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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


錫の鍵の探究者


■序■

 夢の境界などどこにもない。夢は現実の中にある。隣り合わせよりも近いところにあって、かの世界はあぎとを広げ、夢みる生物を待ちかまえているのだ。
 ランドルフ・カーター……エティエンヌ=ローラン・ド・マリニィ……そして、彼ら。彼らはその真実を知っていた。知ってはならないこと――いや、知らないほうがよかったことなのだ。
 夢はひとが真実を知っていようがいまいが、分け隔てることなく呑みこんでいく。知らないものだけが、自分がただ夢みていることだけを認識し、幸福な眠りを満喫することになるだろう。
 しかし――もし、夢というものの恐ろしさを知っていたら? 大いなる無貌の王の存在を知ってしまっていたとしたら?
 夢みたとき、恐怖と絶望のあまり痴れ狂ってしまうかもしれない。
 夢の世界に自分が喰われてしまうのだということまで、認識するはめになる。その眠りは、永劫のものとなるのだろう。

 幸い、姿を消した少女は、真実を知らなかった。

 アトラス編集部の片隅にある応接室に、その日は、青褪めた(いつも顔色の悪い男だが)リチャード・レイただひとりしかいなかった。応接室のドア前に立っていたつぎはぎの人造人間は、数ヶ月前からいないのだが――彼の傍らにいつも居るはずの、蔵木みさとの姿もなかったのだ。
「ミサトさんが……ホテルの部屋から……いなくなったのです」
 レイはかすれた声でそう言った。
「荷物も、服も、靴も残っていました。なくなっていたのはパジャマだけです。ベッドは使われた形跡がありました。……荒らされた様子はありませんでした。神隠し……と言いましょうか。寝巻き姿のままホテルの中をうろついていたら、誰かが気づくはずですし……彼女が素肌をさらしたまま外出するのも、有り得ない……。彼女は、眠っているうちに、きっと消えてしまったのですよ」
 彼は絶望的なまなざしで、床の一点を見つめながら語る。そうして、レイは鞄の中から箱を取り出した。
「彼女が消えた晩に、夢をみました……。ミサトさんの声だけが聞こえて……。彼女は泣いていたし、助けを求めていました。目覚めるまではただの悪夢だと思っていたのですが、わたしは――」
 彼は、箱の蓋を開ける。
 中に入っていたのは、
 錫の――
「彼女はかけられている呪いから、夢の世界の力に捕らわれやすい存在です。危険ですが、虎穴に入らなければどうにもならない状況にあります。『鋳型』で新たに鋳造した鍵は10個、もとからわたしが保管しているものがひとつ……。お願いです、彼女をうつし世に連れ戻すために、門の鍵を開いていただきたいのです」
 リチャード・レイの瞳はそのとき、確かに紫色に輝いた。
「わたしは同行できませんが、パ=ド=ドゥ=ララが代わりにご一緒しましょう」


