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非科学事件 ♯3
多忙と言いえば多忙な毎日をすごしている彼女は、それはそれで自分は充実した毎日を送っているのだということを実感していた。恐ろしい目に遭ったり、やれきれない気持ちを味わったり、腹の立つ思いをしたり――楽しく時間をすごせたりしている毎日なのだ。それはきっと幸せなのかもしれない、と彼女は思うのだった。
――私は幸せな人間なんだから、それに感謝しなくちゃね。
ぶっきらぼうな想い人は、同じ職場にいる。一応の、上司だ。
――で、それにすがってちゃいけない。努力するのよ。こういう毎日を維持するために。
シュライン・エマの卓越した視線は、ショーウインドウにうつる自分でさえも、冷静にとらえているのだった。
幸福を彩るのは、無数の出会いと別れだ。草間興信所というところで働いていると、それを実感できる。今日も昨日も明後日も、自分は誰かと出会っている、と。そして出会うということは、遅かれ早かれ、別れがあるということだ。
一期一会。
『いつものネットカフェ』でゴーストネットOFFの定期オフ会が開かれることを知り、シュライン・エマは顔を出してみることにした。ちょうど、そのネットカフェの近くに用事があったからだった。
彼女はそこで、物見鷲悟と出会った。
「ああ、ザ・タワーさん。あの長文カキコの……」
「すまない、理屈っぽい性分でね」
「私は気にしませんよ。ただ、改行くらいはしたほうがいいかも」
「……うむ、その通りだ。今日からは気をつける」
物見はあまり感情に起伏のない人間で、話しぶりも淡々としていたが、無愛想な男というわけでもないようだった。彼はシュライン・エマの名前を知っていたし、高峰研究所近くで何度か彼女の顔を見かけていたらしい。
きみはこの業界では有名人なのだよ、と静かに茶化しもしたのだった。
シュラインが物見から名刺を渡されたのは、別れ際だった。帝都非科学研究所所長、という肩書きに、シュラインは首をかしげる。聞いたことのない機関だった。
「研究所……とはいっても、怪奇事件の資料を集めているだけだがね。しかもその情報量も、高峰君が持っているものにはるか及ばん。私の道楽だよ」
「今度、お伺いしても?」
シュラインが微笑すると、物見はきょとんとした顔を返してきた。
「来ても、何もないぞ」
「興味がありまして」
「そうか」
物見は、シュラインの動機にあっさりと納得した。
興味があるから、という動機は、物見がもっとも共感できるものなのだ。
それを、シュライン・エマは後日知る。
シュラインは、瀬名雫をはじめとした友人たちから、物見の好物が紅茶とそれに合う焼き菓子だと知った。彼女は先日北海道で買いあさってきた北海道ミルククッキーを手土産に、帝都非科学研究所へ足を運んだ。
日本のどこにでもある風情の商店街の中にある研究所は、あまりにも研究所然らしからぬたたずまいだった。1階フロアががら空きの雑居ビル、その2階にあるというのも奇妙な話だ。
シュラインが訪れたとき、物見は電話中(ダイヤル式の黒電話だ!)だった。物見はシュラインの顔をみとめて、話を切り上げていた。
「ああ、失礼。本当に来てくれたな」
「お仕事中……だったかしら?」
「いや、そういうわけでもない。かけてくれ、汚いところですまないが。――アッサムとアールグレイ、どちらがお好みかな」
「おまかせします」
「そうか」
物見は席を立って奥に引っ込み――すぐに、顔だけシュラインに見せた。
「ところで、『開かずの間』に興味はないかね?」
紅茶とミルククッキーをたしなんでいる間に、話はとんとんと先へ進んだ。そしてシュラインはいま、物見とともにマンション・ジャングルの中に立っている。都内のあるベッドタウンの一画だった。
物見が語った『開かずの間』の話は、シュラインの興味を引く内容のものであったし、さほど危険性もなさそうだったのだ。日々怪奇事件に触れ、その結末を見つめ――或いは、引き寄せ――つづけてきたシュラインだ。奇妙な事件たちは、もはや自分の一部であり、自分の幸福を構成するものの異形なる片鱗なのだと、彼女は半ば悟っている。
「問題の部屋は、10号棟の821号室だ」
「はあ、迷子になりそう。森みたい。何もこんなに建てなくたっていいのに」
「だが、東京らしい」
びっしりと窓に覆われた灰色の木を見上げて、ふたりは小さく溜息をついた。
目的地はわりあいすぐに見つかった。秩序のもとに、マンションは立ち並んでいたからだ。
