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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


錫の鍵の探究者



■序■

 夢の境界などどこにもない。夢は現実の中にある。隣り合わせよりも近いところにあって、かの世界はあぎとを広げ、夢みる生物を待ちかまえているのだ。
 ランドルフ・カーター……エティエンヌ=ローラン・ド・マリニィ……そして、彼ら。彼らはその真実を知っていた。知ってはならないこと――いや、知らないほうがよかったことなのだ。
 夢はひとが真実を知っていようがいまいが、分け隔てることなく呑みこんでいく。知らないものだけが、自分がただ夢みていることだけを認識し、幸福な眠りを満喫することになるだろう。
 しかし――もし、夢というものの恐ろしさを知っていたら? 大いなる無貌の王の存在を知ってしまっていたとしたら?
 夢みたとき、恐怖と絶望のあまり痴れ狂ってしまうかもしれない。
 夢の世界に自分が喰われてしまうのだということまで、認識するはめになる。その眠りは、永劫のものとなるのだろう。

 幸い、姿を消した少女は、真実を知らなかった。

 アトラス編集部の片隅にある応接室に、その日は、青褪めた(いつも顔色の悪い男だが)リチャード・レイただひとりしかいなかった。応接室のドア前に立っていたつぎはぎの人造人間は、数ヶ月前からいないのだが――彼の傍らにいつも居るはずの、蔵木みさとの姿もなかったのだ。
「ミサトさんが……ホテルの部屋から……いなくなったのです」
 レイはかすれた声でそう言った。
「荷物も、服も、靴も残っていました。なくなっていたのはパジャマだけです。ベッドは使われた形跡がありました。……荒らされた様子はありませんでした。神隠し……と言いましょうか。寝巻き姿のままホテルの中をうろついていたら、誰かが気づくはずですし……彼女が素肌をさらしたまま外出するのも、有り得ない……。彼女は、眠っているうちに、きっと消えてしまったのですよ」
 彼は絶望的なまなざしで、床の一点を見つめながら語る。そうして、レイは鞄の中から箱を取り出した。
「彼女が消えた晩に、夢をみました……。ミサトさんの声だけが聞こえて……。彼女は泣いていたし、助けを求めていました。目覚めるまではただの悪夢だと思っていたのですが、わたしは――」
 彼は、箱の蓋を開ける。
 中に入っていたのは、
 錫の――
「彼女はかけられている呪いから、夢の世界の力に捕らわれやすい存在です。危険ですが、虎穴に入らなければどうにもならない状況にあります。『鋳型』で新たに鋳造した鍵は10個、もとからわたしが保管しているものがひとつ……。お願いです、彼女をうつし世に連れ戻すために、門の鍵を開いていただきたいのです」
 リチャード・レイの瞳はそのとき、確かに紫色に輝いた。
「わたしは同行できませんが、パ=ド=ドゥ=ララが代わりにご一緒しましょう」


■畏怖■

 思いや姿や心はさまざまに、錫の鍵は10名の手の内へと渡った。鍵にしては大きすぎる、そして重すぎる代物だ。これはまさに手に余るもの。長く手のうちに留め置くべきではないものだ。この場の11名すべてが、それを心得ているわけではなかった。