■愕然■

「嘘だ」
 ばさばさとファイルが落ちる音がし、応接室に入っていた9人の男女が振り向いた。応接室のドア口に立ち、青褪め、やっとのことでそう言ったのは――山岡風太に他ならない。
 彼は、みさとに伝えたいことがあって、アトラス編集部にやってきたのだ。応接室の様子は陰鬱だった。ファイルを貸してくれたことへの礼も忘れて、風太はデスクに駆け寄る。
「そ、その鍵!」
 彼は、残り1本となった鍵に手を伸ばした。
「それでみさとちゃんを助けられるなら……!」
 しかし、伸ばした手は、黒い手にがっきと掴まれ、行く手をはばまれた。山岡風太の目に、その一瞬、尋常ならざる怒りの光が宿る。
 煮えたぎる彼の目がとらえたのは、影山軍司郎の、冷徹なまなざしだった。
「貴君は行くべきではない」
「どうして!」
「理由を知りたいか」
「……理由があるなら」
「貴君は彼女を救えない」
 その場の空気がひといきで凍りついた。風太は――普段の彼を知っている者は、目を丸くした――唸り声を上げると、軍司郎に掴みかかった。軍司郎の表情は微動だにしなかった。
「こりゃア、やめんか、たわけ者! 兵隊も、阿呆か! このようなところでもめている暇などないのじゃぞ!」
 吼えながら風太に後ろから飛びつき、危ういところで羽交い絞めにしたのは、羅火だった。
「おい、うっかり者! こやつにも鍵をやれ。気合はご覧の通り、充分じゃて」
「しかし――」
 軍司郎の視線を受けてから錫の鍵に目を落とし、躊躇するレイに、風太は必死の形相で食い下がった。
「お願いです! 俺、彼女に言わなきゃならないことがあるんだ! みさとちゃんに……俺……!」
「いいではありませんか、レイさん。彼にもご協力をお願いされては?」
 応接室のソファに腰を落ち着け、風太が落としたファイルに目を通しながら、……星間信人がそう言った。事も無げに――風太自身に、まるで興味は持っていない様相で。
「鍵はいくらでも鋳造出来るでしょう? ひとつふたつ減ったところで問題にはなりませんよ。そもそも生成したのが10個だけとは、何とも解せませんがね」
 彼は目を細めて錫の鍵を見つめ、息をついた。
「かの地へは通常、精神のみが旅立てる。ゆえに、強い想いこそが武器となるかもしれません。まあ、仮定の話ですよ、あくまで」
 信人の静かな語り口に、風太も落ち着きを取り戻した。ふむう、と鼻で溜息をつき、羅火が風太を解放する。
「しかし、ぬしがあの『鋳型』を使うて鍵を成すとはの。あの世界がいかに危ういものか、知らぬわけもなかろうが」
 そこで言葉を切って、彼はぼりぼりと首筋を掻いた。
「……まあ、無くしとうないものがある、という気持ち、察しよう。ここのところ夢見も悪い。夢絡みの大事にはそろそろ見切りをつけたいところじゃ」
「……わたしは、かの門を閉じよう。事態が事態だ、今回は単独行動をなるべく控えたい。……この大所帯が同時にあの世界へ行く方法はあるか?」
「陸號さんを使えばよろしいでしょう」
 信人の笑みに、レイが憮然とした面持ちでゆっくりと頷いた。


■現世にある門■

 まどろみは60段の階段に似る。そう、語ったものがいる。
 探究者たちは、明治の狂科学者がつくりあげたつぎはぎの人造人間のもとに向かった。レイが所属するイギリスの秘密結社が、頻繁に場所を変えつつも、危険な存在と化した人造人間を保管しているのだ。もっとも、いくら厳重に封印を施しても、まれに人造人間は戒めを逃れ、ふらふらと次元を渡り歩いているのだが。
すでにつぎはぎどころの騒ぎではないものに、人造人間の容姿は変わり果てている。鈍色の煙を吐きながら、彼は面妖な術によって今も封じられていた。あやしげな虹色の光を放つ目は、錫の鍵を持って現れたものたちを見つめた。その瞳の中に、負の感情やエネルギーを感じ取ったものは、ここにはいない。かれはただ――かりそめの心さえ失った、動く異形にすぎなかった。
 リチャード・レイが近づき、彼の封印を解いた。『芹沢式』人造人間は、よろりと前に一歩踏み出したが、煙を吐いているばかりでなにもしない。
「ロクゴウさんは、夢の世界とこの世をつなぐ門そのものです」
 レイは静かに告げた。
「ここからあちらの世界に行って、また同じ場所に戻ってこられるとは限りません。錫の鍵でどこまで行けるかもわかりません。ミサトさんを保護できたら、すぐに『目を覚ます』。そう誓っておいて下さい」
 レイの灰色の視線が、陸號の顔をのぞきこんだ。
「わたしは、リチャード・レイは……ここまでです。夢で、パ=ド=ドゥ=ララをよろしくお願いします。気をつけてはいるのですが、彼はどうもうっかり者でしてね」
 彼の微笑のあと、

