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白い狐の導きに
ふと、呼ばれたような気がして、振りかえる。
そこにいたのは一匹の獣。美しい白の毛並みを持った狐であった。
「うわあ、すごおいっ」
こんな綺麗な白狐を見たのははじめてだ。
目があったら、逃げ出してしまうだろうか?
近づいたら、離れていってしまうだろうか?
頭の隅ではそんなことも考えていたけれど、どうしても、もっと近くでその姿を見たくて。一歩、近づく。
白狐が動く気配はなかった。
もう一歩、進む。
ふわりと漂う甘い花の香り。
周囲に花などないのにいったいどこから……。
そう思ったのは束の間。
瑞花はすぐに気がついた。花の香りは、白狐から漂ってきていたのだ。
「綺麗だし、良い匂い!」
逃げない白狐の様子に、瑞花の態度もどんどんと大胆になってくる。
最初はそおっと歩いていたのに、今や小走り。
けれどそれでも、白狐は動かない。
あと一歩でその毛並みに触れられると思った、その、瞬間。
白狐はぽんっと身軽く飛びのいた。
「え……」
逃げられるかと思った。
だが白狐は、去る様子は見せない。
けれど瑞花が一歩近づくと、また下がる。
……いつのまにか瑞花は、白狐を追うのに夢中になっていた。
まるで誘うかのように、止まっては進み、進んではまた止まる白狐を追って。周囲の風景を見る余裕なんかカケラもなく、瑞花はパタパタと小走りに駆けていく。
そして……――。
ハッと気がついたら、白狐の姿は消えていた。
周囲にあるのは畑や家々。いくら夢中で駆けていたとはいえ、子供の足だ、元の位置からそう遠く離れてはいないはず。
だが。
見覚えがあるようで、どこか違う。
「……おうち、帰ろう」
なんとなく不安になって、ぱたぱたと家を目指して走り出す。
東京と違い夕暮れになるとぐっと人通りの減る道を、前方からこちらに向かってくる少年が目に留まった。
普通ならばすれ違うだけだろう、その少年が、何故だか妙に気にかかって。瑞花は、家に帰ろうとしていた足を止めた。
冷たい、瞳。冷たい雰囲気。
けれどよく知る顔立ち。
「私の顔になにかついていますか?」
凝視する瑞花を不思議に思ったのか、少年は瑞花の前で立ち止まった。
「今、この辺りには妖怪が出るんです。早く帰った方がよいですよ」
淡々と告げるその声は、瑞花のよく知る彼とはまったく違う。けれど、その声も瑞花のよく知る人とそっくりで。
「お兄ちゃんは、帰らなくてよいの?」
「私は良いんです。これから妖怪退治に行くところですから」
幼い子供に対してもにこりとも笑わない、冷淡な態度を崩さない彼は。
それでもやっぱり、よく似ていた。
穏やかで優しい、瑞花の父親――氷女杜静和と。
「……退治しちゃうの?」
「ええ。妖怪は悪さをするものですから、退治しなければいけません」
「そんなことないもんっ!」
思わず、叫んで返していた。
そりゃあ確かに悪さをする妖怪もいるけれど、そんなの人間だって同じじゃないか。
それなのにどうして、妖怪は悪さをするものなんて、そんな決めつけたような言い方をするのか。
「いいえ。妖怪は悪さをするものなんです。だから貴方も、早くお帰りなさい。襲われる前に」
「瑞花、大丈夫だもんっ。瑞花も一緒に行く!」
「ダメです」
「ダメって言っても、勝手についてくもん」
「危ないんですよ」
「大丈夫だもん」
二つの視線が互いを見つめてぶつかりあう。
折れたのは――
「……わかりました。どうしてもというなら私の傍にいてください。勝手についてこられるよりはマシです」
彼の方だった。
「ありがとう、お兄ちゃん。ね、お兄ちゃん、なんてお名前なの?」
「私ですか? 静和と言います」
予想はしていたけれど……。その事実に、心臓が跳ねた。
静和が――父が、少年だった頃の時代。どうしてか瑞花は、過去へとタイムスリップしてしまったのだ。
◆ ◆ ◆
人を襲うという噂の狐妖怪が住まう場所までは、子供の足でも充分についていける距離だった。
「ここで待っていてください」
狐妖怪の姿を前にして、けれど静和はよほど自信があるのか焦る様子もなく。ただ淡々と瑞花に告げた。
「……うん……」
目の前の狐妖怪は確かに、気が高ぶっているようだけれど。だが、見境なく人を襲うような、そんな悪さをするような者だとは感じられなかった。
だが戦闘は瑞花の気分なんて置いてけぼりに、始まってしまう。
仕掛けたのは、静和のほう。
静和の容赦ない攻撃を、狐妖怪はだが、何故か、避けようとはしなかった。
狐妖怪の背後にある小さな洞窟。その入口から絶対に離れようとしないのだ。
その事実に気付いた瞬間。
瑞花の感覚は洞窟の奥にある小さな気配を読み取った。
小さな、小さな。
多分、まだ、赤ん坊。
「ダメーーっ!!」
気付いた瞬間、叫んでいた。
同時に、周囲に冷気が走りあたりの温度がスッと下がる。
突然の変化と瑞花の声に驚いたのか、戦っていたはずの二人の動きは止まっていた。
それを好機とばかりに、瑞花は二人の間に割り入って行く。
「ダメだよ。静和お兄ちゃん。この狐さん、子供を守ってるだけなんだよ」
「……子供……?」
「お母さんも、お願い。人を襲ったりしないで。そうしないと、また、誰かが退治に来ちゃうよ」
狐妖怪はもとより仕掛けられたからやり返しただけといった感覚だったらしい。瑞花の言葉に素直に頷いて、その場に留まる。
「……どうして?」
「なに?」
「どうして、私を助けたんですか? あの妖怪を守りたかったのなら、人間である私を倒せばよかったでしょう。貴方は、妖怪なんですから」
静和の問いに、瑞花はきょとんと瞳を丸くした。
「かんけいないよ。瑞花は二人とも助けたかったんだもん。助けたいって思うのは、妖も人も同じだよ」
それから静和はしばし瞑目をして、狐妖怪へと目を向ける。
「……私は何か、思い違いをしていたみたいですね」
穏やかに微笑んで言う静和の表情と声音は、それは、瑞花のよく知る静和と同じ優しい色。
「戻りましょう」
告げて静和は手を差し出してくれる。
「あ」
けれど瑞花は、すぐにその手を掴めなかった。『戻ろう』と言われて、思い出したのだ。
この世界のどこにも、瑞花の戻る場所などないことを。
ここは瑞花が生まれる前の時代。この世界のどこにも、瑞花を迎えてくれる人はいないのだ。
けれどどうやってここに来たのかもわからないのに、どうやって帰ることができよう。
改めて気付いた大問題に困った顔をしていると、狐妖怪が一声鳴いて瑞花を呼んだ。
「え? なあに?」
振り返った、その、瞬間。
静和の気配が消えた。目の前にいたはずの狐妖怪もだ。
「あれ? あれれ?」
ぱっと山道を駆け降りると、すぐに見慣れた家々が目に入る。
……帰ってきたのだ。
「よ、よかったぁー」
ほっと声を零して見上げると、空はすっかり茜色に染まっていた。
「うわあ、早く帰らないと叱られちゃうっ」
優しい父と母がいる家へ。
瑞花は急ぎ足で駆け出した。
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