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<東京怪談ノベル(シングル)>


泡沫の花


 僕は旅を愛している。ひとすみに置かれた石やひっそりと佇む古木に手を添えると、嘗て生という道を旅してきた人々のざわめきと呼吸が感じられる。僕が会うことのなかった人々の歴史を、こうして、眠る石や木々から教えられるのだ。過ぎた時間に風化されて尚残る、魂の煌きは、僕を旅に誘わずにはいられない。


 *  *  *


 特に宛てがあるわけでもない気ままな一人旅。
 ここ数日は陽気に恵まれていたが、今日はまた一段と暖かく、窓から吹き込んでくる風が心地好い。
 ガタゴトと列車に揺られながら本のページを繰る綾は、ページの間にひらりと舞い込んできたものに気付き、ふと手を止める。それは桜の花びらだった。
 どこかに桜が?と思い、眼鏡をかけて窓の外を眺めてみると、視界に飛び込んできたのは桜と梅が見事に立ち並ぶ美しい風景だった。
 折りしも、列車が次の停車駅に到着するアナウンスが入り、綾は迷わず読みかけの本に栞を挟んで鞄にしまった。


 古びた無人駅から出てしばらく歩くと、どこからか微かに祭囃子が聞こえてきた。誘われるように歩いていった先には車窓から見えた桜と梅の並木がある。遠くから見た時も綺麗だったが、間近で見るとさらに壮観だ。
 あちこちにぶら下がる提灯、立ち並ぶ屋台――どうやら祭が催されているらしい。
「春祭り、か……」
 自然と口元を綻ばせつつ、綾の足は並木の下へと向かっていた。
 いかにも田舎の祭といった風情で、全体的にこじんまりとしているが、それがまた郷愁を誘う。
 まるで子供の時分に戻ったような思いを感じながら、のんびりと花を眺めて歩いていると、地元の人とおぼしき老婆がにこにこと話しかけてくる。
「見かけない顔だねえ。旅行かい?」
「はい。こちらの桜と梅があまりに綺麗だったもので」
 すると老婆は嬉しそうに何度も頷く。きっとこの美しい景色は、ここに暮らす人々にとっての誇りなのだろう。
「余所の人がお祭にくるのなんか珍しいねえ……ゆっくりしていきなさいね」
「ええ、お言葉に甘えて」
 綾もにっこりと笑って頷いた。
 そう言えば昼食がまだだったことを思い出し、何か良さそうな食べ物はないかと屋台を見回す。すると桜餅の絵が目に入ったので、そちらへと向かってみた。食事というよりはおやつだが、桜を見ながら桜餅というのもなかなか乙だ。
「ひとつもらえますか?」
 声を掛けると、店番をしていた女性は笑顔で答える。
「桜茶もありますが、いかがですか?」
「あ、じゃあそれもお願いします」
 お皿と湯飲みを受け取って、綾は近くにあった長椅子に腰掛けた。散り行く桜の花びらが湯のみの中に落ちて、桜茶の上でゆらゆらと揺れるのが、なんとも風情があっていい。その香りを存分に楽しみながら、綾は桜餅を頬張った。
 ふと屋台のほうを見ると、店番の女性が誰かと楽しげに話している。相手は男性で、年は綾と同じくらいだろうか。どことなく初々しいその2人を、綾は微笑ましく見守っていたのだが、その一方で不思議な感覚を覚えていた。
 言い知れぬ懐かしさ……それはまるで、昔の自分とすれ違うような。
 何故そんなふうに感じたのかは分からない。しかしそれはとても温かな想いで、綾の心を優しく満たし、とても穏やかな気持ちにさせてくれる。
 そんなことを考えていると、綾の視線に気付いた屋台の女性がきょとんとこちらを見つめ返してきた。綾が微笑んで会釈をすると、女性は少し驚いたようだったが、すぐに笑顔を返す。隣の男性もにこにこと笑っている。
 それだけで、ここに来て良かったと――そんなふうに思うことができた。
 やがてお茶を飲み終えると、綾はお皿と湯飲みを屋台に返して、再び歩き出す。
 お面をつけて駆け回る子供、屋台の脇に腰掛けてお茶を飲む老人、木々の下で談笑する人たち。それらを眺めているだけで心が休まる気がする。
 そんな光景の中、桜の木の下で舞う美しい巫女の姿を見つけ、綾は足を止めた。
 お囃子に合わせてひらりひらりと舞い踊るその姿はひどく幻想的で、惹きつけられる。しかしそれとは別に、綾はまた先ほどと同じ懐かしさを感じていた。
(……不思議だな)
 心の中で呟いて、じっと舞いを見つめる。
 ここはどこなんだろう――ふと、そんな思いが胸を掠めた。
 名も知らぬ土地。見知らぬ景色。それなのに心を満たす懐かしさと優しさ。
 まるでゆらゆらと水の中を漂っているような気分になる。浮かんでいるのか沈んでいるのかも分からず、上下左右も分からない。けれどもひどく心地好くて、そのままずっと波に身を委ねていたい。
 やがて自分と水との境界も曖昧になってくるが、それさえも気にならない。
 輪郭が消えてゆく。水が自分に、自分が水に、溶け込んでゆく。
 ああ、きっと還ってゆくんだ。そんなふうに思う。


 ザザザ……


 ざわめきが聞こえる。これは波の音だろうか、それとも風の音だろうか。


 しゃん しゃん


 鈴の音に合わせて、巫女が舞う。はらはらと桜が舞い落ちる。


 しゃん しゃん


 ザワザワ……


 ザザザ……ザザ……ザ―――


 *  *  *


「…………」
 しきりに音が聞こえる……しばらくぼうっと考えて、それがすぐ脇の道路を通る車の音だと気付く。
 夢見心地で辺りを見回してみると、そこは小さな公園だった。まさに猫の額という言葉が相応しいような狭さで、申し訳程度にベンチが置いてあるが、今は誰も座っていない。
 賑やかな笑い声を立てながら、学校帰りの小学生たちが公園脇の歩道を歩いてゆくが、誰もこの公園には見向きもしない。
 綾はしばらくぼんやりと突っ立っていたが、やがて犬を連れた老人が歩いてくるのに気付き、声を掛ける。
「すみません、少しお訊ねしても良いですか?」
「ん?」
 老人は特に嫌な顔をするでもなく、足を止めて綾のほうを見る。
「この公園にある桜は……あれだけですか?」
 指さす方向では老いた桜が1本だけ、健気に花を咲かせている。それを見て老人は愛想よく頷いた。
「ああ、今はあれだけだな。昔は桜も梅もたくさんあったんだが、開発のせいでみんな切られちまった」
「そうですか……」
 神妙に、綾は呟く。そして犬がしきりに先に行きたがっていることに気付いて、苦笑しながら軽く撫でてやった。
「悪かったね、引き止めてしまって」
 すると犬は綾の言葉が分かったのか、許してやるよと言わんばかりにハッハッと舌を出す。
 老人と犬が仲良く立ち去って行くのを見送ったのち、綾は再び桜の木に視線を戻した。
 1本だけ咲いた桜はなんだか物悲しそうで、しかしとても美しい。
「……あなたが、ここに呼んでくれたんですね」
 綾の言葉に答えるように、さわさわと枝が風に揺れ、花びらが舞う。
 思い出したように鞄から本を取り出し、ページを開いてみると……そこには薄紅色の花びらがひとつ、ちゃんと挟まっていた。
 それを見て綾は微笑む。
「ありがとう――とても、楽しかった」
 呟いて、ゆっくりと背を向ける。


 後ろから、嬉しそうな笑い声が聞こえた気がした。











 −終−