 ともすれば不快な、未知の振動が、鍵の中から発せられている気がする。それでも彼女は、錫の鍵をきつく握りしめた。光月羽澄は口数も少なく、レイたちの会話に耳を傾け、記憶と知識を辿っていく。
 鍵は、年明けにリチャードが手に入れた『鋳型』から鋳造されたものだ。この『鋳型』を巡ってもひと悶着あった。
 芹沢青はそれを知らず、それどころか、レイと会って依頼を受けるのも初めてだ。彼は奇妙な鍵をもてあそびながら、ふと思う。ひとと関わるのも、ときには話すことすら疎ましく思うたちであるというのに、見ず知らずの少女を助けることになろうとは――。
 ――俺も、人が良くなったかね。
 それとも、ただ単に興味をひかれたからにすぎないか。夢の中に世界があるという話も、無視は出来なかった。
「……身体ごと持ってかれるなんて、尋常じゃないな」
 青応接室の片隅で声を上げた(彼以外にも他人と距離を置いている有志は数名いた)。
「何か理由があるんだろう」
 かげりのある声に、レイはむずかしい顔をして黙りこんだ。
「呪われているのよ」
 青同様に皆から距離を置いていたひとり――田中緋玻が、壁に預けていた背を離し、まずは手短に答えた。
 緋玻に奇妙な、惹かれるようなものを感じた青は、だまって彼女に視線を送る。『呪い』、という言葉にも、青は惹かれてしまっていた。
「べつの宇宙から来た神様だか何だかに、毎晩夢で驚かされてるって聞いたわ」
「……神?」
「この世にも、べつの世にも、知らないほうがいいことはある」
 そう胃って無理矢理話を切り上げようとしたのは、骨董品屋『櫻月堂』の店主であったが――彼は、武神一樹は、青の視線を受けとめて、ふむ、と小さく溜息をついた。
「……みさとは夢と死によって、つながれているんだ。邪神、とでもいうべき存在にな」
「この世にはないものに囚われてるのか」
 青は納得し、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「俺と同じだな」
「あー、何だかずいぶん危険そうなんですけどもー……」
 今の話を受けて、やや気弱な声が上がる。誰もが素手で錫の鍵を持っている中、シオン・レ・ハイただひとりだけは、器用にも愛用の箸で錫の鍵を持ち上げていた。彼もまた青同様に、レイやみさととはそれほど頻繁に関わっているわけでもない。ただ、麗香に言いつけられていた原稿よりも、応接室から漏れてきたこの『神隠し』の一件のほうが、早急に解決するべきだと踏んだのだ。彼は、人助けをしたかった。ただそれだけだ。ただそれだけのことが、彼には出来るのである。
「これ、持っても大丈夫なんでしょうか?」
「……おまえよー。触っただけで死んだり爆発したり溶けたりするようなシロモノだったら、俺たちゃとっくに、だろ? ビビってねエで持てよ! ホレ!」
「あ、ああっ――」
 それまでしかめっ面で鍵を観察し、ときには臭いを嗅いでいた藍原和馬が、チョップでシオンの箸を叩き落した。あわあわと狼狽したシオンは、宙を舞う鍵を、思わず受けとめていた。
「きゃーっ!」
 シオンは長髪を逆立て、奇怪な悲鳴を上げる。
「さささ触っちゃったじゃないですかあッ! ひどいですよ、藍原さぁんッ!」
「うわははは、これで貴様も道連れじゃあああ」
 いつもと変わらぬ様子の和馬とシオンを見つめながら、一樹もまたいつものように腕を組み、低い声で呟いた。
「――リチャード。シオンだけじゃないぞ、夢や呪いを恐れているのは」
「みさとちゃんも……怖がってたのよね」
 羽澄が、そこでようやく重い口を開いた。
「……どうやって、夢の世界に行くんです? ここで雑魚寝とか?」
「いえ……」
 レイはかぶりを振り、鍵を内ポケットにしまいこむ。
「彼女が行ってしまってから、すでに何時間も経っています。夢の中というのは……現実と、時間の進み具合が違いますから……」
「ああ! たった一晩寝ただけでも、夢の中じゃ1ヶ月とか平気で過ぎていきますよね」
 シオンはそれまでの恐慌も忘れ、身を乗り出した。
「一刻を争う事態じゃありませんか! すぐ寝ましょう!」
「おまえは人の話を最後まで聞いてやれ」
 どすん、と和馬がシオンの頭を鷲掴みにした。
「すぐ行ける方法があるんだな?」
「……陸號を、使うんだな」
 一樹の暗い呟きに、レイは口をへの字に結んで頷いた。
「陸號――」
 青は眉をひそめた。
「……少し前まで、この部屋の前に突っ立ってたやつか。……そういや、あいつが顔見せるようになってから、妙に夢見が悪いんだよな」
 青は鍵をもてあそびながら立ち上がる。
「そいつをどう使うのか見当もつかんけど、使えるものは何でも使え、ってな。行こうぜ」
「ん。……必ず、助け出すぞ」
 一樹も、動いた。
「助けを求めていたのなら……居心地の悪いところにいるということだ」


