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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


上野に桜を見に行こう

●草間興信所は、やっぱり今日も受難?

「上野に桜を見に行きたいの!」
 その依頼人は唐突に訪れた。しかも草間興信所の扉を開けての第一声がソレだ。
「……は?」
 様々な怪奇事件――勿論それだけではないが――に挑んできた所員の方々が、一斉に振り向きそして固まる。
「だから、上野公園に桜を見に行きたいのよ」
「――っていうか、アンタ誰だ」
 流石は所長の貫禄か、一番最初に呪縛から解放された武彦が、依頼人(?)らしき女性に問い掛けた。
「あら、私ったら名乗ってもいなかったわね。私は火月(かつき)、というわけで、行くわよ上野に!」
「だから何で!!」
「だって上野の桜が見たいんだもの。一人で見に行ってもつまらないし」
「そーゆーのは友達とか恋人とかと行けばいいだろうがっ! つーか、なんでそんな理由でここに来る!?」
「だってここの人なら巻き込んでいいって言ってたもの」
「誰がそんなことをっ!!」
「ひ・み・つv」
 怒涛のやり取りが、火月と名乗った女性と武彦の間で繰り広げられる。暫くはその様子を遠巻きに眺めていた所員達だったが、やがて思い出したように自分の作業へと戻っていく。
 意表をついた呼び込み(?)に最初は驚きもしたものの、どうやらいつもと同じようなパターンらしい。面倒は所長様々に押し付けるに限る。
「とにかく草間さんって人は引き摺りまわして平気って聞いたから、よろしくね。あとはー…そうね二人くらいは欲しいわよね」
「なんで俺だったら平気なんだっ!」
「あら、貴方が草間さんだったの? あらあら、あらまー。じゃ場所取りはお願いね。酒代くらいは出すから」
「森伊蔵、当然本物」
「場所次第ね」
「よし、誰か俺と花見に行かないか!」
 幻と言われる焼酎に釣られた所長、当然所員はことごとく背を向けた。何が楽しくて「あの」上野公園へ場所取りに出向かねばならないのか――桜には心惹かれるけれど。
「さー、行くぞ。とっとと行くぞ。さくっと行くぞ」
「やっぱり桜には色々思い出があるものよね〜。そういうお話聞きながら一杯ってのも素敵よねぇ」


 草間興信所は、今やかなりな大所帯である。
 その殆どが非常勤――というか、ただの通りすがりのようなケースも往々にしてあることだが――とはいえ、一日の間にこの場所に訪れる人間の数は、それはもう常軌を逸していると言っても過言ではない。
 その「分刻み」なスケジュールを武彦が見事に裁ききっているのは、少なからず彼女――シュライン・エマの活躍が影響している事はまず間違いない。
「え? 今からお花見なの? そうね、突然だから……」
 言いながら、彼女はさっそく興信所内の冷蔵庫の中身を漁り始めていた。皆が思い思いに使っているものだが、ちゃんとした「個人所有」の証である名前を記入されていなければ、それは無条件に公共のものと判別される――それが、多人数で一つの物を使用するときの原則であり鉄則。
「シュラインさん、おつまみとかどうしましょ。せっかくのお花見におつまみないのは物足りなくないですか?」
「そうねぇ……ご飯類とお漬物……それから冷凍物ならなんとかなりそうだけど。乾き物は……」
 冷蔵庫と冷凍庫、ついでにチルドルームまでくまなく確認したシュラインは、横から声をかけてきた三雲・冴波に頷きを返す。
 大所帯=飲む人間の増加。
 それだけ酒の肴は必需品ということだが、わざわざ買い置きをする人間は多くない。なぜなら、それをすれば確実に――例え所有権を宣言していたとしても。酔っ払いには物の道理は通じないのが世の常だ――他人の胃袋に納まってしまうのが明白だからだ。
「私、買い出しに行って来ましょうか? 他に必要なものって言ったら……」
「ビニールシートとブランケットは所内のを持っていけばいいでしょうから……そうね、ゴミ袋とかも一緒にお願いできるかしら? それと紙皿に紙コップ……」
「後日こっちでも使える日用品の補給って感じね、分かったわ。お酒は――適当でいいかしら?」
「そうね。でも場所次第でお酒は火月さんが準備してくれるみたいだから、ほどほどでいいと思うわ。余ったら武彦さんたちが勝手に飲んじゃうでしょうし」
「適量マイナス30%って感じね、了解」
 買い出し任務を買って出た冴波に、シュラインが周囲を物色しながら足りない物の確認をする。
 黒髪と茶髪の、ともに凛々しい雰囲気の女性が二人、てきぱきと動き回る姿はいっそ爽快だ。勿論、こういう場合、男性が口を挟む余地は皆無である。
「いいじゃないか、余ったって――って、聞いてないよな」
「聞いてないでしょうねぇ。本当、噂に違わずしっかりした女性の多い場所だわ、ここ」
 興信所の端っこ――もとい、応接スペース。
 釣られた酒のランクか、それとも単に邪魔なだけか。他の人間やら荷物やら何やらでごった返す室内を、忙しなく動く彼女達をのんびりと眺めるのは武彦と火月。
「だから、そういうの誰から聞いてきたんだ?」
「さぁ? 誰でしょう♪」
 なお、この段階で火月は気付いていなかった。
 酒宴を『依頼』した者として、冴波が購入してきたものの代金がしっかり請求に回ってくる事を。
「だって、これも『依頼』で『お仕事』ですものね♪」
「こうやって日常にかかる経費を削減していくのね――なるほど」