 ごぅ・ん――

 門は、開いた。


■星が流れる空に■

 階段の上から投げ出されたような衝撃があった。嘲笑と視線があった気がする。きっと、何もかもを見透かされているのだ。冷めた風が吹きすさび、衣服を――彼らは出発時と何ら変わらぬ服装でいた。持っていた武器さえもそばにあった――ばたばたとかき乱していく。はじめに身を起こしたのは、羅火だった。
「ううぬぬぬ……何じゃ、あいにくの寝覚めじゃの……」
 彼は灰色のかたい地面に爪を立て、金の瞳をしばたくと、辺りを見回した。わりあいすぐそばに、影山軍司郎の黒ずくめの長躯が倒れている。そして、得体の知れない黒い岩のうえに、死体のようにぐったりとした山岡風太の姿があった。
 しかし羅火が注視したのは、真正面に立っている図書館司書の姿だ。まったく平然とした様相の星間信人がいる。
「おい、何をしとるか!」
 羅火は思わず大声を上げたが、信人は振り向かなかった。代わりにかたわらの軍司郎が目覚め、顔を上げる。ふたりの目の前で、狂える司書は、風のうなりのような詠唱をおこなっていたのだ。
 よくないものが現れる――直感に囁きかけられた羅火は走ろうとした。しかしすでに強風が吹き、錆びた色の砂埃が舞い上がっていた。
 砂から顔をかばった羅火は、黒い翼を持つ、悪魔のようなものがどこからか飛来し、信人のそばに降り立つのを見た。
「夜鬼か……このあたりの案内をさせるつもりだろう」
 サーベルを抜き、その刃のするどさを検めながら、軍司郎が言う。
「しかし、2匹も要るまい」
 軍司郎が言うとおり、信人が呼び寄せた無貌の鬼は、2体いるようだ。信人はそのうちの1体を事も無げに手懐けた。
 残る1体が、貌のない顔を羅火と軍司郎に向ける。ふたりが身構えた、その背後から――
「貌無き黒翼よ、吾はともに大いなる深淵にこうべを垂れ、かの大帝に祈りを捧げる。ナア・ノーデンス!」
 かすれた声の詠唱が飛び、黒い鬼は飛んだ。軍司郎と羅火の頭上を飛び越えると、かれは――白い長髪の男のかたわらに降り立った。
「ぬしは――」
 見たことがない男だったが、どこか見知った顔であるように思えて、羅火は眉根を寄せた。それに、白い髪と顎鬚の、魔術師然としたその男は、軍司郎と羅火に軽く笑みを返しもしたのである。
「さすがは大魔術師パ=ドゥ! 夜鬼の使役など、お手のものということですか。僕が睨んでいたとおりです」
 信人は不敵な笑みを浮かべつつ、数歩ほど3人に歩み寄った。
「では、案内役も確保したことですし、僕はこれにて」
「何処へ行くつもりだ」
 予断なく目を光らせながら、軍司郎が尋ねる。信人は、軍司郎の間合いの外にいた。それに引き換え、信人は無限の間合いを持つ。この世界にも、風はあるのだ。
「なに、一度お目にかかって、お話をしたい方が、この世界にいらっしゃるはずなのです。夜鬼もその所在を知っている様子。蔵木さんの捜索は他の皆さんにお任せしても問題なさそうだと思いましてね」