■現世にある門■

 まどろみは60段の階段に似る。そう、語ったものがいる。
 探究者たちは、明治の狂科学者がつくりあげたつぎはぎの人造人間のもとに向かった。レイが所属するイギリスの秘密結社が、頻繁に場所を変えつつも、危険な存在と化した人造人間を保管しているのだ。もっとも、いくら厳重に封印を施しても、まれに人造人間は戒めを逃れ、ふらふらと次元を渡り歩いているのだが。
 すでにつぎはぎどころの騒ぎではないものに、人造人間の容姿は変わり果てている。鈍色の煙を吐きながら、彼は面妖な術によって今も封じられていた。あやしげな虹色の光を放つ目は、錫の鍵を持って現れたものたちを見つめた。その瞳の中に、負の感情やエネルギーを感じ取ったものは、ここにはいない。かれはただ――かりそめの心さえ失った、動く異形にすぎなかった。
 リチャード・レイが近づき、彼の封印を解いた。『芹沢式』人造人間は、よろりと前に一歩踏み出したが、煙を吐いているばかりでなにもしない。
「ロクゴウさんは、夢の世界とこの世をつなぐ門そのものです」
 レイは静かに告げた。
「ここからあちらの世界に行って、また同じ場所に戻ってこられるとは限りません。錫の鍵でどこまで行けるかもわかりません。ミサトさんを保護できたら、すぐに『目を覚ます』。そう誓っておいて下さい」
 レイの灰色の視線が、陸號の顔をのぞきこんだ。
「わたしは、リチャード・レイは……ここまでです。夢で、パ=ド=ドゥ=ララをよろしくお願いします。気をつけてはいるのですが、彼はどうもうっかり者でしてね」
 彼の微笑のあと、

 ごぅ・ん――

 門は、開いた。


■おねがい、誰か助けて。あたしは、ここ……■


■ないしょばなし■

 枝ずれの音に、乾いた風の唸りと、囁き声が重なっている。
 囁き声は複数あった。誰かが誰かと会話をしている。
 それは、邪悪な意思など感じられない、高尚で静かなものだった。英語でも日本語でもなく、そもそも言葉ですら有り得ないのかもしれない囁きは、6人の意識を呼び起こしていった。

 そう、6人だ。

 森の中で目覚め、身体を起こしたのは――光月羽澄、武神一樹、芹沢青、田中緋玻。シオン・レ・ハイ、藍原和馬の6人だけだった。開かれた門の前に立ったのは11人だったはず。しかし、それに気がついても、どうすることも出来なかった。シオンは周囲を捜索しようとして、一樹や緋玻に制された。
「ここはもう、俺たちがいた世界ではない。無闇に動かないほうがいいだろう」
「し、しかし! だからこそ、早く合流しないと!」
「やめといたほうがいいわ。単独行動するはめになるわよ。こういう状況でひとりになったら……わかるでしょ? ホラー映画、観たことない?」
「単独……って、皆さん、探さないつもりなんですか?!」
「探すことは探すさ」
「でも、皆でこの辺りを調べてからのほうがいいわ。ここに詳しそうなパ=ドゥさんも……いないんだし」
「んだ。嗅いだことない臭いでいっぱいだぜ」
「うう、なんて皆さんドライなんでしょう」
「誰も、心配してないわけじゃないんだ。俺も歯がゆい。今はこらえてくれ、シオン」
 6人の姿は、門をくぐる前のものとまったく同じだった。財布や鈴、箸、武器もある。夢みることで、精神だけが訪れることの出来る夢の世界――銀の鍵は、そこへ、ひとを生身のままで運ぶことが出来るもの。その力を、レプリカの鍵も持っていたのだ。

(これは驚いたな)
(肉や道具を持ち、門をくぐったか)
(夢みているわけでもない)
(久し振りに見たぞ、あちら側の生命そのものを)