●上野は今日も人が多かった

「ごめんなさいね、急に巻き込んで」
「いえ、これも何かの縁と言いますし――あ、名乗り忘れました。私、TK開発の木更津と申します。ご用命はお気軽に」
 上野に向う電車に揺られながら、駅までの道中にて『場所捕獲要員』として火月に拉致された営業帰りのサラリーマン二人組の顔色を三雲・冴波(みくも・さえは)覗き込む。
 それに即座に「いえいえ」とにこやかな笑顔を返したのは、どうやら上司らしい木更津・創(きさらづ・そう)。その軽やかな微笑のまま同行の武彦やシュライン・エマ、そして火月に配られた名刺には、専務の肩書きが記載されていた。
「……サボる口実を見つけただけじゃないですか」
 あら、若いのに凄いわねと女性陣が活気付く中、一人冷たい視線を投げているのは創の部下らしい須能勢・忍(すのせ・しのぶ)。手にした携帯で、何やらメールを打っている。どうやら会社へ「本日直帰」の報告を行っているようだ。
「し――須能勢君、君は女性からのお願い事を無下にするとでも? 小さなお願いがどんな大きな仕事に繋がるか分からない、世の中チャンスを見極めないと。それに電車の中での携帯の使用はお控え下さいってアナウンスがあっただろ」
「混んでる時間帯には使いませんよ」
 平日の午後、しかも帰宅時間にはまだ早い時間だからだろうか。車内は思いの外ガランとしている。
「だからって言って、武彦さん。一人で二人分の座席を占領するのは反則だと思うのよね」
「いいだろ、空いてるもんは有効利用だ」
「他のお客さんの邪魔になるわ」
 別箇所で上がる非難の響きを帯びた声、主は吊り輪に掴まりつつ頬杖ポーズのシュライン。
 彼女の視線の先、そこには二人掛けのベンチシートを我が物顔で独占している武彦の姿。正確には、彼の持ってきた荷物が、もう一人分の場所を埋め尽くしているのだが。
「だから量を考えてって言ったのに」
「ちゃんと考えたさ。だから持てる分しか持って来てないぞ」
 武彦が抱えているのは魔法瓶――ではなく、湯沸しポットと小型のポータブル発電機。ついでに市販のミネラルウォーターがペットボトルで数本。
 大の男でも決して軽々と持つことの出来る重量ではない。
「幾らお湯の準備が必要だからって……それはちょっとやりすぎなんじゃない?」
 零れる溜息は当然。シュラインは必要分を魔法瓶に準備してね、と武彦に告げたつもりだったのだが――気がついたときにはこの装備が完了していたのだ。
「男の人って、本当に呑むの好きよね。なんでかしら?」
 呆れた様子を隠さぬシュラインの隣で、火月がくすくすと忍び笑いを零す。冴波の頬にも苦い笑いがかすかに浮かぶ。
「一律一緒にされちゃちょっと困るが……まぁ、花見と言えばやっぱり酒だし。男の浪漫だから、温かく見守るってのが女の甲斐性だと思いますよ」
「……男の甲斐性は酒の前では無意味なんですね」
 忍の冷たい視線が創と武彦に突き刺さる。
「おい、あんた部下の指導がなってないんじゃないか?」
「あっははー、須能勢君は真面目だから♪」
 がたりごとりと揺れる電車は、一路上野を目指す。車窓からも咲き乱れる桜の花が所々に見えていた。


「それにしても……本当に凄い人ね」
 呆然と周囲を見渡す冴波に、「でしょー」っと火月が声を上げる。
 上野に到着した一行を待っていたのは、人、人、人、人――ひょっとすると桜の花の数と匹敵するんじゃないか? と思ってしまいたくなるほど密集した人々の姿。
「上野って言ったら桜の名所でしょ。観光スポットでもあるし――無駄に人間集まっちゃうのよね」
 自由に歩くことさえままならない人の波に流されながら、火月はなおも続ける。これが彼女が上野公園を「あの」と称した理由だ。
 ひょっとすると何か怪奇事件が絡んでいるのでは、と疑いを抱いていた冴波も、自分の目の前の現状に、火月の弁に納得せざるをえない。
 いったいここで、今からどうやって場所取りをすればよいと言うのだろう?
 昼間であれば、この場所取りに容赦なく加わってくる鳩の大群が、既にねぐらで羽を休めていることがせめてもの救いかもしれない。
「この時期の場所取りは新入社員の初仕事とも言われるくらいですからね。中には徹夜して場所を確保することもあるらしいですよ」
 仕事柄、人の海を闊歩するのに慣れているのか、忍がすいすいっとかき分け泳ぐ。彼の作った流れに乗り、一行は密集地帯をなんとか進む。
「ところで、どの辺まで行きますか? 多分、今からじゃ場所を確保するのは無理だと思うんですけど」
 取り敢えず人の少なさそうな場所を目指しているらしい忍が振り返る。視界に写るのは、前も後ろも人だらけ。桜の下は少しの隙もなく、シートが敷き詰められていた。
 中にはビニールシートを持って歩く――つまりまだ場所取りしていない――彼らに敵愾心や哀れみ、嘲笑めいた目線を向ける者さえいる。
 たかだか花見と侮る事なかれ、場所取りは既に戦争なのだ。
「ちょっと待ってもらえるかしら、せめてもう少し空いてそうな場所探すから」
 言うと不意に冴波が足を止める。後ろを歩いていたシュラインが、危く激突しかけるが、背後から武彦に腕を引かれて寸でのところで踏み止まった。
 風が吹く、辺りに澱むそれとは違う清んだ流れ。
 まるで意志を持ったようなその動きは、中空を彷徨う桜の花弁を伴って、辺り一帯を駆け抜けた。
 不可思議な桜の舞に、付近の人々から歓声が上がる。
 しかし、それはほんの短い間の出来事。さらりと舞っていた花弁は、やがて一斉に引力に引かれて足元へと消えて行く。
「ここから少し奥に行ったところ、なんとなく余裕がありそうね」
 踏み止まっていた冴波が、忍に向って前方を指差しながら二、三言呟く。それに頷いた忍は、彼女の示した方向へ再び歩き出した。
 もし「視える」か「鋭い感覚」を所持している者ならば、冴波が風の精霊に某かを問いかけ、答えを得ていたことに気付けただろう。
 春の風は桜の色に染まり、ほのかな紅に染まっていた。