話によれば、10号棟821号室は、数ヶ月前に空室になっているらしい。しかし、次の入居者は長く居つかなかった。2LDKの間取りの中で、どうしてもドアが開かない一室があるのだ。そしてその奥からは、声が聞こえるのだという――
ちいさな少女の声がするのだという。
死人や怪我人は出ていないようだ。
「そんな物件、住むわけないわね」
「家賃は破格の安さになっている。1ヶ月4万4千円だ」
「……高いです」
物見はすでに鍵を手配していたが、どう入手したのか、シュラインは尋ねなかった。
部屋の中は、やけに乾いていて、生活感はかけらも残っていなかった。家具の類は何ひとつなく、がらんとしている――空き物件なのだから当たり前の話ではあるが、曰くつきの部屋としてはめずらしい。
どんよりと湿り、耳が痛くなるように静寂を思い描いていたシュラインは、拍子抜けした。
「開かずの間は――」
「ドアを開けてみればわかるだろうな」
シュラインの直感は、事件に触れるごとに磨かれてきていたらしい。彼女がはじめに手をかけたドアノブが、そうだった。ノブはぴくりとも動かず、また、ぴりぴりとした奇妙な静電気のようなものをまとっていた。ドアの向こうに気配はなく、聴覚にすぐれるシュラインがいくら聞き耳を立てても、室内で物音は上がることはなかった。彼女がとらえた音といえば、マンションの向こう側の車道を行くセダンのエンジン、自分の呼吸、物見の呼吸が立てるものばかりだ。
ドアには、鍵がついていない。しかし、開かないのだ。建てつけが悪いわけでもなさそうだった。
「何か引っかかってるとか……?」
「ん」
「何かみつけました?」
「穴が開いている」
誰がキリで開けたものなのか――ドアの下部に、小さな覗き穴が開いていた。
シュラインより先に、物見がその穴から部屋の中をうかがった。
うかがって、彼にしてはめずらしく、驚いた顔でドアから飛びすさった。彼は無言だったが、その素早さに驚き、シュラインが思わず短く驚きの声を上げた。
「何ですか?!」
「いま、私の目の色は何色だった?」
「はい?!」
「黒だったか、白だったか、答えてくれ」
謎のようなその質問に、シュラインは戸惑いながらも正直に答えた。
「――黒でしたよ」
「ならば、安全だ。……見てみるといい」
相変わらず、物見の言葉は謎だ。しかしシュラインはその謎を信じて、ドアの穴から、中を覗きこんだ――。
(ぜったいあけないもん)
「!!」
それから、シュラインは奔走した。いつも通りの、慣れた足取りと視線でもって、彼女は東京に散らばった情報をかき集めていく。物見は、それを手伝った。噂話や、果ては都市伝説、警察やマスコミから入手した『事実』が、ふたりの目の前に集い、より抜かれて、つなぎとめられていく。
次第にシュラインのこころのなかに、やり切れなさと怒りが湧き起こってきた。彼女はそれを、今は表には出さない。泣くのも怒るのも、何もかもが終わったあと、こっそりひとりで済ませたらいいだけの話だ。
10号棟821号室で、昨年の暑い暑い夏に、少女が一人死んでいた。
あまり気は進まなかったが、シュラインは物見の研究所の黒電話を使った。ダイヤルを回し、おそらくこの1回が最初で最後の会話になるであろうと覚悟をきめて、受話器を耳にあてる。
『……はい、宮崎です』
気だるそうな若い女の声が、シュラインの耳に飛びこんだ。
「あの、わたくし、『月刊アトラス』編集部の者ですけれども――」
よく知る編集部の名前を借りたとき、シュラインは物見と目配せをした。ちょっとした後ろめたさと、可笑しさがあった。その複雑な心境にこたえたのは、女のすさまじい怒声だ。
『何よ! また取材?! どうせあのマンションのことでしょ、もうほっといてよ! あたしがあの子を殺した、とか書いてみなさいよ! 訴えてやるからね!』
がちん、と荒々しく通話は切られた。そのときにはすでにシュラインは受話器を耳から離して、眉をひそめていた。
「……こういう親、どんどん増えるのかしら」
「児童相談所のほうは、何と言っていたかな」
「記録はなかったみたいですね。病院通いもないし、幼稚園には毎日ちゃんと――」
821号室の夏、7月20日に、少女はあの部屋で死んだのだ。
「夏休み……幼稚園だから……ずっと家に居たんだわ……」
あのドアの覗き穴は、少女の目線の高さにあった。
外側から覗きこんだシュラインが見たのは、少女の、濡れたこげ茶の瞳、そのものだ。
彼女は鍵もかからない部屋の中で、何故か、ドアに穴を開けてまで外の様子を知ろうとしていた。