 和馬はコートの襟をかき寄せると、獣の目で、薄暗い森の中を睥睨した。
 声が聞こえるのだ。目覚めも、その囁きが呼び寄せたもの。見たこともない木が、枝や根を伸ばし、得体の知れない生物を覆い隠している。
 そして、見たこともない葉や草木の間から、確実にこちらに向けられている視線があるのだ。和馬は、ちらりと傍らに立っている緋玻に目を送った。彼女も、和馬同様に、気づいている。
「おうい」
 和馬は思いきって視線を真っ向から受けとめ、呼びかけた。
「ちょっと事情があって、邪魔させてもらったんだわ。悪さしに来たんじゃねエんだ。人探しに来たんだけど、見逃してくんねエかな」
 ともすれば、それはむなしく、滑稽な呼びかけであったかもしれない。風と森は沈黙し、応えない。しかし、6人は固唾を呑んだ。何かが呼びかけに応じ、またしてもひそひそとことばを交わしている気がしてならなかったのだ。
「ひゃっ!」
 突然、羽澄が彼女らしくもない驚きの声を上げた。
 彼女の足に、生温かく、毛に覆われた何かが触れたのだ。
 どうした、という緊迫した問いを、青はいったん飲み込み――羽澄の足元に目を落とす。

 銀の毛並みの、それは猫だった。

■港町へ■

 シオンは半ば、夢心地である。
 愛する垂れ耳ウサギは、うつし世に置いてきた。愛するがゆえに、危険なのか安全なのかわからない呪いがらみの地へ、ペットを連れてくることなど出来なかったのだ――
 そんな彼を含む一行を案内しているのは、まぎれもなく、冴えた目をした猫たちなのだった。
「……こいつら普通の猫か?」
 ぞろぞろと歩く猫たちを見下ろし、歩きながら、青は思わず呟く。
 猫たちは、醒めた世界にいる猫と、何ら変わらぬ姿に見えた。ただ、時折振り返るその視線には人間じみた意志や感情が宿っていたし、かれらは歩きながらひそひそとことばを交し合っているのである。6人の探究者のように、ひそひそと。
「ちがうだろ。俺の言葉通じてるっぽいからな。オオカミなら通じてもおかしかァねエんだけど」
「悪意は感じられない。大丈夫だ」
 一樹は自信と誠意を猫に返しているだけだ。日本ではない土地であるから、自分の力も発揮できそうにない――それが不安ではないと言えばそれは嘘になるが、だからといって闇雲に疑心を抱き、恐れていては、何も事態は進展しないのだ。
 猫に続いて歩く一行の先頭は、緋玻がつとめていた。
「ねえ、猫さんたち。ぐるぐる色が変わる派手な猫、ここの出身でしょう」
 ぴたり。
 何気ない四方山話のつもりで話しかけただけなのだが(緋玻は少なくとも人間よりは猫のほうが好きだった)、猫たちは一斉に足を止めて振り返った。金や緑の目には明らかな緊張が走っていた。
「……ちょっと前に、あたしたちの世界にその猫が来たわ。何とか追っ払えたけど、近頃そういう事件がちょくちょく起きるようになったの」
「今回友達がいなくなったのも、その事件のひとつよ」
 羽澄が後ろから補足を入れた。
「俺たちは、この一連の騒動を収めたい。そのほうが、お互いの世界のためだ」
 猫たちは顔を見合わせ、またしても、ひそひそとことばを交わした。
 先頭に立っていた白銀の猫が、今は確かに、探究者に向かって囁いた。そのことばは、残念ながら、単なる「にゃあ」「みゃあ」にしか聞こえなかった。

(協力しよう。宇宙の猫の件では、さぞかし騒動になっただろうな。それと同様、おまえたちの世のものがここに無闇に流れてきても、混乱を生むだけにちがいない。われらは平穏を望んでいる。が、しかし……守護者が混乱を求めているならば、手のほどこしようもないやもしれぬ。なにも期待するな。われらもおまえたちには期待しない)

