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櫻闇
一つの気配が東京と言う街を駆ける。
渡り歩いては、留まること無く、進む。
闇は決して溶け合うことなく、混ざろうともせず、一つだ。
さて―――、此処に、この場所に、『櫻』がある。
「ある」は、果たして「在る」か「有る」か?
存在しているから「在る」か。
それとも一つの樹ゆえに「有るもの」として考えるべきか。
……誰にも解るまい。
いいや、解ろうとはしないだろう。
闇夜の中に、同質の溶け合うことが無い存在を、誰もが見ることを恐れるゆえに。
閉じられた瞼を開けることを許されぬ領域であるがゆえに。
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ひとつ、ふたつと数えれば、数の多さに呆れ果て、数えることを忘れれば、自らの近くにある存在が咆哮を上げる。
忘れるな、狩れ、と。
記憶することも忘れることも全ては、等しく同じであるのに関わらず。
今夜も、気配を感じ、夜の街の中を歩く。
妖と呼ばれる、魔物の気配を。
だが――………。
「それは私も同じ事……属す世界が同じなれば」
闇に属するものなればこそ気配を辿ることも出来る、追うことさえも、滅することさえも、容易い。
ただ、それでも夜都は未だに狩られたことも無ければ追われたことも無い。
それが不思議で、また、それこそがどうでも良いことであるのかも知れなかったが……、
「最早時間の問題か」
呟く言葉に答えるものは誰も居ない。
魔狼の紫黒は唸り声をあげ、夜都を睨むのみだ。
腹を空かせているのだろう、気が立っているのが目線を合わせずとも、何を見るでも無くても、良く、解った。
実の親が腹を空かせているのに餌を狩らぬ「我が子」に対し、「まだか」と何度も唸りをあげる。
どうでもいいと思い、狩られるのも時間の問題かと思う、この己の手が餌を探す。
実の、父のために。
果たして生きるために食うのか。
食うために生きるのか。
どちらであるのかは、個々によって違うだろう。
食に楽しみを見出すのであれば「食うため」であるし、一日でも力を保ち永くありたいと思うのであれば、それは「生きるため」、だ。
魔物であろうと食事はせねばならぬ。
餓えぬ為に、力を保つためにも必要な行為であろう。
全ては、其処に在り続ける為だけに。
そうして、夜都は、漸く、歩みを止める。
細く、今にも途絶えそうな気配と―――、『贄だ』と悦ぶ、父の声が聞こえた。
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美しいまま、朽ちたいと願う。
花の盛りを、衰えることなく美しいまま――……
はらはら、涙のように降る櫻。
時を留めゆくことさえ出来ず、ただ、ただ、降り落ちる、色。
誰か、時を止めて。
醜く老いさばらえ、『歳だったものね』と言われる哀れさを、愚かと解るなら。
+
今すぐにでも刈り取れる魔物が、公園の片隅にひっそりと佇む。
傍らには櫻の樹木。
緩やかに落ちるではなく、急くように落ちる花弁に、樹の老いと――薄紅の衣に身を包む女性の力の衰えが見て取れた。
女性が慌てるでもなく騒ぐでもなく、夜都を見る。
『―――貴方は誰?』
問いかけに梢が揺れた。
ざわざわ、ざわざわ、人であれば不安を煽る音を立てながら。
だが、此処に『人』は居ない。
静かな声が、問い掛けられた答えを紡ぐ。
「闇狩師」
『それ以外では?』
「属するもの」
『何に』
「死と、闇の傍らに」
『そう……なら、解らないかしら。いいえ、それとも解るのかしら?』
「……聞かねば解らぬことを問われても否、とは返せまい」
『それも最もね……貴方にとって、確かなものとは何?』
何、と言われ、夜都は「さて……」と考えた。
どうでも良い手が、魔物を狩り、どうでもいいと言いながら闇の中にある。
その自らのバランス。
確かだといわれるものの存在の不明確さ。
生きる為に夜都は此処に居るのではない。
それならば、何が確かか?
「……見えぬものだけが」
見えぬものは夜都に何も言わない、触れない。
それは刈り取れるものでないということ。
今見える、世界に必要なものであろう。
だが、その言葉に女は微笑う。
そして、笑えば、花は散る――途切れてしまう生命の糸を示すように。
『貴方は見えるものより見えないものを優先させるの?』
「見えるものはやがて壊れゆく、それはどう足掻いても止められまい……全て、死を、破壊を賜る。誰でも、どのようなものでも――存在さえあれば」
『死は見えるもの? 見えないもの? 死は生の始まりかもしれないのに』
「それもまた、私には意味が無い……いいや、瞳に見えぬものになった時点で"永遠"を名乗るなら、それこそ驕り」
全ては食うか食われるか。
中で生きている、と言われても何の意味さえも無い――全てが、分けられるものならば。
『驕り……ね。ねえ……私はね、美しいままで朽ちたいの。今まで花を咲かせ、美しさを褒め称えられた、いつまでも変わらぬ姿のままで……』
私にとっては見える姿こそが確かなもの。
見えないものは消えゆくもの、初めから無かったものだから――……だから、確かとは言えない。
『愚かを知っているのなら、解るでしょう?』
醜いまま生き長らえ、繋がれる。
生きる意味が当事者になければ愚かとなる、その行為。
望まなければ――水を飲む必要も、食料を得ることも、無い。
食うためでさえ、無ければ。
生きて、美しい限りある生を全うしたいのであれば、道の途中であっても果てることの何と意義あることだろう。
「……消えることが?」
望みか。
抵抗するでもなく何を残すでもなく。
『いいえ、消えるのじゃなく……散るの。狂ったように花弁は舞うでしょうね…そうして、遠くない、いつかの日、風が魂の無い私の躯を』
連れ去ってくれる、私を、遠くに。
風と溶け合うことが出来る。
それこそが、私の幸せ。
「…………」
女の言葉に、夜都は得物を構える。
鎌の研ぎ澄まされた刃の音が、寸分の狂いも無く相手へと突き刺さると、全ての樹木が時を止めたかのように動きを止めた。
が、直ぐに、散る桜を惜しむようにざわざわと動き始め……夜都は、父親が食事をするのを見ながら、先ほどの女の言葉を思い出していた。
"死は生の始まりかもしれないのに?"
「……やはり私は何度でも、こう言おう。――否、と」
ならば自分自身が狩った骸たちは滅して尚、生きていることになる。
それは、ありえない。
滅すれば、二度と復活することも無い。
死は、消滅は、与えられる全てにあるもの。
ただ、それでも。
自らの時を、自らの意志で止めようとする彼女との対話は敬意に値するものであるかもしれない…とは、思う。
全ては瞬きでしかない「時」を自らで選んだゆえに。
夜都には決して理解できぬ領域であるがゆえに。
狂ったように夜闇の中、散る、櫻。
手を伸ばすでもなく、夜都は、散る姿を、ただ、ただ、眺めていた。
‐終‐
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