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来訪者
「ただいま」
初夏を迎えた午後の日差しは色を朱に変えながら、フローリングの床を斜めに照らしだしていた。
返事はない。
けれど口に出してしまうのはどうしてだろう。
「……」
朝、家を出たときと何も変らない部屋の中の様子を一瞥し、風見・璃音(かざみ・りおん)は小さく息をつく。
そしてようやくリラックスを手に入れた気分になった。
都会の喧騒、慌しい日常からようやく開放され、自分だけの城に戻ってきた。やっと本当の自分になれた、そんな気さえする。
靴を脱ぎ、部屋に入る。バッグを下ろして、カーディガンを脱ごう。着替えたら、テレビをつける。ニュースはもう始まっているだろうか? そんな段取りを無意識で思っている。
けれど。
彼女のその平凡な日常の計画は、次の瞬間、消し去られたのだった。
「あー」
「!」
それは実に気の抜けた声だった。
「あーあー」
「!?」
また聞こえた。
まるで……カラスか、発情期の猫か、……赤ちゃんみたいな。
璃音は聞きなれないその声(音?)の方向に顔を向けた。向かおうと思っていた部屋の右隣の部屋。
窓を開けっぱなしにしていて、隣の家か、通りの声でも入ってきてるんじゃないか。そんなイメージが頭に浮かぶ。
大急ぎで部屋に向かった。
そして彼女はもっと……もっと、驚くのだった。
「だー♪」
西日で照らし出された部屋、とても可愛らしい赤ちゃんがそこにはちんまり腰掛けていた。
○●○
「……これは……どういうこと?」
柔らかなカーペットの上で楽しそうにその赤子は、鏡台にあった璃音の化粧品をおもちゃにして遊んでいた。
窓。
無意識に見上げる。
閉まっている。
「おかぁ〜、なぁ〜」
天使のような人なつこい笑みが赤子からもたらされた。
「ど、どこから入ったの……?」
茫然としたまま璃音は問い返す。部屋の四隅をくまなく眺める。異常は見られない……。
それじゃ玄関から?
玄関を開けて、何もとらずに荒らさずに赤子だけ置いて行くものがいたかもしれない……。いや、おかしい、それって絶対。
「あっち〜ぃ」
きゃっきゃっと笑いながら、赤子は璃音を見上げた。
あっち?
赤子の手は天井の一角を指差している。
到底……答えとは思えない……答えだった。
○●○
「……そ、そう……きらちゃんって言うの?」
「うん! や〜なし きらぁ〜」
不安も悩みもこの子には無いのだろうか。少なくても迷子だよなぁ。
動揺しながらも璃音は、その無邪気な子供をため息を飲み込みつつ見下ろす。
やーなし……やまなし、月見里?
知り合いの顔が一つ浮かぶ。そんな珍しい苗字はそうそう無いだろう。
関係者なのだろうか。
「きらね〜」
「うん?」
知り合いのことを思い、一瞬、気が逸れた瞬間に赤子はにっこり笑って璃音を見上げた。
「みりゃいからきたのぉ」
「みりゃい?」
未来?
言った途端に、きゃあきゃあと、アイカーラーで遊び始める。
「あいた!」
「ああ、もうっ」
遊び始めた直後に指を挟む子供。璃音は慌ててその指からアイカーラーを外そうとする。
が。
「やーーーー!!」
わーーーーーん!!
