに肩を上下させているセレスティを見上げ、みそのが首を振ってみせた。
「いいえ、さきほどの方は、まだ学園内にいます。追うことも可能ですが、わたくしとしましては、お店の様子を確かめに参りたいと思っています」
 ゆらりと微笑み、手を静かに動かす。と、屋上に広がっていた水牢が瞬時に蒸発し、失せた。
「そうですね……。それでは急ぎ、戻るとしましょう」
 セレスティはそう述べて、少女が立ち消えた場所を確かめ、眉根を寄せた。


 
 由代と杜埜犬は、互いに干渉することなく、立ち会っている魔と向き合っている。
 それは真紅の斑がはいった緑色の目を持った、美しく大きな豹の姿をしていた。
否。初め姿を見せた時には、神聖都学園の制服を着た一人の少年であったのだ。
少年は店全体を囲むように巡らされた結界に気がつくと、たけ狂った獣の牙を剥き出しに、由代と杜埜犬とに挑み始めたのだった。
「オセという悪魔だよ」
 腕を揮い、幾重にも結界を張っていきながら、由代は杜埜犬に言葉をかける。
 オセは、由代や杜埜犬の記憶にある者の姿へと変容を繰り返し、心の隙を作ろうとしている。
「幻覚などで人を発狂に追いやったりも出来る悪魔だ。……その昔、ソロモンによって封じられたと聞くが」
「名前や性質などどうでもいい」
 返し、杜埜犬は懐から取り出した符を用いてオセの牙に応戦する。 
「とにかく箱の内側を片付けないことには、俺も動きにくい。……面倒な」
 舌打ちをしつつ振り向き、弧呂丸を確かめる。弧呂丸は懸命に祓いを続け、箱の中身を浄化していた。
それに気付いた由代が、杜埜犬に向けて言葉を告げた。
「こちらは僕一人でどうにかなりそうだ。どうやらオセはこちらを威嚇するばかりで、攻撃する気もないようだし」
 告げて小さく微笑むと、杜埜犬は再び舌打ちをつきつつ弧呂丸に向かった。
弧呂丸の後ろに立って符を構え、弧呂丸が述べている口上に重ねて印を組む。
「箱を開き、瞬時に浄化する。面倒だが、厄介なことになってもなんだからな」
 告げると、弧呂丸は目を細ませて頷いた。

 地鳴りにも似た音が轟き、店の周囲も大きく揺れる。
 オセはその音と共に咆哮をあげ、そして次の瞬間には、闇の中へ溶けこむように消えていった。


「箱の中に指輪があったとは……」
 
 静寂を取り戻した店の中、由代が小さなため息を共に、呟いた。

 オセが姿を消したのと時を同じくして、箱の蓋は開かれ、同時に浄化されることとなった。
幾重にも張られた結界の中では、箱から解放された魔も完全な自由を得られなかったようだ。
大きくのた打ち回る魔――アバドンは、例えるなら網によって束縛されているかのように暴れ、地鳴りのような絶叫を張り上げた。
しかしその次の瞬間には、弧呂丸と杜埜犬によって滅せられてしまったのだ。
そして、後に残ったのは、真鍮で出来た五つの指輪であった。

「指輪そのものは、箱よりも歴史の古いものだ。おそらくはどこかから持ち出された指輪を、適当な箱におさめたのだろうが」
 杜埜犬はそう述べながら笑う。
「多分、箱におさめる際に、ろくな術を行使しなかったんだろう。故意にそうしたのかもしれんが」
「つまり、元々曰くを抱えていたのは、箱そのものではなく指輪であったと」
 セレスティが訊ねると、杜埜犬は目線だけをそちらに向けて頷いた。
「もしもの話だが、その指輪がかつて72もの悪魔を従えたというソロモン王のものであるとしたら、多少は合点のいく結論を見出せるね」
 由代は指輪を手にして眺めていたが、やがて再び思案顔になって口を閉ざす。
「それもそうですが、依頼主である少女が、何者かに器を奪われているとしたら……」
 弧呂丸が呟くと、みそのがゆっくりと口を開いた。
「箱の中にあった気の流れと、あの方が持っていた気の流れは、非常によく似たものでした。依頼主様が初めから魔に通じる方だったのか、それとも途中からそうされてしまったのかは、憶測の域をこえませんから、正確な答えを見出すことは出来ません」
「……箱の浄化と保護は出来たわけだけど……何とも、疑念ばかりが残ってしまったね」
 由代は唸るようにそう告げて、深い嘆息を洩らした。
「依頼主を乗っ取ったのが、もしオセやアバドンを従えていたソロモンだとしたら……。その目的は……」

 呟く由代の言葉に、弧呂丸が小さな唸り声をあげた。
「恐ろしい展開にならなければよいのですが……」

 指輪が、鈍く輝いた。


 


 
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1388 / 海原・みその / 女性 / 13歳 / 深淵の巫女】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男性 / 725歳 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2839 / 城ヶ崎・由代 / 男性 / 42歳 / 魔術師】
【4583 / 高峯・弧呂丸 / 男性 / 23歳 / 呪禁師】
【4814 / 杜埜犬・鴉悸 / 男性 / 352歳 / 骨董屋】


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■         ライター通信          ■
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この度はご発注ありがとうございました。
シリーズものという試みは以前から持ち合わせていましたが、これまではその片鱗しか書くことが出来ずにおりました。(実はこのノベルのプロローグという扱いで、すでに書いていたりします。)が、正式にたちあげたのは今作からになります。今作ではソロモン、オセの顔見世的なものとなりました。
謎はいくつも残されたままですが、その辺りは次回以降から少しづつ明らかにしていく所存です。

このノベルで、少しでもお楽しみいただけていれば幸いです。
今回はまことにありがとうございました。