コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


何も掴めぬ抜け殻の手に

 …どれだけ呑んだかなどもう忘れた。
 カウンターでグラスを置いたのは何度目か。もうやめときなと声がする。幻聴か本当か区別が付かない。どちらでも構わない。どちらにしろそんな言葉は聞くつもりはない。次を無言で促す。グラスの中身。うんざりしたような表情がカウンターの向こうに。これも幻覚か本当かわからない。…本当だったとしてもそれでも、客は客と言う事か――グラスに液体を注ぎ込んではいる。

 そんなやりとりがどのくらい続いたか。

 …言わんこっちゃない。そんな声が頭に直接響く。ずっと聞こえる幻聴か本当かわからない声。カウンターの向こうの親父の声なのだろう。安酒で鈍った頭には声のひとつひとつがまるで重い鈍器。平行感覚など疾うに失っている。視界が揺らぐ。それでも青年――英国人らしいその男は、ばん、と紙幣を数枚カウンターに叩き付けた。何枚出す必要があったかもこの場で通用する紙幣だったかも頭では理解していない。が、親父は出された分を黙って受け取った。となると恐らく足りなくはない。多かったかは…謎だ。そして、この場で通用する紙幣では、あったのだろう。
 何にしろそろそろ切りを付けようと思ったらしい。英国人らしい男は勘定を済ませるとそのまま席を立とうとする――が、そこで、喉をせり上がる堪えようのない嘔吐感。
 席を立つより、胃の中身をぶちまけるのが先だった。

 すぐ側で、低い声。
 褐色の肌の青年――地元の者らしい男が、嘔吐した英国人らしいその男を罵倒する。…うるさい。ひとしきり喘鳴した後、英国人らしい男は俯いたまま、自分を罵倒した相手を億劫そうに目だけで見上げる。嫌そうな顔が見下ろしている。…ああ、悪い。そのままで適当に声を返す。軽く謝る言葉ではあるが本気で謝意は無い。むしろ言っただけ、何の感情もこもっていない乾いた声。まともに相手などしていられるか。出来るようなら初めからこんな呑み方をしてはいない――。
 茫洋と思ったところで、視界に火花。一瞬の暗転。何事か。罵倒した地元の男、そいつの拳が英国人らしいその男の頬を直撃していた。何の事はない、殴られただけの話だ。この男、喧嘩を吹っ掛けたかっただけか。
 殴られた事から直接起こる鈍いもの以外にも何処か、ちくりと痛みを感じた気がした。無意識で口端を拭う。手の甲。見る。僅か、赤い色。血。
 そこまで頭の中で判断出来た時、英国人らしいその男の思考が、ふ、と消えた。
 唐突に、すくりと立ち上がる。
 ゆらりと上げられた顔。酒で混濁した目には険呑な光が宿っている。鷹揚に顎で促した。ドアの方角――外へ。それだけを残し英国人らしい男は促したその方向へと先に行く。吹っ掛けられた喧嘩を受ける態度。そう見たか地元の者らしい男もここは大人しく後に続いた。
 外に出て。
 あまりにもすぐ立ち止まっていた事も気に食わなかったか、地元の者らしい男は英国人らしい男の背をどんと突き飛ばす。よろめき、座り込むような形になる英国人らしい男。が、その体勢は――突き飛ばされ体勢が崩れたからだけでは無く、半ば自分からそうしたような風があって。
 乾いた砂塵舞う地面に直接触れ、確かめるような仕種。

 …歴史的に見れば――この大地も夥しい血を吸っている。条件は悪くない。

 何を思ったか英国人らしいその男は、装飾品かと思えるような――こんな場でいきなり実用するとは思い難い、この手の荒事には向かないだろう短剣を無造作に取り出した。外から他人から見る限り、造りが華奢である上――その剣身に刃入れすらしてあるかも怪しいような代物。けれど、その短剣を取り扱う手は、奇妙な程に慣れていて。同時に、慣れているとは言っても武器として振るうのとは、何処か――違っていて。
 …地元の者らしい男の方は、訝しげな顔をする。



 ――…英国人らしい男が魔法陣を描き終え邪霊を喚んだその脇。酒のせいかまともに立ち上がれもしないままよろめき、再び片膝を突いたそこ。ふと移動する視線。自分と同じ高さに見えた褐色の肌。跪いている。喧嘩を吹っ掛けてきた地元の者らしい酔っ払い。喧嘩の相手であった自分を見ていない。魂が抜けたような虚ろな目。誰が居る訳でもないあらぬ方向を見て許しを乞うている。がちがちと鳴る白い歯。震える姿。跪く足を伝い、足許に広がる、淡い色の染み。

 …我に返る。
 自分は今、何をした。
 持ち上げた手には、よく馴染んだ儀式用の短剣――アサメイ。
 指の合間を透かしたその向こうを見れば、見慣れた魔法陣。
 …自分が、描いたもの。
 そして――余程の恐怖にかられたのかどう見ても常の状態では無くなっている、地元の者と思しき、男。

 その姿は。
 ただ、憐れしか催さず。

 …怒りなどは疾うに消えていた。
 否、元々――何に怒っていたのか。
 それすら、わからない自分。
 怒る必要など何もない。
 それに。
 殴られて当然だろうに。
 愚かなのは自分。
 …頭がぐらぐらする。
 最悪の気分。

 酒の席での事。何も本気で取り合う事もない話。
 殴られたのならただ、殴り返せばいい。
 場末の酒場なら何処にでもある、ごくごく有り触れた単純な事。
 ただそれだけの筈が――また。
 こんな事を、してしまったのか。

 気が付けば罪を犯す汚れた手。
 身に付けた魔術、こんな事の為に使うつもりでは、無かった筈なのに。

 何の為の魔術。
 それは、知的探求心から始まった事。
 感銘を受けた魔人の元へと走った時は…希望に満ちていたか。
 久し振りの帰宅。
 …絶望を感じたのは何度。
 家で。
 牢で。
 …寛大な魔女たちの中に見付けた新しい希望。
 己が身に付けた魔術、たったひとりの女神を『守る為』に使おうと考える、程。
 けれど。
 …その希望もまた、絶望に塗り替えられる。
 まともな道など、もう歩めない。
 歩む気力が、最早、無い。

 どれ程新たに知識を詰めても、意味など、何処に?
 その手に掴めるものは。
 何も、ない。

 自分の中にある魔術。
 それは――最早『人を害する為の手段』でしかなく。
 己の身が思考が、自動的に勝手にそう動く。
 無意識にでも、意識的にでも。
 …それが、自分。
 殺すまでは行かずとも。
 同じ。
 何も変わりは、しない。
 …それが、自分。
 シェラン・ギリアムと言う男の、正体。



 …宿の部屋に戻る。
 もう、ここにも居たくない。
 否、そこまで考えていられたか。そこからしてもう信用できない自分。安酒のせいだけじゃない。疾うに思考は壊れている。まるで抜け殻だ。…これは本当に人間か?
 部屋の中、纏める程の荷物も大して、無い。
 散らかしていた文献や最低限の日用品。手当たり次第、殆ど意識も向けないままに適当に鞄に詰め込み、その足で部屋のドアへとすぐさま踵を返す。
 そして、また。

 これから何処へ向かおうと言うのか――その男の姿は、部屋から、消えている。

【了】