(ぜったいあけないもん)
その声は、シュラインの記憶に焼きついている。
机の上に散らばった資料をかき回して、シュラインは情報をつないだ。
「去年は、ひどい暑さだったな」
物見がふと、呟いた。
夏休み、とは言っても、休むのは子供たちと学校、幼稚園だけだ。少女の父親は仕事に行っていて、――母親は、朝から晩までパチンコに行っていた。
部屋の中で虫の息になっている少女を発見したのは、たまたまその日は早めに仕事を切り上げた父親だった。
シュラインと物見は、いま一度、ジャングルを訪れ――10号棟821号室に向かった。問題のドアは、やはり、開かなかった。少女を亡くした夫婦は秋にこの部屋を去っていったが、その頃からドアは開かなくなり、リフォームも出来ないままになっていたようだ。
ドアの向こうの世界は、7月20日でとまっている。日々という概念も失い、そこに縛りつけられているのだ。
黄昏どきだった。
少女が息を引き取り、そこで時をとめてしまった。
「ね、茜ちゃん」
シュラインはドアに近づき、そっと囁いた。
「どうして開けてくれないの?」
答えはない。
「……どうして、部屋から出なかったの?」
無言だ。
「……ママに、『開けちゃだめ』って言われたのね」
静かだった。当然だ。ドアの向こうには、誰もいないし、時間もとまっているのだから。
「ママが言ったのね。帰ってくるまで、誰が来ても、ドアを開けちゃだめって。危ないから、そこにいなさいって、言ったのね……」
シュラインは言いながら、目を伏せた。
「窓も開けないで、あんな暑い日に、朝から夜まで、ずっと……。暑かったでしょ。……ママを連れてきたわ」
「『茜、ただいま。ママ、帰ってきたよ』」
確かにシュラインの喉から発せられた声であったのに、その声はシュラインのものではなく、他の女性のものだった。物見が一瞬驚いた顔をしたのだが、シュラインはそれを見ていない。物見がいらぬ詮索をしない男であることに、シュラインは感謝した。
ドアは、当たり前のように開いた。
いまは春先だというのに、一瞬、むっとした熱気が室内から飛び出してきた。それは、去年の夏の、あのべらぼうな暑さを思い起こさせる幻影だった――
(ママ! おかえりなさーい! あかね、いいこだったよ!)
(ぜったいぜったい、ドアあけなかったんだよぅ!)
821号室の夏の部屋に何が詰まっていたか、シュラインは忘れない。あとで、こっそり泣こうと思っていた。帰りの電車内で、ふたりは、長いこと無言だった。
話を切り出したのは、物見だ。
「……興信所に冷房は入っているかね」
「……壊れかけてます」
「新調したほうがいい」
「物見さんの研究所もですよ」
「今年はそんなに暑くないさ」
「……死んじゃいますよ」
「私は大丈夫だ」
「……」
「本当に大丈夫だ。心配ない。――氷屋で氷を買うのだよ。それを扇風機の前に置く。これがかなり効くぞ、試してみるといい」
「……そうですね、昭和のひとたちはそうやって乗り切ってきたんだから」
「シュライン君」
「はい?」
「見事だったよ」
物見が、手を差し出してきた。
それを握り返したとき、シュラインは熱いものが目の奥からこみ上げてくることに、閉口したのだった。
けれど、確かな幸福を感じた。
<了>
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非科学事件調査協力者
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
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物見鷲悟より
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やあ、シュライン君。調査に事件解決、本当にご苦労だった。私からは何の礼も出せずにすまないが、あの物件を所有している不動産屋がひどく感謝していたよ。解決したのはきみだと言っておいたから、何か礼が行くだろう。エアコンかもしれないぞ。
……部屋は、もうすでにリフォーム済みだそうだ。仕事が早い。
今年は花粉がひどいようだが、きみは大丈夫かね? ああ、私は――大丈夫だ。
今度、興信所の方にお邪魔するとしよう。なに、興味があるのさ。
それでは、また会えると嬉しいよ。
無茶はしないようにな。
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