 猫たちは、再び歩き出した。
 やがて森が終わり――巨大な月が地を見下ろす星空と、広大で美しい世界が6人の眼前に広がっていた。


■黒天航路■

 ぎいい、ごおお、という耳慣れぬ音(しかしこの世界のものは、探究者たちにとり、目慣れぬものと耳慣れぬものばかりだ)に、一行は空を仰いだ。
「あ、あああっ!」
 6人の中では、いちばん年かさに見えるシオンが、いちばん素直に反応する。彼は口をふんぐりと開け、それを指すなり硬直していた。シオンカ゛指し示すまでもなく、一行が呆気にとられて見つめているのは、空を渡る黒い帆船だ。船体からはいくつものオールが突き出して、空をかいている――ガレー船だった。船はゆっくりと高度を落としていった。その船首は、海に面した黒い街に向けられている。
「港町……。ダイラス=リーンね? ラヴクラフトの小説――いえ、『記録』で読んだわ」
 羽澄が言うと、猫がそれを肯定するかのように一声鳴いた。
「旗……いまの船の旗、見たか。『Cloud Fang』って書いてあったぞ」
 この世界にも、英語があるのか。
 船はすでに港町に入っている。一行が街に行かないわけはなかった。

 黒い石造りの街は、醒めた世界にあるどの文化とも共通点のない、まったく未知の様相をみせていた。荷車を引く四足の生物も、どうやら飼われているらしい有翼生物も、道端に並べられている商品ですら、東京育ちの探究者にとっては奇妙なものだ。だが、港町であるから商業が発達している、という定石はここでも通用するらしい。
「なんか視線が痛エのう」
「あああ、睨んでますよ……」
「そりゃあな、異次元人なんだし」
 猫に先導される6人を見る町人たちの目は、一様に厳しい。猫のようにひそひそと囁きあい、一行から距離をとっていた。
 白銀の猫はそんな人々に構わず歩き、一行を港まで導いたのだった。
「ありがとう。これ、くだらないお礼かもしれないけど」
 羽澄は屈みこみ、持参した手製のクッキーを猫に渡した。猫は別段うれしそうな様子ではなかったが、その礼を拒みはしなかった。

(こたびの案内は、かの忌まわしき土星の猫を退けた、おまえたちへの賛辞と謝礼である。戦士にして探究者よ、神の眠りと心を乱すべからず)
(イハン=マヌウ! イハン=マヌウ! いでよ! こやつらは醒めた世のものだ!)
(おまえが待ち焦がれていたものどもだ!)

「ヤイ! ヨー! サー!」

 猫の鳴き声に応えた、酒焼けした声。一艘のガレー船から、ひとりの船乗りが走り寄ってきた。彼は6人の姿を視界におさめるなり、叫び声のような、あるいは歓声のようなものを上げた。
「おう! おう! 生きてるうちに見れるなんてな! なまら信じらんねエ! サイコーだべや! はっはっはァ!」
 髪は黒いが髭は赤い、一見海賊じみた船乗りは、(訛りはひどいが)英語で喜んでいた。上背もあり、体躯はがっしりしているのだが、肌はまるで石灰のように白い。
「イハン=マヌウだ、『雲の刃』の船長だ。言葉通じてっか?」
「まあ、何とかね」
 6人の中には、英語が通じないものがいる。だが、緋玻は充分ほっとしていた。誰かひとりだけでも、この異界で意思を伝えられる人間がいるのなら、ひどく助かる。
「女の子を探しに来たの。すごく薄着のはずなんだけど――」
「確か、パジャマのまま消えたんだったな。黒地にチェックの。肌の色が……そうだな、おまえみたいな感じなんだ」
 事前に青がレイから聞いていたみさとの風貌を聞いて、マヌウはぐっと口ごもった。何か知っているのは間違いない、と探究者たちは半ば身構える。
「どこで見た?」
 容赦なく一樹は尋ね、マヌウの目を泳がせた。彼は、隻眼なのだろうか――左の瞳は真っ白で、右の瞳は赤とも紫ともつかぬ色を持っていた。
「オレぁ、見てないわ……でも、ふたつき前に、ウマヅラ鳥が女子連れてったのを見たやつがいる。鳥のやつ、南の、沈んだ街のほうに行ったんだと。……それから、みいんな夢見が悪くってよう。黒い髪の女子が……泣きながらなんか言っとんのだわ……オレも知らないことばでよう」
 イハン=マヌウは肩をすくめて、溜息をついた。
「あんたらが連れて帰ってくれたら、オレたちァぐっすり眠れるようになるって寸法だったりしてなあ」
「……連れて帰りたい。どう行けばいい?」
「船で、とばしゃあ……1日だ。でもよ、みんな出したがらねえと思うわ」
「どうして?」
「あすこにゃ、たまに神さんが降りる。通りすぎるだけならなあんも起こりゃあせんわな。でもよ、神さん怒らせるような真似したら、そらァまずいべや。海の藻屑だわ」
「でも……泣いている子を、放っておくことなんで出来ません。それにその子は、私たちの友達です」
 シオンが言うと、マヌウはばりばりと髪をかき、自分の船を見て、顎鬚を撫でた。
「……んー……」
 長考。


