|
朴念仁と生クリーム
ただいまー、とほぼ空に近い鞄を放り投げながら北斗は呟く。
返事はない。が、それをとりたてて気にする事もなく北斗はこれもまた放り投げるようにして靴を脱ぎ、ギシギシと時折あぶなっかしい音を立てる廊下を進み続ける。
第2ボタンまであけた学ランも放り投げようかと思ったが、それは思いとどまる。一度そこら辺に放置していたところ、「片付けも出来ない奴は夕飯抜き」と育ち盛りの青少年にはとてもとても辛い宣告を言い渡されたのを思い出したので。
自宅の守崎邸は築100年以上と聞いたような記憶もあるほど、「趣がある」家だ。……と言え、と啓斗にくれぐれも教育されてはいるが、北斗に言わせれば「これ以上ないほどボロくてデカイ家」なだけ。
頑丈なだけが取り柄で、忍びたる自分たちが「少しぐらい」兄弟げんかをしたところでびくともしないのはありがたいけれど。
――もし普通の家だったら、今頃壁の一つや二つ蹴破ってて、そんで兄貴にまた怒られてんだろうなあ……。
思わずため息をつきつつたどり着いた台所も、これまた古き良き日本の台所、といった雰囲気だ。
以前家に招いた知人はこの台所を評して「昔のドラマみたい」と発言し、おもしろいことを言うなあ、と北斗はしみじみ感心したものだ。
色の大分褪せた暖簾を見上げつつそういえばそいつ暖簾も知らなかったんだよなあ、と思い出しながら、北斗はいつもの習慣で、せんべいの缶に手を伸ばした……。
「帰ってたのか」
と、突然かけられた声。
慌てて振り返ると、無表情の啓斗が居間への入り口に立ちこちらを静かに見つめていた。
抱えていたせんべいの缶を背中に隠してしまうのは、これはもう涙ながらに染み付いてしまったクセに他ならない。た、ただいま兄貴、と愛想笑いを浮かべると、返事の代わりにじろりとひと睨みが返ってくる。
「……い、いやさ、俺育ち盛りだから! 腹減っちまって」
何も聞かれないうちから言い訳してしまう自分が悲しい。
「飯はまだだ」
ため息をつきつつ、啓斗がぽつりと答える。
そして、それ以上は関心がないと言わんばかりに無言のまま北斗の後ろを抜け、炊事場に立つ。どうやら夕食の準備を始めてくれるらしかった。
……まあ、それはありがたいけどさ、もうちょっと俺に対する態度ってもんがあると思うんだけど。
「兄貴」
「なんだ」
「今日も学校に行かなかったわけ?」
「お前には関係ないだろう」
「なんだよ、やっぱり行かなかったのか」
「そうは言ってないだろう」
「じゃあ行ったの」
「……お前には関係ない」
「兄貴、さっきと言ってること同じだよ」
こちらに背を向けたまま野菜を水洗いしている啓斗。制服ではなく白いコットンのシャツにGパンという格好で、どうやら今日も学ランには袖も通さなかったことが見て取れた。
洗いざらしの赤いエプロンが、見慣れたものになって久しい。
手につかんだせんべいに歯を立てると、ばき、と大きな音を立てて真っ二つにそれは割れる。
「いい加減に学校行こうぜ、兄貴」
返事はない。
水道から流れ出る水の音とせんべいを噛み砕く音とが、薄暗い台所で重なりあう。
沈黙になぜか北斗が気まずくなってしまい、とりあえずまた新たなせんべいにかじりついたら、巻かれていた海苔がしけっていて北斗はがっかりした。
――啓斗が学校に出向かなくなったのはいつからだっただろう。
それが兄の選んだ選択ならば別に北斗は口出しするつもりなどない。
しっかりものの彼のこと何か考えてのことかもしれないし、それならば例え他の誰もが反対しても、北斗だけは応援してやりたいと心ひそかに思っている。
が、日がな暗い顔でこのおんぼろ屋敷に閉じこもっている啓斗の顔色は、傍目から見てもあまり良くないのだ。
学校でそれなりに充実した時間を過ごしている北斗に言わせれば、友人と話すだけでもいくらかの気晴らしになるし、体育で体を動かすのは楽しいし(授業中はほとんど寝ているので勉学のことについては何もコメント出来ない)悪い事はそうない、と思う。
時折、薄暗いこの古い家の空気に兄が溶けてしまいそうな気がすることがあった。――なぜ兄は家から出ようとしないのか、北斗は正直心配でしょうがない。
……っていうか、もし何か不安に思ってんなら俺に相談してくれりゃいいのに。
内心の呟きを映してか、かじりついたせんべいが甲高い音を立てた。
と。
いきなり、学ランの後ろ襟を掴まれる。
「北斗。……そのせんべい、どこまで食う気だ」
物思いにふけっているうちに、啓斗に背後に回られたらしい。振り向かなくても分かる怒りのオーラに、北斗はストップストップ! と降参の身振りをする。
「ほ、ほら兄貴! 残りはしまうから!! な、な?」
両手いっぱいにつかんでいたせんべいを慌てて缶にしまい、ひきつりつつもにっこり笑って見せると、啓斗は一瞥の後、ぱっ、と襟から手を離した。
そして、そのまま再び水場に立つ啓斗。
「もうあと少しで出来るから、大人しく待ってろ」
気がつけば、皮をむかれたじゃがいもが山積みになっていた。それを手馴れた様子で煮立った鍋に放り込む彼に、その背中をぼんやりと見つめていた北斗は後ろ姿に何かがふと重なるのを意識した。
「……なぁ兄貴」
「なんだ」
「今日さ、女子が調理実習でロールケーキ作ってたんだよね」
「食いたいのか」
啓斗は身も蓋もない事を言う。
「そういう話してんじゃないって。……たださ、兄貴の後ろ姿がそん時の女子に似てるなーと思っただけ」
腰のあたりでエプロンの結び目が、野菜を刻む音に合わせて揺れている。
「ただまあ、兄貴の方がよっぽど手際良かったけど」
「なんだそれは」
「別に。ただ、最近の女子って料理あんま上手くないんだなと思ってさ」
知人の「昔のドラマみたい」というかつての言葉は、啓斗によるものも大きかったと思う。
彼はその時家に泊まっていったのだが、朝啓斗の作る味噌汁の匂いで目を覚ました彼が台所に立つ啓斗の後ろ姿にこうも呟いたのだ。
「なんかさ、お前の兄貴っていつも台所にいるんだな」
その光景が当然だと思っていた北斗は、その言葉にそれなりにショックを受けた。
また度々覗く調理実習でまごついている女子の姿を見る度に、北斗の腕前が一朝一夕で出来上がったものではないことを再確認せざるを得ない。
……兄貴が家に閉じこもってるのって、もしかして俺のせいってのも少しはあるのか?