「で、貴方は何をやったわけ?」
 シュラインは譲り受けた三畳ほどのスペースにビニールシートを敷きながら、隣のおば様方とにこやかに挨拶を交わしていた創をチラリと見る。
「普通にお願いしただけですよ。少しでいいから場所譲ってくださいって」
 また名刺を配っていたのだろう、背広の内ポケットに名刺入れをしまう創。そのまま持ち込まれた食材を広げる準備に参戦しながら、感情の読めない笑顔を振りまく。
「ねぇ、ホント?」
「……なんで俺に聞くんですか?」
 創に問いかけても不毛だと悟ったのか、シュラインは忍に質問の矛先を変える。
「だって、貴方部下なんでしょ?」
「いや、部下だからって――あー、専務は押しに強いですからね、そういうことじゃないですか?」
 突然振られた話題に、困ったように眉を潜めた忍はなんとかそれだけ返す。無回答では一層詰め寄られるとでも思ったのだろう。
 彼の手には武彦が持ってきた発電機の取り扱い説明書。どうやら武彦も初めて使うものらしく、イマイチ勝手が分からないらしい。
「ま、場所が取れたからいいじゃないか」
「そそ。多少の不思議には目を瞑らなきゃ、怪奇探偵事務所の皆さんは疲労で病院送りになちゃうわよー」
 発電機は忍に任せ、武彦と火月は酒の準備に勤しみ中。
「はい、ちゃんと場所確保できたからお約束の♪」
「おぉ! 本物!! っていうか、いったいどこから!!!」
 どんっとシートの中央に置かれたのは、ネットオークションなどで値段が吊り上げられる事から、入手方法が限定され始めた幻の焼酎『森伊蔵』。しかもどこに隠し持っていたのか三本。
 冴波の言葉に従い辿り着いたのは、どうやらおば様主体の大きな団体が場所を独り占めしている空間。そこの一角をにっこり営業スマイル一つで創が譲り受けたこと自体奇跡なのだが、さらに幻が三本――いったい何年分の幸運を使ったのだろうか、と一瞬武彦の目が遠い所を見つめた。
「ま、いいか。呑めれば! さ、乾杯だ乾杯!」
 お宝は後回しにして、まずはビールと瞬間芸の勢いで武彦が全員分のグラスを用意する。
「ほれほれ、電気も料理広げるのも後だ後。今夜は呑むぞー」
 すっかり盛り上がってしまっている武彦に、シュラインも仕方なさげに肩を竦めた。
 創の事は気になるが、たまには謎は謎のままにしておくのも良いかもしれない。
「じゃ、そうしましょっか」
 忙しなく準備を続ける冴波と忍にもグラスを回し、空を仰ぐ。都会の少し濁った藍色に染まる夜空に浮かび上がる淡く優しい薄紅色。
 ひらっと一枚舞い降りて、火月のグラスに忍び込んだ。
「それじゃ、まずは乾杯♪」


●桜想 〜乙女の記憶〜

「さて、そろそろお話聞かせてもらおうかしら」
 はらはらと桜が舞う。
 風に踊らされ、不規則に宙をくるくると不規則な円を描く様は、見る者の心を様々に揺り動かす。
「おー、そうだな。どうだ、シュライン。せっかくだから一番手ってのは」
 極上の美酒に酔いしれている武彦の呂律は既に微妙。しかし、普段から飄々としている風を装っている彼が、心から寛げる時間は限りなく少ない事を、傍らにいるシュラインはよく知っていた。
「もぅ、武彦さんったら。高いお酒なんだからもっと味わって呑んであげればいいのに」
 非難めいた口調とは裏腹に、彼の周囲に散乱する空のペットボトルを隅に避ける。
 一本、二本……三本。多少の遠慮で希釈率はやや高めで呑んではいるようだ。
 営業活動で呑みなれているらしい創の助力もあってのことだが、それでも些かピッチが早すぎるのは間違いない。
「チビチビ呑むより、がばっと呑む方が美味いに決まってる。遠慮しいしいで酒の味が分かるか、なぁ?」
「だな。堅苦しく呑むのは接待の時で充分。シュラインさんでしたっけ、桜の席で無粋はいけませんよ?」
 武彦の言葉に、創が頷きを返す。
 これだから、男の人って困ったものだわ。
 お決まりのポーズになりつつある頬に片手をあて状態で笑うシュラインに、忍が目線だけで申し訳無さそうに小さく頭を下げた。何れの世も、部下は上司を気遣うもの、ということか。
「ほらほら世話ばっかり焼いてないで。肝心のお話がまだよ?」
 遠慮がちに杯を傾ける冴波に、新しい酒を注ぎながら火月が急かす。どうやら武彦の指名により、一番手はシュラインに確定しているようだ。
「……そうねぇ、桜にまつわる話――あら、困ったわ」
 ぽんっと手を打ち鳴らす。
 美しい薄紅に囲まれ、真っ先に思い浮かんだのは相変わらずの日常の光景。それはこの一帯の喧騒が作用しているのかもしれないけれど。
「親しい人に桜に縁深い人は多いけれど……でも、真っ先に思いつくのはそこの人のことなのよね」
 チラ、と青い瞳が捉えるのは相変わらず豪快に呑み続ける武彦の姿。遠慮がちに潜められた声は、発電機の騒音で掻き消されて問題の男性の耳には届かない。
 どうしようか、暫しの逡巡の後。シュラインは長く深い溜息を零した。
「この季節は……ほら、やっぱり精神的に不安定になる人が多いからその分、色々な依頼が舞い込むのよ。それこそ桜の花弁みたいに」