「よしゃ、連れてっちゃる」
「本当に?! ありがとう!」
 結局の結論にも、羽澄は大いに喜んで、無邪気な笑顔を見せた。その笑顔に目を一瞬点にしたマヌウだったが、すぐに咳払いをして、厳しい顔つきになった。
「条件はあるぞ。オレになんかよこせ」
「こりゃまたストレートだなオッサン!」
「うっせ! 神さんのバチ覚悟して行くんだぞ、当ったり前だべや! 持ってるもん、ひとつでいいからよこせ!」
 そうだ、携えているものは大したものではないのだが、彼にとっては異次元の産物であり、何にも勝る宝であろう。それに、海を歩いていくわけにもいかない。一行は条件をのみ、イハン=マヌウは大股で港を去っていった。
 船乗りの背を半ば睨みつけ、その鋭い目つきをやわらげず、青は視線を仲間たちに移した。
「なあ、おい……あいつ信用していいのか?」
「言葉が通じるの、彼だけでしょ。仕方ないわ」
「顔は怖いですけど、悪い人ではなさそうでしたし」
「おまえらほんとに人いいな」
「そうでもないわよ」
 緋玻が口元に不敵な笑みを浮かべた。
「妙な真似したらねじ伏せる気満々だから」
「姐さん、それ海賊行為とちゃいます?」
「なんで姐さんよ!」

 船乗りイハン=マヌウが信用するに足る人物かどうかはともかく、出港準備は着々と進められていった。あたかも夢の中の出来事であるかのように、水夫たちの手際はいい。6人はガレー船に乗る際に、腕時計や小銭、銀の鈴、ボールペン、100円ライター、組紐、スペアお箸を取り上げられた。


■海のうえの過去■

 ガレー船はダイラス=リーンを離れた。空は行かず、オールは海の水をかき、船は至って普通に海を行く。深い藍色の海原に、星ぼしの光がうつりこんでいた。もしかするとこの船は、海ではなく、空の上を渡っているのではないか。海の中に沈んでいる船や列石は、空にたゆたうものなのかもしれない。
 一行は長い間甲板に上がっていて、飽かず海原を眺めていた。
「でもよオッサン、なんでだ?」
 ネクタイを代償にされた和馬は、首まわりを撫でながらマヌウに尋ねる。
「なんで英語話せる? どうして、こんなにあっさり異世界人に手ェ貸すんだ?」
 歯に衣着せぬ問いはしかし、6人全員の疑問でもある。マヌウは別段気を悪くした様子も見せず、ふん、とそっぽを向きながら笑った。
「オレのじっさんなア、セレファイスのクレネス陛下の侍従だったんだわ。陛下って、もともとおまァらの世界のひとでな。オレぁ、じっさんの話聞きながら育ったよ。英語もじっさんから教わったさ。イギリスって国のことも、なンまら聞かされたわ」
 彼は笑って、青が渡した腕時計をひょいと掲げた。
「行ってみてえなあ、って思ってたわけよ。あこがれってやつだ。――ささ、寝るべ寝るべ! 朝にゃ、尖塔が見えらあ!」
 ドスドスと甲板を去るマヌウの背を見送って、探究者たちは顔を見合わせた。今が何時で、いつ朝になるかもわからない。ベッドに入ったところで、冴えたこの目と頭では、眠りにつくこともむずかしいだろう。
 しばらく彼らは、甲板にいた。だまって海原を見つめ続けていた。