泣き出した。
「って危ないでしょ。 ほら離して?」
「いやーーーーーーーーーーーー!!!」
さっきまで微笑んでいた大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼして抗議するきら。
「も、もう……っ」
そのつんざくような声に璃音はため息をとうとうついて、アイカーラーから手を離した。ぴたと泣きやみ、まただあだあと遊び始める赤子。
しかし。
「たぁっ! ……ひっ……うっ……あうっ……」
また指を挟んで、恨めしそうにアイカーラーを眺めるきら。指にしっかりと食い込んだそれをまじまじと眺め、そして再び……
「わーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!」
「あのねぇ!」
目の前がくらくらする璃音であった。
○●○
「……はぁ……」
それから数時間後。
台所でぐったりとしている璃音の姿があった。
赤子の名前ははっきりと分かった。着ていたベビー服に名前が書いてあったのだ。
月見里・煌。
やっぱり知り合いと同じ苗字だ。
電話をかけて聞いてみようと思ったら留守だった。
普通なら警察に届けたりするべきなのかもしれないが、知り合いと関係がありそうならそういう訳にもいくまい。何しろ彼女も自分も普通の存在ではない。
「……もう」
さっきの部屋で化粧品の瓶や道具類に囲まれながら、遊び疲れ、泣き疲れてうつぶせに眠ってしまった煌の姿を眺め、璃音は再び吐息をついた。
何が困るって、煌はなんでもすぐ口に運ぼうとするのだ。
アイカーラーぐらいなら構わない……とはいわないがまだよいとしよう。
化粧水や乳液のボトルはさすがにまずい。
それで取り上げようとすると、全身をくまなく使っての「いやーー!」という自己主張だ。
わんわん泣くし、赤子とはいっても強い力で、ちっちゃな手をぶんぶん振り回す。
……疲れた。
寝てくれてありがとう……。
璃音は心からそう思う。
そして漸く、心底疲れて、自分がおなかをすかせていることに気がついた。帰宅してからもう3時間ほどたっていた。
(何作ろうかな……)
冷蔵庫に残っている材料を一つずつ思い浮かべ、レシピを考える。
……そういえば。
あまり考えたくなかったけれど、彼女はやっぱりその考えに思い至ってしまった。
あの赤ちゃんにもご飯作らなきゃいけない……?まさかね……?
30分後、近所のコンビニで赤ちゃん用のミルクを購入し、璃音はため息をつきながら部屋に戻ってきた。
他に赤ん坊が何を食べるかなんてよくわからない。
見た目でみたって、この子が生まれて何ヶ月かすらわかるわけがないから、離乳食だとしたってこっちの知ったことじゃない。
煌はまだすやすやとカーペットの上で寝ていた。
寝ていると天使に見える……。
「……もう……」
なんで私がこんな目に?
璃音は記憶を反芻する。
どうして煌を世話しなきゃいけなくなったんだっけ……。それすらも思い出せなくなったほど、彼女は多分、疲れていた。
○●○
翌日。
ひよこな雑誌を手に近所の本屋から帰宅した璃音がいた。オムツは昨日買ったのは多分サイズ違いだった。ひとまわり小さいのを購入した。
びえええええええん!!!!
部屋に入る前に泣き声が轟いている。
「も、もうっ!!」
部屋に飛び込み、床で転がって泣いてるのを慌てて抱き上げ、あやしはじめる。
「どうしたの!?」
おなかすいた? おむつが濡れた? それとも、他に??
「まんまぁ〜!!!」
ばたばたと腕の中で暴れながら、煌はそう言った。
まんま? ご飯?
違う……。
「ママ?」
ひっく……えぅ……ひぅ……あう……
腕の中で煌は少しだけ落ち着き始めた。昨日は抱き上げただけでも嫌がって泣いたので、今日は少しなれてくれたみたい。ほっとして小さく微笑む璃音。
だが。
煌の手がごそごそと璃音の胸のあたりを両手で触り始めた。
!!
セクハラ!?
……な訳がない。
おっぱいを欲しがっているのだ。顔を真っ赤にしながら璃音は気づいて、煌を床に戻してミルクを作りにキッチンに向かおうとした。
が、その途端。
わあああああああああん!!