   ***   ***

 蘇る、過去。
 ちくりと、小さな棘で胸を刺す。
『本当に、これでいいんだな?』
 無言でこくりと首を縦に振る。
 様々な事情で、出席日数がぎりぎりだった中学3年の終わり。晴れやかな顔をして、新たな一歩を踏み出していった学友達の姿はそこにはない。
『まだ、補欠とか手はあるぞ?』
 ただ純粋に教え子のこれからを案じる担任の言葉に、まだあどけなさを残した少女は首を横に振った。
 もう、決めた事――だから。
 淡い紅に視界が染め上げられる中、漆黒の髪が軽やかな薫風にふわりと揺れる。
「最後までお世話になり、本当にありがとうございました」
 深々と垂れる頭。胸にあるのは真っ直ぐな感謝の気持ち。たった一人になった最後の『生徒』を、送り出してくれる温かい心に。
 渡された一枚の証書は、それの意味することを強く実感させた。
 旅立つのだ、今、この瞬間に。子供という殻を、強引なまでに脱ぎ捨てて――誰の責任でもなく、自分自身が選んだ道として。
『卒業、おめでとう』
 握られた手の温かさを、忘れない。

   ***   ***

「ってことは、シュラインさんは中卒なの?」
「えぇ、そうよ」
 意外だわ、と目を丸くする火月にシュラインは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「見えない……なんて言ったら失礼なのかもしれないけど。でもシュラインさんってばっちり勉強してるタイプかと思ってたわ」
「独学、ではね」
 ともすれば誤解を招きそうな言葉を口にした火月に、冴波と忍が息を飲みかけるが、当の本人はさして気にした風もなくグラスに注がれたビールをくいっと飲み干した。
「でもね……やっぱり、複雑だったりするのよ。街中で卒業生や……新入生の姿を見るたびに」
 シュラインの頬に、かすかに苦い色が浮かぶ。ふっと彼女の視界に飛び込んできたのは、少し遠くで騒ぐ学生らしき若者達の姿。
「……せめて、高校だけでも――とは思わなかったの?」
 自身も高校卒業に深い思い入れのある冴波が、シュラインの視線を追いかけながら、静かに自分とシュラインのグラスに新しいビールを注ぐ。
「どうかしら? 何だかんだで勉強は続けられたし、そういう生き方をしてきたからこそ、今の私があるんだって思ってるから悔いはない……かしら?」
 多いに盛り上がる学生達を、武彦の姿に取り替える。様々な選択肢は、間違いなく現在に繋がっているのだ。だからこそ、彼や――たくさんの依頼人に出会えた。
「とにかく、私でもこんな感傷に浸っちゃうことがあるんだもの。とにかくこの時期は不可思議な依頼が多くて大変なのよ。おかげで所長さんの眉間の皺は増えるし、所長さんの居眠りは増えるし――ね、所長さん!」
 『居眠り』を強調した張りのある声が、酒に夢中で彼女達の会話など全く聞こえていなかった武彦の耳にも届く。
 が、どうやら彼はそれを無視することを決めたらしく、相変わらず創との酒宴に興じていた。時折、わざとらしい咳など繰り返しながら。
 無論、創の方もそれに気付いているのだろう。武彦が咽ぶたびにその背を力任せに叩いて笑い声を上げる。まったく、男ってのは辛いねぇなんて嘯きながら。
「ま、凹んだ時は桜茶や道明寺の桜餅を作って元気を出すのよ。この季節の特権でしょ?」
 顔を上げる。そこにはもう過ぎた季節を追想する気配はなかった。辛うじて残るのは、師への感謝の気持ちと――春の食に対する魅惑の心。そして愛すべき所長殿への気遣いの念。
「あ、やっぱり桜餅っていったら道明寺よね。私も長命寺より道明寺派よ――あら?」
「そうそう、もきゅっとね。本当、日本の文化に感謝する一瞬よね――って、どうしたの? 三雲さん」
 酒に盛り上がる創と武彦。甘味に盛り上がるシュラインと火月。そのどちらにも完全に取り残されたのは忍と冴波。
 しかし、冴波の周囲には『取り残された』という雰囲気ではなく、どこか懐かしむような香りが漂っていた。
 優しげに細められた黒い瞳。
 それに写されているのは、今ではない過去。有象無象の人々が溢れ返るここではなく、少し窮屈になった制服に袖を通した少年少女たちの姿。
「もしもーっし、冴波さん?」
「……私、何か変な話をしちゃったかしら?」
 はっと、我に返った瞬間。眼前には同世代の女性の顔が二つ。その両方が、心配と何かを期待する光を瞳に浮かべていた。
「大した話じゃないわよ? シュラインさんのお話に、昔の自分を思い出したの」
 口元に手を運び、ふふふと笑う。心地の良い一陣の風が、辺りに桜吹雪を巻き起こした。