■誰か、助けて! あたしを助けて! あたし……あたし、なんでこんなところにいるの? あたしに何するの!■


■ビースト、その向こう側へ■

 がばお、と音を立てて海が揺れ、ガレー船はもてあそばれた。明け方のことだ。夢の中の夢から、探究者と船員は叩き出された。誰よりも早く甲板に上がったイハン=マヌウが悲鳴を上げる。
「おうあああ! 雲の獣! こらヤバいべやあああ!」
 船は奇妙な、生ける雲に取り囲まれていた。雲には牙があり、目があり、鉤爪をもった触手があったが――どれひとつとして一定のものではなく、ぐるぐると姿や数を変えていた。しかしどの雲にも共通しているのは、悪意に満ちた目と、恐るべき大きさのあぎとであった。すでに水夫の何人かは、あのあぎとの奥にねじ込まれ、雲に溶けてしまっている。
 雲たちの向こうに、尖塔があった――。
「ちいっ! どいてろ、感電するぞ!」
 青は、自分にやれるだけのことをやろうとした。門の向こう側で荒ぶる雷は、すべてが青に従う。しかし、この世界の雷は? そもそも、雷というものが存在するのだろうか?
 青の懸念をよそに、ばりっ、と青緑の雷光が空気を裂いた。
「伏せて! ちょっと熱くなるわよ!」
ひるんだ雲の怪物を、つぎは紅蓮の焔が襲う。緋玻が放ったものだった。
「あーっ! 熱い! 熱いですよ、きゃーーーっ!」
「シオン!」
 対応が遅れ、シオンの髪の先に火がついた。牙持つ雲たちの悲鳴をかいくぐり、慌てたシオンは、甲板から海へと身を投げていた。
「藍原! シオンを引き上げるぞ!」
「よしきた!」
 一樹は甲板のロープを掴み、シオンを追って海に飛び込む。びゅるびゅると海に消えていくロープの端を、和馬の獣の手ががっしと掴んだ。
 空が燃える下で、唸り声とともに和馬の身体は甲板を滑る。やがて水しぶきが上がり、藍色の彼方に一樹とシオンが沈んでいくのを、身を乗り出した羽澄は見たのだった。
「おい! こら! 危ねっしょ! なあに考えてる!」
「だって、こんな高いところから落ちて……!」
「だあいじょうぶだア! この辺、もう街の上だあ! 底浅いからよ!」
 身を乗り出す羽澄を羽交い絞めにして、マヌウが怒鳴り声を上げた。雲はすでに焼きつくされ、青緑の稲妻がぱちぱちと走るばかりになっている。
 雲は待ちかまえていたのだ、と緋玻と青は思っていた。
 雲はおそらく、沈んでいるなにかを護っていた。


■水函■

 ごぶぼっ、
 シオンの口から泡が飛び出す。
 一樹もまた、目を見張った。
 ふたりが見たのは、藍色の世界に没した未知の街だった。触手をそなえた小さな生物や、ナメクジ状の軟体生物、見たこともない色彩の魚が無言で泳いでいく。
 尖塔の中に、棺のようなものがあった。
 ――みさと!
 ――蔵木さん!
 やがて、なにものかが起こした波か、それともマヌウのガレー船がぶつかったものか、突如、水没都市の尖塔が音を立てて傾いたのである。
 尖塔の中からこぼれ落ちる透明の箱を、シオンと一樹は抱え上げた。中には、黒いパジャマ姿のままの、蔵木みさとが――夢の中で、眠りについている。


■そう、これは夢なの。いつも見てる夢。最悪な夢、怖い夢、いやな夢。あたし、気がついたよ……。あたし、眠ってただけなんだね。目を覚ませば、きっとあたしはホテルのベッドの上にいるの。でも……、どうして? みんなどうして、ここにいるの……? ここは、あたしの夢なのに■


 あたし、目を覚ましてもいい?