 信人の目は、どこか無邪気に輝いているようだったが――やはりその笑みは、歪んでいた。
 星がまたたく夜空を、赤とも紫ともつかぬオーロラが横切っている。そしてその波間には異様な大きさの月が浮かび、この世界が、東京が存在する次元とはちがう場所にあることを示唆していた。辺りは錆びた色の荒野が続くばかりで、地を這う生物は奇数の節足を持ち、無言で探究者たちを避けていく。
 そのような世界にあるというのに、信人はいつもと変わらぬ態度だ。まるで近所に散歩に行こうとしているような節であった。
「他の探究者がたとははぐれてしまったようですが――いやはや! しかし、蔵木さんは光さえ当たらなければ死すら有り得ない方なのですよ。たとえ手足を引き千切られても、首をはねられても、彼女は笑ったり話したりできるでしょう。慌てて助けに行くこともありません。……せっかくのレン、せっかくのカダスです。僕は少し、観光させていただこうかと――」
 いつもよりも饒舌な信人の顔が、そのとき唐突に、めずらしい戸惑いの色を浮かべた。彼の服の裾を、何かが掴んでいたのだ。
(うつけめ)
 風が囁いた。
「……みさとちゃんを、怪物みたいに言うな」
(水のものを侮るな)
 信人を掴んでいるのは、青褪め、異様な光を目に宿した、風太だった。黒い岩の上でのびていたはずだ。その彼が、いつの間にか(そう、いつの間にか! 羅火と軍司郎とパ=ドゥは、信人から目を離していなかったというのに!)信人のすぐそばにいたのである。
「みさとちゃんは、助けを呼んでたんだ」
 風太の呻き声には、乾いた風の唸りが混じっている。
「彼女を莫迦にするな、星間信人。これまでに授けたメダル、返してもらったっていいんだぞ!」
「……!!」
 信人はそこで、夜鬼に命じた。夜鬼は長い鞭のような尾を振るって風太をはね飛ばし、星がまたたく夢の空へ、信人を運んでいったのだった。
「ヤマオカ!」
 黒いローブと白髪をひるがえし、夜鬼を従えた魔術師が走った。数メートルの距離を跳ね飛ばされた風太だったが、怪我はかすり傷ですんでいた。
 しかし――
「うう、う、あー、あああ……」
「離れい、うっかり者! 様子がおかしい」
 羅火の警鐘に、パ=ドゥは従った。風太は立ち上がらず、頭を抱えて地に這いつくばっているばかりだ。
「あああー、あ、あ、身体が! 身体が! があっ! 動かないッ!」
 パ=ドゥも羅火も、戸惑い、固唾を呑むばかりだ。これまで何の変哲もない若者だとしか、ふたりは山岡風太を認識していなかった。
 軍司郎は、ちがったが。
「変容か……やはり、この空気は合わなかったようだな」
 彼は抜き身のサーベルを振り上げていた。
「パ=ドゥ……蔵木君には、わたしが殺したと言っておけ」
 無慈悲な刃は振り下ろされたが、それはただ、一陣を風を切り裂いただけだった。