   ***   ***

『先生、一緒に写真撮って貰える――ますか?』
 慌てて言い直した言葉は、その人に対する恩義の気持ちが強いから。誰彼構わず当り散らしていた自分は、おそらくもういない。覚えたのは『敬う』ことと『感謝』の心。
『―――』
 返された言葉は冴波までは届かずに、淡い花弁に攫われた。
 講堂から校門へ続く道の両脇には、開校当時に植樹された桜の木。毎年この時期になると零れんばかりの花をつけて、卒業生達の新たな門出を静かに見守る。
 また、風が吹く。
 並木に踊る風は、くるりと輪を描き花吹雪のアーチを作り出す。青い空の下、この季節でも一度見られるか見られないかの絶景。
 この門を出る瞬間まで『担任』である教師にそろりと背を押され、冴波は通り掛ったクラスメートにカメラを渡した。
 その顔に浮かぶのは、級友たちが驚きに目を丸くするような優しい笑顔。
 世界を満たす穏やかな色のように、冴波の心が今凪いでいるのは、他の誰でもない傍らに立つ教師のおかげ。
 自分だけが異質であることに、それを真っ直ぐに受け入れてもらえないことに苛立ちばかりが募っていたあの頃。
 やるせない怒りのような感情に日々を突き動かされ、冴波は高校時代のある時期を荒んだ気持ちで過ごしていた。
 見るものが全て疎ましく、自分に敵対しているような感覚に襲われ、不必要に尖っては周囲との関係に軋轢を生み育て過ごす無為な時間。
『自分を傷つけてはいけない。誰かを傷つけても、結局それは自分の心を傷付ける事と同じ。だから君はもっと自分を大事にしなくては』
 殆どの教師達が冴波のことを遠巻きに、まさに厄介物を扱うよう接する中、たった一人まっすぐに視線を付き合わせてくれたのがその教師。
 冴波が幾度声を荒げようと、一歩も引かず――かと言って、難しい年頃の少女を無闇に子ども扱いする事もなく。対等な、一人の人間として。
『先生、世の中には必要ない人間がいると思わない?』
 迷いを胸に抱く者なら、一度は辿り付く疑問。
 まだ秋の気配の遠い夏の盛り、グラウンドを見下ろす放課後の教室で問いかけた。視界の端に映る桜並木は、濃い緑。深い影を落すその下は、部活動で汗を流す者達に、格好の憩いの場を与えている。
 けれど、冴波の心には憩う場所などなく。
『必要ないかどうかは、結局自分で決めること。誰かに必要とされたいなら、そういう自分になるよう努力しなきゃいけない。でもその前に、自分自身で自分を必要としないと、誰も何処へも進めない』
 応えの声は、僅かに汗ばんだ冴波の背筋を冷やすほど抑揚がなかった。
 けれどそれだけその言葉に余計な『感情』が織り交ぜられていない事を知らしめる。真実の心だけが紡ぎ出されていると、信じられた。
 素直に聞くことの出来る、不思議な言葉。
『自分で自分を?』
『そう。否定だけでは何も生まれはしないから。まずは肯定する、自分を――そして周囲を』
 ほら、撮るよ。
 大きく手を振る級友の声に、冴波は顔を上げた。
 ほんの一瞬で押し寄せて来た、長かったようで短かったこの一年。そして高校生活という三年の期間。今、こんな気持ちで、ここに立てているのは隣で笑う担任のおかげ。
『先生、色々ありがとうございました』
 シャッターが切られた時、冴波は今まで言えずにいた感謝の言葉を口にした。視線を合わせられなかったのは、少し恥ずかしかったから。
 けれど、残された写真の担任のえもいわれぬ至福の笑顔が、彼女の言葉が届いた事を物語る――勿論、現像されてから知ったことだけれども。

   ***   ***

「……やっぱり、忘れられないわ。本当に綺麗だったの、まるで花弁でできたドームの中にいるみたいで」
 鬱陶しげに前髪をかき上げながら、冴波はゆるやかに瞳を伏せた。瞼の奥に映る花と、今日見上げるそれは幾度の春を巡ろうと、変わることないふわりと優しい色。
「ごめんなさい。あんまりロマンティックな話じゃなかったわね」
 目を開けて、少し肩をそびやかし自分の語った内容を振り返る。
「いえ、とっても素敵なお話だわ。シュラインさんも冴波さんも、本当に素晴らしい先生に恵まれたのね」
 火月が笑った瞬間、一団を慈しむように軽やかな風が吹いた。


●桜願 〜青年の主張〜

「ところで、あなたは?」
 くるっと体ごと向きを変えた火月が、忍と視線を絡めた。酒が回ったのか、スキなく着こなされたスーツとは裏腹に、頬には朱が走る。
 彼らを取り巻く状況は、まさに佳境。ともすれば怒鳴るような声でなければ、隣の人とさえ会話もままならないような状態。
 創と武彦はすっかり意気投合の様子で、先ほどから返杯合戦に忙しい。
 そんな二人の様子を、少しだけ冷たい視線で見ていた忍に、突然の白羽の矢――いや、シュラインと冴波の話を一通り聞き終えた今、次の出番が彼に回ってくるのは当然なのだろうが。
 ある程度覚悟していた事とはいえ、不意に話題を振られた忍はたまらず咽る。
「あら、大丈夫?」
「おしぼりあるわよ、使う?」
「見た感じ、あまりお酒は強くなさそうよね。そろそろお茶にする?」
 てきぱきと動く女性陣。火月には顔を覗き込まれ、シュラインからは保冷バッグの中に用意されていた温かい御絞を渡され、冴波からは冷たいお茶を勧められる。
 まさに至れり尽くせりと言った所だが、忍は助けを求めるように創に視線を流す。どうやら、包囲網を形成された気分らしい――彼女達の真意が何処にあるかは分からないが。
 しかし、当の創は相変わらず。
 忍の様子をチラとも気にした風はない。
「……余り楽しいものではないですよ?」
 前置きを一つ。シュラインと冴波の話を聞いてしまった以上、自分だけシラを切りとおすほど、彼は器用に出来てはいなかった。
 受け取った御絞で額に浮かぶ汗を拭い、冷えた茶で喉を潤す。こんな緊張は、取引先の社長と対面してる時だって有り得ない。
「桜は……やっぱり俺にとっても複雑な気持ちを呼び起こすもの、なんです」

