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<東京怪談ノベル(シングル)>


贖罪

 躰のそこかしこに住み着く蟲のように、闇色を纏う記憶もまた同様に天津蚕の躰に染み付いて離れない。
 最初の記憶。それは今も忘れられる気配もなく鮮明に焼きつく母の死。
 七つの頃のことだ。
 朝、平素と変わらず笑っていた母はその夜、物云わぬ躯と成り果てて白い布団の上に横たわっていた。穏やかさとはどこか違う、恐怖と諦めの気配を張り付かせた死に顔は決して自然に訪れた死を享受したそれではなく、幼いながらも蚕に疑問を植え付けるには十分すぎるものだった。しかし母の死因は蚕が二十一になった今も明らかにはされていない。どんなに言葉を尽くしてもきっと答えが明らかになることはないと蚕は思う。あの日の父の表情、階段からの転落事故だと云った声音の冷たさ。総てを符号させれば答えは自ずと明らかになったが、果たしてそれが真実なのかといったらそうではない。
 真実を与えてくれる人はもういない。
 過去にある家族に関するもので真実になるものなど今やどこにも存在していないのかもしれないとさえ思う。
 総ては母の死が発端であったような気もする。母の死を契機に大切なものが奪われていった。もし母が生きていれば妹を喪わずに済んだのかもしれない思うことがないわけではないのがその証明だ。
 七つで見た初めての肉親の死と、十一になって見た初めての殺害の光景。網膜に焼きつき今も離れることなく脳裏に深く根を張るそれはただ一つの事実を明らかにする。死と殺害。それは今の蚕を形成する重要なものであるといっても過言ではない。
 今でも思い出すことがある。どんなに強く振りほどこうとしても振りほどくことができない父の凶行。自身の無力さを嘆き、自らの立場を責めた十一の頃。成す術もなく目の前で絶えていった妹は自分が殺したも同然だったのかもしれないと思うことさえあった。
 きっかけは定かではない。けれど父は確かにあの無邪気で愛らしい笑みを浮かべ蚕を慕っていた妹に殺意を向けた。細い頸に手をかけ、渾身の力をこめた両の手でその命を終わらせようとした。助けを希う妹の哀れな表情を鬼気迫る形相で押し潰し、細く漏れる声を渾身の力を込めて締め上げる両の手で封じて、事切れたその後もしばらくの間父は妹の頸に手をかけたままだった。取り乱すこともなく、淡々と殺害したあの姿を蚕は忘れることができない。抱く恐れを何かに還元することもできず、事切れた妹とその躯を些末なものであるかのように扱う父を見ていた。
 そしてその時になって漸く天津の家に宿る狂気を知ることができた。何も狂っているのは父ばかりではない。天津の姓を冠せられた一族総てが狂っているのだと思うといつか自分も父のように狂い出すのではないかという恐怖が生じた。大切だと思う存在を躊躇うことなく殺めてしまうことができるようになる。江戸の世より続く血が自分の意思とは別の何かで自身を狂わせるのではないかと思うと自然に恐怖が蚕を支配した。
 だから妹が殺害された後、離れに佇む小屋にある座敷牢に監禁された時にはなんだかひどく安堵したものだった。あの憎しみと呼ぶにはあまりに強すぎる感情を抱いていた父であるというのに感謝したいと思った程である。僅かな光しか届かない座敷牢にいればきっと誰一人として自身の狂気に巻き込まずに済む。監禁されていれば妹以上に大切な存在に出会うこともない。
 座敷牢に監禁されている間、四畳半の薄畳を引いたその場所は蚕にとって一番落ち着ける場所であった。誰にも邪魔されることなく最愛の妹のことだけを思って過ごす日々。脳裏に蘇る柔らかで無邪気な笑みに涙したことがないといったら嘘になる。喪われてしまった現実はあまりに重く、ただ一人薄闇のなかで過ごす日々を暗く染め上げていくには十分すぎるものであった。妹を奪った父への憎悪。それは日々次第に肥大して生々しい殺意を抱かせるには十分の理由を連れて来る。
 しかし殺意が鮮明になればなるほどに自身の身に流れる狂気の血の存在、妹を殺害したその刹那の父の姿が強く蚕の意識に働きかけ狂いたくはないと願う思いが精神的な重圧となって躰に影響した。色を忘れていく髪。ただわけもわからず叫び出したくなる衝動。狂気に怯えれば怯えるだけそれに近づいていくような気がする恐れは決して振り払うことができないものだった。
 空腹が強くなればなるほどにそれはよりいっそう強く蚕に影響した。
 だから常に腹を満たしておかなければならないような強迫観念があった。純粋に空腹に耐えられなかったというのもあった。けれど蚕はまさか自分が蟲を口にする日が来るとは思ってもみなかった。
 仄暗くじっとりとした空気が張り付く黴臭い座敷牢。薄畳の目を縫うように這い回る光を忘れかけたような異形の蟲たちを鷲掴みにして貪るように口にする姿は常人から見れば狂ったようにしか見えなかったことだろう。しかし蟲を食らうその時の蚕は誰よりも正常であった。味などはわからない。けれど咀嚼するという行為が崩れかけた脆い蚕の精神の均衡を保っていたのは本当だ。まだ自分の意思で何かをしようとしている。蟲を口にしてでも生き延びようとしている。そう自覚できる行為を続けられるうちはまだ、何か可能性が残されているのだと信じることができた。