「見事な一閃よ! 影山軍司郎!」


■レンのはずれの、■

 夜鬼に抱え上げられて見た景色は、どこまで行っても灰色だった。
 これが、夢みることを夢見ていたレンなのか。
 レンなのだ、と夜鬼は言葉ではないことばで信人に答えた。
 夢の世界はどこまで高みから見下ろしたとしても、丸みを帯びてはいなかった。あらゆる記録が語るとおり、この世界は平面で、空気のようなものに満たされた星空の中に――宇宙の中に浮かんでいる。
 そして、あらゆる三次元が交錯するというレンの灰の地面には、信人が見たことのある風景や、見たこともない建造物が、絵画や蜃気楼のように浮かんでは――風にさらわれ、消えていくのである。信人はしばし、言葉も忘れて夢の情景にみとれていた。自分を運ぶ案内役にも、なるべく高く飛び、主が世界を見渡せるようにせよと命じてあった。
 夜鬼はその幻想世界の中を、永遠に飛び続けるかと思われた。しかしやがて灰色の荒涼とした大地に、まばらに木がはえ始め、ついには森をつくるようになった頃、夜鬼は高度を落とし始めた。
 かれは森の中に移り住んだ、と夜鬼は答えた。会って話をするのは大いなる神々の保護者やその使いばかりの偏屈人だが、故郷の人間が訪れたとなれば話はべつだろう、行ってみるがいい、とも言った。
 無貌の鬼が言うとおり、未知なる森の中には一件の石造りの家があった。庵、と呼んでもよいものか。
 信人は夜鬼に、邪魔をしないよう言いつけておいて、石造りの庵の中に入った。
 中はしんとしずまり返っていた。そこには、時すらないようであった。書物や巻物で散らかった部屋、片隅には奇妙な大時計じみたからくりが据え置かれ、かちかちと音を立てて時以外の何かを刻んでいた。
「縞瑪瑙の城に行こうと思うな」
 不意に、声が上がった。書物の山の中からだ。
 かすれた、風のような声だったが――それは間違いなく、『日本語』である。
「お会いできて光栄です、芹沢博士。まるで、夢のようですよ」
 大いなる皮肉を口にする信人は、眼鏡を直した。そう、眼鏡を直しただけで――彼は一歩も、声の主に近づこうとはしない。
「何を求め、この夢を訪ねるのだ」
「僕が今住んでいる日本……いや、世界では、この夢の世界のエネルギーが関係した事件が頻発しておりましてね。ガグや土星の猫といったこの土地の怪物が現れ……人が神隠しにあっているのです。すべては博士の計画の通りにことが運んでいる、と思い当たりましてね」
「真実を欲するか」
 かさかさと、巻物が動く音がした。
「ぬわいえいるれいとほうていふには、会うたか」
「ぬわい……ああ。いいえ、あの方は縞瑪瑙の城におわすのでしょう。カダスを越えるのは僕にとっても少々骨の折れる旅路になります」
「かのものがすべてを動かし、見守り、嘲笑う。我輩は、かのものの手足にすぎぬ。『鋳型』……『錫の鍵』……そして、この世界。我らの故郷。すべては一度剥ぎ取られ、縫い合わせられよう。さすれば、かのものは永遠となる。ヒトの夢の中にある入り口、というものにとらわれることもなくなるのだ。かのものの狙いは、そこにある。永遠であるがゆえに、永遠を欲するのだ」
「所詮この世界も、あのお方の手のひらの上にあるということですか」
「否。我らは、えいざとほうとふの中、えいざとほうとふとともに踊るものだ。踊れ……踊れ、しかるのち、醒めながらにして夢みよ……」
 書物の山の中から、ぬう、と皺だらけの腕が伸びた。腕は巻物を一巻手に取り、再び本の山の中に引っ込んだ。程なく、山の中から、むしゃむしゃとうまそうに何かを咀嚼する音が聞こえてきた。
 信人は口の端を歪めた。
 この博士を哀れむべきか、崇めるべきか、迷っている自分がいる。
「<窮極の門>は、超えることかなわず……ということでしょうか」
「踊る覚悟なくば、あの石門は、超えられぬ……『銀の鍵』もまた……必須である……」
 ふと、咀嚼音がやんだ。本の山の中から、震える声がやってくる。
「おお……おお、聞こえるか。笛だ。かのものが来る。真実を暴くために。笛だ」


■誰か、助けて! あたしを助けて! あたし……あたし、なんでこんなところにいるの? あたしに何するの!■


■血煙■

 背後からその声がやってきたとき、3人の男は、振り向いたことを後悔した。
 竜の声を上げて、羅火が膝をつく。彼の手首を骨ごと戒める手錠が、突如、普段の数倍もの重さを持ったのだ。羅火は手首の中を走る音と痛みに、成す術もなくうずくまった。
 息を呑んだきり吐き出すこともかなわなくなったパ=ドゥもまた、地に崩れ落ちる。彼の中の、止められている時間が騒ぎ出していたのだ。もはや人間ならば死すべき時を迎えているはずだ、と。
「……貴様、貴様、あ、あ、あ、あ、き、貴様ああッ!!」
 そして、影山軍司郎は、普段の我を忘れて絶叫していた。
「ナイアーラトテップ! 貴様ああああ!!」