   ***   ***

『なんで、俺が』
 呟きは誰に向けたものでもない。ただ自分の内側へと放たれたもの――胸の内側に住んでいる家族へ対して投げられた言葉。
 中学を卒業し、高校へと進学した春。
 まだ『子供』の心を残したままの少年は、唐突に家族から突き放された。
 生まれてから15年、名乗り続けた苗字は本人のあずかり知らぬ間に『須能勢』という新しいそれへと書き換えられ、『父』『母』と呼ぶべき人も変えられて。
 死別したわけではない。
 『家の事情』というもので、養子に出されたのだ。
 それと同時に、ただひたすらに、命とさえ思っていたものを忍は禁じられた。
『俺はただ、舞いたかっただけなのに』
 新しい家族は『父母』とは名ばかりで。忍は用意されたマンションで一人暮らしを始める。様変わりした日常、そのあまりの落差に、少年の心は誰かを信じるということを拒絶した。
 心とは裏腹にどこまでも晴れ渡った青空の下の薄紅。それはまるで過去に甘んじている自分の姿のようで、見ることさえ辛かった。

   ***   ***

「今はその『事情』については理解しているんです。仕方のないことだって。でも子供心にはそう上手くいかなくて」
 唇の端に浮かぶのは僅かな痛み。
 その表情の裏に隠された少年の葛藤を思い、女性たちはそれぞれのグラスを手にしたまま暫し固まる。
「あぁ、そんな顔しないで下さい。もう話す事が出来るって思ってるから話したんです、こんな初対面の人たちに」
 それまで周囲と一線を隔すような表情をしていた忍が、甘く微笑んだ。眼鏡の奥の漆黒の瞳が優しげに揺れる。きっとこれが本来の彼自身なのだろう。
「長年染み付いた考え方はそう簡単には捨てられやしませんけど。今の俺には信じさせてくれる人がいますから。それはもう、こっちの都合なんかお構いなしな勢いで」
 笑みが一層深くなる。くすくすと声を殺して笑う様は、現在の彼の幸福感を言葉よりも雄弁に物語っていた。
「最初は『凄い人』で、いつの間にやら『なんだコイツ』に。暫くそのままだったんですけどね」
 人間の心って不思議ですよね、とたまらず吹き出した忍に、彼の話を伺っていた女性陣もつられて声を上げて笑い出す。何やらシュラインと火月にはしみじみ感じ入る所さえあったようだ。
 それに、こんな風な顔をされてしまっては、やっかみ半分のツッコミを入れるわけにもいかない。
「全く、春ってこれだから」
「いいわよねぇ、幸せって」
「で、折角だからそこの所詳しく」
「え? あ――そのっ」
「えー、そんなに積極的に聞かれたら創ちゃん困っちゃう」
「「「え?」」」
 うりうりと肘でつつかれ、我に戻ったらしい忍が焦りの表情を見せた瞬間、横からの乱入者若干一名。
「いやー、忍が珍しい話してるなって思って聞いてたら」
「アンタっ、いつの間にっ」
「上司たるもの、部下の発言には常日頃から気を配っていませんとね♪ 特にお前の場合、滅多に本音を吐きゃしないからさ」
 くくくと創に意地悪く笑われ、忍の顔が再び先ほどまでの硬いものへとすり替わる。すっかりガードを固めてしまった様子の忍に、女性陣は無言の『責任とれ』熱視線を創へと向けた。
 六つの瞳に宿る、剣呑な光。
「……うわー、怖い。んー、草間さん沈没しちゃったし、順番っていうならそれもいいかな」
 振り返って見遣った先、そこにはお約束的に一升瓶を抱えて居眠りを始めた武彦の姿。
「このヒト、真面目に呑むんだもんな。躱そうとしないから、ついつい面白くって」
 返杯合戦の際、武彦はどうやら律儀に杯を空にしていたらしい。にっこりピースの創の顔色からすると、飲酒量は6:4と言った所か。
「全く、武彦さんったら。幾らまたとない機会だからって」
「……勢いに乗って通りすがりを潰すなよ」
 シュラインと忍が同時に深々と嘆息した。冴波と火月も「あらら」と顔を見合わせる。まったく、これだから男という生き物は――忍も男だが。
「で、聞くの聞かないの?」
「聞かないわけないでしょ」
「当然ね」
 一人捉え所のない笑みを浮かべたままの創に、武彦の肩にブランケットをかけながらのシュラインと、いつの間にか一番間近に陣取った火月が即答する。
 冴波も無言で首を縦に振った。
「ははは、今日は気分がいいからな♪ 折角だから忍に続いて恋の話でもしましょうか」
 おどけて嘯く創に、忍だけが顔をしかめて天を仰いだ。

