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交叉する、黒と銀
苦悶にゆがみながらも、なにかを掴もうとしている指は青銅。
それは銅製の、燭台だった。
人の左手の形をした燭台には、一本の、太い蝋燭が乗っている。奇妙な蝋燭だった。色は黒い。それも漆黒ではなく、よどんだ赤が煮詰まったすえに、腐敗したような、穢れた色あいなのである。さながらそれは、死人の手が妄執ゆえに死後もしがみつく怨嗟のかたまりのようだった――。
「ふさわしい力と心を持つものが火をつけると……黒い炎が灯るそうだよ」
藍原和馬に、彼の師匠は語って聞かせた。
「こういうものは、野放しにしておいちゃあいけない。ここにあるべきなのさ。この店に。そう思うだろ? ねぇ……?」
彼女は凄絶な笑みを浮かべた。
和馬がその笑みを見て、口を挟むはずもない。そしてまた黒衣の雇われ人となった和馬は、あやしい骨董品店のために、夜の街を駆けるのだ。
見せられた古ぶるしい本の挿画にあった、奇怪な燭台に乗ったろうそくの図を、和馬は記憶に刻み込む。
その名は『煉獄の呪燭』。
二十世紀のはじめ、新大陸はニューイングランドの、陰鬱な街でそれはつくられたのだという。口にするのもはばかられるような冒涜的な素材と、おそるべき呪詛の力でもって。
和馬はそれを手に入れるべく、新宿の喧騒にもぐった。
とある占い師の女が、その邪悪な蝋燭を所持しているという情報だった。はやく確保しなければいけない。蝋燭には、ある危険が潜んでいる。
「人体発火現象――ね」
そう呟いた羽澄の表情は、もう十八歳の女子高生のものではない。
店長に「ちょっと」と店の奥に呼ばれたときから、彼女は光月羽澄からlirvaとしての顔になる。
手元にあるのは、無残な火事現場の写真だった。
複数の現場だが、共通しているのは、絨毯や床が、人の形にだけ真っ黒焦げになり、延焼していないこと。しかし、相当な猛火であったらしく、傍にあったガラス製品が溶けていたケースもある。にもかかわらず、おそろしいことに、犠牲者の足首から先だけが燃え残っているものもある。
『胡弓堂』が掴んだのは、近頃、東京で相次ぐ不可解な焼死事件の背後に、ある呪物が関係しているという情報だった。
最後の写真に写っている品物を、羽澄の緑の瞳が射抜くように見つめる。
その名は『煉獄の呪燭』。
二十世紀のはじめ、米国の、ひとりの魔女がつくりあげたアーティファクト。うしろ暗いルートで人から人へ売り渡されながら転々とし、いつの頃にか日本に入った。
「面倒だからな。破壊してしまうのが手っ取り早いだろう」
店長はそう言った。
かくして羽澄はそれをこの世から葬るために、新宿の喧騒に飛び込むのだ。
とある占い師の女が、その邪悪な蝋燭を所持しているという情報だった。はやく破壊しなければいけない。蝋燭には、所有者を焼き殺すだけでない、ある秘密が込められている。
女は上機嫌だった。
あの忌々しい古物商の男は死んだ。
彼女が再三頼み込んでも、男はその蝋燭を安値では売ろうとしなかった。あの呪物の価値を真に理解しているのは彼女だけだというのに。自分でなければ、あれに宿った力を御し切れるはずもない。
案の定、男は蝋燭の力に負けたらしい。自宅の、鍵のかかった部屋の中で黒焦げになって焼け死んだのだ。力のないもの、覚悟を持たぬものが火をつけると、地獄の炎が愚かものを焼き尽くしてしまうのである。
すこし気にかかるのは、あの男は今まで、売り物を自分で使うなどということはしたことがなかったはずなのに、あれに限ってなぜ火をつけたりしたのかということだ。
だがそんな些細な懸念も、その品物が自分の手元に転がり込んできたら、彼女の意識からは消え失せてしまった。男は死ぬ前に、自分が死ぬのをわかっていたように、その品を彼女に譲ると書き残していた。これも男の死にまつわる謎のひとつだが、結果、それを手に入れた彼女にはもうどうでもいいことだった。
その名は『煉獄の呪燭』。
ろうそくの魔力に負けることなく、黒い炎を灯すことができれば、大きな力が思いのままになるという。ゆえにオカルティストたちがこぞってこの品物を欲しがっている。
女はろうそくを大事に持ったまま、新宿の喧騒に溶け込んでいった。
これは私のものよ。誰にも渡さない。決して渡さない。
呪いのように、そんな言葉をぶつぶつ呟きながら歩く彼女の瞳には、昏い光が宿っていた。だから彼女に近付いてくる、黒衣の男と、銀の髪の少女の存在には気づかなかった。
「和馬さん――?」
出合い頭にでくわした男の顔を見上げて、羽澄が声をあげた。
「おウ、奇遇だな」
「そう?」
小首を傾げる。新宿は彼女の庭のようなものだ。それで言うなら、迷い込んできたのは黒い獣のほう。
「悪ィが仕事中なんだ」
「私もよ」
「そっか。じゃあ、頑張って」
「和馬さんもね」
そしてふたりは歩き始めた。
「…………」
「…………」
日が傾きはじめた新宿の街は、しだいに酔客も混じって賑わいをいっそう増してゆく。