……この分かりやすい生き物はなんなんだ……。
頭を抱える璃音である。
「……あなた、少し臭ってきたわね」
ようやくミルクを与えて、哺乳瓶をひとりでんぐんぐと飲んでいるその姿を見ながら、璃音はつぶやいた。
ミルクのにおいなのか、おむつのにおいなのか、ベビーパウダーやら色々と混ざった香しさだ。鼻が曲がるというよりも、放っておいたら不衛生だと思う。
「えーと……」
お風呂に入れてあげなければ……。
「お風呂、わかる?」
「おふろ〜!」
わかるみたい。
服を脱ぐ仕草をする。
「ああ、まだお湯も貯めてないから!」
璃音は浴室に向かう。お湯の温度とかも決まってたりするのだろうか。
少しぬるめにお湯の温度を設定し、バスタブに湯を貯め始める。
……母って大変なのだなぁ……。
しみじみとそう思った。
(……あの人に会えたら、そして結ばれたら……)
溜まっていくお湯を見つめながら、ふとそんなことが思い浮かぶ。探している人。……この都会の雑踏のどこか……あるいははるか遠くにいるはずの……愛しい人。
これが子育てというもの……。いつか璃音も自分の子供を育むことがあるのだろうか……。
「……まんま〜……?」
気づくと浴室の入り口に煌が来ていた。
「あなたのママじゃないわ」
苦笑して璃音は煌を抱き上げる。寂しかったのか、煌は璃音にぎゅっと抱きついてきた。……可愛い。
「お風呂入ろうか、ね?」
「うん!」
煌に向けた微笑みがとてもとても優しいものになっていたことを……璃音はまだ気づいていなかった。
○●○
チチチ……。
部屋にさす夏の日差し。
煌と過ごす2回の朝がきていた。
「ん……ぅ」
慣れないことをしているからだろうか、体がずっしりと重い。なかなか起きられない。
そして、その覚めない意識の中で、彼女は夢を見ていた。
夢の中で、彼女の手の届きそうで、届かない距離を保ちながら、闇の中に佇み、璃音を見つめているもの……。
(……璃音)
呼ばれた。
それは美しい一頭の黒い狼。威厳を備え、鋭い瞳を持ち、神々しい程存在感のある。
「……ああ」
手を伸ばす。けして届かない。求めればそれは逃げていく。知っている。よく見る夢だから……。
切ない。
瞼に熱いものを感じる。
私はいつになれば貴方に巡りあえるの? そして貴方は今、何をしているの?
「あう〜あさよー」
ぺち。
「……ん?」
頬に少し暖かいものが触れた。
瞼を開くと、煌が笑っている。きらきらと、名前の通りに輝くばかりに。
「もう……」
璃音は身を起こし、煌を抱きしめた。煌は小さく歓声をあげて抱き返してくる。
そのおなかから小さくぎゅーと音が聞こえて、璃音は思わず小さく笑った。
「おなかすいたのね?」
「ごはんーすゆ?」
「しましょうか」
笑いながら、璃音は立ち上がる。
そうだ。玉子が切れていた。立ち上がりながらそんなことを気がついた。
煌はミルク以外に柔らかいものだったらご飯でも食べられるらしいので、玉子かゆでも作ろうかと思っていたのだ。
「煌、少しお留守番いいかしら? コンビニに行ってくるから」
「おるすばん〜」
少し寂しそうな表情にも見えた。
けれど煌はわかってくれたようだった。
この子は……多分、普通の赤ん坊より物分りがいい。この短い間の付き合いで璃音は気づいていた。
「すぐ戻ってくるから……ね?」
「うん!」
頷く煌の額を璃音は優しく撫でる。
そして、ほんの数分でたどり着ける目と鼻の先のコンビニに彼女は出かけた。
……それが別れになるなんて、思うはずもなく
○●○
「ただいま」
部屋に戻る。
……返事が無かった。
ベッドのある部屋。
さっきまで煌がいたその場所に、煌はいなかった。
現れた時と同じく唐突に、赤ん坊はどこかへと消えてしまっていたのだ。
「……煌……?」
部屋の隅々まで探した。
けれどいなかった。
現れた時がそうだったのだから、去る時がこうであっても不思議ではない。
だけど。
「……煌……」
もう会えない?
……また会える?
誰もいない部屋で、残された哺乳瓶が床に転がっていた。
耳に残る、甘える可愛らしい声を思い出し、璃音は……床に座り込む。
また苦い孤独が胸に広がっていく。
指先を胸にあて、痛みに耐えるようにしながら、璃音は小さく呟いた。
……またどこかで会えるよね、煌ちゃん?
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