   ***   ***

 衝撃はいつだって突然だ。
 二年前の四月一日、一同に揃った新入社員を前に、創の瞳はある一点に引き寄せられていた。
 誰もが緊張に顔を強張らせつつ、真っ直ぐに前を見て社長挨拶に耳を傾けている。その中に一際目立つ凛と背筋を伸ばした美しい立ち姿。
 その見事さに、思わず見入る。
 あまりに熱心に眺めてしまったからか、視線に気付いた新入社員がいぶかしむように首を巡らせた。
 視線のニアミス、軽く会釈し再び壇上に目を向けるその動きには一寸の無駄もなく。ただ気持ちの高揚からか、わずかに朱に染まった頬が鮮明に瞳に焼きついた。
 二ヶ月の新人研修を終え、配属が決まる。この頃にはその新人は既に頭角を現し始めていた。
 的確な判断能力、仕草と同様に無駄を排除した隙なく迅速な思考と行動。
 学生気分の抜けきらない新人が殆どの中、その存在は即戦力として大きな期待を寄せられていた。
 そして決まった配属は本人の希望通りの営業。当時部長職にあった創は、その新人の事前評価が間違っていなかったことを即座に身を持って知ることになる。
 ありえないほど、出来た新人だった。
 反面、周囲とのコミュニケーションを出来るだけ避けるような素振りが気に掛かり始める。笑おうとしないのだ、客先ではそつない営業スマイルを作り上げるくせに。
 そうなるとどうしても笑顔を見たくなり、冗談を交えながらからかうのが日課になった。
 それから一年、季節は巡りまた桜の季節。
 まだ蕾が固く眠る頃、衝撃は再来した。
『これは……どういうことだ?』
『見たままです。手続きのほう、宜しくお願い致します』
 出会った時と変わらぬ背筋をぴっと伸ばした立ち姿。
 隅々まで神経を行き渡らせたような指先でついっと押し出された白い封筒には、綺麗な筆跡で『退職願』の文字。
『なんで突然? 先だっての仕事も上手くいったばかりじゃないか』
『……私はここでは働けません』
 自分の迂闊さを嘆いても、時は既に遅くなろうとしている。
 会社創設以来最大規模のプロジェクトを、初めて二人でコンビを組んで成功させた。その満足感に酔い痴れている場合ではなかったのだ。
 何が悪かったのか、何がそこまで追い詰めたのか。
 募るジレンマに焦燥感だけが掻き立てられる、気が付かない内に予想以上に囚われていた、このままあっさり姿を消される事を認められないほどに。
 それから暫く、ほろほろと桜の蕾が一斉に綻び出す頃。
 眠っていた春の気配が目を覚まし、あたり一面が薄い紅に染まる。時折風に煽られ、はらりと舞う花弁の姿は例えようもなく美しく――そして胸を突いた。
『なんで信じない? 信じろよ。好きだって言ってるだろ』
 逃げようとする腕を捕らえ、強引に抱き込む。
 どれだけ真っ直ぐにぶつけても、返されるのは否定の言葉。届かない、胸の内側まで。その前に拒絶されて、無残な姿で地に落ちる。
 それはまるで、雨に濡れてアスファルトにへばりついてしまった桜の花弁のように。
 本気の言葉をずっと冗談で濁していたのが悪かったのか。今更悔いても仕方のないことに、自身の事ながら情けなくて涙も出ない。
 ただ、届けと。
 信じてくれと。
 認めてくれと、ひたすらに願い祈りながら幼子のように怯える体を抱き締める。
 手放すわけにはいかなかった――手放せるはずがなかった。

   ***   ***

「で?」
「さて、結論は秘密です」
 へらりと言葉を切った創に、火月が非難を大量にこめた視線をジリっと投げる。しかし創は動じた風もなく、手酌でお湯割を作ると暢気にその中で梅干を潰し始めた。
 肝心の結果を前に、煙に巻くつもりらしい。
「こういう飲み方、本場だと邪道って言われるらしいんだよな。なんでだろう、美味いのに」
 ごくりと喉を鳴らしながら、頭上の桜を見上げる。
 今は、はらりはらりと散るさまも美しい。
 不意に試したくなり、くるくると舞う一枚を追いかけ、グラスの中に捉える。ぷかりと浮いたそれに舌を這わせたら、どことなく甘い気がした。
「結果はつまり、上手く行ったってことよね」
 武彦の肩を支えながら、シュラインが笑いを堪えながら言い切る。
「そうね。そうでなければそんな顔して桜を見上げられるわけないもの」
 そう言葉を繋いだ冴波も、ゆっくり仰ぎ見た。例年になく美しいと評される満開の桜を。
 胸を過ぎるのは様々な想い。
 単純には語りつくせぬことばかりだけれど、今こうして穏やかな気持ちで眺められる事を感謝したくなる――何処の誰に向けてかは、分からないけれど。
「ちえー、バレバレってやつですか」
 ぽりっと頬をかいた創の顔には、幸せの桜色。
 ただ一人、俯いた忍の頬は、どうしてだか酔い潰れた武彦のそれより朱に染まっていた。


●今日の桜にさよならを、また来年

「今日は楽しかったわ。ありがとう――出来たら来年もよろしく?」
 彼らにスペースを提供してくれていたご婦人の集団に、最初と同様にこやかに挨拶をする創を最後に、彼らはゆっくりと立ち上がった。武彦は起きているのかいないのか、シュラインに肩を借りている状態だが。
「お誘いは嬉しいけど、出来たら次は事前に連絡が欲しいわ」
 並んで歩き出しながら、冴波がリクエストを出す。それに対し、火月は意味深に微笑むだけで、明確な答えは濁した。
 まだ賑やかさを失わない上野公園。
 年に一度の桜の宴は、今宵遅くまで――否、人によっては明日の朝まで続いていくのだろう。
 それは単純に騒ぎたいだけ、という気持ちの発露なのかもしれない。けれどそれを促すのは桜。喧騒とは程遠い、清廉さに満ちた淡いさくら色。
 終わりと始まりの季節。その象徴とも言える花。様々なものを見送り、そして迎え入れる。永い永い時間の中、ずっと繰り返されてきた事。
 だからこそ、魂に記された何かによって、人はこれほどまでに桜に魅了されるのかもしれない。
「夜桜はまた格別のものがありますよね」
 駅まで、との約束で草間興信所の面々の荷物を抱えた忍が、辛うじて自由を維持している左手をついっと伸ばす。
 すぐ目の前まで花の重さで頭を垂れた枝は、ライトアップされ都会の夜に艶やかに浮かび上がる。見惚れれば、周囲のざわめきが一瞬で波のように引いて行き、残されるのは一人だけの空間。
「こら、忍。桜に攫われてんじゃないぞ」
 追いついた創が、忍の手から荷物半分を取り上げながら、軽く額を小突く。
「桜にはそういうのが寄って来やすいんだよ。だから夜はなおいっそう美しく見えるのかもな」
「……それは言えてるわね。だからこんなのが大量発生するんだわ、きっと」
 ほとんど武彦を引き摺る状態のシュラインが、肩に圧し掛かる重みに眉を潜めながら言い放つ。「それはちょっと違うかも」と創が笑ったのは、敢えて気付かないふり。
「でも、良い機会だったわ。こんな事でもない限りわざわざここにお花見に来ようなんて思わなかったから」
 駅が近付く。
 もう終電も近い時刻だというのに、未だ彼らに逆行してくる人の波は耐えない。
 春のうたかた、短い夢のような時間。
 様々な思惑が入り乱れても、根底に流れるものはきっと一つ。
「来年も、綺麗な花が咲くといいですね」
 誰の呟きだったかは分からない。
 ただその瞬間、一帯を思わぬ風が駆け抜けた。
 ざぁっと音を立て、花弁たちが一斉に舞い上がる。それはまるで薄紅色のトンネルのように人々を包み込んだ。