 寒々とした凍てつく高原に、いつしか、縞瑪瑙の柱と玉座が現れていた。玉座のまわりには、裸体に絹を巻きつけただけの黒人奴隷がはべっている。そうして、その玉座には、光り輝く冠を抱いた、漆黒の肌の男が――
 いや、王が、鎮座しているのであった。
 王は言う。
「芹沢はよくやってくれた。<架け橋>はすでにこの世界のもの。アトラク=ナチャの橋よりも、はるかに脆いが――あやつの仕事はいつ終わるものか、見当もつかぬ。<架け橋>は、何といったか。おお、蔵木みさと、そうであった。グラーキ、あやつに奪われし魂は、もはや滅びることもない。あやつの夢引きにより、かの乙女の夢はすでに崩された。ゆえに、この世界に容易く結びつけられるものよ。芹沢は六つの架け橋を作ったが、どれも吾の眼鏡には到底かなわぬ出来ばえであった。しかし、そのかりそめの架け橋で、使える<架け橋>を呼び寄せるに至った。芹沢には褒美をとらせよう。『銀の鍵』なぞ、良いやもしれぬ。おお! 大儀であった、影山軍司郎。ハスターめに向けられしそなたの一閃、久々に余の心の琴線に触れるものであったぞ。そなたにも褒美をとらせるとするか、いや、まだ早急か。そなたにはまだまだ見るべきものが山とある、時ほどあるのだ、苦しゅうない、下がれ。そこな赤竜、面を上げい。枷は重かろう、そなたの宿命と等しい重さだ、無理もないというものよ。いずれ月が消えしとき、そなたの業と宿命、そなたの命、そなたの意味は、想うものもろともアカシャより消え失せるだろう」
 影山軍司郎は、神よ滅びよ、と咆哮した。
「ナイアーラトテップ! 貴様貴様貴様、返せ、わたしの、
 わたしを返せ、
 わたしの時間を、貴様あッ、
 わたしの死を返せえええェッ!!」
 黒の外套をひるがえし、軍司郎はサーベルを手に、玉座に向かって突進した。
 王は微動だにせず、頬杖をついたまま、軍司郎を見つめている。
 そして、軍司郎の身体は風に貫かれて血を噴いた。

(無礼者)
 山々の頂を飛んで回り、眼下の光景を眺めていた、黄衣の神の手だ――骨のない触手が、軍司郎の身体を貫き、切り裂いていた。
(混沌は、うぬらの世界の神をも護っているのだぞ。恩を仇で返すのか)
 風の神は、いまや、山岡風太の声で囁いていた。
「返してほしくば、いついかなるときでも返そう、影山軍司郎。余の偶像をたずさえておるな。余への畏怖はあるのだな。――さあ、なれば今こそ、返してやってもいいだろう。死ね」

(でも、待ってくれ……俺はそんなの、信じない)
 血塗れの軍司郎を捨て置いて、風の神は振り向き、黒の王を見た。
(みさとちゃんが、<架け橋>だなんて。そんなの、だめだ。俺は、あの子に言わなくちゃならないんだ。一緒に未来を作っていこう、って――)
「惑わされるな、ハスター。それはそなたの思惑ではあるまい。だが、それとも……ふむ。そうか――面白い。は、は、は」
 王はそのとき、声を上げて笑った。
「よかろう。だが、<架け橋>はすでにかかった。世界は繋がれたぞ。あとは、好きにするがよい。風の落とし子よ、存分に愛し、憎み、死ぬがいい。たかが80年のその命、吾がまたたきのうちに終わろうぞ」
 笑い声は荒野と宇宙に響き渡った。
 縞瑪瑙の柱と玉座、奴隷たち、そして王は――跡形もなく消え去っていた。風の神の姿も、すでにない。
 荒野に残されたのは、呪いと傷に苦しめられる3人の男だけだった。

「お、おのれ……やりおったな……い、いずれ、張り飛ばしてくれる……」
 血が噴き出す手首を引きずり、悪態をつきながら、羅火は軍司郎を助け起こした。傷の深さは深刻なもので、すでに禁忌の番人は虫の息だった。
 その懐から、血まみれの人形が転げ落ちる。
 羅火には、ねじくれたその手製のマスコットが、何を象ったものなのかよくわからなかった。ただ彼は、手首から流れる血を無駄にはしたくなかった。竜たる彼の血は、軍司郎の傷を塞ぎ、彼の命を繋ぎとめた。ただ、軍司郎は意識を失ってしまっている。いろいろあったから、しばらくは眠っていたほうがいいのかもしれない。
 しかし、夢の中で見る夢とは、どんなものだというのだろうか。
パ=ドゥは呻きながらも起き上がる。門の神の従者に呪われた身体は、神に対峙する際に、何かと不都合を生じるようだ。
「しかし……なんということだ……ミサトが……利用されるというのか」
「あまりに不憫じゃ。何も知らされず、何も認められぬまま、使われ、奪われ、捨てられるというのは」
 血塗れのマスコットを握りしめて、羅火が呟いた。
 空を、うねる風が這っていった。
(俺、言わなくちゃならないんだよ、彼女に)
(俺……)
「きみをかならず殺してやるって」