気がつくと、北斗はため息を付いていた。
それを何と勘違いしたのか、啓斗はまじまじと北斗を見詰めた後、ぼそっと呟く。
「北斗」
「なんだよ兄貴」
「ため息をつくほど、女子にもらえなかったのか?」
ピントのずれた啓斗の言葉に、北斗はまずぽかんとして……その後言葉の意味をようやく理解した北斗は、もう一度ため息をつく。
「甘いモンは案外くれねーもんなの」
脱力感に襲われ北斗が適当にあいづちを打つと、生真面目にそうなのか、とうなずいた啓斗がふと尋ねてきた。
「ロールケーキというのは、中に生クリームが入ったタイプの物か?」
「あ、ああ。そうだったかも」
「俺は生クリームは嫌いだな」
「……兄貴、今日なんか身も蓋もない言い方多くねぇ?」
北斗が思わず声を低めると、啓斗は軽く首を捻った後真面目な顔で言った。
「俺はいつもこうだ。今更何を言ってる」
「い、いやそうだけど」
「じゃあ言うな」
もはや返す言葉もなくなった北斗の前に、数々のおかずが並べられ始める。
今日のメインは肉じゃがだ。その周りに大根サラダと焼かれた鯵の干物、そして味噌汁の具はなめこだ。
せんべいをあれだけ食べた後でも、たちこめるいい匂いが北斗の腹の虫を騒がせる。
思わずいただきます、も言わないうちに飛びかろうとしてしまい、啓斗に無言で手を叩かれる。慌てて神妙な顔で両手を合わせた北斗だったが、ふとそのままの上目遣いで啓斗をちらり見た。
「なあ兄貴」
「なんだ」
エプロンを取りつつ、彼も北斗の隣に座る。
「俺思うんだけどさ……兄貴が学校に来てくれれば、例えば今日だってロールケーキ食べられたんだよな」
――北斗なりに、兄を心配する気持ちを言葉に乗せたつもりだった。
少々ロコツだったかな、などとも思いつつじっと啓斗を見つめていると、不思議そうな目で見返してきた後ぽつりと言った。
「そんなに食いたかったのか、ロールケーキが」
返答の代わりにため息をついた後、視線を逸らして北斗はいただきます、と言った。
■□■
翌日。
学校から帰り、いつものようにただいまーと北斗は玄関のドアを開ける。
今日もまた廊下を進み、いつものコースでまず台所を覗くが、そこには誰もいなかった。
「兄貴?」
続く廊下の向こうへも視線をやったが誰もいない。
日も落ちかけた頃合、ただ広いだけの屋敷は刻々と暗さを増していた。慌てて電気をつけても天井からぱらぱらと落ちてくるほこりが目に入るばかり、不安感のようなものが募っていくばかりで
……あ、そっか。兄貴がいないからなんか寂しいような感じがするんだな……。
北斗は恐らく依頼に出かけているのだと思われた。そうなると帰宅は遅くなるだろう。
夜一人じゃ怖い、などガキくさいことを言うつもりなどは毛頭ないが、わずかばかりの心細さはしょうがない。
――ふと、笑いがこみ上げた。
昨日、家に閉じこもってばかりの兄を心配したばかりだというのに、いざその姿が見えなくなると途端にその姿を探してしまう。
結局のところ、自分は兄に家にいて欲しいのだ。
いや、もっと言えば……誰よりも自分の心配をしてほしい。迷惑そうに、面倒そうに、それでいて決して手を抜かない兄のことを、北斗は誰よりも信頼していた。
そんなこと、決して言わないけれど。
「兄貴?」
ほとんど無意識のままそう呟いて居間を覗くと、ふとちゃぶ台の下にめだたないように置かれているアルミホイルの塊があった。
昨日はなかったよな、と記憶をたぐりよせつつそのアルミホイルを開いてみると。
「……パウンドケーキじゃん」
表面がきれいにキツネ色に焼かれたそれは、上にたっぷりの生クリームが乗せられていた。それを指ですくいあげなめてみれば、ほんのり甘い。
――どんな顔してこれ作ってたんだろうな、兄貴。
昨日の何気ない北斗の言葉を覚えていた彼の作品。きっと試行錯誤の難作業だっただろう。
先ほどとは違う笑いをこらえながら、北斗は畳にどっかとあぐらをかくと、そのパウンドケーキにかぶりつき始めた。
|
|
|