「ほら、武彦さんしっかりして」
「んー………あ?」
 眠たげに目をこする。口元に運ばれた冷たい水に意識を刺激され、ゆるりと周囲を見渡せば見慣れた興信所の風景。
「あれ? いつの間に?」
「いつの間に、じゃないわよ。タクシー代は武彦さん持ちよ、経費には認めないから」
 ぴしゃりと領収書を貼り付けるような感じで、シュラインに額を叩かれ武彦の意識が急浮上。億劫ながらに今日一日の記憶を振り返り、何があったかを反芻する。
「……この額は上野から?」
「当然じゃない。武彦さんが発電機なんて持っていくから、とてもじゃないけどここまで電車で帰って来れるわけないでしょ?」
 お代はしっかり武彦さんのお財布から頂いておきましたから。
 にっこり笑顔で告げられて、武彦の顔からさぁっと血の気が引く。シュラインの言ったことが事実なのは、確認しなくても分かる。暫く昼飯抜きにしようかな、という考えがぼんやりと涙で霞んだ視界に浮かび上がった。
「と、ところで。あの火月って女、どっかで会った事があるような気がするんだけど……気のせいか?」
 どうやら状況が自分にとって圧倒的に不利であることを、酔いの残る頭で認識したらしい。強引に話題を変えてきた武彦に、シュラインも『あんまり苛めていじけられたら困るわね』と態度を軟化させた。
「火月さん? 気付かない?」
「え?」
 意味深な笑み。一度空になったグラスに、再び冷たい水を満たしながらシュラインが、悪戯っぽく笑う。
「ほら、覚えてないかしら――って、回ってない頭にはこっちの方が良さそうね」
 ふーっと長い溜息を吐き出しながら、水を飲み干した武彦の顔を覗き込み、シュラインは一つの言葉を思い出す。
「夫婦は似る、って言うのよね?」
「あ? あぁっ!?」
 普段より鈍くなっているらしい武彦の頭脳に光明が差し込む。ぱっと思い浮かんだ顔に、豪快に眉を潜めた。
「アレか? あれの奥さんか!?」
「みたいよ。武彦さん、見たことなかったの?」
「妻子持ちってのは知ってたけどなぁ、顔まではなぁ。って何だ、本人が最近顔を見せねぇと思ってたら嫁の方かよ。まったく、言われてみれば似過ぎだぞ。どっちが元なのか問い質したいくらいに」
 衝撃の事実に勢いを取り戻した武彦の言葉に、シュラインはちくりと胸の痛みを感じる。彼は知らないのだ、その本人が今はこの世界にいないことを。
「ね、武彦さん。来年はあちらのご夫婦誘って、またお花見行きましょうね」
「……なんで、アレをセットで誘うんだよ」
「ね?」
「………はいはい、了解。そん時には飲み過ぎないように気をつけます」
 今宵はシュラインに頭が上がらない――いや、いつもかもしれないけれど。
 それがひそかな願いを込めた希望とは知らず、武彦はシュラインに不承不承ながらも頷きを返した。
 草間興信所の窓からも、街路樹の中の桜の花が見え隠れ。誰かの笑みのように、眠らぬ都市の人の流れに微かに花が揺れた。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086/シュライン・エマ/ 女 / 26 /翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】

【4424/三雲・冴波(みくも・さえは)/ 女 / 27 /事務員】

【5078/須能勢・忍(すのせ・しのぶ)/ 男 / 25 /サラリーマン】

【5079/木更津・創(きさらづ・そう)/ 男 / 29 /サラリーマン(専務)】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの観空ハツキです。
 この度は『上野に桜を見に行こう』にご参加下さいましてありがとうございました。そして納品が5月になってしまい申し訳ございません……北の大地はまさに今! という所もあるようですので、気持ちを其方へと……(汗)

 と、冒頭から毎度恒例となりつつ壊れたお詫びから入ってみましたが。改めてご参加下さいました皆さま、ありがとうございました。私的に久々の草間興信所からの依頼、かつ初めましてさんもたくさんでとても新鮮な感じでした。

 シュライン・エマ様
 毎度お世話になっております! 久し振りに草間さんとの駆け引き(?)を書かせて頂けて楽しかったです。年月が経過しているとこことで、過去作品と比較すると、今回はちょっとラブラブっぷり3割り増し(当社比・笑)なつもりだったのですが、如何でしたでしょうか?
 ご発注時、色々ご面倒をおかけしたようですいませんでした。でもやっぱり『草間興信所にはシュラインさん!』という想いもあったので、ご参加頂けてとても嬉しかったです。ありがとうございました。

 誤字脱字等には注意はしておりますが、お目汚しの部分残っておりましたら申し訳ございません。
 ご意見、ご要望などございましたらクリエーターズルームやテラコンからお気軽にお送り頂けますと幸いです。
 それでは今回は本当にありがとうございました。