■水泡へ■

 藍色の水を裂いて、棘だらけのナメクジじみた存在が、その姿を現した。羽澄とマヌウは水しぶきから顔を背け、和馬は懸命にロープを引っ張っていたし、なにも見てはいなかった。ただ、緋玻と青だけが、忘れられた水神を垣間見たのである。
「藍原! 上げてくれ!」
 海上からかすかに声が甲板に届き、和馬は牙を剥いて吼えた。一応、「合点!」と叫んだつもりだった。
 甲板に引き揚げられた一樹とシオンは、ガラスともシリコンともつかぬ透明の板でつくられた箱を抱えていた。その中で眠っているのは、行方がわからなくなっていたみさとだ。箱にはしっかり、奇妙な形の南京錠がかかっていた。
「か、鍵……」
 髪をかき上げながら、シオンが呟く。
「もしかして……」
 羽澄が、のろのろとポケットから錫の鍵を取り出す。彼女はその鍵を、南京錠の中にさしこんだ。

 かち・り。


■ありがとう■

■みんな、助けに来てくれたんだ……■

■もう大丈夫。あたし、もう大丈夫だから。だからみんな、もう、帰って……■

■帰して、あげる。■


■そして、覚醒■

 東京の街中に、黒いガレー船が現れた。空から落ちてきたガレー船は、白王社ビルの前で見事に転覆し、壊れて、通行人や乗用車を蹴散らし、数十メートルほどアスファルトをすべったところで――ようやく、止まった。
 それは紛れもない世界の真実であり、鍵を手にした探究者たちは、日が暮れたばかりの東京の空を見た。
 それから、途方に暮れたのである。

 シオンの愛するウサギが、どこからか駆け寄ってくる。ウサギは毛先を焦がした主の肩に乗って、主とともにガレー船を見上げた。
 みさとは、今は緋玻の腕の中だ。和馬がそっと、着ていた自分の茶色のコートを彼女の肩にかけた。
「……あたし、何をしたの?」
 みさとの顔の雫をハンカチで拭きながら、羽澄はかぶりを振る。何が起きたのか、何もわからないし、誰も知らない。
 一樹は確かに自分の中に力が戻ってくるのを感じた。ここは、間違いなく、日本だ。醒めた世界の夕暮れだ。一樹は呆然としているみさとに囁く。
「大丈夫だ、何も問題はない。おまえはちゃんと帰ってきた。……おまえが望めば、俺はおまえの記憶を封じるし……夢をとめる、手助けもする……」
「あ、おい」
 青がガレー船の陰を指した。
「鍵もないのに……どうして、あいつ、ここに来れたんだ?」

 視界の中で、イハン=マヌウが立ち上がった。
 彼は言葉もなく、しばらくは、ただ灰色の街並みを見上げていたが――
「あ、ああ、あああああああ、ああああああ、あ!」
 焼けた声を上げて、よろよろと後ろによろめいた。
 一樹がはじめに施さねばならない封印は、夢の世界の男の記憶に対して、だ。




<了>

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0173/武神・一樹/男/30/骨董屋『櫻月堂』店長】
【1282/光月・羽澄/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【1533/藍原・和馬/男/920/フリーター(何でも屋)】
【2240/田中・緋玻/女/900/翻訳家】
【2259/芹沢・青/男/16/高校生・半鬼(?)・便利屋のバイト】
【3356/シオン・レ・ハイ/男/42/びんぼーにん+α】

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               ライター通信
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 モロクっちです。二周年記念クトゥルフ大イベント、『錫の鍵の探究者』をお届けします。すっかり長くなってしまいました。皆様、お疲れ様です!
 今回のノベルは二分割されています。暗黒神話編・幻想怪奇編の二編です。こちらは幻想怪奇編で、夢の世界観光を楽しんでもらおうというコンセプトのもとに執筆しました(笑)。モロクっちがお送りする東京怪談の中では、めずらしいファンタジものです。

 みさとは無事助け出すことができましたが、ついでにエセ北海道弁の船乗りがついてきてしまいました。ドリームランド編はそろそろ佳境に入ります。
 さて、鍵を持っていないのは、船乗りのほかに、誰でしょう?
 ことの真相は暗黒神話編で判明しております。お時間がございましたら、ご一読下さい。

 それでは、これからもモロクっちをよろしくお願いします!
 またお会いしましょう。