「同じ方向か?」
「みたいね」
「…………」
「…………」
ふたりは何度か大通りを渡り、何度か角を曲がり、何度か路地を抜けた。
「もしかして、人を追ってるのか」
「正確には、その人が持っているものだけど」
「…………」
「…………」
「俺も似たような仕事だ」
「……まさかそれって、今、女の人が持ってる?」
「髪の長い、顔色の悪い女だな」
「私たちの8メートル先の、向かい側の歩道を歩いているような女の人?」
ふたりは足を止め、顔を見合わせた。そして、異口同音に口にしたのである。
「「『煉獄の呪燭』」」
「『胡弓堂』が目をつけていたとぁな!」
走りながら和馬は言った。
「でも、破壊するつもりだったの。『神影』になら譲るわ。生半可な力じゃあの人みたいにミイラ獲りがミイラになるから止めるけど」
羽澄が後につづきながら応じる。ふたりとも、息ひとつ乱していない。
「ここか?」
「私、裏へ回るわ」
「気をつけてな」
裏路地を抜けたすえにたどりついたそこは、人気のない廃ビルだった。
和馬は油断なく周囲に気を配りながら足を踏み入れた。
「いるのか」
がらんどうのフロアを歩む。奥の暗がりへと声をかけた。
「誰なの」
ふるえる女の声でいらえがあった。
「なに、しがない骨董屋の雇われ人で。おたくの持っているソレ――」
「渡さないわよ!」
和馬が言い終えるよりもはやく、悲鳴のような声を女はあげた。
「やっと……やっと手に入れたんだから! これは私のものなんだから! これを使いこなせるのは、ふさわしいのは私だけなのよ」
「やれやれ、だ」
ため息まじりに。
「なんで気がつかないかねェ。ま、気づかないから欲しがっちまうんだろうが。あんた、もう、『そいつ』の術中にあるんだよ。そいつは人の心を惑わして、火をつけると力が手に入るって錯覚させる。でも本当は……そいつの狙いはあんたの魂を喰い尽くすことなんだぜ?」
「嘘! でたらめなこと言わないで! そんなこと言って、私からこれを取り上げるつもりなんだわ。……いいわ、見せてあげる。私なら、これに黒い炎を灯すことができるって――」
「お、おい、待て! やめろ!」
黒い炎――!
闇の中に、それより濃い漆黒が踊った。
そして、それがまがまがしい姿をあらわす。女が悲鳴をあげた。和馬が舌打ちする。その顔を、吹き付けてきた熱気が打つ。空気を焦がすほどの熱量に、たちまち、彼の額に汗が浮かんだ。
「出やがったな……『黒炎の御使い』」
それはコウモリのような翼を持ち、鋭い角をはやした、まさに古書の挿画にある悪魔そのものを象った、炎の怪物だった。
それが猛々しい声をあげて、黒い火でできた腕を和馬に向かってふるってきた。
「わかったか! その蝋燭が本当は……こいつが魂を喰うために、地獄から現世に垂らした疑似餌だってことがよ!」
攻撃をかわしながら、和馬が吠える。
腕の一撃はあたりはしなかったが、それが近くの空気を薙いだだけでも、和馬のスーツの一部がぶすぶすと燻った。
「この野郎!」
次の瞬間――。
(ィィィィイイインンン……!)
炎の魔性が苦しげに身をよじった。
闇の中から姿をあらわす、銀の髪の輪郭。羽澄の指の中で、鈴が揺れた。
「震動でひとまず動きは封じたわ。和馬さん、火種をはやく!」
「よっしゃ!」
和馬は、放心してひたりこんでいた女の手から、そのアンティークキャンドルを奪い取った。そして和馬の腕が見る間に黒い剛毛に覆われ、獣のそれに変じた。そのてのひらで、ちろちろと黒い火がゆれる蝋燭の頭を握りつぶす。じゅッと音がして、肉が焦げるにおいがした。一瞬、顔をゆがめた和馬だったが、手を開くと、その火傷はもう癒えていく。そして。
「さあ、還りなさい。あなたのいるべきところへ」
羽澄が鈴をふるった。
魔性のものの苦悶の声が響き渡るが、浄化の音がそれさえもかき消してゆく。蝋燭の火が消えたことで、この世界における足掛かりを失った異界の存在は、しだいにその輪郭からぼやけてゆき、空中に溶けるように姿をなくしていくのだった。
「大丈夫?」
羽澄が、女を助け起こしながら言った。
「ええ……。あの……わたし、今まで何を……」
「気にしなくていいのよ」
いたわる声をかける。
「彼女は私が送っていくわ」
これは和馬に言った言葉だ。
「和馬さんはそれを」
「ああ。助かったぜ」
和馬の手の中にある箱に、蝋燭と燭台は収まっている。和馬が即席の呪符でとりあえずの封印を施してある。あとで彼の師匠が、しかるべき処置をするだろう。
「じゃあ、またね」
羽澄は笑った。
和馬もにやりと犬歯を見せた。
そして黒衣の男と銀の髪の少女は、再び、新宿の喧騒へと帰ってゆく。
かれらが探していた品物が、もたらすと懸念された災いは避けられた。
その名は『煉獄の呪燭』。
邪悪な呪物は、今はある骨董品店の倉庫で、眠りについているという。
(了)
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