 そんな蚕が一冊の書物を見つけたのは、座敷牢に監禁されて何日目になるのかも数えられなくなった頃のことだった。湿気を含んで撓んだ表紙。そこに貼り付けられた題名が書かれた短冊の字は掠れ、辛うじて天津という文字が読み取れた。指先で丁寧に表紙を捲り、記された文字をゆっくりと読み解いていけばそれが天津の家に関する歴史を記した書物であることが明らかになる。
 蟲呼と呼ばれた天津の家の歴史。蟲を使うことで多くの人々を救い、そして同時に多くの人々を殺していたという血生臭い歴史が文字という静かで慎ましやかなものによって記されている。文字だけを辿っていけば無味乾燥な歴史の一つにすぎないと思うことができたのかもしれない。しかし頁を捲る蚕にはそのように割り切ることはできなかった。一つ一つの言葉、文字が総て自分の身に流れる血にまつわるものとして響いてくる。他人の運命を翻弄した血が流れている。血からは逃れることはできない。それがわかるからこそ蟲呼に殺された人々の怨念が自身にも影響するものであることを蚕は知った。何百年もの時を超え、天津の血を引くものを狂わせていく。文字が紡ぎだす事実は明らかに妹を殺した時の父の姿であった。
 この家から逃げなければ。
 思ったのは当然のことだった。血から逃れることはできなくとも、この家から逃げるという方法はまだ残されている。逃げて、妹との約束のために生きよう。現世では兄妹でも来世では必ず結ばれようと云ったその言葉を頼りに天津の家の外で自身の道を生きよう。
 その覚悟は同時に父を殺す覚悟を決めるということでもあった。父がこの家を牛耳っているうちは逃げることはできない。ならば殺してしまえばいい。たとえそれが狂気の一端に触れることになろうとも、今ここで躊躇ってはならない。そうした思いが蚕に行動を起こさせる。
 実の父に手をかけたのは、書物を目にしてから数日後のことだった。食事を運んできた父の姿を目にした刹那、殺してやろうと思った。決して楽には殺してやらない。殺してやるからには妹が味わった苦しみ以上のものを味あわせてやろうと思っていた。一言も言葉を発することなく蟲を使うことができるようになっていたことに気づいたのは座敷牢を出て行こうとする父の背に殺意の眼差しを向けた瞬間だった。
 座敷牢のそこかしこに巣食う蟲たちががさがざと音を立てて父の足元に絡みつく。自由を奪われ、縋るよう視線を向けた父に蚕は言葉一つかけることはなかった。静かな殺戮の光景。じわりじわりと足元から這い上がり、そこかしこの皮膚を食い破り肉体に進入を果たす蟲たちは窒息させられる以上の苦しみを父にもたらす。声を上げることもできず、ただ救いを求めるように這い蹲って座敷牢の格子を掴んだその手にも蟲は張り付き、皮膚を裂き、肉を断ち切り、苦痛を与える。
 こんなものささやかな復讐にしかすぎないのだと蚕は痛みにのた打ち回る父の姿を冷ややかに眺めていた。妹はもっと苦しかった筈だ。もっと生きたかった筈だ。たくさんのものをあの一瞬で奪われてしまった妹を想えば、この方法などまだ生温い。蟲に食い殺されてしまえばいい。蟲を使いいつか誰かを殺したように、同じように殺されてしまえばいい。死んだその後もその罪は決して消えることがないのだから、意識を持ち生きている間は存分に苦しめばいいのだ。多くの人を殺めた罪が消えても妹を殺した罪だけは決して消えない。消すことなど許さない。思いながら見つめる蚕の双眸はいつになく冷たく、生き抜こうという意思に満ちていた。
 一昼夜、悶え苦しむ父の姿を見ていた。じわじわと蟲に食い殺されていく姿をまるでなんでもないものを見るようにして眺め続けて、その間中蚕はずっと妹のことを考えていた。最後の苦痛に歪んだ顔ではなく、いつも笑っていたその顔を思い出していた。助けてやることができなかったから結局このような方法しかとることができなかったのだと自身を慰めた。きっと妹は喜ばない。けれど父を殺す以外に外に出る方法はなかった。
 皮膚を食い破られ、肉を食われ、人の姿を失って肉塊のようになった父の懐から蟲を使って取り出した鍵で外へ出た。骨を剥き出しに、眼光に空白を埋め込んだ父はもう何も云わなかった。蚕はそんな父を一瞥することもなかった。ただ前に進むことだけを考えていた。この家を離れ、個人として妹のためそのためだけに生きていく。今はもうそれ以外の何も残されていない。
 懐かしさすら覚える青空の下に立って、蚕はそれを仰ぎ見て笑った。
 この姿を維持して妹と再び巡り逢える日を待とう。きっと幼い妹は姿が変わってしまったならわからないだろうから、最愛の彼女のためにこの姿を維持していこう。今ここに生きていることで生じる総ては彼女のためにある。彼女のためには老いることさえ許されない。
 もう彼女のために生きる総てを邪魔するものはいない。
 あの日、見殺しにした罪を購う方法はただ彼女と再び巡り逢えるその日をこの姿のまま独り待ち続けることだけだ。