 風がけたたましい哄笑をまき散らしながら去っていこうとした。
 そのときだ、
 あまりにも大きな月が浮かぶ空が歪み、白い青褪めた手が現れたのは。


■そう、これは夢なの。いつも見てる夢。最悪な夢、怖い夢、いやな夢。あたし、気がついたよ……。あたし、眠ってただけなんだね。目を覚ませば、きっとあたしはホテルのベッドの上にいるの。でも……、どうして? みんなどうして、ここにいるの……? ここは、あたしの夢なのに■


 あたし、目を覚ましてもいい?


■荒野のヴィジョン■

 あれは、水神に呪われ、或いは祝福されたものの手だ。


■ありがとう■

■みんな、助けに来てくれたんだ……■

■もう大丈夫。あたし、もう大丈夫だから。だからみんな、もう、帰って……■

■帰して、あげる。■


■そして、覚醒■

 羅火の手首の痛みが消えていく。
 そこは冷たい、鉄格子のある風景の中だった。顔を上げた羅火は、目の前に人造人間陸號がいて、煙を吐きながらたたずんでいるのを見るはめになった。人造人間の顔は、見るにたえないものだった。
「ロク、ゴウ――」
 どうやら羅火の近くで倒れていたらしいリチャード・レイが、呻き声を上げる。
 その声を受けたのか、はたまたただの偶然か――
 陸號は、前のめりに倒れた。
「思い出したぞ」
 出血のために(もしかすると、恐ろしい目に遭ったためかもしれない)青褪めた影山軍司郎の姿は、部屋のすみにあった。
「芹沢博士は、人造人間を軍部に引き渡すことを拒否したのだ。あの時代、軍に逆らうということは……よほどのことだ。しばらくの間、話題にのぼっていたな。それきり博士は姿を消した……やはり、殺されたのか」
「いいえ」
 ばさりばさり、と資料を落として歩く者。
 その男は、疲れきった男たちの間を悠々と歩き、満足げな笑みを残して、部屋を去っていく。
「博士は、ご存命ですよ。今までも、これからも、永遠に」
 その声が、風にかき消されていった。




<了>

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0377/星間・信人/男/32/私立第三須賀杜爾区大学の図書館司書】
【1538/人造六面王・羅火/男/428/何でも屋兼用心棒】
【1996/影山・軍司郎/男/113/タクシー運転手】
【2147/山岡・風太/男/21/私立第三須賀杜爾区大学の3回生】

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               ライター通信
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 モロクっちです。二周年記念クトゥルフ大イベント、『錫の鍵の探究者』をお届けします。すっかり長くなってしまいました。皆様、お疲れ様です!
 今回のノベルは二分割されています。暗黒神話編・幻想怪奇編の二編です。こちらは暗黒神話編で、のろわれ組ののろわれっぷり(笑)、そしてことの真相を書かせていただきました。ファンタジ班とはぐれてしまったのは、『門』に呪われているパ=ドゥのせいと考えていただいても結構です(!)。
 なお、山岡・風太さまの安否は不明のままのラストとなっております。でも、次元なんてものともしない存在ですから……ね。次の日にはけろりとしているかもしれません。

 みさとは幻想怪奇編にて無事救出されております。そのあたりの経緯が気になる方は、合わせて読んでいただければ幸いです。

 それでは、これからもモロクっちをよろしくお願いします!
 またお会いしましょう。